第5話 目覚め始めた城
馬車はゆっくりと橋を渡り、山道を上る。
霧が薄れ、黒い城が姿を現した。
門をくぐると、馬車は静かに止まる。
ジュールが手を差出すと、白い指先が自然に預けられた。
目の前の光景にビアンカが息を飲む。
白薔薇が庭を埋め尽くしていた。
「……綺麗」
「ああ。とても綺麗だ」
ジュールはビアンカの横顔を見つめていた。
それに気づいたビアンカが顔を伏せると、足元に伸びる長い影が目に入った。
「これを……」
自分のショールをジュールの頭に被せようと、背を伸ばす。だが届かない。
「これくらい大丈夫だ」
それでも、何度も手を伸ばす。その様子に、ジュールは思わず目を細めた。
城の扉が、音もなく開かれた。
「おいで。紹介しよう」
ずらりと並ぶ使用人の体は透けていた。
天井に行儀よくぶら下がるコウモリ。窓からカラスがのぞき込む。
――城が目覚め始めた。
「怖がらなくていい。古くから仕える者たちだ」
そこへバネッサが駆け寄ってきた。
「奥様、心配しましたよ。ご無事でよかった」
「奥様……」
ビアンカの頬がほんのりと赤く染まる。
「何を驚かれているのです? この幽黒城の花嫁でしょう」
恥じらうビアンカが可愛らしいとバネッサがビアンカを抱きしめた。
「おい!」
「焼きもちですか?」
「は……早くビアンカを休ませろ」
「ジュール様もですよ。でもその前に」
「わかっている」
ジュールは髪を一本引き抜き、黒い羽へと変えた。
ふうと息を吹きかけると、濃い霧が城を包み込んだ。
「ビアンカ、また後で」
「はい。おやすみなさいませ」
ジュールの姿が消えた。
「あれだけの魔力を使えばぐっすりね」
不眠症だなんて……。バネッサがぽつりと口にした。
「眠れないの?」
「心配しなくてもいいですよ。それくらいで死ぬことはないし、病気にもなりませんから」
ビアンカはじっと、ジュールの消えた場所を見つめたまま動かない。
ここで待つつもりなのかしら。
「さあ、ビアンカ様もお部屋に行きましょう」
「はい」
振り返りながら、ビアンカはゆっくりと歩き出した。
夜になっても、ジュールは姿を見せなかった。
「どこでお休みになっているの?」
「地下ですよ。行ってみますか」
ビアンカは大きくうなずいた。
廊下に出ると、使用人たちがビアンカを見て、頭を下げた。
「ビアンカ様はもうここの女主人ですよ」
少し困ったように眉を下げるビアンカ。それでも使用人の前では、背筋を伸ばしている。
この方は、本当にただの田舎貴族の隠し子なのだろうかと、バネッサは思う。
あの噂が本当ならば、探しているかも知れない。誰が迎えに来ようが、主はもう手放さないだろう。
地下へ着くと、冷たい空気が肌を刺す。
「ここはその、吸血鬼らしい寝室と言いますか……」
重い石の扉を開ければ、真っ暗闇。
「蝋燭をつけますよ」
うなづくのを確認して、火が灯った。
部屋には、漆黒の大きな棺桶がひとつ置かれていた。
「ここが一番落ち着くらしいですよ」
ビアンカがそっと棺桶に手を置き、耳を当てると、口元が微かに緩んだ。
寝息でも聞こえたのかしら。
「ビアンカ様。きっと朝にはお目覚めになりますよ」
棺桶から離れそうにないビアンカを、バネッサがそっと立たせた。
扉は静かに閉められた。
翌朝。
ジュールの目覚めは良かった。
朝が楽しみだとは、今まで思ったことなどなかった。
食堂に入るとビアンカが待っていた。
「ジュール様。おはようございます」
「おはよう。久々によく眠れた」
ジュールの明るい表情に、ビアンカも胸をなで下ろす。
二人の日課となった朝の散歩。
「ジュール様。どうぞ」
薄曇りの空を見上げ、ビアンカが差出したのは大きな日傘。
バネッサがにやついていたのは、これらしい。
ジュールが二人の上に日傘を広げた。
「これで君も濡れずに済む」
小道に咲く小花にすらビアンカは目を細める。
「今年こそ、青薔薇を咲かせたいな」
蕾はほころびかけていた。
「楽しみにしております」
これほど心が満ち足りる時がくるとは。
「そうか……」
ジュールは胸に手をあてた。
「ビアンカ……」
そっと手を引き寄せた。
触れた手は、温かかった。
図書室でも、二人は隣り合って座っていた。すぐ手の届く距離が、どこかくすぐったい。
「そろそろ、お茶はいかがですか」
バネッサがカートを押して来た。薔薇の香りが満ちる。
「……待て」
突然、ジュールの目が鋭く光った。
外ではカラスがけたたましく飛び回り、警戒音を発していた。
「ビアンカを頼む」
バネッサは杖を出し、うなずいた。
「ジュール様……」
ビアンカは本をぎゅっと握っていた。
その白い手に、ジュールの手が重なる。
「心配しなくていい。追い払うだけだ」
◇◇◇
扉が叩かれ、城の空気が、わずかに軋んだ。
「ずいぶんと騒がしい。この城の作法を教えてやろう」
招かれざる客人は、イザークと黒い婚礼衣装を着たセレーナだった。
しんと静まりかえる城内。
「誰もいないじゃないか。どうなっている?」
「そこにいるわよ」
「なに?」
壁に沿って並ぶ鎧の目が、赤く灯る。
そのすべてが、こちらを見ていた。
「これくらいで驚かされないわ。案内して」
ひとつの鎧が歩き出し、城の奥へと誘う。
「お茶は結構よ。すぐに祝宴の準備をなさい」
「お前は性急すぎる」
「あら。お父様だって、あの人形を早く持ち帰りたいでしょう」
「黙れ!」
親子はもう互いの顔を見ようともしない。
セレーナは立ち上がり、鏡の前で己の姿を入念に確認し始めた。
その滑稽な姿に、ジュールは思わず笑いそうになったが、どうにかこらえた。早く図書室へ戻りたい。
「用件は」
突然響いた声に、イザークの肩がビクリと震えた。
イザークは部屋中を見回し、すぐに諦めた。声の主は姿を現さないつもりだ。
「手違いで、ふさわしくない者をここへ連れてきてしまった。本当の花嫁は我が娘セレーナ……」
「帰れ」
低く落ちた声に、空気が凍りついた。
「セレーナを置いていく。連れ帰るのは、あの罪人だ」
「罪人?」
「ひっ!」
イザークの息が止まる。
見えない何かが、目と鼻の先にいる。
イザークは少しでも離れようと、背を反らした。それでも視線だけは逸らさない。
「あれは……親殺しの大罪を犯した娘……」
「黙れ!」
「うぐっ!」
イザークは口が開けなくなった。
「城主様。ロザリアは自分から罪を犯したと申したのです。父は何度も確かめたのですよ」
自分も、確かにこの耳で聞いたとセレーナがうそぶく。
「この城にロザリアという娘はいない。無駄足だったな」
「ロザリアはここにいるはずだ! わしのものだ! 返せ!」
身体中の冷や汗が止まらない。だが顔は怒りで真っ赤だった。
「立ち去れ。そして二度と贄など寄越すな」
突然灯りが消え、部屋は暗闇に。そして扉が音を立てて開いた。
「お帰りには十分お気をつけください」
どこからか、声だけが響いた。
親子は我先に玄関へと急ぐ。振り向くことは出来ない。後ろから闇が迫ってくる。
命が惜しい。帰るしかなかった。




