荊の冠
戴冠式までひと月。城中、誰もが大忙しだった。
食事が運ばれない。手紙の遅配。衣装の仮縫いでは針がわずかに肌をかすめる。無造作に生けられる花。
シュバルツは忙しさのせいだとした。自分のために城が動いている。気分が良かった。
「ここをカール様が通られる」
使用人たちが手を止めて並ぶ。決して顔をあげてはいけない。
護衛を引き連れたカールが前を通りすぎる。
「ちっ」
誰かが舌打ちする。
だがそれを護衛に咎められることはなかった。護衛もまた、前を歩くカールから目を反らしていた。
その背は、倉庫近くの廊下で闇に消えた男に似ていると、密かに囁かれていた。
「賓客の出迎えはどうなっている」
「準備はすでに整っています。ただ、参列をすると返事が来たのが、あまり国交のない国ばかりなのですよ」
オスカーが、参列者リストを見せた。
「急とは言え、少ないな」
これは外交に行く度に恥だけ残してきたカールのせいだ。今後は変わるだろう。
“カール”を確認しなくてもいいはずなのに、毎朝、姿見の前に立つ。
それも今日で最後だ。
「醜悪だな。だが悪くない」
蔦が王冠のように、頭に巻きついていた。
鏡の中のカールは応えない。表情も変えずに冷たい目のままだった。
「まだ自分をカールだと思っているのか。無能なお前には、この荊の冠がお似合いだ」
豪奢なマントを翻し、ほくそ笑むシュバルツは戴冠式へと向かった。
◇◇◇
「これはどうしたことだ」
シュバルツが、大広間を見つめたまま呟く。 その声は、すぐ後ろに立つオスカーにしか聞こえない。
「外国からの賓客は皆、途中で引き返しました」
オスカーは、ただの事務報告のように答えた。
「理由は?」
「がけ崩れ。狼に襲われた。城魔女が呼び戻したとの報告も」
この期に及んで恥を掻かされた。許しがたい。人がいるはずだった床を睨み付けた。
「あら。参列者がいないわね。どおりで静かだと思った」
クラリスの声が、がらんとした大広間に響く。
「あなたを迎えようとする臣下も、ずいぶんと少ないのね。この人数では、とてもあなたに冠は載せてあげられないわ」
その臣下さえ下を向いていた。
この場でもう一度、第一継承者の名が呼ばれ、貴族はそれぞれの家紋が記された札を玉座の前の箱に収める。
箱が満ちなければ、次の継承者の名が呼ばれる。
その名を呼ぶ司祭すら、ここにはいなかった。
「誰の企みだ?」
シュバルツが睨んだ先は、オスカー。クラリスひとりでできるはずがない。
「クラリスはもう王家を出ました」
自分たちは忠実な臣下であると言うオスカーはシュバルツを見ていない。その視線は前に向いていた。
「では継承者はやはり私ひとりだ。札など後でいくらでも集まる」
「いるわよ。ここに」
クラリスがビアンカの手を引き、玉座の前に立たせる。
「ロザリアはまだ私の妻ではないぞ」
「そうね。でも第一王子ロベルトの子よ。第二継承権はロザリアにあります」
「ロザリアは幽黒城に嫁いだのだろう。無効だ」
「おかしなことばかり言うのね。あなたがそれを認めなかったくせに」
クラリスが扇を高く掲げると、大広間の扉が開かれた。司祭を先頭に、続々と貴族たちがロザリアの前に並ぶ。
シュバルツが奥歯を噛みしめる。玉座までほんの数歩。ここで塞がれてなるものか。
「では、王になるにふさわしいか、ここで証明して見せろ。こんな小娘に何ができる。この国をここまで支えてきたのは私だ!」
「違います。あなたは歪めてきただけです」
ビアンカの小さいが、凛とした声。
「そうか。あの吸血鬼はこの娘を使って、国ごと狙っていたのか。騙されるな。魔の者に渡してはならない」
――黙れ
頭の中に響く声が、シュバルツを縛り上げた。息も出来ない。
――お前は悪魔に心を売った。それはここにいる者が知っている。
シュバルツの目の前に、ロベルトとアンリエッタが現れた。
屋敷にいた使用人。他にもシュバルツに殺された者たちがシュバルツをとり囲む。
――覚えているだろう
――私たちは殺された
――殺したのはお前だ
油の匂い。火を付けた瞬間。懇願。悲鳴。血を流し、目の前で次々に倒れていく。すべてが蘇る。
「違う! 殺したのはカールだ! カールが仕組んだ。すべてカールだ!」
大広間中、何事が起きたかとざわつく。
突然、カールは倒れ、床を転げ回った。
暴れ、服を掻きむしる。
ロベルト夫妻を殺害したのはカール。
そう“カール”自身が叫んでいる。もう言い逃れは出来ない。
もがけばもがくほど、見えない蔓がシュバルツを締め上げ、棘が深く食い込む。目の前が、真っ赤に染まる。
「……赤」
こんなことができるのは、あの吸血鬼より他にいない。
「お前も道連れだ!」
口から泡を吹きながら、シュバルツはビアンカの足元へ這いずる。だが近づけない。足に絡まった蔦に引き戻される。
あまりの恐ろしさに、ビアンカは後ずさる。
「あれを捕らえて」
クラリスはビアンカを抱きしめ、シュバルツを指さした。
「離せ! 私じゃない!」
連れて行かれるカールを、クラリスが見ることはなかった。
◇◇◇
シュバルツが目覚めると、牢に寝かされていた。
冷たく固い石の床。
そこにカラスの羽が一枚落ちていた。
「許さない!」
「何を許さない?」
「元に戻せ!」
「お前を変えたのは私ではない。お前が選んだんだ」
声はそれきり聞こえなくなった。
自分でこんな道を選ぶわけがない。
「食事だ」
牢番が盆を持ってきた。
水と野菜の切れ端が浮くスープ、小さなパンがひとつ。
「こんなもの!」
投げ付けようとして、ふと思い出した。
傾いた扉。薄暗い部屋。火の落とされたかまど。
水と欠けた皿にほんの少しのスープと固いパン。いつも自分の前にだけ置かれていた。
それなのに「足りない」と言って、母を悲しませた。
その後、村に人探しだとやって来た男たちに「二度と戻れないが、毎日腹一杯食わせてやる」と言われ、迷わずうなずいた。
行くなと言われたのに両親に手を振った。母はうずくまって泣いていた。父の手も震えていた。だが見ない振りをした。
憎みながら、カールを羨ましいとも思った。生まれた場所が違うだけなのに。すぐに故郷のことは忘れた。残ったのは父と名乗る男にだけ呼ばれる名だけ。それももう二度と呼ばれることはない。
いつから自分は、自分を捨てたのだろう。
気付くと牢の鍵は空いていた。シュバルツは抜け出し、隠し通路を使って私室へ辿り着く。
鏡の前に立つと、“カール”が待っていた。
一瞬、誰だかわからなかった。
髪は真っ白に変わり、目は落ちくぼみ、唇はひび割れ、頬はこけていた。死人のようだ。
刺さった棘が、するすると抜け落ちていく。棘は時間を吸っていた。もうシュバルツに残された時間はない。
頭に巻かれた蔓から、黒い薔薇が咲きはじめた。
「金の冠だ。とうとう私は手に入れた」
鏡の向こうでカールが笑う。
そして、カールが冠に手を伸ばしてきた。
「触るな! これは私のものだ」
『私のものだ』
鏡の中から伸びた蔓が床を這い、シュバルツの足に絡みつく。
しだいに蔓は、シュバルツをすべて飲み込んだ。
「やめろ! 離せ!」
抗えないほどの力に、シュバルツは鏡の中へ引きずり込まれる。
「違う! 私はカールなんかじゃない!」
ガシャン!
大きな音に警備兵が扉を開けた。
中には、割れた鏡の上で、枯れ木のような老人が息絶えていた。
その頭には、黒い薔薇が一輪咲いていた。




