第10話 契約
霧は晴れていた。
セレーナは最上階の部屋から、遠く広がる領地を見下ろす。
見渡す限りは自分のもの。その先はまだだ。
ジュールは姿を見せなくなったが、どこかに潜んでいるのはわかる。庭の薔薇は枯れていない。
「セレーナ、ありがとう。とても快適よ。気づいたら着替えも食事も用意されているだなんて。でも、誰なのかしら」
「使用人ならいるわよ」
一度だけ姿を現した使用人は、人ではなかった。鱗のある顔など見たくないと言えば、次はコウモリ男。幽霊の方がましだと呟けば、床から人影が浮かび上がる。姿は出すなと命じた。
「いずれ人も揃うわ。ここにいるものは、すべて私に従うのだから」
城は手に入れた。次は永遠の若さと命。
「私の吸血鬼はいつまで隠れている気かしら」
一度、思い切りビアンカの頬を打ったが、ジュールは出てこなかった。
「もう人形は要らないのね」
セレーナは黒髪を指で弄ぶ。
「なら、次は私のために使わせてもらうわ」
「あなた、まだ欲しい物があるの?」
ハンナは呆れているが、おこぼれを期待して口元を緩めていた。
「私、知ってるのよ。あの子の父親って……」
「セレーナ。関わらない方がいいわ。身のためよ」
「誰にも、邪魔はさせないわ」
セレーナは次々と扉を開けていく。衣装部屋に入ると顔をしかめた。
「こんな地味な服。ぜんぶ捨てていいわ。新しい物を用意して。すぐによ」
見えない使用人たちがビアンカのドレスを抱えて出て行った。
ビアンカは、セレーナに閉じ込められていた。
「お嬢様……」
「あなたは」
ベッドの上から、ビアンカがこちらに来てと手招く。
「はい。ベロニカです。またお会いできて嬉しい」
ベロニカは透き通るように白くなった手を握った。だがビアンカに握り返す力はなかった。
「こんなになるまで……」
「いいのよ。私も最期にもう一度あなたと話したかった」
伯父に目障りだと屋根裏に行かされた時、初めて屋敷に住む魔女の存在を知った。
魔女は伯父に傷つけられ、ただ利用されていた。
「こっそりと会いに来てくださいましたね」
「私も……ひとりだったから」
ふふと笑みがこぼれた。あの家での思い出はベロニカとのおしゃべりだけだった。
伯父は、母似だった自分をそばに置きたがったが、心の中では憎んでいた。自分から大事な妹を奪った男の娘だと。そして、母を見殺しにしたと責めたてた。
「私が必ず、お嬢様をお救いいたします」
「伯父が許すわけないわ。契約はまだ残っているのでしょう?」
「はい。でも今はセレーナ様が契約書を持っています」
ベロニカの声がしぼむ。
命が尽きるまで、主人に仕え続けなければならない。
理由は知らない。
ただ、そう契約書に書かれていた。
幼かった魔女は言われた通りに血判を押してしまった。
「あの伯父が手放すなんてあるかしら」
「奥様に盗まれました」
あれよりはましになるかと、大人しく付いてきて正解だったとベロニカが笑う。
「そう。でもセレーナはこの城をどうするつもりかしら」
「城主に成り代わり、吸血鬼すら従えたいのだと」
「何ですって。ジュール様は今どこに」
「どこかへお隠れになっていると、幽霊達が騒いでいました」
ビアンカの目が丸くなる。
「あなた、幽霊の声が聞こえるの?」
「はい。それが私の力ですから」
「お願い。詳しく聞かせて」
――母の声は、本物だった。
熱い涙がとめどもなく流れる。
「お母様、ありがとう」
ベロニカは最期の言葉を、魔法で蘇らせることが出来た。
「それがお嬢様を苦しめることになるだなんて。本当にごめんなさい」
「謝らないで。逆らうことはできないもの。それにお母様とお別れした時は……。いえ。本当にいいのよ」
ベロニカの手を優しくなでた。
「もう休むわ。ベロニカ、一緒にいて」
二人で寄り添い、薄い布にくるまる。温かいと言って、ベロニカはすぐに寝入った。
暗闇の中、ビアンカは小さな声で呟いた。
「……ジュール様、おやすみなさい」
窓辺に置かれた黒い羽がわずかに震えた。
ビアンカの穏やかな様子に胸をなで下ろす。
はぐれ魔女と聞いて心配していたが、害はなさそうだ。
本物の声ならば絵から離れられなかったわけだ。
ジュールは眉を寄せた。あの家をもう許すことはできない。
あの家が家魔女から、奪うだけの契約をしていた。
家魔女は家の紋を与えられ、守り手として大切にされる存在だ。
家魔女が力をつければ、その家に繁栄がもたらされるとも言われていたが、あの家魔女にそんな力も時間も残っていない。
青薔薇が咲かなければ、この地はもうお終いだ。それにもう大魔女イゾルデが黙ってはいない。
城のあちこちにぶら下がるコウモリ達が、一斉に夜空へ飛び立っていく。
――城をうろついている。
「ジュール、遊びは終わりよ」
嘲るような笑いが響く。
大カラスは窓辺から離れた。




