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第6話:踏み込む

 スマホの画面が、暗いまま手の中にある。


 発信ボタンの上に指を置いて、止まる。


 数秒。


 ——いや、もっと長いかもしれない。


 押せば、変わる。


 そう分かっているから、押せない。


 「……アホらし」


 小さく吐き捨てて、親指を離した。


 画面を消す。


 そのままベッドに放り投げて、天井を見る。


 白い天井。


 何もない。


 ——はずなのに。


 視界の端に、何かが引っかかる気がして、目を細める。


 見ない。


 意識的に、無視する。


 「……寝よ」


 そう言って、目を閉じた。


 翌朝。


 スマホの振動で目が覚めた。


 画面を見る。


 未読通知がいくつか並んでいる。


 その中に混じっているのは——


 支払い期限のリマインド。

 催促の文面。

 淡々とした数字。


 「……だる」


 声に出る。


 昨日の“選択”なんて関係なく、


 現実は勝手に進んでくる。


 逃げる隙もなく。


 顔を洗って、適当に服を着て、外に出る。


 朝の空気が、やけに重い。


 現場。


 木の匂いが強い。


 柱。梁。屋根。

 壁のない骨組み。


 柔らかいはずの空間。


 それでも——


 「……っ」


 視界の端に、赤い点。


 前より、はっきりしている。


 一瞬じゃない。


 残る。


 柱の角。

 梁の端。

 空間の、何もないところ。


 点在している。


 「……増えてへんか」


 思わず呟く。


 誰も聞いていない。


 でも、口に出さずにはいられなかった。


 作業に戻る。


 木材を運ぶ。

 釘を打つ。


 単純な動きの繰り返し。


 ——なのに。


 集中できない。


 赤い点が、ちらつく。


 見ていないのに、気になる。


 気にしないようにすると、余計に引っかかる。


 「……くそ」


 手元がズレる。


 カン、と乾いた音。


 釘が曲がる。


 「おい、大輔」


 後ろから声。


 「ぼーっとしてんなよ」


 「あ、すいません」


 慌ててやり直す。


 深呼吸。


 落ち着け。


 ただの疲れや。


 そう言い聞かせる。


 ——その瞬間。


 足場に乗り換える時、バランスを崩した。


 ぐらり、と視界が傾く。


 「っ!」


 一瞬、体が浮く感覚。


 「おい! 危ないぞ!」


 同僚の声。


 腕を掴まれて、引き戻される。


 心臓が跳ねる。


 ドクドクと音がする。


 「……すいません」


 声が、わずかに震える。


 「大丈夫か?」


 「あ、はい……」


 頷く。


 でも——


 分かってる。


 ただのミスじゃない。


 さっき、見えた。


 足場の端に——赤い点。


 そっちに、意識が引っ張られた。


 その一瞬で、足がズレた。


 「……」


 喉の奥が乾く。


 ——このままやと。


 普通に働くことすら、できへん。


 その言葉が、はっきりした形で浮かぶ。


 帰り道。


 夕方の光。


 いつもと同じ道。


 なのに、妙に静かに感じる。


 何も考えないようにしても、


 勝手に思考が戻る。


 ——電話。

 ——あの男。


 あのときの感覚。


 完全に初対面、ではなかった。


 はっきり思い出せるわけじゃない。


 でも——


 “知っている空気”。


 声のトーン。

 間の取り方。

 踏み込み方。


 「……気のせいか」


 呟く。


 自分で否定する。


 でも、引っかかりは消えない。


 ふと、視線の先。


 道路の端。


 測量機を構えている男。


 黙々と、静かに動いている。


 何気ない光景。


 ——なのに。


 一瞬、違和感。


 まっすぐ歩いているようで、


 何かを避けている。


 ほんのわずかに、軌道をずらしている。


 「……」


 足が止まる。


 見ていると、


 男が小さく呟いた。


 「……邪魔やな」


 誰に言ったわけでもない。


 でも、その視線の先。


 何もない空間。


 ——そこに、ある。


 赤い点。


 大輔の背中に、冷たいものが走る。


 (見えてる……?)


 一瞬、声をかけかけて——


 やめた。


 関わる理由がない。


 いや、あるかもしれないけど。


 今は、ないことにしたい。


 そのまま歩き出す。


 振り返らない。


 部屋。


 靴を脱ぎ、そのまま座り込む。


 疲れが重い。


 体じゃない。


 頭の奥。


 視線を上げる。


 壁。


 そこに——


 赤い点。


 はっきりしている。


 今までで、一番長く。


 消えない。


 「……」


 目が、勝手に向く。


 見ないつもりだったのに。


 意識が引っ張られる。


 ——一瞬。


 何かが混じる。


 音。


 足音のような、何か。


 空気の流れ。


 そこに“あった”気配。


 映像まではいかない。


 でも、確実に。


 現実とは違う何か。


 「……っ!」


 頭の奥に、痛み。


 ズキッ、と鋭く走る。


 思わず顔をしかめる。


 こめかみを押さえる。


 呼吸が浅くなる。


 「……戻ってる」


 ぽつりと、言葉が出る。


 否定できない。


 あの状態。


 触れれば、流れ込んでくるあれ。


 それに、近づいている。


 このままやと——


 止められなくなる。


 「……」


 沈黙。


 逃げる方法は、もう一つしかない。


 ——関わる。


 あの男。

 あの話。


 全部は分からない。


 でも——


 知らないまま壊れるよりは、まし。


 そう思ってしまっている自分がいる。


 ポケットから、名刺を取り出す。


 昨日、受け取ったもの。


 白い紙。


 番号だけが、やけに目立つ。


 今度は、目を逸らさない。


 じっと見つめる。


 「……しゃあないか」


 ため息混じりに、言う。


 決意じゃない。


 諦めに近い。


 でも、それで十分やった。


 スマホを手に取る。


 番号を入力する。


 一桁ずつ。


 ゆっくり。


 間違えないように。


 最後の数字を押す。


 発信。


 コール音。


 一回。


 二回。


 ——三回鳴る前に、繋がった。


 「お待ちしていました」


 あの声。


 やっぱり、どこかで聞いたことがある気がする。


 「……会うって言いましたよね」


 短く言う。


 余計なことは言わない。


 「ええ。もちろんです」


 間を置かずに返ってくる。


 「ご都合のいい時間を」


 「……今日でもいいですか」


 「問題ありません」


 あまりにもスムーズすぎる。


 用意されていたみたいに。


 場所と時間が決まる。


 淡々と。


 感情はない。


 でも、拒絶もない。


 通話が終わる。


 スマホを下ろす。


 部屋が、静かになる。


 さっきまでと同じはずなのに、


 少しだけ、違う場所みたいに感じる。


 視界の端。


 赤い点。


 まだ、ある。


 今度は見ない。


 目を逸らす。


 それでも——


 消えていない気がする。


 「……ほんま、最悪やな」


 ベッドに倒れ込む。


 天井を見る。


 何もない。


 何もないはずの場所。


 少しだけ、安心する。


 目を閉じる。


 数秒。


 小さく息を吐く。


 「……まぁええか」


 諦めとも、受け入れともつかない声。


 でも——


 さっきより、少しだけ楽になっている。


 もう、戻れない側に足をかけた。


 それだけは、はっきりしていた。


 ——それでもいいと思ってしまった自分も、


 確かに、そこにいた。

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