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枯れていく白薔薇

「なんで。なんで落ちないの!」


 何度も、何度も井戸から水を汲み上げ、ビアンカは必死に手を洗い続けた。


「ビアンカ様! こんな夜更けに何をなさっているのですか!」


 バネッサが桶を取り上げた。


「落ちないの……ぜんぜん、落ちないの……!」


 目に涙を浮かべたビアンカは、凍えた手を見つめていた。


「どこも汚れてなどいませんよ」


「でも……真っ黒なの」


 震える声で、本当なのとバネッサに手を見せる。


 バネッサは泣きじゃくるビアンカの肩を抱き、立たせた。


「ここにいては風邪をひきます。お部屋へ戻りましょう」


 ビアンカの肩がビクリと震えた。


 耳に手を当てる。


「……呼んでる」


「誰がですか?」


 バネッサには夜鳥の鳴き声しか聞こえない。


「……お母様、ロザリアはすぐに参ります」


「ビアンカ様、どこへ! 何を言ってるのですか!」


 そのままバネッサを置いて、ふらふらと歩き出す。暗闇の中を歩く姿は、まるで幽霊のようだった。


「お待ちください!」


 バネッサの声は耳に入らない。部屋へ入ると、絵の前に座り込んだ。



「領主から届いた物はすべて焼き尽くせ」


 手袋をはめたジュールがバネッサを呼びつけた。


「そんな。いくら何でもできませんよ」


「なら早急に送り返せ!」


「ビアンカ様は混乱しているだけです。落ち着くまで……」


「これでもか!」


 ジュールが手袋を外して見せた。


 掌が、赤黒くただれていた。銀に触れた痕が、焼けるように残っている。


「銀粉なんて! 一体どこで手に入れたのかしら」


「部屋に入る。お前も来い」



 ジュールが隣に立っても、ビアンカは母から目を離さない。そっと母の頬を撫で続ける。


「その絵は外す。いいな」


「えっ」


 初めてジュールに気づいた。それでも母の前から動こうとしない。


「この絵……。僕に触ることはできない。わかるな」


 ビアンカの指先を染める絵具に、銀が混ぜ込まれていた。


「ジュール様、お願いです!」


 ジュールの瞳をまっすぐに見つめ返し、取り上げないでと訴える。


 初めての抵抗にジュールが深いため息をついた。


「……一晩だけだ」


 外から、静かに鍵がかけられた。

 朝まで誰も入ってこない。


 ビアンカはすっと立ち上がり、柔らかなベッドに体を沈めた。


「あんな顔もするのね。面白いわ。もう少し人形を壊したらどうなるのかしら」


 部屋に高笑いが響く。


 ――気づくとまた頬が濡れていた。


 真っ黒な手が何をしたのか、思い出せなかった。


「……助けて」


 ここにいてはいけない。

 それでも、「開けて」とは言えなかった。



 翌日、絵は外され、母の遺品はすべて馬車に積まれた。


 ビアンカは黙ってそれを見送った。


「様子はどうだ」


「また、だんまりになってしまわれました」


 ただ静かに座って、外を見ていた。


 可愛がっていたカラスが髪をついばもうが、パンくずを与えることもしない。


「泣き叫んでくれた方が、まだ良かったな」


 ――すべて呪物だった。


 手元に戻してやることはできない。



 日に日にビアンカは衰弱していった。


 起き上がることも出来ず、ベッドに伏せったまま天井をじっと見つめていた。


「ビアンカ様、ジュール様から薔薇が届いていますよ。今日はピンクです」


 薔薇は毎日色を変えて届けられた。


「……黒よ」


 ビアンカが顔を背けると、花瓶は下げられた。


 夜、ジュールはビアンカの部屋を訪れた。


 ビアンカは窓辺に座り、月も星も出ていない、暗い空を見上げていた。


「ビアンカ、何が見える」


 もう声を聞かなくなって、どれくらい経つだろう。


 ジュールはビアンカの足元に膝をつき、その手を握った。


 まだ温かい。それだけが救いだった。


「天国はどこにあるのでしょう」


 小さなつぶやきに、ジュールの鼓動が早くなる。


「……君も、行きたいのか」


「私には、行けない……」


 その声はジュールへの返事ではなかった。


 ――失いたくない。


 ジュールの願いはそれだけになった。


 ◇◇◇


 暗く沈む城に、セレーナが母を連れてやって来た。


 どうしてもロザリアのことで話したいことがあると粘られる。命に関わると叫ばれ、城は固く閉じていた扉を開けた。


  憔悴しきったジュールが姿を現した。


「用件だけを言え」


「あれはもう長くないわ」


 ジュールの目が光る。


「私を脅しても無駄よ」


「おまえの仕業か」


「あなたが悪いのよ。私を迎え入れなさい。そうすれば元に戻るわ」


「馬鹿なことを」


「そう。それなら、もういいわ」


 セレーナが立ち上がった。


「待て」


「なら、お願いなさい」


 ジュールが目を伏せると、セレーナの口元が緩む。


「今日のところはそれでもいいわ。私の部屋へ案内して。ああ、母にもね」


 勝ち誇ったセレーナがバネッサの前を通り過ぎようとし、足を止めた。


「杖を出しなさい。隠しても無駄よ」


「あなた様には必要ないものです」


「魔女はあなたひとりだとでも思っているの? はぐれ魔女に与えるのよ」


 その魔女が杖を使えば、ビアンカを救えるとほのめかす。


「くっ……。ジュール様、後は頼みましたよ」


 杖を渡し、バネッサは姿を消した。

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