第21話 小さな庭の片隅で
ビアンカは、楽しそうにクラリスの髪にブラシをかけていた。
「ロザリアに侍女仕事までさせて、ごめんなさいね。城中が人手不足なのよ」
「いいえ。母にしてあげたかったことが叶いましたから」
鏡越しにビアンカが微笑む。
クラリスの世話から部屋の掃除まで。手伝いたいとビアンカは自分から言い出した。
ビアンカの手際の良さに感心しながらも、クラリスは深いため息をついていた。
「苦労させてしまったのね」
「私が望んでやっていたことです」
部屋でじっとしていると、否応なしに思い出す。何かにすがるように体を動かしていた。
いつの間にか、下働きのような仕事ばかりを押しつけられていたが、たぶん伯母と従姉の差し金だろうくらいにしか思わなかった。伯父も見ぬふりをしていた。
「今は幸せですよ。クラリス様にもジュール様の薔薇園をお見せしたいです」
「ビアンカ様。それ、ジュール様が聞いたら、すぐに青薔薇が満開に咲きますよ」
大カラスがいやしないか、バネッサは窓を開け放つ。
「いませんね。残念です」
「ふふ。母はずっと青薔薇が見たいと言っていたのよ。もしかしたら、自分が幽黒城に嫁いでいたかもって笑っていたわ」
「そういえば、まだあなたにこの城の薔薇園を見せていなかったわね。行きましょう。あなたの両親が初めて出会った場所なのよ」
幽黒城とは、比べものにならないほど小さな薔薇園。四季を通じて絶えることなく咲く、魔法がかけられていた。
「幽黒城から挿し木したものもあるのよ」
「どれかしら」
ビアンカの目が輝く。
「この小さな薔薇がそうだわ。兄が、生まれた姫のために是非と請うたそうよ」
愛らしい白薔薇。
名は“ビアンカ”だった。
「この花から付けてくださったのかしら」
『名はビアンカだ』
あの時の不思議な声は、確かに胸の奥に届いた。
ひび割れたコップに水が一滴落とされたように感じた。それはあの城で過ごすうちに、一滴ずつ、確かにたまっていった。
――もう少しで満ちる。
「ここだけ春のようだ」
静かな気配に、クラリスが微笑む。
「オスカー、珍しいわね」
「姫君のお許しがあれば、毎日だって会いに来ますよ」
「クラリス様。そちらは」
ビアンカに見覚えはあったが、名を知らなかった。
「兄の片腕だったオスカーよ。私の元婚約者」
「今もあなたは私の婚約者だ」
オスカーがクラリスの手を優しく取った。
「兄一家があのような目にあって、私は怖くなったのよ」
――いずれ自分も。そして家族まで。
それに、すっかり気落ちした父を残して、城を出るわけにいかなかった。
「あの時。オスカー様が私の墓を埋めてくださった。お祖父様のご意向だと」
「あなたを死者にしなくては守れなかった。でもあれに託したのは間違いでした」
様子を確かめにも行けず、申し訳なかったとオスカーが深く腰を折る。
「顔をあげてくださいませ。あそこは母が生まれた家ですから。それに私はもう大丈夫です」
「ロベルト様は小さな姫君を、目に入れても痛くないと言ってらした。いつかこの庭で一緒に過ごすことを、何より楽しみにしていたのに……」
「お父様が……」
クラリスはそっとビアンカの肩を抱き寄せた。
「オスカー。あの噂は本当なの?」
「あの方は今も、この国の行く末を憂いている」
この庭に両親の霊が彷徨っていると聞いて、ビアンカは目を凝らす。
「……いないわ」
「ロザリア?」
「クラリス様、先へお部屋へ戻ります。オスカー様、お会い出来てよかった」
ビアンカが珍しく慌てた様子で立ち去って行く。
「急にどうしたのかしら……」
クラリスが声をひそめる。
「オスカー。この城はもうあの男の手の中。でも必ず返して貰うわ」
「女王陛下になるおつもりですか?」
「ええ。やっと覚悟を決めました。オスカー、あなたの力が必要よ」
「もちろんですとも。忙しくなりそうだ」
二人はしばらく、薔薇を眺めていた。
◇◇◇
「ベロニカ、どこにいるの?」
声を落として、ビアンカはベロニカを呼んだ。
「お嬢様、ベロニカはここに。すいません。今もメイド達の話を聞いていて」
「私もお話できるかしら」
「いずれ紹介しますから。今は少し興奮気味で。悪霊ではないですよ。でも、ちょっと……」
「そう。でも私に何か出来ることがあったら聞いておいてね」
「はい。出来ればお墓に花をと。誰も寄りつけないようにされているそうです」
ビアンカの目に涙が溜まる。
殺されても、まだそれほどの仕打ちを受けるなどあまりに惨すぎる。
「お嬢様のせいではありません。みんな、お嬢様の無事を喜んでますよ」
「ありがとう。必ずお花を。約束します」
「そういえば、お嬢様は慌てて、どうしたのですか?」
「両親もここで彷徨っていると聞いてきたの。ベロニカ、お父様とお母様を見かけてないかしら」
「私も気になって探しているのですが。お姿を見せてはくれないのです」
「そう……」
幽黒城とは違い、ベロニカも思うように動けなかった。今は杖もない。
幽霊達が自ら出てこない限り、気配とすれ違うだけだった。
「きっと、ジュール様が連れてきてくださいますよ」
「そうね。きっと会えるわね」
終われば、最後に姿を見せてくれるに違いない。
城は人がいなくなり、仕事は滞る。
残るわずかな者、そのほとんどがクラリスのいる一画に集まっていた。
「ここにいるとほっとする。嫌な夢も見なくなったし」
「なんだか良い香りもするしね」
薔薇の香りがどこからか漂う。
香りが薄くなるところへは、誰も行きたがらなくなった。
「カール様のところは、ずっと焦げ臭いままね」
「今ではお食事を届ける者も交代で押しつけ合ってるって」
「怪しげなお祓いまで始めたってよ」
執務室のある一角は、火を灯してもすぐに消え、暖炉もいつの間にか火が落ちていた。
虫の一匹も近寄らないとさえ言われるようになり、衛兵は夜回りから外してしまった。
「カール様、こちらに目をお通しください」
「お前は、何も感じないのか」
「何がですか?」
はてと、オスカーが首を傾げる。
「いい。私は決して屈しない」
シュバルツは空を睨む。
目の前に、兄ロベルトが立っていた。
「カール様。もうお休みになった方が。お顔が真っ白ですよ」
「要らぬ世話だ!」
幾日も眠れない。寝かせてもらえない。
女達の悲鳴、男達の怒号がずっと頭の中で聞こえる。手は油でベトついていた。
「では、また明日……」
オスカーが出て行くと、シュバルツは自室へ戻った。
そして、姿見の後ろへ姿を消した。




