第3話:ノートの暗号と濡れた背中
「あの夜のこと、思い出すと今でも体が熱くなるの」
ランプの微かな光が揺れる密室。
マコは私の首筋に顔を埋めたまま、甘く掠れた声で囁いた。
彼女の吐息は氷のように冷たいのに、その言葉が私の脳を焼く。
私は彼女の細い腰に腕を回し、自分の身体にきつく密着させた。冷え切ったマコの身体と、私自身の熱を持った身体の境界線が、ゆっくりと溶け合っていくような錯覚に陥る。
「……マコの部屋のエアコン、壊れてたよね」
私が応えると、マコは私の鎖骨に冷たい唇を押し当てながら、くすくすと笑った。
「そう。すごく蒸し暑くて、二人とも汗だくで。」
「……でも、あの日からだよね。」
「私たちが、この関係性になり始めたのは」
彼女の言葉に、私は深く息を吸い込んだ。
マコの冷たい髪から、あの夜のむせ返るような熱気と、シーツに染み込んだ彼女の甘い汗の匂いがフラッシュバックする。
*
廃神社で血のついたライターを見つけてから数日後。
私たちは、マコの自室のベッドの上に腹ばいになり、父親の遺した『赤いノート』と睨み合っていた。
真夏の夜。
不運なことにマコの部屋の古いエアコンは完全に沈黙しており、開け放った窓からは生ぬるい風が入り込むだけだった。
部屋の中は空気が淀み、じっとりとした湿度に包まれていた。
「……全然わからない。」
「この数字の羅列、何かの座標なのかな……それとも、電話番号?」
マコは苛立たしげにノートのページをめくり、鉛筆を投げ出した。
薄いキャミソール一枚の彼女の背中は、玉の汗が浮かび上がって照明を反射している。
肩甲骨のくぼみに溜まった汗の雫が、ゆっくりと背骨の谷間を伝って落ちていくのを、私は喉を鳴らして見つめていた。
「焦らないで。」
「お父さん、誰かに見られてもすぐには分からないように、わざと複雑な暗号にしたんだよ」
私はマコの横に寝転がり、彼女の汗ばんだ肩にそっと触れた。
びくっと彼女の身体が跳ねる。
極度の緊張と疲労で、彼女の神経は限界まで張り詰めていた。
私はその震えを鎮めるように、指先で彼女の背骨を一つ一つ、ゆっくりと、ねっとりとなぞり下ろした。
「アキ……」
「大丈夫。私が解くから」
私の手が腰のあたりまで滑り降りると、マコは小さく吐息を漏らし、私の方へすり寄ってきた。
熱い。彼女の肌から放たれる熱気が、私の理性をじわじわと融解させていく。私は彼女の柔らかい太ももに自分の脚を絡ませ、ノートの文字列をノートの端に書き写し始めた。
暗号自体は、それほど複雑なものではなかった。
五十音表と、父親の書斎にあった特定の辞書のページ数を組み合わせた、単純な換字式暗号。
ただ、それを解き明かすための『鍵』となる単語に気づくのに時間がかかっただけだ。
『あの神社で見たものを思い出して。』
『お父さんは、何かの儀式と、人身売買みたいなことを調べてたんでしょ?』
私がそう言って、いくつかのキーワードを当てはめていくと、意味不明だった文字列が、不気味なほど明確な意味を持ち始めた。
「……隣町の、旧第4化学工場……」
解読された文字列を読み上げたマコの声が、恐怖で震えていた。
隣町にあるその廃工場は、数年前に有害物質の違法投棄で摘発され、今は立ち入り禁止になっている巨大な廃墟だ。
「お父さん、次はここに向かったんだ……」
マコがノートを握りしめる。
その手は白く血の気を失っていた。
私は解読の済んだメモ用紙を退け、マコを背後から抱きしめた。
私の胸に、マコの荒い心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
ドクン、ドクンという早い律動が、たまらなく愛おしい。
「アキ、私……怖い。」
「お父さんが、どんどん遠くに行っちゃうみたいで……」
「それに……」
マコは振り返り、私の胸に顔を埋めた。
彼女の涙と汗が、私のTシャツを濡らしていく。
「それに、最近、見られてる気がするの」
その言葉に、私は内心で冷たい笑みを浮かべた。
気づいていた。
廃神社から帰ってきた翌日から、私たちの周囲に不穏な影がちらつき始めていたことを。
学校の帰り道、少し離れた交差点に停まっている黒いセダン。
コンビニの雑誌コーナーから、こちらを無遠慮に観察している黒い服の男。
あからさまな尾行ではない。
だが、確実に「お前たちを見ているぞ」というプレッシャーを与えるための監視。
父親が追っていたカルト組織か、あるいはその手先か。
私はその事実をマコには黙っていた。
恐怖は、私が彼女を支配するための最高のスパイスだからだ。
「気のせいじゃないよ、マコ」
私はわざと低く、深刻な声で囁いた。
マコの肩がビクッと跳ねる。
「……え?」
「黒い服の男たち。」
「私たち、つけられてる。」
「お父さんのノートを持っていることに、気づかれたのかもしれない」
「嘘……」
「そんな……」
「じゃあ、警察に……!」
パニックになりかけたマコを、私はベッドに押し倒した。
軋むスプリングの音。
マコの怯えた瞳が、私を見上げる。
「ダメだよ、警察は。お父さんのノートに書いてあったじゃない。」
「警察の中にも、あいつらの内通者がいるって。誰が敵か分からないんだよ」
「じゃあ……」
「私、どうすれば……殺されるの……?」
「 お父さんみたいに……っ」
恐怖で錯乱しそうになるマコの両腕を掴み、私は彼女の上に完全に覆い被さった。
お互いの汗ばんだ肌が密着し、逃げ場のない熱が二人の間にこもる。
マコの震える唇から、甘い吐息が漏れた。
「誰も信じちゃダメ。」
「大人も、警察も」
私は彼女の顔に自分の顔を近づけ、その震える唇を塞いだ。
悲鳴を飲み込むような、深いキス。
マコは最初もがいたが、やがて恐怖と絶望から逃れるように、私の背中に腕を回し、すがりついてきた。
生ぬるい唾液と、汗のしょっぱさ、そして涙の味が混ざり合う。
息が詰まるほどの長い口づけの中で、私はマコのすべてを貪り尽くすような衝動に駆られていた。
唇を離すと、マコは熱に浮かされたようなとろんとした目で私を見つめ返した。
吊り橋効果がもたらす極限の恐怖は、すでに彼女の中で、私への狂信的な依存と性的な渇望へとすり替わっている。
「マコを守れるのは、私だけ。マコには、私しかいないの。わかる?」
「……うん……アキだけ……アキだけが、私の味方……」
マコはうわ言のように繰り返し、自ら私の首に腕を絡ませて、再び唇を求めてきた。
その夜、私たちは古いベッドの上で、外の監視者の影に怯えながら、互いの熱い身体を何度も何度も確かめ合った。
恐怖が強ければ強いほど、私たちの繋がりは粘着質に、そして深くなっていった。
世界が敵に回っても、この密室の中で抱き合っている限り、私たちは完璧だった。
*
「あの夜のこと、アキはずっと覚えててくれたんだね」
暗い部屋の中、マコが私のシャツの下に冷たい手を入れて、背中を撫で上げた。
その感触に、私は現実へと引き戻される。
「忘れるわけないよ。マコが私に、全部を預けてくれた夜だもん」
「ふふ……そうね。私、あの時アキに抱きしめられて、不思議と少しも怖くなくなったの」
マコの顔が私の耳元に近づく。死者の冷気が、私の首筋を撫でた。
「あの暗号が示した、廃工場。あそこに行くって決めた時も、アキが一緒だから平気だって、本気で思ってた」
マコの言う通りだ。
私たちはあの熱帯夜の果てに、誰にも頼らず、二人だけで隣町の廃工場へ向かう決断を下したのだ。監視の目を盗み、深夜に家を抜け出して。
「でも、あそこは……あの廃神社よりも、ずっとヤバい場所だったね」
私が呟くと、マコは私の肩に顔を乗せたまま、どこか楽しそうに、そして底冷えするような声で囁いた。
「そうね。だってあそこには、生きた人間だけじゃなくて……もっと恐ろしいものが、たくさんいたんだもの」
雨音の向こうから、あの日の廃工場で聞いた、錆びた鉄の扉が軋む音が聞こえたような気がした。
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