第46話 二人の薔薇
幽黒城へ戻ってから、アンジェはどこか落ち着きがなかった。
「今夜もピアノは弾いてくれないのか」
「それよりも今は、薔薇のお世話が楽しいの」
近頃アンジェはお気に入りの音楽室へ行かず、日が暮れるとすぐに薔薇園へ出ていた。アンジェの奏でるピアノを楽しみにしているジュールは少しばかり残念に思うが、「お父様から世話を習いたい」と言われてつい顔がほころぶ。
アンジェは王宮で貰ってきた薔薇を、それはそれは大事にしていた。そして、薔薇を見つめ、ため息をつく。
「アンジェ、心配事があるのか? 父にも話して欲しい」
ビアンカはその理由を知っているようだった。だが聞いてもはぐらかされ、なぜ知っているのか問うても、「それは私にも経験があるからです」と少し恥じらうように笑うばかりだった。
「何も心配などありません。今夜はもうこれくらいにして、お父様のためにピアノを弾くわ」
「それは楽しみだ。ビアンカも呼んでこよう」
父の腕に手をからめて甘えるアンジェに、まだまだ子どもだとジュールはまた口元を緩める。
ある夜、ウォルフが側近を連れて幽黒城を訪ねてきた。
「ジュール様、突然押しかけてすみません。薔薇を見せていただきたくて。私の側近ローレンスも薔薇を育てているんですよ」
「構わない。いつでも訪ねてきていいと言ったのは僕だ。案内しよう」
ジュールは、赤ん坊の頃から自分を恐れずに慕ってくるウォルフを可愛がっていた。カラスも城も知っていて門を開ける。
「ありがとうございます。あの、アンジェは?」
「アンジェは今、ビアンカと街へ出ている。そろそろ戻るだろう」
「そうですか……」
ウォルフがローレンスに何か耳打ちする。ローレンスはうなずいたり、首を横に振ったりしていた。
「ジュール様、ではお願いします」
なぜかウォルフがにやついているが、ジュールは咎めなかった。父親オスカーに似て、どこか憎めない。
案内すると、ローレンスが薔薇を前に立ちすくむ。ジュールに代わってウォルフが自慢を始めた。
「見事だろう? ジュール様が魔力を使って育てているんだ。特に……おい、ローレンス。私の話を聞いているのか」
「ウォルフ様は少し黙っていてください。噂には聞いていたが、これほどとは……」
ローレンスはもう薔薇に夢中だった。
「見たこともない品種がある。これはここでしか咲かないのでしょうか」
「ここは吸血鬼の庭だ。人と違って当然だろう」
「それに青薔薇だけ、なぜつぼみのままなのですか?」
「青には、妻と娘が戻ったら咲くように言ってある」
そんなこともできるのかと、ローレンスは驚くばかりだった。そして初めて会った吸血鬼に臆せず、次から次へと質問責めにする。それにはジュールが驚く。
そこへビアンカ達が帰ってきた。客人に気づくと、挨拶もせずアンジェは城の中へ隠れてしまった。
「ふふ。アンジェはどうしたのかしらね」
ビアンカがベロニカと笑っていた。バネッサも混じって「可愛らしい」とか、何だとか言っている。
ジュールはウォルフをちらりと見た。何か企みでもあるのかと疑いの目だ。
「僕に何か話しでもあるのか」
「私ではなく、ローレンスが。聞いてやってください」
自分の名を呼ばれ、手を土で汚したままのローレンスがジュールの前に進み出る。
「私に、薔薇をください」
「なに? 薔薇を?」
「いえ。この庭に咲く薔薇ではなく、アンジェリカ様を私にいただきたいのです」
「アンジェを? 何故だ」
「愛しているからです」
突然、風が吹き荒れ、ジュールが姿を消した。
「まあ。本当に面白い子ね。大丈夫。ジュール様は少し驚かれただけだから」
ビアンカは、王宮の薔薇園で二人が出会った時のことをベロニカから聞いていた。それはどんな恋物語よりも甘酸っぱかった。
ビアンカはララを使ってアンジェを庭へ呼び寄せた。きっと先ほどの言葉を直接聞きたいだろう。そして地下にある夫婦の部屋へ急いだ。
◇◇◇
ジュールはひとり、ワインを飲んでいた。グラスはすぐに空になる。ビアンカがくすりと笑いながら、ワインを注ぎ足す。そして自分の前にもグラスを置く。
「ジュール様。アンジェはもう小さな子どもではありませんよ」
「そうだな」
「少し風変わりな方のようだけれど、きっと大丈夫。だってあなた様と同じだもの」
「どこがだ?」
「その曇りのない目ですよ。アンジェが私達の娘とも知らなかったようです」
「それが、なんだ」
「ひとりの女性として。身分も魔力も関係ない、あの子自身を見てくれたんです。それを知った後も変わらない。世を捨てて、ここで暮らしたいとも言っていたそうです」
まるで自分の時と同じだと。ビアンカが愛おしげにジュールに微笑む。
「アンジェは自慢の娘だ。それに魔力なんてなくても、私達を幸せにしてくれる」
「そうですね。なら私達もあの子の幸せを祈りましょう」
カラスが薔薇園にいる二人を見ていた。ローレンスがアンジェの前にひざまづき、花束を渡していた。アンジェはそれを頬を染めて受け取っている。
薄いピンクの薔薇と向日葵。「一度でいいからお日さまが見たい」アンジェは幼い頃そんな事を言っていた。城にも向日葵は植えてある。だがどんなに魔力を与えても、向日葵は常に日を求めていた。
ジュールの口元がふっと和らぐ。
ローレンスは華やかな表よりも土をいじっている方が似合っている。妻の言うように似ているかも知れない。それに自分の赤い目を一度も反らさずに、まっすぐな目で見ていた。
「城は、最初からわかっていたようだな」
アンジェの少ない魔力では、城から離れればすぐに尽きる。人として生きていくしかない。ローレンスをすぐに追い出さないのは、城もアンジェを送り出せと言いたいのだろう。
「あっという間だったな」
「ええ。でもこの先も続くわ。私達はずっと見守る事ができる」
「ああ。消えるまで、二人で見届けよう」
夫婦はグラスを合わせた。
それからアンジェは少しずつ昼間も外へ出るようになった。厚い雲が日差しを遮り、大きな日傘に長袖。それでも白い肌が赤くなる。するとすぐに城は深い霧で覆われる。
「お父様、大丈夫よ。ありがとう」と、心の中で呟くと、すぐに霧は晴れる。
父は母と一緒に部屋で見ているのだろう。代わりにローレンスが庭に出ていた。
「私、夜が好きだけれど、昼もいいものね」
「私は夜が好きになった。今まで夜は静かで、どこか寂しいものだと思っていたが、ここにいると夜は色鮮やかで、とても心地いい」
「ええ。ここは吸血鬼の住まう城ですもの。でも、本当に私はここから出るのね」
その目は城の奥を見ていた。世界が変わっても変わらないものがある。それを知ったから迷いはなくなった。
「僕はこのままここにいても構わないのに。それでも出るのかい?」
「はい。そうするようにと、お父様が」
この先、両親に会えなくなる。それを聞いた時アンジェの胸は張り裂けそうだった。泣くばかりの自分を、父と母は優しく抱きしめながら、「大丈夫、行っておいで」と背を押してくれた。
目撃される魔もほとんどいない。次の時代には魔は姿を消す。それは吸血鬼も同じだと。それでも必ず最後まで見守ると約束してくれた。
父と母の愛はアンジェの心にしっかりと刻まれている。決して消えることはない。




