第3話 動き出した時間
朝から食堂に座るなど、いつぶりだろう。
「おはよう」
「……おはようございます」
淡いピンクのドレス。
いるだけで、城に花が咲いたようだった。
同時に席に着く。待つのも、待たせるのも、面はゆい。
コホンとひとつ咳払いすれば、皿が置かれた。
白野菜のスープ、皮を剥かれた林檎、牛乳……。
「これは?」
「卵の黄身です。白身はビアンカ様に」
月のような黄身がふたつ並ぶ。狼男なら変身するところだった。つい笑ってしまった。
ビアンカが顔を上げた。
「……」
「見ていないで、食べろ」
カトラリーを手にし、小さな口で咀嚼する。音もなく、ゆっくりと。
傷さえなければ、令嬢に見えた。
――ビアンカ、君は。
聞いたところでどうなる。
「食後は薔薇を見に行こう」
「……あの」
何か言いかけて、目を伏せた。
「問題ない。この城は濃い霧で日を遮っている」
小さくうなずいた。
――自分を気遣っていたのか。
恐れる様子もなく、受け入れている。
実に不思議な娘だ。
「ウサギを連れておいで」
また口端が上がる。
これは良い。
「今日はやけに霧が濃いですね。ビアンカ様に風邪をひかせないでくださいよ」
薄い肩に、ショールがかけられた。
庭中を案内しようとしたが、バネッサに昼までに戻れと言われる。
まったく。どちらが主人だか。魔女は扱いづらくて困る。
「おいで」
後ろから着いてくるのを確認して、ゆっくりと薔薇園へ向かう。
背が温かく感じた。そんなはずはないのに。
今朝もつぼみのまま。
日々魔力を与えているのに……。
がっかりしてはいないか、ちらりと隣を見やる。
ビアンカがそっとつぼみに触れていた。
そして手を合わせる。
祈り?
誰にだ。
ここに神はいない。
無駄だとは言えなかった。
「他にもいくつか植えてある。飾りたければ後で届けさせよう」
首を横に振るが、わずかに視線が揺れた。
「ならば何が欲しい?」
いくら待てど、何も言わずにうつむいてしまった。
子ウサギもそのうち放つつもりだろう。
何も持たず、欲することもない。
いや、ひとつだけ持っていた。
――金のブローチ。
それが示すもの。
頼まずに直接この目で確かめたい。
「戻ろう。バネッサが待っている」
白く小さな手を取ると、震えてはいなかった。
「午後は城の中を案内しよう。楽しめるものがあるかも知れない」
音楽室。
古いピアノは音が出ない。
それでも、細い指が鍵盤に触れた。
カタ カタ カタン
音を奏でなくても、指が笑っている気がした。
図書室に入るとビアンカはひとり、歩きだす。
「好きなだけ読みなさい」
「……」
……聞いていない。
背表紙に夢中のようだ。
静かな時間はいくらでもある。
その背を、ただ眺めていた。
夕食時。蝋燭の火が怖いのか、席に着こうとしない。
呼吸が乱れた。
バネッサが慌てて吹き消す。
「おいで。月明りが綺麗だ」
暗がりからビアンカを誘い出す。
ベランダに小さなテーブルを出した。
大人しく席に着くが、食事に手をつけない。
ジュールの前に置かれたのは赤い葡萄酒だけ。
「これで十分なんだ」
ビアンカが瞬きをした。
驚いたのか。
わずかな変化に、目が離せない。
暖かな部屋で眠るビアンカ。頬に少し赤味がさしている。
その頬に触れてみた。
「ゆっくりおやすみ……」
窓辺の大きなカラスが羽ばたいた。
ビアンカが目をうっすらと開けた。
「……誰」
ふと、窓を見た。
柔らかな月明かりだけ。
ふたたび目を閉じた。




