第31話 街へ
朝日を浴びてゆっくりと花びらが開く。甘い香りが漂うこの時間をビアンカはジュールと過ごす。
薔薇園の中に新しく建てられた東屋。霧を払っても、日を遮る大きな屋根がある。ビアンカの案だ。
「今朝も綺麗に咲き揃いましたね」
「白だけでなく、他にも色を増やしたのはいいな」
ビアンカが楽しめるように、色々な薔薇をジュールは咲かせていた。赤、ピンク、オレンジ、黄色。
そして青はつぼみのまま。これはビアンカの願いだ。
小径をふわりと幽霊が現れ、消える。薔薇園はまるで天国のようだった。
「噂以上だ。どの薔薇もとても綺麗だ」
そこへ薔薇園を一巡りしてきたオスカーが、ジュールの隣に腰かけた。親しげに話す二人に、ビアンカが目を細める。
オスカーは姪からの知らせに、幽黒城へ泊まりがけで来ていた。カラスが手紙を咥えて来たなら、何を置いても行くしかない。
「今朝の薔薇はまた格別。叔父様のおかげです」
ビアンカはオスカーに無理を聞いてくれてありがとうと、何度も頭を下げる。
「ついでだよ。ちょうど届け物があったからな」
クラリスはビアンカを実の娘のように大事にし、あれこれ送ってくる。
「どうぞ」
ジュールの前に音もなくカップが置かれた。
ビアンカがジュールのためにお茶を淹れる。この時間はジュールにとっても楽しみになっていた。
オスカーの前にも。
「茶にも薔薇ジャムを入れるのか。これは朝から優雅だな」
「叔父様にも気に入っていただけて良かった」
薔薇は毎日咲く。ビアンカはせっかくだからと、摘んではジャムを作っていた。
「ジュール様。ジャムを警備隊やパン屋の女将へ分けてもいいでしょうか」
「構わない。僕らだけでは食べきれない」
ジュールもビアンカが楽しそうなので、何も言わなかったが、さすがに瓶が溜まってきた。
ビアンカはまだ火を怖がるが、不思議とジャムだけは自分で作りたがる。
イザークの屋敷で、厨房から薔薇の甘い香りがしたと。一度も食事には出なかったが、香りだけは味わっていたと笑っていた。
「吸血鬼が住まう地の警備兵に、誤魔化しは効かなかったな」
早朝に警備隊長が訪ねてきた。「犯人は捕らえた。もう心配はない」と門柱のカラスに伝言だけして帰ってしまった。
「本当に。あの娘さんの両親もわかってくれました」
アイザックはジュールの仕業だと仕組んでいたのに、あっさりと警備兵に捕らえられた。
死人が出たと聞いたときから、警備隊長は吸血鬼の仕業ではないと、すぐに気づいた。
駆けつけると、娘は息絶え、心臓は止まったまま。吸血鬼の仕業なら仮死状態になるはず。それに醜い痕跡など残さない。
「あの娘さんは本当に気の毒でした。でも、ジュール様は少しも悪くありません。犯人を捕まえてくれたお礼じゃなく、差し入れなら構わないでしょう」
ビアンカが微笑む。疑うだけでなく、信じてくれた人がいた。それは心強く、嬉しい出来事だった。
「ビアンカ、今日は僕も一緒に街へ行こう」
「ええ。一緒に」
見つめ合う若夫婦に、オスカーは眉を下げる。
「本当に仲が良いのだな」
「叔母様に心配しないでとお伝えくださいね」
「伝えよう。私がお邪魔虫だったとな」
ジュールとビアンカは、顔を見合わせて口元をほころばせる。
「王宮に何かあったら、二人に助けてもらうとしよう」
「わかった。カラスに言えば伝わる」
「あれか……」
礼拝堂に一羽住み着いていた。
オスカーは一晩中ジュールと話ながら、水晶玉を覗いていた。改めて話してみると、ジュールの学識の深さ、広い知見に舌を巻いた。たかだか数十年生きただけの自分など、足元にも及ばない。
「バネッサ、休んできて。疲れたでしょう」
「そうですね。夜中にずっと歩き回ったら、さすがにくたくたです」
イザークの屋敷に入ったのは、カラスを連れたバネッサ。
城へ帰って来たときは、「疑いもしないで、勝手に震えあがるアイザックが面白かった」と言っていたが、もう目が半分閉じかけていた。
「ジュール様が付いているなら、私は実家へ行ってきてもいいでしょうか」
ビアンカがジュールを見ると、ジュールはうなずいた。
「バネッサ。お土産にジャムを持って行ってね」
「はい。師匠も喜びます。ではオスカー様、お先に失礼いたします」
バネッサが姿を消すと、オスカーがこそりとジュールに聞く。
「魔女たちは一体どこへ隠れ住んでいるんだ?」
「僕も詳しくは知らない。結界でも張って、上手く隠れているんだろう」
それは嘘ではない。大昔から魔の者同士、余計な詮索はしない。関わりすぎない。どちらも生き残るための約束事だった。
◇◇◇
ビアンカが馬車を降りると、街は昨日と打って変わって、人々の表情は明るい。
「ジュール様、どうぞ」
ビアンカが大きな日傘を広げると、ジュールが姿を見せる。
「こんな晴れた日に」と皆が驚く。遠巻きでも帽子をとってお辞儀する者、拍手をする者までいた。
戸惑うジュールに代わり、ビアンカが微笑む。
「女将さん、おはよう」
「今日は吸血鬼様と買いに来てくれたのかい」
「そうなの。それとこれを女将さんへ。いつもありがとう」
ジュールが黙って籠を机の上に置く。
女将が覗くとジャムの瓶がぎっしり詰まっていた。
「こんなに? それもビアンカ様の手作りだなんて嬉しいね。お礼に好きなパンをおまけするよ」
「お礼はいらないわ。そのかわり“様”はやめて。ビアンカでいいわ」
「そうはいってもねえ……」
女将はしばらく考え、孫のようにビアンカちゃんと呼ぶことにした。
孫なら買い物がなくても、いつでも寄ってくれと女将が言う。
ビアンカの顔がぱっと輝く。
「これからも、よろしく頼む」
それだけ言うと、ジュールは少し気まずそうに背を向けた。
女将は初めて聞く吸血鬼の声に驚いた。人形がしゃべっているのかと思った。
だが、こうして妻を心配して付いてくるくらいだ。案外人臭いのかも知れない。
「事件が解決して良かったね」
「ええ。信じてくださる方がいて、嬉しかったわ」
二人が話している間、ずっとジュールは店を見回していた。
「ジュール様。どうかされましたか?」
「ここは昔、菓子店ではなかったか」
「それはずいぶん昔のことですよ。たしか、曾お爺さんが最初に菓子店を始めたとか」
女将が嫁いで来たときには、もうパン屋に変わっていた。
「ジュール様はここへ来たことがあるのですか」
「ああ。一度だけ」
遠い昔だ。だがここに来たことは覚えている。
「そうだ。これは昔からおいてあるうちの看板商品。良かったら食べておくれ」
メレンゲの焼き菓子。
「これだ……」
父に貰ったお金。初めての買い物。人と初めて言葉を交わした。
「……」
「ジュール様?」
「話は済んだのか。そろそろ行こう」
「はい」
すぐに城へ帰りたいのだろうか。ビアンカはもう少しジュールと街を歩きたかった。
「ジュール様、あの屋敷へ行ってみていいですか。取り壊される前に、一度だけ母の部屋を見たいのです」
「そうだな。僕も行きたいと思っていた。行こう」
妻の手を取る。少し気が向いてみたが、ジュールの足は重かった。




