探すなんてこと、しないから
舟がある。黒い鏡の上に浮かんでいるかと思えばそれは夜の川だった。
船の上からこちらを見つめる女性は和泉。正史のかつての婚約者である。西陣の着物を纏っており、彼女が冷たい眼差しを水面に落とすと、舟は動き始めた。底のない沈黙。正史はただそれを見つめるしかなかった。
「和泉…」
思わず声を漏らすと彼女の瞳は再びこちらに向けられたようにも見えた。それが、お互いの心を覗きあう最後の瞬間だ。
夢だった。あの時以来、幾度となく現れるその光景の背後に、鮮やかな紅葉が燃えていたのに気づくのは、いつも起きた時だった。
いなくなったのは和泉ではない。正史であるというのに。視界から消えたのはほかならぬ自分だというのに。
正史には一時期、姿をくらまし、野宿を繰り返した過去がある。ネットに名指しで仕事の失態を書き込まれ、拡散され、半ばノイローゼになったことがきっかけだった。自分の名前を知る人間と会うことも話すこともおそれた。人と会うたび、この人はあの投稿を見ているのではないかと詮索した。身の置き場を失った正史は、何も言わずに和泉と暮らしていたアパートを出た。どこを彷徨っていたのか、その記憶はうっすらとしか残っていない。公園やどこかの神社とか、そんなところで寝泊まりしていたのだと思う。電話にも出なかった。ただ、くっきりと頭に残っている文面がある。失踪して3日目のことだ。
「探すなんてこと、しないから」
和泉からの最後のショートメッセージだった。正史は一瞥して、彼女との別れを直観した。
ーーー
「ねえ、和泉式部って知ってる?私と同じ名前じゃない。調べてみたのよ。」
「和泉式部?なんか、平安時代か何かの?」
「うん。貴船って京都にあるじゃない」
「キブネ?」
「貴船神社の貴船。和泉式部は愛する夫の心が離れていくのを憂慮して、お参りをするの。」
和泉の話によればこうだ。京都の北に位置する貴船は、古くから水の神様を祀る聖地であり、神秘的な伝説や歴史的なストーリーが数多く残されているらしい。中でも有名なのが和泉式部のストーリーだ。夜の貴船川に飛び交うホタルの光を見つめながら、和泉式部は切実な歌を詠む。
物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る
(物思いをしていると、沢を飛び交っている蛍の火も、自分の身から離れ、さまよい出た魂ではないかと見える。)
「当時、魂が出ていってしまうことは死ぬことと同じだったから、死ぬほどのやるせない想いだったってこと。」
「で、その後、どうなったんだ?」
「貴船明神がうたを返したの。」
奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ
(奥山の激しく落ちる瀧に飛び散る水玉のように、心を千々に乱してもの思い(恋)をしてはいけませんよ)
「なーんだ。」
「なーんだ、って。でもね、その後、夫との夫婦仲は良くなったっていうの。」
ーーー
思い出すといつも、正史の胸は痛む。1カ月の失踪の後、アパートに戻った時、和泉はいなくなっていた。家賃の督促と、光熱費の請求書だけが郵便受けに残されていた。
探すなんてこと、しないから
それが絶対に探さないということなのか、あるいは、探さないから迎えに来てほしいという彼女流の言い回しなのか、正史はいまだにわからないでいる。強すぎる思いを彼女はもてあましていたのか。せめて、文末に句点でも打たれていれば少しはてがかりになったのかもしれない、だなんて。




