第2話:廃神社での違和感
「あの時、アキの手、すごく冷たかったよね」
薄暗い部屋の中で、マコがくすくすと笑いながら私の指を弄んだ。
ランプの灯りに照らされた彼女の顔は、血の気がなく青白い。
それでも、ふわりと弧を描く唇の形はひどく艶めかしく、私の視線を釘付けにした。
「そうだった? マコの手こそ、氷みたいに冷たかったじゃない」
私は彼女の言葉を否定しながら、自分の指に絡みついているマコの細い指先をそっと引き寄せた。
そして、その冷え切った白い指先を、まるで甘い菓子でも味わうようにゆっくりと口に含んだ。
舌の上を滑る彼女の爪、指の腹。
生ぬるい私の唾液が彼女の指を濡らす。
マコは嫌がるどころか、むしろ心地よさそうに目を細め、私の口内を探るようにわずかに指を動かした。
その微かな動きだけで、私の下腹部に甘い痺れが走る。
「だって、怖かったんだもん。あんな気味の悪い場所……」
マコが吐息混じりに囁く。
私は彼女の指を名残惜しく解放し、その濡れた指先を自分の頬にこすりつけた。
「そうだね。」
「本当に、気味の悪い場所だった」
私は目を閉じ、あの夏の日の、まとわりつくような熱気と腐葉土の匂いを思い出した。
赤いノートの最後のページに記された『○○村の奥にある廃神社』
私たちがそこへ向かったのは、ノートを見つけた数日後だった。
市街地からバスを乗り継ぎ、終点で降りてさらに小一時間ほど山道を歩く。
舗装された道はとうに途絶え、足元はぬかるんだ土と鬱蒼と茂るシダ植物に覆われていた。
夏の真昼だというのに、木々の枝葉が太陽の光を遮り、森の中は夕暮れ時のように薄暗い。
鼓膜を圧迫するような蝉の鳴き声だけが、ここが夏であることを主張していた。
「アキ、まだ着かないのかな……」
私の少し後ろを歩くマコが、荒い息をつきながら不安げに周囲を見回した。
彼女の白いスニーカーは泥で汚れ、露出したふくらはぎには、鋭い草で切ったのか、細い赤い線が何本か走っていた。
その傷口から滲むわずかな血の匂いが、夏のむせ返るような緑の匂いに混じって、私の嗅覚を奇妙に刺激した。
「もうすぐだと思う。お父さんのノートにあった地図の通りなら、この獣道の先にあるはずだから」
私は足を止め、振り返ってマコに手を差し伸べた。
マコはほっとしたような顔をして、ためらうことなく私の手を取る。
彼女の手は、汗ばんでいるのにひどく冷たかった。
極度の緊張が、彼女から体温を奪っているのだろう。
「ごめんね、アキ。」
「私なんかのために、こんな怖い思いさせて」
「謝らないで。」
「私が一緒に来たくて来てるんだから」
私はマコの冷たい手を両手で包み込み、さする。
本当は、この鬱蒼とした森も、得体の知れない廃神社も、どうでもよかった。
ただ、こうしてマコが私にすがりつき、私の手だけを命綱のように握りしめているという事実が、私をこの上なく満たしていた。
恐怖に怯えるマコの瞳の奥に、私が絶対的な存在として映っている。
それが嬉しくてたまらなかった。
私たちは手を繋いだまま、さらに山の奥へと進んだ。
やがて、木々の隙間から、朽ち果てた木造の鳥居が姿を現した。
鳥居は柱の片方が腐り落ち、不気味な角度に傾いていた。
しめ縄はとうにちぎれ、黒ずんだ苔が全体を覆っている。
そこから先は、まるで空気が違うように感じられた。
蝉の鳴き声すらピタリと止み、不自然なほどの静寂が支配している。
「ここだ……」
マコが私の手を握る力を強めた。
その痛いほどの力強さに、私は歪んだ歓喜を覚えながら、彼女を庇うように一歩前へ出た。
鳥居をくぐり、石段を登る。
石段の隙間からは雑草が我が物顔で生い茂っていたが、奇妙なことに、社殿へ続く獣道だけは、最近誰かが歩いたように草が踏み均されていた。
荒れ果てた境内には、不穏な痕跡がいくつも残されていた。
社殿の周囲には、明らかに新しい真っ白な塩が等間隔で盛られている。
そして、朽ちた賽銭箱の前には、黒く焦げた跡と、何の動物のものか分からない小さな骨がいくつも散乱していた。
「なにこれ……」
マコが顔をひきつらせ、私の方へ身を寄せる。
彼女の柔らかい胸が私の腕に押し付けられ、私は思わず息を呑んだ。彼女から漂う甘い汗の匂いが、理性を狂わせそうになる。
「何かの儀式の跡、みたいだね。お父さんのノートに書いてあった通りだ」
「お父さんは、ここで何を見たの……?」
マコは震える声で呟きながら、周囲を見回した。
その時だった。
私の視界の端、社殿の裏手の薄暗い茂みの中で、何かが蠢いた。
真っ黒な、人の形をした『影』
明らかに人間ではない、物理的な法則を無視したような動きで、ずるり、と茂みの奥へ滑り込んだ。
背筋を氷の塊で撫でられたような悪寒が走る。全身の産毛が逆立ち、本能が「ここから逃げろ」と警鐘を鳴らした。
しかし、私は声を出さなかった。
隣で私にしがみつくマコは、その影に気づいていない。彼女はただ、境内の異様な雰囲気に圧倒され、私の腕に顔を埋めて震えているだけだ。
もしここで私が「何かいる」と言えば、マコはパニックになり、私たちはすぐにこの森から逃げ出すだろう。
だが、私はこの状況を手放したくなかった。
恐怖に怯え、涙目で私を見上げるマコ。
私なしでは一歩も動けない彼女。
この極限の吊り橋効果がもたらす、濃密で甘美な依存関係。
これを終わらせるなんて、絶対に嫌だ。
「アキ、どうしたの? どこか見てた?」
私の視線の先に気づいたのか、マコが不安そうに顔を上げる。
私は極力自然な笑みを作り、彼女の頬を優しく撫でた。
「ううん、なんでもない。ただの風の音だよ」
嘘だった。
あの影は確実にそこにいた。
そして、私たちをじっと観察しているような、粘り気のある悪意を感じた。
それでも私は、マコを抱き寄せる快感のために、その警告を黙殺した。
たとえこの先に何が待ち受けていようと、マコが私の腕の中にいるのなら、それでよかった。
「それより、手がかりを探そう。」
「お父さんがここに来た証拠が何かあるかもしれない」
私はマコの背中を押し、社殿の周囲を探索し始めた。
社殿の床下、崩れかけた灯籠の影。私たちは泥まみれになりながら、執拗に何かを探した。
「アキ、これ……!」
社殿の裏手に回った時、マコが悲鳴のような声を上げた。
彼女が指差した先。
湿った土が不自然にこんもりと盛り上がっている場所があった。
その土の表面に、何かが少しだけ顔を覗かせている。
私はしゃがみ込み、周囲の土を手で払いのけた。
腐葉土の生臭い匂いと一緒に、微かに、鉄錆のような匂いが鼻を突いた。
土の中から現れたのは、銀色のジッポライターだった。
「お父さんのだ……」
「間違いない、お父さんがいつも使ってたやつだ……!」
マコが地面に膝をつき、震える両手でそのライターを拾い上げた。
ライターの表面には、べっとりと黒ずんだシミが付着していた。泥ではない。それは、乾いてひび割れた『血』だった。
「お父さん、ここで何かあったんだ……」
「血が出てる……」
「どうしよう、アキ……」
「お父さん……!」
マコはライターを胸に抱きしめ、堰を切ったように泣き崩れた。
私はそんな彼女の背中に腕を回し、自分の胸に深く抱き寄せた。彼女の嗚咽が私の鎖骨を震わせ、温かい涙が私のシャツを濡らしていく。
「大丈夫、大丈夫だよ、マコ。」
「私がいるから。」
「絶対に見つけ出そうね」
私は優しく彼女の髪を撫でながら、心の中で狂おしいほどの喜びを噛み締めていた。
これで、マコはもう後戻りできない。
血のついたライターという決定的な証拠が、彼女をこの狂気の探索に完全に縛り付けたのだ。
そしてそれは同時に、彼女が永遠に私から離れられないことを意味していた。
*
「あのライターを見つけた時、私、本当はもうダメかもしれないって思ったんだ」
密室の現在。
マコは私の胸に寄りかかったまま、静かに語る。
「でも、アキが抱きしめてくれたから。」
「アキの匂いがして、アキの体温があったから、私、壊れずに済んだの」
彼女の冷たい指先が、私のシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。
あらわになった私の鎖骨に、彼女の氷のように冷たい唇がそっと触れた。
「マコ……」
私は低く掠れた声で彼女の名前を呼び、その華奢な肩を強く抱きしめ返した。
彼女の唇が触れた場所から、痛いほどの冷たさが広がっていく。
それは生者の温もりとは対極にあるはずなのに、今の私にはどんな熱よりも甘く、官能的に感じられた。
「あの神社の後……私たちが次に向かった場所、覚えてる?」
マコが、私の首筋に顔を埋めたまま囁く。
「……廃工場だね。お父さんのノートの暗号を解いて、見つけた場所」
「そう。あの夜も、すごく暑かったよね。……でも、すごく、楽しかった」
マコの言葉に、私は深く頷いた。
そうだ。
あの夜から、私たちの関係は、甘美になり始めたのだ。
暗号解読という名目のもと、マコの部屋のベッドで過ごしたあの熱帯夜の記憶が、私の脳裏に鮮やかに蘇ってきた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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