第35話 とまり木
最初のダンスが終わった後も、二人は踊りの輪に何度も入った。
どの曲がかかろうがジュールはビアンカを導く。そのたびに周囲からため息がこぼれた。
「ビアンカ、少し休もう」
「は、はい。つい、時が経つのも忘れてしまいましたわ」
ビアンカは少し息が上がっていた。
「おいで」
ジュールが椅子を引き、ビアンカを座らせる。すると赤い飲み物が現れた。給仕が運んできたものではない。
「ジュール様、これは?」
「薬ではないが、疲れは取れる」
「美味しい」
甘酸っぱさとワインのような渋みを、ビアンカ用に甘くしてあった。
「溺愛だな。私は姪と踊ることを許されるだろうか」
「オスカー、悪いがビアンカは足を痛めている。またの機会にして欲しい」
「ではジュールが私と踊ってくれるのかしら」
クラリスまでが二人をからかう。
「陛下と踊れば、私の夫は次々に誘われてしまいます。それは嫌です」
「ビアンカも言うようになったわね」
今夜はやけに薔薇の香水が漂う。令嬢達はすましているが、ビアンカは少しも気が休まらない。
「オスカー様、ご歓談中失礼いたします」
側近が小さな紙を渡すと、オスカーの顔が曇る。
「本当に残念だが、呼ばれた。ジュール、ビアンカ、また明日食事でもしよう」
「そうね。薔薇園に席を用意するわ」
オスカーに耳打ちされ、クラリスも小さくうなずき席を立つ。
女王夫妻が離れた途端、ビアンカの周りに人が集まってきた。
「ロザリア様、ぜひ一曲」
「私もぜひ。ロザリア様、お願いします」
「今は幽黒城のビアンカと名乗っております」
ジュールへ笑みを向けたまま答えるビアンカに、男性陣は為す術もない。
「ビアンカ、我々もそろそろ下がろう」
「ええ。では皆様、またお会いできることを楽しみにしています」
お辞儀をして去ろうとしても、今度はジュールが女性陣に引き留められる。
「ビアンカ、おいで」
突然、ジュールがビアンカを抱き上げた。
「人酔いした。失礼する」
もう誰ひとり、二人に声をかけられなかった。
◇◇◇
ビアンカを抱き上げたまま、ジュールは上着の裾を翻し、廊下を大股で歩く。
ビアンカの顔は、ジュールのワイン色の上着よりも真っ赤だった。女王であった時でさえ、これほど注目されたことはない。
「まあ」
「素敵ね」
メイド達は礼を忘れ、口に手をあてている。
「ジュール様、もう下ろしてくださいな」
「だめだ。本当に足を痛めているだろう」
「お見通しでしたのね。少しはしゃぎすぎました」
「舞踏会など初めてで、気が回らなかった。次は気をつけるとしよう」
ビアンカが楽しそうなので、つい何曲も踊らせてしまった。
だがビアンカは痛がるどころか、笑っていた。「次」もある。夫の言葉をそっと胸にしまった。
部屋に入ると、バネッサが待ち構えていた。
「ビアンカ様、湯浴みの用意は出来ておりますよ」
「ありがとう。ではジュール様、行ってまいりますね」
「ああ。僕も汗を流してくるとしよう」
ジュールは頭から湯を被り、浴槽に身を沈め、ふうと息を吐いた。
「この姿を見たら、怖がるだろうか」
浴室の鏡に映るのはまるで獣だ。牙が伸び、目は爛々と輝く。爪だって鋭い。
ビアンカには大カラスまでしか見せていない。
ジュールは酷く疲れていた。この城の魔力は濃い。壁の奥にまで染みこんだ魔力が、「使え」と絶えず訴えてくる。ずっと気が抜けなかった。
「待て。今使ってやる」
オスカーに渡された紙には、「崩落事故」と書いてあった。
現場近くにいるカラスを探す。カラスが応えると同時に、岩がかき消えた。その下から人が倒れているのが見えた。
「命までは助けられない。だが、これで家族の元へ帰れる」
岩をどける程度の魔力、そんなものでは城は揺るぎもしない。だが城は満足したのか静かになった。
風呂から上がったジュールは、夜風に当たりながらグラスを傾けていた。
「お待たせしました」
薄い夜着のビアンカが隣に座る。
自分に心配させまいと無理をしているのか。足を庇っているように見えた。
「風邪をひく」
ビアンカの肩にショールがふわりとかけられた。
「甘やかしすぎです」
「人は脆いものだろう」
ジュールはグラスを置き、ビアンカの前に跪く。ビアンカのつま先に口づけると、赤く腫れていた痕がすぐに消えた。
「あっ」
甘いしびれがビアンカを襲う。吸血鬼の魔力。それは甘美な音楽にも似て、心を震わす。ビアンカの瞳が潤む。
「すまない。少し流しすぎた」
「いえ。でももう、これを忘れることなどできない。これが、あなたなのですね」
ジュールの目が妖しく光っていたが、すぐに消えた。
「休もう。明日は幽黒城へ帰る」
「……はい」
ビアンカの声が少し遠い。ジュールはビアンカを抱き上げベッドに寝かせた。
「おやすみ。良い夢を」
ビアンカのまぶたを手でそっとなぞると、すぐに規則正しい寝息が聞こえた。
「僕は、何をしようとした……」
ここにいては、惑わされる。
大カラスが夜空へ飛び立った。
◇◇◇
朝、ビアンカが目覚めると、ジュールは椅子に座り、腕を組んでまぶたを閉じていた。長い睫毛が影を落とす。つい見入ってしまった。
だが、ビアンカの視線はすぐに気づかれてしまった。
「おはよう。どうした?」
「うたた寝など。次は棺を用意させます」
「気にするな。横になりたければ、君の隣に潜り込む」
ジュールは少し冗談のつもりだったが、ビアンカは真剣な表情だ。
「私は、あなたの羽を休める場所になりたい。いつもそう願っています」
与えるばかりで、実は何も欲しがらないジュール。諦めているのかどうかはわからない。でも自分には甘えて欲しい。
ジュールは少し困った顔。頼って甘えて欲しいのは自分だ。
「五秒だけ。じっとしていてくださいね」
「なに?」
ビアンカがいきなりジュールの頭を抱きしめた。
柔らかい胸の中で、ジュールは戸惑う。これは昔母がしてくれた。その温かさは今も忘れていない。
「まるで子どもだな」
「いえ、私の大事な旦那様です」
五秒より長く。いつの間にか、二人は抱き合っていた。
「ジュール様……」
「ああ。確かに君は僕の安らぎだ。ありがとう」
ジュールは軽く口づけ、体を離した。
「今朝は礼拝堂へ行こう。ご両親にも紹介して欲しい。僕も挨拶がしたい」
「すぐに支度してまいります」
扉の前でビアンカが立ち止まる。
――ジュール様、愛しています。
小さなつぶやきはジュールの耳に届いた。
吸血鬼はぽかんと口を開け、ドサリと椅子に崩れ落ちた。




