第16話 黒い記憶
ビアンカを乗せた馬車は、ひっそりと城の裏口に止められた。
使用人の通路を通され、小さな空き部屋へ入れられた。
黒い服を渡される。
着替えの間、メイドがじっとビアンカの様子を見ていた。
最後に、首を見せるように言われ、髪をかき上げられた。
「噛み痕はついていません」
すぐに扉の外へ伝言された。
真新しい帽子も白いドレスも、大きな袋に無造作に押し込まれた。
ビアンカは唇をぎゅっと噛みしめた。
「こちらへ」
忙しく廊下を行き交う事務官の、ひそひそとささやく声が聞こえた。冷たい視線が、逃げ道を塞ぐ。
通されたのは広い執務室だった。大きな机には書類が積み上がっていた。
「ようやく来たか。顔を見せろ」
書類の向こうに座る男の顔は、真っ黒に見えた。
――この声は一度聞いたことがある。
あの屋敷で。
顔を上げると、男はふんと鼻で笑った。
「これに間違いないか」
「はい。アンリエッタの娘、ロザリアに間違いございません」
第二王子カール。遠目で見た覚えがある。
この男に知らせたのは伯父イザークだ。その隣で、伯母は薄笑いしていた。
「その醜い傷では、使い物にならないな」
思わず下を向いてしまった。
「私が兄を殺した、などという噂があるらしい」
男は笑っていた。その声は、ねっとりと体にまとわりつく。
「火をつけたのは、兄の娘だと騙るお前だろう? 死人に口なし。私が罪をなすりつけたなどと言われてね」
「私は、ロベルトとアンリエッタの娘です!」
伯父の鞭が飛んできた。
「この嘘つきが! 真実だけを話せ」
何度も鞭が当てられたが、歯を食いしばった。
最後に「大罪人だ。連れて行け」と冷たい声が聞こえた。
冷たい床に投げ捨てられ、鉄格子が閉められた。
足音が遠のくと、途端に力が入らなくなる。床に両手をつき、どうにか体を支えた。
喉の奥が引きつり、目頭が熱くなる。
――あの日。
「明日からは、お父様と一緒に暮らせるの」
母がとても嬉しそうに引っ越しの準備をしていた。
どこへ越すのか聞いても、「ロザリーはきっと驚くわ」と笑うばかりだった。
王宮から少し離れた屋敷で、母と二人で暮らしていた。父に会えるのは年に数回。それでも優しい父が大好きだった。
幼い頃からの夢が叶う。とても幸せな気持ちでベッドに入った。
夜更けにふと目覚めてしまった。リンと鈴を鳴らしても、誰も来ない。
部屋を抜け出し、階下へ降りると、言い争う声が聞こえた。
父と、知らない男の声。
いけないとわかっていても、扉に耳をあてた。
会話は聞き取れなかったが、男の大きな怒鳴り声だけは聞こえた。
「継ぐのは、この私だ!」
大きな物音が聞こえた後、扉が開き、母が出てきた。
顔を見るなり、「逃げろ」と言う。
「何が起きたの? お父様は?」
母は答えない。
腕を引かれ、厨房へ連れて行かれた。
「ここから外へ」
「お母様は?」
「いいから早く!」
母を置いてはいけない。だが、母は動かなかった。
「手間をかけさせるな」
ナイフを持った男が追ってきた。顔は暗がりで見えなかった。
「待て! 二人とも逃げろ!」
「あなた様こそ、お逃げください!」
頭から血を流した父が、男ともみ合いになる。
「お父様が!」
助けに入ろうとしたが、母に突き飛ばされた。
「お願い! 逃げて!」
あの時、持っていたランプを落としてしまった。
気づくと、夜空を真っ赤に染める炎に館が包まれ、音を立てて崩れ落ちていくのを、ただ呆然と見ていた。
朝になってようやく火がおさまり、まだくすぶる中、両親を探し続けた。
「お父様! お母様!」
父が母を庇うように、折り重なっていた。
真っ黒になってしまった父と母……。
――あの日から、私の世界に色はなくなった。
◇◇◇
膝を抱えたまま、眠るビアンカ。
いつもこうして、ひとりで泣いて、ついには、泣くことすらできなくなった。
すぐにでも、ここから出してやりたい。
だが、それは「だめだ」とイゾルデにきつく言われた。
真実を知れば、色を取り戻せるかも知れないと。
ジュールは夜空へ舞い上がった。
もう一度、あの場所へ。
焼け跡に着くと、ひとりの老人が墓の前で祈っていた。
老人はジュールの姿を見ても驚かない。一度だけ顔を合わせたことがある。この国の王だ。
「ここに眠るのは誰だ」
「息子の妻と孫娘だ。正式なものではなかったが」
若くして死んだ王子がいた。
権力など望みもしなかったのに、周りがそれを許さなかった。
「守ってやれなかった……」
城に呼び寄せるのが、一日遅かった。
息子は妻子と離され、ひとり、王家の墓に眠る。
墓標をなでる老人の手は、震えていた。
人目を忍び、やっと会いに来た。
「知っているか。自死すればあの世に行けない。老いぼれても、まだ呼ばれないとはな……」
せめてあの世でもう一度会いたい。詫びたい。
玉座に座っている時には決して見せない、弱々しく曲がった背中。
「吸血鬼に、安らかな死など無縁だ」
この世でしか、会えない。
魂がビアンカの名を呼び続けている。それなのに、今は触れることもできない。
「お前が逃がしたのか」
「何のことだ」
口に出さずとも、顔を見ればわかる。
母親の実家へ戻せば、静かに暮らしていけると思ったのだろう。
「城の地下へ行け。宝が眠っている」
「宝? 青薔薇でも咲かせたか」
「白薔薇だ」
老人が去った後、焼け跡を調べた。
一画に大勢の魂が眠っていた。集められ、逃れられないようにしたのか。
「酷いことを」
これを隠せる者など、ひとりしかいない。
大カラスは王宮へ舞い戻った。




