第8話 足音
「ビアンカ様、今日のお召し物はどれになさいますか」
バネッサがクローゼットを開く。わかっていても、毎朝聞いてしまう。
「黒にしようかしら」
——なぜ、それを選んだのか、自分でもわからなかった。
「本当にこちらでよろしいですか」
バネッサは黒を取り出し、もう一度確かめた。
「ジュール様の髪色に合わせてみたの。おかしいかしら」
「いえ。お喜びになりますよ」
時計がボーンと鳴り、食堂へ向う時間を知らせる。
「あら、もうこんな時間。急ぎましょう」
だが、着替え終わった途端、ビアンカは目を伏せてしまった。
「いつもの白になさいますか」
「ええ。お願い。どうかしていたわ」
支度が済むと、すぐに絵の前に戻る。
「お母様、すぐに戻りますね」
常に母に話しかけるようになっていた。
「さあ、ジュール様がお待ちかねですよ」
「いま行きます」
口数が少し増え、時折明るい表情を見せるようになったのに。それでも心ここにあらずの時がある。
まだ心は癒えないのだとバネッサは、小さく息を吐いた。
「そうだ。今朝、お庭にウサギたちが遊びに来ていましたよ」
「そう」
まただ。どこか上の空になった。
「ビアンカ、おはよう」
食堂へ着くと、ジュールが笑顔で迎える。
「ジュール様、また……」
「バネッサ、これはビアンカの前だけだ」
「まあ仕方ないですね」
吸血鬼が朝早くから起きて、頬を緩めているなど誰も信じないだろう。
「ビアンカ、今朝はウサギが……。どうした?」
「いえ。ウサギがどうかしたのですか」
小首を傾げるビアンカに、ジュールとバネッサが顔を見合わせた。
子ウサギを放してからは、ずっと気にかけていたようなのに。
「最近は門番カラスがお気に入りでしたよね。後でお顔を見せてやってくださいな」
「ごめんなさい。お母様は、あまりカラスを好まないの」
ジュールの手が止まった。
「城のカラスは何もしやしない。君に仕えているだけだ」
「私にも忠実なのかしら」
自分の声が、遠くに聞こえた。
「あ……ごめんなさい」
ビアンカが席を立つ。
「待ちなさい。今日は霧をはらっておいた。外へ出ないか」
「母が……待っているのです」
「少しだけだ」
人は空模様ひとつで気分が変わる。きっとビアンカも日を浴びて、薔薇を見れば気分も晴れるだろう。
だが、ずっと下を向いたまま、一言も話さない。
「ほら、あそこにいるよ」
ビアンカがウサギに近づくと、茂みに隠れてしまった。
「どこへ行ったのかしら」
気づけば、日差しのある場所ばかりを選んで歩いていた。
――何を考えている?
ジュールは手を伸ばしかけ、やめた。
触れたなら、そのまま遠くへ行ってしまいそうだった。
ビアンカの部屋をカラスが覗いていた。
バネッサがいようがいまいが、特に変わった様子は見られない。
ただ静かに母の絵に話かけていた。
そして――ハンカチで涙を拭う。
母の隣へと願っているのだろうか。
ジュールは目を閉じた。
「ビアンカ様、カーテンを閉めますね」
薄暗い部屋で、じっと絵を見つめたまま動かない。
「お茶をお持ちします」
バネッサが出て行くと、ビアンカは前髪を払い、部屋を見回した。
目に入ったのは、贅を尽くした家具と調度品。
「ふふ」
目を細め、指で絵をなぞった。
夕食後、図書室にジュールは現れなかった。
「今夜は地下でお休みになるそうですよ」
「陽射しがお体に障ったのかしら」
「どうでしょうか。気になるなら様子を見に行かれますか」
「お邪魔ではないかしら」
「ビアンカ様は奥様ですよ」
「そうだったわね」
地下への階段にコツンと靴音だけが響く。
コウモリ達は薄目を開け、また閉じる。今夜は主から離れる事はしない。
重い扉を開け、棺桶に近づく。蓋は思ったよりも容易く開けることできた。
中には彫刻のように動かないジュールが眠っていた。
「愛しい人……」
頬に触れようとしたとき、ジュールの目を開いた。
「ビアンカ。なぜここに?」
「あなた様が心配で」
「僕を惑わすつもりか」
ビアンカの白い首筋が露わになっている。どこか意味ありげに微笑んだ。
「なぜ泣いている?」
その目から、一筋の涙が伝っていた。
冷たい指先が、そっと拭った。
はっと目を見開いたビアンカから、笑みは消えた。
「わ……私は、また不幸を呼んでしまう」
逃げるように走り去った。
「ビアンカ……。何が起きている」
昨夜、領主の屋敷を探ったが、領主も娘もベッドでぐっすり眠っていた。
村人たちは、糧を心配して眠れぬ夜を過ごしているというのに、いい気なものだった。
母親の遺品を届けて、それで済ませたつもりだろう。
これ以上の干渉はないと思っていた。
それなのに、何かが起こり始めている。
ビアンカは、あんな振る舞いをする娘ではない。
まるで人が変わったようだ。
「変わった?」
縁に手をかけた瞬間、鋭い痛みが走った。
「……なぜだ」
銀の粉が、縁についていた。




