アヤカシの世界へ⑤
前回のお話→長老との将棋にあっさりと負けた渚。長老とスオウの押し問答の末、渚はある手鏡を長老から受け取った。その手鏡は、願った物をひとつだけ手にすることができる道具だと長老が言う。
「鏡に映せる物?」
「そうだ。死んだ者の命とか、そういう鏡に映せない物、つまり目に見えない物は無理でね。物体として鏡に映せる物ならこの鏡が与えてくれる。使い方は簡単。欲しいと思う物を強く念じて、それが鏡に映ったら手を伸ばして鏡から引き出せばいい。いいかい? 引き出せるのは、その1度だけだ」
あの鳥居と同じように、長老が作った不思議な道具の1つということなのだろうかと、渚は手鏡をいろいろな方向から眺めてみる。今は暗がりに居る渚の顔をぼんやりと映しているだけで、そういう物だと知らなければただの高そうな手鏡だ。
渚はカバンの中に手鏡を丁寧にしまって、改めて長老にお礼を言った。長老は満足そうに目を細めて、「スオウには言うなよ?」と耳打ちした。なんだか可笑しくて、渚も声を押し隠して笑った。
「あ、それからもう1つ。お嬢ちゃんに教えといてやろう」
長老は真剣な顔をして、渚の左肩に優しく手を乗せた。
「いいかお嬢ちゃん。これからお嬢ちゃんが戦わなきゃいけないのは、きっと人間の方だ」
「え……な、なんでですか? だって襲ってきてるのは化け狐族、なんですよね?」
「確かに今、我々を苦しめているのは狐たちだ。だが、アヤカシは良い意味で純粋なんだ。人間のように、腹では何を考えているのかわからんというようなことは、あまり無いんだよ」
「えっと……つまりどういう……?」
長老は渚の肩に置いた手に力を込めて、グイッと渚の顔を自分の耳元へ寄せた。その仕草がいやに色っぽい。渚は、スオウも歳を取ったらこうなるのだろうかと想像して、そんな想像をしている自分に顔を赤くした。
「人間の憎しみとは、目に見えない場所で巣食っているもの、ということさね」
逸る鼓動の隙間から、長老の言葉が渚の耳に入ってきた。
すると突然、入り口の引き戸が勢いよく開け放たれ、その音と共にスオウが不動明王のような顔をして突進してきた。
「こんの狸ジジイ! こいつに何吹き込んでやがる!」
「おや、うるさいのが来た。いいとこだったのに」
「何!? どういうことだ!」
「全然! まったく! そういうのじゃないから落ち着いて!」
「まったく。この弟子は冗談も通じない。人間で言うところの、『反抗期』というやつかな?」
長老はやれやれと言いながら、手を着物のたもとに押し込んで首を振る。スオウはそれでも気が収まらないのか、髪の毛をぐしゃぐしゃとしながら怒鳴る。
「そ、そんなんじゃねぇ! いつ狐共が襲ってくるかもわからねぇし、おまけに澪さんが危ないってこの大事な時に、もしこいつがいなくなったら」
「こいつこいつって、女の子には優しくしろって教えただろうに。お嬢ちゃんごめんよ。いつもはホントに素直で可愛い奴なんだけどねぇ。一体どうしたってんだか」
「大丈夫です。むしろスオウに『お嬢ちゃん』って呼ばれたら鳥肌が立つっていうか……」
「なんとまぁ。師匠として嘆かわしいのぅ。え? アカノ」
「今の俺はスオウだ」
そのやりとりは、反抗期の息子と父親の会話というより、癇癪を起こした小学生とそれを適当に受け流している大人のように見えて、渚にはなんだか可笑しかった。
それを見てバツが悪くなったのか、スオウは急にぶっきらぼうに、「潜り鳥居の赤を3つ寄越せ」と言った。長老は勿論、「それが頼む奴の態度かい」と返して、また押し問答になる。
もし、自分が普通の生活を送れていたら、両親とこんな風に喧嘩することもできたのだろうか。こうやって誰かと言いたいことを言い合って喧嘩する自分を、渚は全く想像できなかった。親とだけでなく、友人とも喧嘩をしたことがない。篠崎に啖呵を切った自分のことも、今思うと別の誰かがやったことのように思えてくる。
渚は無意識に唇を噛んでいた。その様子に気づいた長老が、スオウをたしなめる。
「アカノ、お嬢ちゃんはまだ混乱している。焦って意地を張ってばかりでなく、きちんと寄り添ってやんなさい。お嬢ちゃんはまだ子どもなんだから」
「し、しかし……」
「いいかい? 時に回り道に見えることでも、その方が早く結果が出ることもあるんだよ。散々教えてきただろう」
「……はい」
「お嬢ちゃん、すまなかったね。色々あって疲れただろう。今日はもう夕餉にして、ゆっくり休みなさい」
「……はい」
「良い子だ。そうだ。もし寝付けなかったらこれを使ってみなさい」
そう言って、長老は鏡台とは反対にある棚から白く美しい陶器の花瓶に入れられた、銀色の花を持って来た。それには小さい花が5つ鈴なりに付いていて、揺れる度に小さく「チリン、チリン」と鳴った。
「これは『夢見の鈴蘭』と言って、眠れない時にこれに優しく息を吹きかけると、見たいものを夢の中で見せてくれる道具だ。きっとぐっすり眠れるだろうよ」
「いろいろと有難うございます。あの……役立たずかもしれないけど、どうかよろしくお願いします」
「畏まらんでいい。わしのことは爺ちゃんとでも呼んでおくれ。今まで、寂しかったろう。ここにいるのはみな気のいい奴だ。存分に頼りなさい。自分が役立たずだなんて、悲しいことを言わんくていい」
長老の言葉には、同情や哀れみではなく、心から相手を思う優しい気持ちが込められていた。渚はまた溢れそうになる涙を必死に堪えて、スオウと共に長老の部屋を後にした。
お爺ちゃん。お爺ちゃん。渚は廊下を歩きながら何度も心の中でそう言った。凜の時とは違い、長老のことはすんなりとそう呼べそうだった。隣を歩くスオウはまだふてくされているのも、渚には新鮮で可笑しかった。
しかし長老が言った言葉が渚の心に引っかかる。長老は、「わしの手助けは要らない」とはっきり言った。それほどまでに、自分は戦力外なのかと思ったが、どうもそういう意味ではないらしいと心を持ち直して、まずは必要な勉強に集中することにした。
「あ」
そこまで考えて、渚は重大な問題に気がつく。
「どうした、突然止まって」
スオウが面倒そうに振り向く。渚はわなわなと体を震わせて、よく通る声で叫んだ。
「が、学校ぉぉぉぉぉ‼︎」
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