第4章 第15話 潮風の市
雨上がりの街道には、深い車輪の跡が残っていた。
乗合車が丘を越えると、窓から入る風の匂いが変わった。
「……海が近いね」
「次の坂を下りたら、港が見えるわ」
ネラの言うとおり、建物の向こうに帆柱が現れた。
青い水面にはいくつもの船が浮かび、その間を小さな舟が行き来している。太い角に布を巻いた荷役の男たちが、長い板を肩に担いでいた。
車が停まる前から、潮と魚と、焼けた油の匂いがした。
「西の港だよ。荷物を忘れないように」
御者の声で、ルナは膝の収納バッグを抱え直した。
*
ネラの使う宿へ荷物を下ろし、ルナたちは船の窓口へ向かった。
人間の大陸へ渡る便は、明後日の朝。行き先は、ミレアに教わった大きな港だった。
「客室はまだ空いてるよ。切符を買うときは、冒険者証を持っておいで」
ルナは時刻を書き留め、明日また来ると伝えた。
通りへ出ると、ユニが岸壁の手前を指した。
「あちらへ行ってもいいですか?」
「うん。私も見たい」
市には魚や干した果物、厚い布、遠い土地の瓶が並んでいた。
一軒の店で、白い粒を煮詰め、板に広げて冷ましている。
「こっちはお菓子ですか?」
「そうだよ。塩を少し入れる」
「甘いんですか?」
「食べれば分かる」
渡された欠片を口に入れると、まず塩気があり、噛むと濃い甘さが出てきた。砕いた木の実も混ざっている。
ユニは黙って味わっていた。
「どう?」
ルナが聞くと、ユニは店主へ向き直った。
「日持ちはしますか?」
もう買うことは決まっているらしい。
ルナは笑い、隣の店で魚の包み焼きを頼んだ。
*
腰掛けで魚を冷ましていると、岸壁へ一隻の船が着いた。
綱を受け取る人の後ろで、子供が大きく手を振っている。船から降りた男は荷物を片手へ持ち替え、駆け寄った子供を抱き上げた。
ルナは長杖の紐へ触れた。
あの草原から、ここまで来た。
魚の骨を確かめてにゃん吉君の分を分けていると、荷の受け取りに出ていたネラが戻ってきた。
「便はあった?」
「明後日の朝です」
「私はその次になりそう。荷の仕上がりが遅れるって」
ネラは肩をすくめ、市の方を振り返った。
「もう少し、布を見て回れるわね」
*
翌朝、ネラと港の案内所へ行った。
壁一面の地図で南の港までの道を確かめてから、ルナは尋ねた。
「エルフの街では、古い記録をどこで読めますか?」
「記録を預かる書庫があるわ。持っている資料があれば、最初に見せた方がいい。何を探しているのか、説明しやすいから」
ルナは収納バッグへ手を添えた。
エリスからもらった測定の記録が入っている。
ネラが荷の受け取り予定を確かめる間、ルナは脇の閲覧台で古い地図を見せてもらった。
その端に、聞き覚えのある名前が載っていた。
『神に見放された島』
ヴェラが指した島だ。
近くに綴じられた短い記録には、島から戻ったと話す旅人のことが書かれていた。
帰還を聞き取った場所は、人間の大陸の南の港。
乗ってきた船の名前は、不詳となっている。
ルナはその行で指を止めた。
船に乗らなかったと書いてあるわけではない。それでも、白い森から草原へ出たときの感覚を思い出した。
「気になる記録がありましたか?」
案内係が尋ねた。
「この旅人の話です。続きもありますか?」
「ここにある写しは、それだけです。詳しい聞き取りが残っているなら、記録した港でしょう」
ルナは番号を手帳へ書いた。
南の港は、これから通る予定の場所だった。
*
案内所を出て、港を見下ろす階段へ座った。
ネラは鞄から、小さな木の札を取り出した。根を広げた木の模様が彫られている。
「街で買った、ただの飾りよ。世界樹そのものは、これよりずっと不格好に枝が広がってる」
ルナは受け取り、彫りの上へ指を滑らせた。
「見たとき、どんな感じでしたか?」
ネラは海を眺めた。
「最初は、木を見ていると思わなかったわ。坂の向こうに、森がもう一つ浮いているみたいだった」
ルナは顔を上げた。
「近くへ行くと、枝の間にも向こうの空が見える。葉が動くと、地面の影が遠くまで動くの。あれは、一枚の絵では分からなかった」
ユニも札を覗いた。
「音は、聞こえましたか?」
「ええ。風が強いと、少し遅れて葉の音が来るの。どこまでが風で、どこからが木の音なのか、分からなくなるくらい」
ルナは札を両手で持った。
大きな木、と聞いて想像していたものとは違った。
「古い世界の記憶が残っているって、ヴェラさんから聞きました」
「街でも、そう教わるわ。守り手たちが受け継いでいる話もある。ただ、旅人が行って、何でも聞ける場所ではないの。まず書庫で調べて、そちらの案内を聞いてね」
ルナは頷き、木の札を返した。
「私、魔法を使えないんです」
ネラは受け取り、黙って続きを待った。
「使えるようになりたくて、旅に出ました。古い記録に、同じような人のことが残っていないかなって」
港の下で、樽が荷車へ積み込まれている。
「私は布の商人だから、その答えは持っていないわ。でも、何を知りたいのか、ちゃんと話せるのね。それなら、向こうでも誰かに聞ける」
ルナは手元の手帳を見た。
最初は、どう説明しても信じてもらえないことが多かった。今は記録もある。話を聞いてくれる人へ、何から伝えればよいかも分かってきた。
「世界樹も、訪ねてみたいです。昔のことを聞いて、それから……木の下に立ってみたい」
隣のユニを見る。
「ユニちゃんも、一緒に音を聞こう」
「木の下では、どこから聞こえるのでしょうね」
ユニは港の風に揺れる旗を見上げた。
ネラが木の札を鞄へ戻す。
「街で会えたら、どんなふうに見えたか教えてね。私の店にも寄って。食べ物屋は、隣にあるから」
ユニの顔が上がった。
「覚えておきます」
「私の店もね」
ルナは笑い、店の場所を教えてもらった。
手帳に、航路とは違う小さな道順が増えた。
港から続く通り。曲がり角。窓に緑の布を掛けた店。
遠くにある街に、初めて訪ねる相手ができた。




