第五章 さいごの約束 〈1〉
1
その日は朝から重々しい灰色の雲が空一面をおおっていた。
身を切るような冷たい風が吹きすさび、渚の顔をビリビリと凍てつかせた。表情を動かすと右目の下にできた小さなアザがひきつるように痛む。
昨日とは一転した悪天候の下、渚たちは朝早くから弁天町へ歩を進めていた。おそくとも昼までには雪が降りはじめるだろう。なんとかそれまでに弁天町の避難所へ着いておきたかった。
渚たちは山のふもとの道なき道をゆっくりと移動していた。
(ねえ、カナエ。どうして山の中を歩かなくちゃいけないの?)
「さっき見たでしょ? ごっつい車。災害派遣の自衛隊が到着したから」
町に点々とモスグリーンの大きな軍用車両がとまっていた。震災直後から自衛隊の災害派遣ははじまっていたが、道路が寸断されていたため、この地域への到着がおくれたのだ。
「昨日もなるべく人目をさけて歩いてきたんだけど、親切な大人に見つかったら月見山の避難所へつれかえされちゃうもの」
(そっか)
おかしな云いまわしに渚はしぶしぶ納得した。足元はガレキの町を歩くよりマシかもしれなかったが、生乾きのクツ下とクツで冷えたつま先はしびれるように痛いし、腰のあたりまでおいしげるクマ笹もうっとうしかった。
カナエは渚の肩へ手をかけて宙にふわふわとういていた。寒さを感じるそぶりもない。
渚にリードをひかれて歩く秋田犬のシリウスは、ふだんの散歩で通ることのないような道にガサガサと楽しげな音をたてていた。
(シリウスは寒くないのかな?)
そんなことを考えていた渚はふと目まいをおぼえた。足をとめるとカナエが云った。
「余震だね。それほど大きくないみたい」
ゆれていたのは渚ではなく地面だった。まわりの樹々がざわざわと高みの枝をゆらす。
カナエの神さまの力で守られた土蔵で寝ていた渚は気づかなかったが、昨夜から早朝にかけて2回ほど大きなゆれがあった。
深い海の底で目をさまし、大震災を引き起こした巨大魚〈大黒蟲〉の動きがふたたび活発化しているのかもしれなかった。
ゆれがおさまるとカナエがつとめて明るい声で云った。
「もうひとがんばりだよ渚。レッツラ、ゴー!」
2
山の中を小1時間も歩くとアスファルトの道路へでた。
ガードレールの根元にヒビが入り、ところどころ大きくうき上がっていた。地震の力はかたいアスファルトをぐにゃりとゆがめてしまうほど強大だった。
「この道を下ると弁天町……あ! 渚!」
云いかけたカナエの口調が明るくおどる。
(どうしたの?)
「渚のお父さんが宝船町へ帰ってきた! 元気だよ。月見山の避難所へむかうみたい」
(よかったあ)
カナエの言葉に渚の胸が熱くなった。日ごろから防災意識の高かった父なので、たぶん無事だろうとは思っていたが、実際に安否が確認されたことで、とてもホッとした。
(母ちゃんといっしょにもどったら、父ちゃんよろこぶだろうな!)
道路を下る渚の気分と足どりも軽くなる。
しかし、渚は気づいていなかった。渚は父の無事を知ったが、渚の父・清志はまだ渚たちの安否を知らないことに。
遠からず渚の父は月見山の避難所に渚たちがいないことを知る。渚が行方不明の母をさがしにでかけたことを知る。渚の父はとても心配するだろう。
渚の父によりそうカナエが渚の無事をつたえた。その声は聞こえていないが、たましいの奥底で感じる希望が、ほんの少しだけ渚の父の心配を軽くするはずだ。
(カナエ、あれ!)
渚の父に気をとられ、ぼんやりしていたカナエが顔を上げると、道路わきのやぶの中に『弁天町』と書かれた小さな標識が立っていた。
(……やっと着いた)
弁天町に着いたからと云って、すぐ渚の母に会えると決まったわけではないが、重要なチェックポイントをひとつクリアした気がして渚はうれしかった。




