第24話 鏡の中のもうひとり
執務室に座るシュバルツの顔がほんのわずかに歪む。弱みなど、人に見せるわけにはいかなかった。
体中に薔薇の蔓が這っていた。土色に染まった指先から、日に日に蔓は伸び、棘が肌を突き刺す。
目の前にいる事務官は眉一つ動かさない。他人には見えない。だがはっきりと自分には見える。
「カール様、こちらを」
「また陳情か。肥料も種も与えた。水も涸れていない。まだ訴える者がいるなら、土地を取り上げろ。嫌なら黙って耕せと言え」
ようやく幽霊騒ぎが収まり、城に人が戻ってきた。
国王に代わり、仕事が日増しに増えてくる。シュバルツは部屋で休むことなく、ほとんどの時間を執務室で過ごしていた。
そこへクラリスが訪ねてきた。
「あなたがここに来るなど珍しい。とうとう陛下がお目覚めにならないのか」
「一度くらい見舞いなさい。それも役目でしょう」
「それを言いにわざわざ。お帰りください」
書類に目を戻した。シュバルツに家族ごっこなどする気はない。
「あなたに知らせがあるの。私はオスカーの元へ降嫁することに決めました。お父様の願いよ」
クラリスを次の王にと推す声は高かった。これで無駄な仕事が増えないで済む。
「私が王位についたあかつきには、オスカーを宰相としよう」
「手綱でもつけるおつもり? まあいいわ。あなたに王妃も子もいないうちは、私の助けも必要でしょうから」
「心配には及ばない。すぐに領地へ引っ込むことになる。荷物をまとめておかれるとよい」
「マリアを呼び戻すのね。それもいいでしょう。では、ごきげんよう」
クラリスは父が伏せているから華やかなことはしたくないと、式は挙げず、父の部屋で誓いの言葉を交わし、婚姻届にサインした。
「クラリス様、お祖父様のご様子はいかがですか」
ビアンカが小さな白薔薇を抱え、ハンセルの部屋を訪れた。
「“ビアンカ”ね。良い香りだわ。お父様、ロザリアが来ましたよ」
ハンセルは薄く目を開け、わずかに唇を動かした。掠れた声でロザリアを呼ぶ。
「まあ。娘よりも孫なのね。ロザリア、手を握ってあげて」
クラリスは結婚後も城にとどまり、父の看病をしていた。
「お祖父様。もうじき青薔薇が咲きますよ」
ハンセルの手に少し力が入る。誰もが青薔薇を待ち望んでいた。
そしてハンセルは、クラリスとビアンカに看取られ、静かに旅だった。
最期の言葉は「やっと会いに行ける」だった。
城中に国王が崩御したと伝えられた。
執務室でそれを聞いたシュバルツは、部屋へ戻り、ひとり祝杯をあげていた。
「指名をしなかったか。これで私しかいなくなった」
第二王子の証である銀のブローチをなでる。次に手にするのは金の冠。
黒に着替え、姿見の前に立つ。
「ふん。お前が何を企もうが、そこからは出られない」
鏡に映る“カール”が自分を見ていた。嘲るように笑われた気がした。
同じ顔なのにどこか違う。髪に白いものが目立ち、皺が刻まれていた。
それはすぐに戻った。
「お前はそこから、指を咥えて見ていろ」
高笑いするシュバルツ。鏡の中のカールは笑ってはいなかった。
大広間へ向う途中、クラリスがカールを待っていた。
葬儀が終われば、次の国王の名が告げられる。
「あなたは本当にそれでいいの?」
「このために生きてきた。それが私だ」
「そう。ならしっかりと努めなさい」
クラリスは深いため息をつく。
この男には他に道がなかった。だが兄さえいれば、他を選ぶこともできたのに。今さらだが悔やまれる。
葬儀はどこか優しい空気の中で執り行われた。ハンセルを慕う者のために、大広間の扉は開けられ、使用人たちが廊下から見送りに来ていた。
祈りが終わり、クラリスとビアンカの手で棺に薔薇が捧げられた。
「お祖父様は、お父様とお母様に会いに行かれたのね」
「お父様はとても喜んでいらしたわ」
カールが別れの言葉を読み上げると、廊下がざわついた。
掃除メイドが王子の声を聞くことなど滅多にない。
「この声……。あの場所にいた」
「確かに、この声よ」
「静かにしろ。今は式の最中だ」
「でも、間違いなく夢に出てきた声にそっくりなのよ!」
メイド長まで夢の中の声と同じだと言い出した。
大広間の扉は閉められ、中では葬儀の終わりが告げられた。
そして、名が呼ばれた。
「次の国王は第一継承者であるカール第二王子。戴冠式はひと月後に」
誰もが息を飲んだ。
貴族や民から信頼を得ようが得まいが、カールの仕事は早い。疑惑だけでは反対する理由にできなかった。
葬儀の後、クラリスはビアンカを連れてオスカーの屋敷へ移るつもりでいた。
だが、それはシュバルツによって阻まれる。
こともあろうに、カールが姪であるロザリアを妃に迎えると言い出した。
いくらビアンカが、「自分はジュールの妻だ」と言っても取り合わない。証明するものなど何もない。
イザークまでが、ロザリアが吸血鬼に攫われただけだと言い出した。
クラリスは「心配するな」とだけ言って、ひとり城を出てしまった。
「ロザリア。お前もこの牢獄から逃げることはできない」
「いえ。ここは牢獄などではありません。あなたが自分に囚われているだけです」
「生意気な。部屋から一歩も出るな」
ビアンカは固く閉じられた扉を見つめていた。
「バネッサ、お願い」
バネッサの杖が、扉をコツンと叩く。
「あいつが来ても開けられないよう、特別に固く閉じておきました」
「薔薇園も心配だけど、あの子達が守ってくれるわね」
ビアンカの周りにはいつも薔薇の香りがした。
屋敷にいたメイド達は薔薇園を気に入り、香りをビアンカに届けていた。
「クラリス様には何か考えがおありのようだった。今はきっと待つ時なのね」
ビアンカはそっと薔薇に触れた。
枕元に置かれた白薔薇は、不思議と枯れることがなかった。




