第7話:線引き
指定された場所は、駅から少し離れた古い建物だった。
雑居ビルとも、倉庫ともつかない外観。
看板はない。
人の出入りも、ほとんど見えない。
「……ここか」
スマホの地図と見比べて、小さく呟く。
間違ってはいない。
でも——
正しいとも思えない。
そんな場所だった。
入り口の前で、一瞬だけ立ち止まる。
帰ろうと思えば、帰れる。
まだ。
「……」
そのまま扉を開けた。
中は、妙に静かだった。
外の音が遠い。
受付らしいものはない。
代わりに——
奥から、足音が近づいてくる。
「ああ、どうも」
現れたのは、あの男だった。
昨日と同じ、変わらない表情。
どこにでもいそうな顔。
なのに、やっぱり引っかかる。
「……どうも」
短く返す。
それ以上の挨拶はない。
「こちらへ」
男はそれだけ言って、歩き出す。
迷いがない。
慣れた足取り。
大輔は一歩遅れて、ついていく。
通された部屋は、思ったより普通だった。
机と椅子。
白い壁。
窓はあるが、外はよく見えない。
「一つ、確認させてください」
男が言う。
「これから、ある状況を用意します」
「……状況?」
「特別なことは何もありません。自由にしていただいて構いません」
それだけ。
説明はない。
「……分かりました」
納得はしていない。
それでも、頷くしかなかった。
別の部屋。
扉が閉まる。
静寂。
そして——
「……」
一歩踏み込んだ瞬間に、分かる。
空気が違う。
視界の中。
赤い点。
はっきりと、いくつも。
消えない。
机の上に置かれているものを見る。
「……なんでや」
思わず漏れる。
そこにあったのは——
見覚えのあるノート。
角が少し折れている。
表紙の癖。
澪が使っていたものだ。
その横に、写真。
二人で写っている。
あの時の。
まだ、全部が普通だった頃の顔。
そして——
色あせたチラシ。
なんばグランド花月。
行く予定だったやつ。
チッチキチー、と親指を立ててはしゃぐ澪。
結局、行かなかった。
行けなかった。
——あの日、「また今度でええやろ」と流したまま、次は来なかった。
「……」
全部、知っている。
全部、触れれば分かる。
赤い点が、重なるように灯っている。
中身。
記憶。
あの時の会話。
自分の知らなかったことまで。
指が動く。
ノートに、伸びる。
見たい。
知りたい。
知る権利くらい——あるやろ。
その瞬間。
「——もうええって」
澪の声。
はっきりと。
「……っ」
手が止まる。
同じだ。
あの時と。
一歩踏み込めば、戻れなくなる感覚。
「……」
息を吐く。
ゆっくり。
視線を切る。
見ない。
触れない。
「……やめとくわ」
小さく呟く。
それで、終わりだった。
扉が開く。
男が入ってくる。
タイミングが、良すぎる。
「終わりです」
「……は?」
拍子抜けする。
「何か見ましたか?」
「……いや」
見ていない。
それは事実だった。
「そうですか。それで十分です」
あまりにも、あっさりしている。
「……それで、何が分かるんですか」
男は、わずかに間を置く。
「見えることより——」
「見ない選択ができるかどうか」
「そちらの方が重要です」
「……」
言葉が出ない。
分かってしまったから。
「それと」
男が続ける。
「最近、見えるようになってきたでしょう」
一瞬、息が止まる。
「……なんで分かるんですか」
「でしょうね」
あっさりと頷く。
「この時期ですから」
説明はない。
でも、“時期”という言葉だけが残る。
「あなたは適性があります」
初めての、はっきりとした評価。
嬉しくはない。
むしろ、気持ち悪い。
「……落ちたら、どうなってたんですか」
気づけば口にしていた。
男は一瞬だけ目を細める。
「同じ質問をする方は——」
「だいたい通っています」
やはり、答えにはなっていない。
外に出る。
夕方の空気。
さっきより、少しだけ軽い。
「……なんやねん、それ」
結局、何も分かっていない。
でも——
一つだけ、はっきりした。
ここは。
“見えるかどうか”じゃない。
“触れるかどうか”でもない。
“選べるかどうか”を見ている場所だ。
ポケットに手を入れる。
何もない。
でも——
確かに残っている。
線を引かれた。
こちら側と、あちら側。
その境界に、自分は立っている。
完全には踏み込んでいない。
でも、もう外でもない。
視界の端。
赤い点が、微かに揺れる。
大輔は、それを見ない。
そのまま歩き出す。
どこに向かっているのか——
まだ、はっきりとは分からないまま。




