第五章 さいごの約束 〈3〉
「ママ、シリウスだ! このコ、シリウスだよ!」
「ええっ!?」
女の子の母親が両手を口にあてて腰もぬかさんばかりにおどろいた。
「シリウスだ! ああ、シリウス! シリウス!」
女の子がシリウスの首を抱きしめると、シリウスも尻尾をちぎれんばかりの勢いでふってよろこびをあらわした。
「おにいちゃん、この犬、私のなの! うちのシリウスなの! つれてきてくれてありがとう!」
「渚。このコ、シリウスの飼主の坂本さゆりちゃんだ!」
渚の肩に手をかけてふわふわと宙にういていたカナエが云った。いきなり会えるとは思わなかった。
さゆりの母親も信じられない面もちでシリウスのそばへしゃがみこむと、うす暗がりの中で首輪を確認して、シリウスの頭をなでた。シリウスがうれしそうに目を細める。
「ああ、よかった。シリウス、生きていたのね。……ねえ、ぼく? この犬どうしたの?」
渚がぶ然とした表情でノートに書きだした。
「ぼく、言葉が話せないの?」
渚がうなづきながらペンを走らせてノートを見せた。
『宝船町でたすけた』
「……となり町まで流されてたなんて。よく無事だったわ」
さゆりの母親がゆっくり立ち上がると渚に云った。
「あのね、この犬、うちで飼ってたシリウスって云うの。つれてきてくれてありがとうね」
渚はその言葉が聞こえないみたいに立っていた。
「渚?」
カナエも渚のようすがおかしいことに気がついた。渚がノートに言葉をつづると、さゆりの母親へ見せた。
『シリウスはわたさない』
「ちょっと、どうしたの、渚!?」
さゆり母子に姿の見えないカナエがおどろいて、
「わたさないって……?」
さゆりの母親がとまどった。渚がシリウスの首に抱きついているさゆりとシリウスをひきはがすかのように、さゆりの腕に足を押しあてた。顔を上げたさゆりがノートの文字を読んで声をあらげた。
「どうして? シリウスは私のだもん! かえしてよ!」
渚がその言葉を無視するかのように、ノートへ書きつけた。
『はくじょうなかい主にはかえせない』
渚はリードを短くもち直すと、シリウスをさゆりたちからかばうように立った。シリウスがさゆりたちの元へ駆けよろうと強い力でリードをひっぱるが、渚はそれを許さない。
「はく情じゃないもん! 私ずっとシリウスのこと心配してたもん!」
『かい主のくせに一目でシリウスだって気づかなかった』
「だって暗かったし……」
あの津波の中でシリウスが生きているとは思えなかったのだ。
『シリウスをさがしにいったか?』
冷たい瞳でたたみかける渚の文章にさゆりが動揺した。
「わ、私だってさがしに、い、いきたかったけど、ママが、そ、外はまだあぶないって……うわ~ん!」
とうとうさゆりが泣きだした。
「渚、かわいそうだよ。シリウスだってさゆりちゃんたちといっしょにいたがってるじゃん」
カナエがリードをにぎりしめる渚の手をとって云った。
(シリウスの方がかわいそうだよ。シリウスは一目で自分の飼い主だって気づいたのに)
世の中には身勝手に動物を捨てる人がいる。さゆりたちがこれからも、ちゃんとシリウスを飼いつづける覚悟があるのかどうか、渚はたしかめておきたかったのだ。
「あのね、ぼく。私たちはシリウスを置きざりに避難したわけじゃないの。たまたま車でお買い物にでていたところで震災にあったから……」
さゆりの母がこれまでのことを説明した。
さゆりたち母子は、浸水して身動きがとれないまま、吹きさらしのショッピングセンターの屋上で凍える一夜をすごし、昨日の夕方、なんとかこの避難所へたどり着いたのだ。
さゆりの父も生きていれば、この避難所へやってくるはずだが、いまだに再会できていない。
強大な津波の力で跡形もなく流された家のあった場所を見て、身も心もクタクタのさゆりたちに、シリウスが生きていると考えられるだけの希望がわくはずもなかった。
なにも考えられなかったし、なにも考えたくなかった。
シリウスのことばかり考えていた渚は、さゆりの母の話を聞いて、さゆりたち母子への思いやりが欠けていたことに気づいた。
すなおにシリウスをかえしてあげればよかったと後悔したが、渚はノートに書いた。
『もうぜったいシリウスをひとりぼっちにしないってちかうか?』
その文章を読んださゆりが涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら云った。
「する! 約束する! もうぜったいシリウスひとりぼっちにしないから! しないから、かえして! シリウスをかえして!」
さゆりの母も、渚のノートを読んで深くうなづいた。渚が決していじわるをしているわけではなく、渚なりにシリウスのことを思いやっていることに気づいたからだ。




