第9話:最後の顔
昼前。
スマホが震える。
表示された名前は、もう見慣れていた。
「……はい」
出る。
間を置かず、声。
『お時間よろしいですか』
いつもの調子。
「……まあ」
短く返す。
わずかな沈黙。
『今回は、警察の現場検証記録に関する確認依頼です』
「……警察?」
自然と聞き返す。
『捜査ではありません』
一拍。
『記録の整合性確認です』
淡々としている。
感情がない。
『自宅内での死亡。事件性は低いと判断されていますが、一部不明点があります』
「……何を見ればいいんですか」
『死亡直前の状況です』
少しだけ間。
『異常行動の有無。第三者の関与。苦痛の程度』
「……」
整理されすぎている。
人の死の話とは思えない。
『可能な範囲で構いません』
「……分かりました」
それ以上は聞かなかった。
聞いても、変わらない。
(間)
現場は、古い住宅だった。
住宅街の中。
どこにでもある家。
だが——
玄関の前だけ、空気が薄い。
人の気配が抜けている。
中に入る。
生活は、そのまま残っていた。
靴。
テーブル。
コップ。
途中で切れた日常。
奥の部屋へ案内される。
人はいない。
代わりに、スーツの男が一人立っていた。
胸元に、金属の光。
一瞬だけ、視線が引っかかる。
バッジ。
形は見慣れない。
だが、ただの会社員ではないことだけは分かる。
「……」
男は軽く会釈する。
「お願いします」
それだけ。
余計な説明はない。
大輔も、頷くだけで返す。
会話は、それで終わる。
部屋。
ベッド。
空気が、わずかに重い。
視界の端に、赤い点。
いくつか。
静かに浮いている。
「……」
近づく。
手を伸ばす。
一瞬だけ、止まる。
——どこまで見る。
それだけが、分からない。
「……」
触れる。
音が戻る。
時計の音。
遠くの生活音。
部屋の中。
ベッドの上に、男。
ゆっくりと動く。
何かを取ろうとして、やめる。
息を吐く。
それだけ。
「……」
時間を進める。
慎重に。
断片が途切れないように。
呼吸が、少しずつ浅くなる。
体が重そうに沈む。
苦しんでいる様子は、ない。
ただ——
力が抜けていく。
目が、閉じかける。
そのとき。
口元が、わずかに動く。
「……」
止める。
視線を寄せる。
小さく。
ほとんど聞こえない。
だが、形は分かる。
名前。
誰かを呼んでいる。
優しく。
確かに。
「……」
一瞬だけ、迷う。
——必要か。
依頼内容を思い出す。
異常行動。
第三者の関与。
苦痛。
どれにも、当てはまらない。
「……」
進める。
呼吸が止まる。
体が動かなくなる。
静かに。
それだけで、終わる。
指を離す。
現実に戻る。
頭の奥に、軽い痛み。
だが、問題はない。
「……」
整理する。
苦痛なし。
異常なし。
第三者——なし。
情報としては、それで十分。
それ以外は。
不要。
部屋を出る。
男がこちらを見る。
「どうでしたか」
短い問い。
「……苦しんではいませんでした」
一度、区切る。
「争いもなし。お一人です」
それだけ言う。
男は小さく頷く。
メモを取る。
「分かりました」
それで終わり。
何も残らない。
感情も。
言葉も。
外に出る。
空気が軽い。
さっきの部屋とは違う。
歩く。
足音だけが響く。
「……」
頭の中で、さっきの映像をなぞる。
静かな最期。
問題はない。
処理は完了している。
——はず。
だが。
「……」
引っかかる。
何かが。
思考の端に残る。
言葉にならない違和感。
「……なんや」
足が止まる。
瞬き。
その瞬間。
浮かぶ。
ベッド。
同じ男。
同じ場面。
だが——
誰かがいる。
視界の端。
立っている。
「……は?」
息が止まる。
瞬き。
消える。
何もない。
ただの道。
「……今の」
理解が追いつかない。
見ていない。
そんなものは、なかった。
確認した。
お一人。
問題なし。
そう判断した。
なのに。
もう一度、浮かぶ。
今度は、はっきり。
呼ばれていた名前。
その相手。
人影。
近づく気配。
手が伸びる。
掴むような動き。
わずかなもつれ。
音はない。
でも、静かに“ぶつかっている”。
「……」
背中に、冷たいものが走る。
削ったはずの情報。
必要ないと判断したもの。
それが——残っている。
いや。
増えている。
「……なんでや」
誰に向けたわけでもない声。
答えはない。
ただ。
頭の奥で、何かがずれている。
見たはずのものと。
残っているものが、違う。
「……」
大輔は立ち尽くす。
何もない空間を見たまま。
整理できないまま。




