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第44話 新しい命

「いい色だ。きっと気に入る」


 ジュールは新しく咲かせた淡い紫の薔薇を眺め、満足気だった。いつだってビアンカの喜ぶ顔が見たい。


 その薔薇にまだ名はない。ジュールはビアンカに見つからないように、こっそり育てていた。どうも何かしていないと落ち着かない。


 もうすぐ満月。潮が満ちる頃、二人の子が生まれる。夫婦は指折り数えてその日を待っていた。


 子ども部屋に可愛らしい服が増えていく。ビアンカの手が止まらない。


「まだ縫うのかい?」


「子どもはすぐに大きくなりますもの」


「急がず、ゆっくり育って欲しいものだな」


 幸せな時間なら、いくらあっても足りないとジュールは目を細める。


 ビアンカは「カラスのように卵を産めたら、ジュールと一緒に温めることができるのに」と言って、周囲を驚かせた。ジュールも、もしそれが出来るなら、ビアンカは痛い思いをしないで済むだろうかと真剣に悩む。


「国中の魔力を集めたなら……」


「できません。それに心配しなくて大丈夫ですよ。安産に決まっていますから」


 卵はいくら城魔女でも無理な相談だが、ビアンカもお腹の子も、城が守ってくれる。かつてジュールが生まれた時のように。日が昇ってもなかなか生まれない子どものために、城の上は厚い雲に覆われ、窓を塞ぎ、日を遮った。


「過保護な城よね。お産は地下で行われたのに」


 バネッサが呆れる。ビアンカのお産に向けてバネッサは、イゾルデから当時のことを聞いていた。


 城にとっても百数年ぶりの慶事だ。

 いつの間にか屋根まで青に塗り替えられていた。日が落ち霧が晴れると、城は優美な姿を現す。


「また青薔薇城と呼ばれるようになるのかしら」


 ビアンカは幽黒城の姿も名も、威厳があって良かったと少し残念そう。


 大きなお腹を抱えたビアンカは、薔薇ジャムを作っていた。ララの一番好きな魔法だ。焦がさないよう木べらがひとりでに鍋をかき混ぜる。甘い香りに誘われ、コウモリ達が天井にぶら下がり、おこぼれを狙っていた。その中にフクロウも混じっていた。


「ビアンカ様のジャムは城下の街で大人気ですね。また注文書が届きました」


 バネッサがそれをベロニカに渡す。数を数え、ベロニカが杖で机をトンと叩くと、その数だけ空き瓶が現れた。毒薬用ではなくジャムの容れ物。些細な魔法だが、杖は嬉しそうだ。


「ありがたいことだわ。でもこれを食べたら長生きできるなんて、誰が言い出したのかしらね」


「この城の薔薇ですからね。多少の効果はあるんでしょう」


 パン屋の女将がもういい年なのに、いつまでも元気に店に立っているからか、そんな噂が広まった。人はすぐにビアンカのジャムを欲しがった。


「我が妻は、花びら一枚すら大事に、愛しているからな」


 摘まれたばかりの薔薇を抱えたジュールが厨房に顔を出した。


 調理台に大きな籠がドサリと置かれると、幽霊達が慣れた手つきで洗い始めた。


「ジュール様、味見をお願いできますか」


 ビアンカが青薔薇のジャムをひとさじ、ジュールの口へ運ぶ。


「とても美味しい。イゾルデが喜ぶ」


 イゾルデはもう不老の薬を飲むのを止めていた。代わりにビアンカのジャムが欲しいとフクロウを寄越してきた。ビアンカは大伯母だけには青を使う。


「ビアンカ様。これで今日の分は終わりです。そろそろ準備をいたしましょう」


「ええ。ではジュール様。無理はなさらないでくださいね」


 ジュールはつい「血を見るのが怖い」とビアンカに漏らしたのだ。苦しむ妻も見たくない。それでも出産に立ち会うと言う。なんでも生まれた子に、すぐに魔力を与えなくてはいけないらしい。


「もう忘れてくださいと言っても、無理ですよね」


 ビアンカが申し訳なさそうな顔をすると、ごめんとジュールが謝る。ビアンカがベッドの上で血にまみれているのを見てから、ジュールは赤ワインさえも口にしていない。


「大丈夫だ。僕は父親になるのだからな」


「はい。では準備が整ったら来てくださいね」


 初めてのお産に、ビアンカも本当は少し心細く思っていた。ジュールがいれば何も怖くない。


 その夜から、ビアンカは地下の産室で過ごした。代々使われているこの部屋は、特別な結界が張ってある。生まれ落ちた無垢な魂を求めて、悪霊が取り憑かないようにだ。


 満月の夜。


 ジュールは城の一番高いところから空を見上げていた。もうすぐ月が城の真上にくる。


 狼たちの遠吠えが聞こえた。門柱のカラスも騒ぎ出す。


 城が姿を変えた噂を聞きつけ、誰かやって来た。姿は見えない。


「ここを開けてくだされ」


「お前など、知らん。戻れ」


 闇に隠れてやってくるのは大した魔力も持たない者だ。城持ちの吸血鬼を倒し、城もろともこの地を奪おうと狙ってやってくる。白く戻ったことでジュールの魔力が落ちたと勘違いする者が後を絶たない。今夜は城も忙しい。ジュールが見張りに立っていた。


「後は頼む」


 雲ひとつない夜空に、ひときは大きな満月が浮かぶ。カラス達に見張りを頼み、ジュールは姿を消した。


 ◇◇◇


 ビアンカの額には玉のような汗が浮かんでいた。波のように押し寄せる痛みをこらえながら、呼吸を整える。


「ビアンカ様、上手です。もう少しですよ」


 ビアンカに返事などできない。いきむ声だけが産室に響く。


「ビアンカ、手を」


「ジュール様……」


 いつの間にかジュールがベッドの隣に座っていた。


 夫の手を握り、ビアンカはまたいきむ。それは人と変わらない。


「もう少し! ほら頭が見えてきた!」


 バネッサの声に、夫婦はその瞬間を待った。


 ――生まれ落ちたのは女の子だった。


「可愛い。本当に可愛い。それに元気な子ね」


 赤子は母の胸の上で何か探している。


 ふうとビアンカが息を吐く。瞳は濡れていた。


「もう魔力を欲しがっているのか」


 ジュールが小指を子の口へ近づけると、小さな口が大きく開く。


「ほら。もう離してくれない」


 父の指先をチューチューと吸っていた。


「ビアンカ、この子の名にアンジェリカはどうだろうか」


 ――天使


「ええ。とても素敵な名です。私達の娘、アンジェリカ。きっと皆に愛される」


「そうだな」


 ジュールは妻と子をそっと抱きしめた。こんなにも愛しいと思う者が腕の中にある。


「父上、母上。あなたたちが残したものだ」


 一人残されたと思っていた。何も残らないと思っていた。だが違った。


「まだ砂にはなりたくないな」


 城が黒く染まったあの日。消えそうだった小さな魂は、大叔母の言う通り、救われた。


 そして新しい産声が、城の記憶に刻まれた。

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