第34話 月夜
ビアンカは喉の渇きに目を覚ますと外はまだ暗かった。
ジュールにワインをねだり、そのまま眠ってしまったのだ。
ふと、隣に残る温もりに気づき、布団に潜り込んだ。心臓の音がやけにうるさい。
「ジュール様……」
そっと布団から顔を出すと、ジュールは月明かりだけで本を読んでいた。ページをめくる音はしない。
視線に気づいたのか、ジュールが顔を上げた。
赤い目が揺れた気がした。
なんて優しい目を向けてくれるのだろう。ビアンカの胸は、切ないほどにいっぱいになる。
「大丈夫か」
「はい。申し訳ございませんでした」
「謝ることなど何もない。それより、もう少し寝ていなさい」
ジュールが言い終わる前に、ビアンカはベッドから降りて、ジュールの足元に座る。そして、膝の上にそっと頭を乗せた。
それを咎めもせずに、優しく頭を撫でられる。
まだ酔いが残っているのだろうか。つい甘えたくなってしまった。
「もう少しだけ、お付き合いしたかったのです」
「それは残念だったな。次はビアンカにも飲める酒を用意しよう」
ジュールの声が耳に心地良く響く。触れられる手も、膝も温かい。
「私の旦那様は、人形などではありません」
皆、ジュールを前にすると最初は口を開けて呆ける。そして「人形みたいだ」と言う。
「なんだ。そんなことを気にしているのか。だが本性を見せるわけにはいかない」
「本当のあなた様のことは、私が知っていればよいのです。でも、誤解されたくない」
「ははは」
妻のすねた口ぶりが可愛く、ジュールはつい声を上げて笑ってしまった。
珍しいと、ビアンカが顔を上げてみたが、もう笑ってはいない。ただ静かな眼差しで、ビアンカを見つめている。
ビアンカはじっと見つめ返した。
今度は「どうした」と聞かず、ジュールが少し首を傾げる。
「その目がとても好きで、私はいつも探してしまう」
また赤が揺らぐ。その赤は深く、澄んでいた。
「この目を見ても惑わされず、恐れもしない」
ジュールが身をかがめ、ビアンカの額に、己の額を寄せる。
息がかかるほどの近さに、ビアンカは少し戸惑うが、身を任せた。
「ビアンカはここにおります。ずっとお側におります」
「……ああ」
ジュールの声は優しいままなのに、どこか線を引かれた気がした。
月が雲に隠れた。なのに赤い目にはまだ月が残っていた。夜を支配する静かな光。
ビアンカはそっと目を閉じる。
触れるだけの口づけ。
――近くて、遠い人。
いつか、一緒に背負わせて欲しい。
ジュールが小さく息を吐き、体が離された。
「ジュール様、薔薇園に行きませんか。ここの薔薇たちも喜ぶでしょう」
「そうだな。"ビアンカ"が見たい」
風もないのに薔薇たちが揺れる。二人の訪れを待っていたかのようだった。
その中に可憐な白薔薇を見つけ、ジュールは一輪、ビアンカの髪に挿す。
「綺麗だ」
目を細めるジュールは、歩こうと腕を差し出す。照れているのか、いつもより足早だった。
「枯れる事なく、毎日咲き続ける魔法がかけられていると聞きました。ジュール様ですか?」
「これは、僕の母、ブレンダが詫びの代わりにかけた」
「お母様が。それは?」
「城魔女にと請われていたのに、青薔薇が見たいとふらりと幽黒城を訪れ、そのまま居着いてしまったと聞いたな」
それ以来、この城に城魔女はいない。
城は多くのものを呼び寄せる。
忠誠、羨望、野望、悪意……有象無象まで。集まれば魔力と同じになる。それをすべて城は呑み込む。
城魔女は、城に呑み込まれることなく、操る。それほどの魔力持ちが幽黒城へ嫁いでしまった。
「ジュール様は、そのお力まであるのですね」
吸血鬼と魔女。ふたつの力を持つジュール。脅威であるはずなのに、表に出ずひっそりと暮らす。
「力がなんだ。欲しいものは何ひとつ手に出来なかった」
ジュールはビアンカの髪を手にとり、口づけた。
この白薔薇が一輪あれば、あとは要らない。
「今日は着飾って、見せてくれるのだろう?」
「ジュール様のために」
ジュールの隣に立ちたい。誰にも渡したくない。一度だけのわがままだ。
◇◇◇
「ビアンカ様、とてもお綺麗です」
バネッサは支度を終えたビアンカの側を離れる。
「ありがとう」
鏡に映る自分は、魔法がかかったかのようだった。
ジュールから贈られた銀色に輝くドレスは蜘蛛の糸を使ったもの。聞いたときは驚いたが、羽のように軽い。髪には“ビアンカ”。最後に青い石の入った首飾りをつけた。これは父の部屋に残されていた母のもの。
コンコンとノックされ、バネッサが扉を開ける。ジュールが待ちきれず様子を見に来た。
「これは……」
ジュールが感嘆のため息をつく。そしてビアンカの前で跪いた。
「我が妻は人ではなかったようだ。吸血鬼を惑わす者などいない」
「私は私です。すべてジュール様のものです」
ビアンカはジュールの黒い羽をねだり、胸に飾った。これほど誇らしいことがあるだろうか。
二人が大広間へ足を踏み入れると、音がピタリと止まった。
ビアンカを伴った吸血鬼が微笑んで、クラリス女王の前まで進む。
誰も二人から目を逸らすことができない。こんな光景を誰も予想していなかった。
「豊穣を祝って」
いつの間にかビアンカの腕の中に現れた青薔薇の花束が、女王へ捧げられた。
「ありがとう。二人が来てくれて、とても嬉しいわ」
クラリスの隣に立つオスカーとジュールが握手をする。旧知の仲のようだった。
「ジュール、皆がビアンカに見蕩れてる。だからってすぐに帰らないでくれよ」
「わかっている」
その声は少しぶっきらぼう。ついビアンカの手を握りしめてしまった。
「では、楽しんで」
クラリスが座ると音楽が流れる。誰も踊ろうとしない。二人が見たい。
「ビアンカ」
「お願いします」
ジュールの手がビアンカの背に添えられる。手を組み、最初のステップを踏み出す。
ジュールに身を任せ、軽やかに舞うビアンカ。
「ジュール様、夢のようです」
「僕もだ」
この瞬間を、記憶だけにしたくないと思ってしまった。
ジュールは、自分だけを見つめているビアンカを抱き寄せた。




