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第29話 領主の妻

 幽黒城の門前に、王家の紋章つきの馬車が止まった。その後を幾台もの馬車が続く。


 門柱のカラスが女主の帰還を知らせると、静かに門は開かれた。


 降り立ったビアンカは、薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込む。


「ビアンカ様、お帰りなさいませ」


 先回りしていたバネッサが微笑む。


 白い花嫁衣装のビアンカを出迎えるように、城が姿を現し、扉が開く。


 ホールには誰もいない。


「叔父様!」


 ビアンカの目が輝く。どこで待っているか知っている。


「ビアンカ、行っておいで」


 裾を持ち上げ、花嫁が駆け出す。


 薔薇園までの石畳には赤い薔薇が敷き詰められていた。

 霧が晴れていく。その先に青いつぼみをつけた薔薇が見えた。


 そこに立つジュールを見つけ、ビアンカは立ち止まる。


 腕を伸ばした。涙で先が歩けない。


 そして次の瞬間、温かな胸に抱かれていた。


「ビアンカ、お帰り」


「ジュール様、長く留守にしてごめんなさい。ビアンカはもうどこへも行きません」


 ジュールはビアンカを高く抱き上げた。驚くビアンカにジュールが微笑む。


 まるで少年のような、曇りのない真っ直ぐな瞳。ビアンカも笑みで返す。


「君はいつだって、僕の心の中にいた」


 ジュールがビアンカの手を、己の胸に重ねる。


「ほら、今もだ」


 ジュールの心臓は早鐘のように鳴っていた。


 ビアンカを待っていたのは、人に恐れられる吸血鬼ではなかった。ただ妻の帰りを待ちわびる夫だった。


 青薔薇が一斉に咲きこぼれる。


「ビアンカ……」


 風に煽られたベールが、二人の上にふわりと落ちた。


 ◇◇◇


 応接室でオスカーはなるほどと、うなずいていた。初めて会う吸血鬼は、やはりこの世の者ではなかった。


「たしかにあなたが社交に顔を出したら、国が荒れる」


「社交など興味はない。騒がれるなどごめんだ」


 長く艶のある黒髪を束ね、陶器のように滑らかな白い肌。赤い目は否応なしに人を惹き付ける。


 ジュールの前に書類が置かれた。


『婚姻届』


 ジュールが黙ってサインをして、ビアンカの前に置いた。


 たかが紙一枚。だが人はそれを大事にする。ジュールもその重みは知っている。


 オスカーが二人の署名の下に、見届け人のサインを記す。


「これであなたはもう、私達の家族だ」


 ジュールはわずかに目を伏せた。


 家族……。


 そのような感覚はジュールにはなかった。忘れていたのかもしれない。だが、その場所は隣に座るビアンカがくれたものだ。


 隣に座るビアンカの目にすっすらと涙が光っていた。これでいい。


 ジュールはそっとビアンカの涙を拭った。


「クラリス女王からの願いがある。受けてくれると大変喜ばしいとのことだ」


 ジュールへ手紙が渡された。女性らしく、細く優しい文字を目で追う。


「クラリス様はなんと」


 ビアンカにも知らされていなかった。


「ここを公領とし、管理をジュール殿にお任せしたいと仰せだ」


 代わりにオスカーが答えた。


「なぜ吸血鬼である僕が」


「何もおかしなことはない。今まで通りだ」


 オスカーも最初にクラリスから聞いたときは驚いた。


 ジュールは今まで数え切れないほど、闇に潜むものを片付けてくれた。見返りもなしに。そして青薔薇が咲かなくても、民が飢えることもなかった。常にカラスが国中を見て回っていた。資格は十分にある。


 何よりこのビアンカの夫だ。信じるに値する。


「そしてもう一つ。舞踏会の招待状だ。うちのお姫様はファーストダンスは夫と決めているらしくてね」


「叔父様ったら。急に何を仰るのですか」


 顔を真っ赤に染めるビアンカに、バネッサがすかさず冷たい風を送る。そしてジュールにも。珍しく頬に赤みが差していた。


「ビアンカ。ぜひ僕に妻をエスコートさせて欲しい」


「これで皆に私の自慢の夫を紹介できますね」


 新しい家族の笑顔に、オスカーは胸を撫で下ろした。


 ◇◇◇


 ビアンカは白い棺を部屋に運び込み、その中で眠るようになった。


 地下はビアンカには寒すぎた。それに魔力回復の必要もない。


 ある朝、とうとうバネッサが、棺は地下へ片付けると言い出した。


「ビアンカ様は、少し変わっているところがありますね」


「どこがかしら?」


 小さく首を傾げる。本人はまったく気づかない。


「いくら吸血鬼の妻であっても、人のうちはベッドで休みます。これが落ち着くなんておかしいですよ」


「でも中はふかふかで、ちゃんと空気穴もあるのよ。蓋を閉めるのはまだ少し怖いけれど」


 ふふと笑って。今夜も棺で眠る気らしい。棺はそのままになった。


「ところで、地下の奥にあるもうひとつ扉。もしかして、ジュール様のご両親が眠ってらっしゃるのかしら?」


「さあ。私も気になってましたが、ご両親のことは聞いたことがありません」


「私も何だろうって入ろうとしたら、弾かれました」


 霊体のベロニカにも通れない。


「近づくなってことです。ビアンカ様、ジュール様がお待ちかねです。食堂へ急ぎましょう」


 強力な結界に守られた部屋。

 古い城だ。何があってもおかしくないとビアンカは忘れることにした。


 ◇◇◇


「ジュール様、行って参ります」


「ああ。気をつけて」


 見送るジュールは眉を下げ、妻を見送る。

 一緒に行こうと言っても、どうしても一人で行きたいとビアンカが聞きいれなかった。


 ビアンカは街へ足繁く通っていた。太陽の下を帽子も被らずに、大通りを歩く。


 商店で買い物し、噴水の前に座り鳩やカラスに餌をやる。そしてバネッサと菓子の包みを広げ、楽しそうにおしゃべりをして帰る。


 毎日、これを繰り返していた。


 ビアンカの訪問が日常になると、子ども達がビアンカの周りに寄ってきた。


「僕たちにもやらせて」


「もちろん。ただしやり過ぎはだめよ。それにあとで掃除もお願いできるかしら」


 城主様からよと褒美の菓子の包みが差出される。


「すごく美味しそう。毎日だってやるよ。ありがとう」


 次に子どもに手を引かれた年寄り達も顔を出すようになった。


 以前の領主イザークは人が集まるのを嫌っていた。

 今では、人のいない広場など想像が出来ないほど賑わっていた。


「本当にあれが幽黒城の奥方様なのか」

「ロザリア様がどうしてもと、冠を捨ててまで嫁いだそうだ」


 白薔薇姫の噂は、田舎の領にまで届いていた。


 最初は怖々と接していた店主たちも、ロザリアに気軽に声をかけるようになった。


「奥様、今日は何がご入り用で」


「ジュール様はここのパンがお好きなの。二ついただくわ」


「吸血鬼様もパンを召し上がるのかい」


 女将が目を丸くした。そんな話は聞いた事がない。


「ええ。今朝も薔薇ジャムを載せて召し上がっていたわ」


「吸血鬼が朝から起きているなんて、とても信じられないよ」


 まるで人の同じじゃないかと、パン屋の女将を驚かせた。


 欠けた敷石をビアンカが見つけては、ジュール様が直してくださると言って、翌日には本当に綺麗になっていた。礼拝堂の剥がれ落ちそうだった壁も、ぐらつく橋も、いつの間にか治っている。 


 急な雨にビアンカが雨宿りをしていると、大きな傘をさしたジュールが迎えに来た時もあった。嬉しそうな妻を見つめる目は優しい。どこにでもいる夫婦だった。


 次第に幽黒城は領主の城として、領民の拠り所となっていった。


 ◇◇◇


 ある日、いつものように街へ下りたビアンカを呼び止める声がした。


「ロザリア、久しぶりだな」


 イザークの息子アイザックが、荷物を肩に提げ立っていた。


 バネッサがビアンカを背に隠し、杖を取り出す。


「バネッサ。大丈夫よ」


「ロザリア、あの時は本当にすまなかった。屋敷が取り壊されると聞いてね。荷物を取りに来たんだ」


「そうでしたか。伯父様と伯母様のことは聞いているのね」


「ああ。私から見ても酷い人間だった。ロザリアはよく耐えていたよ」


 ビアンカもそれには答えられない。言い返しもせず、自分も身を任せてしまったのだ。


「最後にロザリアの幸せそうな顔が見られて良かった」


 そう言って、アイザックは街を出て行った。



 ビアンカがいつものように、街へ買い物へ出掛けると、なぜか人々の視線がいつもと違う。

 パン屋の女将に聞いても、知らないとしか答えてくれない。


「どうしたのかしら。どこか余所余所しいわ」


 広場に子ども達もいない。雨でもないのにおかしい。


「ビアンカ様、城へ戻りましょう」


 バネッサに背を押され、肩を落としたビアンカは馬車へ乗り込んだ。

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