第1話:静かな部屋と消えた父親
雨音が、世界から私たちだけを切り離してくれたみたいだった。
薄暗く狭いこの部屋には、窓がない。
あるいは、分厚いカーテンで完全に塞がれているのかもしれない。
光源は部屋の隅に置かれた古びたランプだけで、頼りないオレンジ色の光が、私たちの重なり合う影を壁に長く引き伸ばしている。
しとしとと降り続く雨の音だけが、絶え間なく鼓膜を打ち、ここがまだ現実の地続きであることを辛うじて教えてくれた。
「ねえ、アキ。聞いてる?」
甘く、どこか湿り気を帯びた声が耳元を掠める。
マコだ。
私たちは今、狭いベッドの上で互いの膝が触れ合うほど身を寄せ合って座っている。
彼女の細い肩が私の胸元に寄りかかり、そこから伝わってくるわずかな体温が、冷え切った私の皮膚をじわじわと侵食していく。
「聞いてるよ、マコ」
私は彼女の滑らかな黒髪にそっと触れた。
指先に絡みつく髪の感触は、濡れた絹のようにしっとりとしている。
そこからふわりと漂う、彼女特有の甘い匂い。汗と、いつものシャンプーと、それにほんの少しの土のような、鉄のような匂いが混ざった不思議な香り。
私は無意識のうちに深く息を吸い込み、その匂いを肺の奥底まで刻み込もうとした。
マコのうなじには、うっすらと汗の粒が光っていた。
ランプの光を反射して白く浮かび上がるその後れ毛を、舌先でなぞってしまいたい衝動に駆られる。
喉の奥がカラカラに乾いていた。
マコは私の異常なほどの熱視線に気づいているのかいないのか、ただ虚空を見つめながら、ぽつりぽつりとあの頃の出来事を語り続けている。
「お父さんがいなくなってから、もう何ヶ月経ったかな。警察はただの家出だって取り合ってくれなかったけど……私、最初から分かってた。お父さんは、自分から私たちを捨てたわけじゃないって」
マコが身をすくめるようにして、私の腕にすがりついてくる。
私は彼女の震える背中をゆっくりと撫で下ろしながら、その細い骨の感触を確かめた。
折れてしまいそうなくらい華奢な身体。私がいなければ、明日にも消えてしまいそうな危うさ。
(ああ、なんて愛おしいんだろう)
マコの父親は、フリーのジャーナリストだった。
社会の暗部を暴くような危ない記事ばかり書いていて、敵も多かったらしい。
そんな彼が突然、数ヶ月前にふっつりと姿を消した。
警察の言う「大人の家出」なんて、どう考えたって無理がある。
マコが泣き叫び、警察官にすがりついても、彼らは面倒くさそうに調書を取るだけだった。
あの日の夜、誰もいなくなった暗いリビングで、マコは私にすがりついて泣き崩れた。
「アキ、私、一人ぼっちになっちゃった」と
しゃくり上げる彼女を強く抱きしめながら、私の胸の奥で、どす黒く粘り気のある歓喜が渦を巻いていたのを覚えている。
悲しむ親友を前にして、私は笑い出しそうになる口元を必死に歪めて隠した。
これでいい。
これで、マコを縛り付けていた邪魔な存在が消えた。
これからマコは、私だけを見て、私だけに頼って生きていくしかないのだ。
彼女の絶対的な孤独は、私にとって極上の甘露だった。
「アキがいてくれて、本当によかった。」
「アキがいなかったら、私、どうなっていたか分からない」
現在。
マコは私を見上げて、潤んだ瞳でそう微笑む。
彼女の唇は、熱を帯びて少し赤く腫れているように見えた。私はその唇に指の腹を這わせ、彼女の言葉を塞ぐように強く押し付けた。
「私もだよ、マコ。」
「あなたさえいれば、私は大丈夫だよ。」
それは紛れもない本心だった。
私はマコのためなら、なんだってできる。
彼女のすべてをこの腕の中に閉じ込めるためなら、どんな暗闇にだって一緒に落ちていける。
「……でも、あの日、お父さんの書斎に入らなければ。赤いノートなんて、見つけなければよかったのかな」
マコがふと視線を落とし、後悔を滲ませた声で呟いた。
私は彼女のあごを軽く持ち上げ、もう一度私を見つめさせる。
「そんなことない。私たち、あそこから始まったじゃない」
雨音が少しだけ強くなった気がした。
部屋の温度が上がり、私たちを包む空気がひどく淀んでいく。
記憶の蓋がゆっくりと開き、私はあの夏の蒸し暑い日のことを鮮明に思い出した。
マコの父親が失踪してから一ヶ月が過ぎた頃。
うだるような夏の午後だった。
私たちは、警察が見放した父親の行方を探すため、彼が仕事部屋として使っていた書斎をこっそりと物色することにした。
カーテンが閉め切られた書斎は、じっとりとした熱気と、古い紙とヤニの匂いが充満していた。エアコンはとっくに切られており、室内の空気は澱みきっていた。
「何か、手がかりになるようなもの……」
マコは汗ばんだ額を拭いながら、乱雑に積まれた資料や本をひっくり返していた。
彼女の着ている薄手の白いブラウスが汗で肌に張り付き、背中のラインや下着の透け具合が露わになっている。
私は手伝うふりをしながら、彼女の無防備な身体の動きをじっと目で追っていた。
引き出しを開けるたび、マコからふわりと甘い匂いが漂ってくる。
私は息を殺し、彼女の背後に忍び寄るようにして近づいた。
「どう? 何か見つかった?」
わざと耳元で囁くと、マコはびくっと肩を揺らし、振り返った。私たちの顔が、キスできそうなほど近づく。
マコの呼吸が浅く、荒くなっているのが分かった。
恐怖と緊張によるものなのか、それとも……。
「ううん、ダメ。何もない。パソコンもパスワードがかかってて見られないし」
彼女の潤んだ瞳が私を射抜く。私は彼女の腰にそっと手を回し、引き寄せた。
「焦らないで。私が一緒に探すから」
マコの体温は異常なほど高く、私の手に伝わる熱が、下腹部のあたりを熱くさせた。
マコは抵抗することなく、むしろ私に寄りかかるようにして体重を預けてきた。
吊り橋効果というやつだろうか。
得体の知れない事件の渦中にいるという極度の緊張感が、私たちの間の境界線をあっさりと溶かしていた。
私たちは狭い机の前に並んで座り、一番下の引き出しに手をかけた。
そこだけが、なぜか頑丈な鍵で閉ざされていた。
「これ……鍵がかかってる」
「壊そう」
私は迷わずそう言った。
マコの父親のことなどどうでもよかった。
ただ、この密室の中で、マコと「いけないこと」を共有しているという事実だけが、私をひどく興奮させていた。
私は部屋の隅にあった重いペーパーナイフを手に取り、引き出しの隙間にねじ込んだ。
何度か強引にこじ開けようとすると、バキッという鈍い音とともに、安っぽい錠前が壊れた。
引き出しを引く。
中には、ホコリを被った古いカセットテープや乱雑なメモ帳が詰め込まれていた。
そしてその一番奥底に、それだけが異彩を放つように、ぽつんと置かれているものがあった。
血のように深い、赤い表紙のノート。
マコが震える手でそれを持ち上げた。
ノートは古びており、表紙は手垢と、何かの赤黒いシミで汚れていた。
マコと私の手が重なり合い、ノートを開く。私たちの指先が触れ合うたびに、火花が散るような官能が走った。
ページをめくると、そこには父親の乱暴な字で、びっしりと何かが書き殴られていた。
意味不明な文字列、誰かの名前、そして『儀式』『生贄』『売買』という、およそ日常とはかけ離れた禍々しい単語の数々。
「これ……お父さん、一体何を調べてたの……?」
マコの顔からスッと血の気が引くのが分かった。
彼女は恐怖に震え、ノートを持つ手が小刻みに揺れている。
私はその手の上に自分の手を重ね、ぎゅっと握りしめた。彼女の冷や汗が、私の掌にねっとりと絡みつく。
ページをさらにめくっていくと、最後のページに行き当たった。
そこには、他のページよりも一段と乱れた、筆圧の強い、まるで何かに追われながら書いたような走り書きがあった。
『○○村の奥にある廃神社。』
『あそこには絶対に近づいてはいけない。』
『あれは人間じゃない。見つかれば終わる』
その一文を見た瞬間、部屋の温度が急激に下がったような気がした。
夏の暑さの中だというのに、背筋にぞくりと冷たいものが走る。
誰かに、見られている。そんな根拠のない悪寒が首筋を撫でた。
「アキ……私、怖い」
マコがノートを手放し、私にすがりついてきた。
彼女の腕が私の首に絡みつき、顔を私の胸に埋める。私は歓喜に震えそうになるのを必死に堪え、彼女の背中を強く、強く抱きしめ返した。
「行こう、マコ。この場所を確かめに」
私は、わざと彼女を深淵へと突き落とすような言葉を口にした。
本当なら、ここで引き返すのが正しい大人のやり方だ。危険すぎる。
でも、私は引き返したくなかった。
マコが「父親を探す」という目的に取り憑かれている限り、私は彼女の「唯一の共犯者」でいられる。
彼女の絶望も恐怖も、すべて私だけが独占できるのだ。
「でも、近づいちゃいけないって……」
「大丈夫だよ」
私は彼女の耳たぶを甘噛みするように、ねっとりと囁いた。
「私がずっと一緒だから。マコのことは、私が絶対に守るから。だから、私から離れないでね」
マコは少しの間身をこわばらせたが、やがて私の腕の中で小さく頷いた。彼女の瞳の奥に、狂気と依存の光が灯ったのを、私は見逃さなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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