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第5話:選びきれない

 朝。


 目が覚めた瞬間、重さが残っていた。


 寝た気がしない。

 身体じゃなく、頭の奥に何かが残っている感じ。


 天井を見たまま、数秒。


 ——昨日のことが、浮かぶ。


 喫茶店。

 あの男。

 名刺。


 「……はぁ」


 息を吐いて、起き上がる。


 考えないようにしても、勝手に残る。


 洗面所で顔を洗う。

 水の冷たさで、少しだけ意識が戻る。


 「……普通でええ」


 小さく呟く。


 それだけ言って、外に出た。


 現場へ向かう道。


 朝の空気はまだ冷えている。


 歩きながら、ふと——


 視界の端に、赤。


 一瞬。


 「……」


 反射的に視線を動かしそうになって、止める。


 見ない。


 そのまま歩く。


 「……無視や」


 口に出して、意識的に切る。


 前より、少しだけ慣れている。


 気のせいじゃないのは分かっている。

 でも、見なければ“起きない”。


 そう決めている。


 現場。


 木の匂いと、湿った土の匂い。


 朝の挨拶が飛び交う。


 「おはようございます」


 返しながら、手袋をはめる。


 いつもの作業。

 いつもの流れ。


 ——のはずなのに。


 微妙に、集中できていない。


 「大輔、それ運んどいて」


 「あ、はい」


 指示通りに動く。


 手は動く。

 身体も問題ない。


 でも、どこか一枚噛み合っていない。


 作業中。


 ふとした瞬間。


 ——赤。


 一つ。


 すぐ消える。


 「……」


 無視。


 続ける。


 また少しして——


 今度は、二つ。


 違う位置。


 一瞬で消える。


 眉が、わずかに動く。


 (……増えてへんか)


 気のせいと言い切るには、揃いすぎている。


 だが、見ない。


 あくまで“端”。


 中心に持ってこない。


 それだけで、まだ保てる。


 木材を運ぶ。

 足場を移動する。


 いつも通りのはずの動作。


 その途中で、わずかに手元が狂う。


 コン、と軽くぶつける音。


 「おい、大丈夫か?」


 「……あ、すいません」


 軽いミス。


 怒られるほどじゃない。


 でも、普段ならやらない。


 「ちゃんと見とけよ」


 「はい」


 返事をしながら、内心で舌打ちする。


 (集中せな)


 分かっている。


 でも——


 さっきから、視界の端がうるさい。


 昼休憩。


 日陰に座り、弁当を開く。


 周りでは雑談。


 「ボーナスどうやった?」


 「いやー、思ったより出てたわ」


 「ええなあ、こっちは全然や」


 笑い声。

 軽い愚痴。


 いつもの光景。


 大輔は無言で食べる。


 (……関係ない話やな)


 同じ現場にいても、立場が違う。


 正社員と日雇い。


 その差は、埋まらない。


 スマホを見る。


 残高。

 仕事の連絡。


 変わっていない。


 「……このままやと無理やな」


 小さく呟く。


 現実の重さは、昨日と何も変わっていない。


 ポケットの中。


 指先が触れる。


 紙の感触。


 ——名刺。


 一瞬、取り出しかけて、やめる。


 (……まだええ)


 見たら、考える。


 考えたら、揺れる。


 だから、触れるだけで止める。


 午後。


 作業再開。


 少しずつ、疲労が溜まる時間帯。


 そのとき——


 赤い点が、一つ。


 今までより、長く残る。


 消えない。


 視界の端に、固定される。


 「……」


 無視、しようとする。


 でも、残る。


 (なんやねん……)


 意識が引っ張られる。


 ほんの少しだけ、視線が寄る。


 その瞬間——


 “音”。


 かすかに。


 誰かの足音のような。


 木を踏む、軽いきしみ。


 「……っ」


 身体が一瞬だけ固まる。


 映像はない。


 でも、“気配”だけが混じる。


 一瞬で消える。


 静寂。


 現場の音に戻る。


 「……」


 息を止めていたことに気づく。


 ゆっくり吐く。


 (……今の)


 戻りかけている。


 完全じゃない。


 でも、明らかに近い。


 こめかみの奥が、じわっと重い。


 軽い頭痛。


 「……やめろって」


 小さく吐き捨てる。


 誰に向けてか、自分でも分からない。


 視線を切る。


 強制的に、作業に戻る。


 帰り道。


 夕方の光。


 身体は疲れているが、それ以上に頭が重い。


 (このまま続くんか……)


 仕事中に支障が出る。


 今日程度ならいい。


 でも、これが増えたら——


 (……終わるな)


 生活と異常が、繋がり始めている。


 ふと、前方。


 道路の向こう側。


 測量機を立てている男。


 静かに動いている。


 何気ない光景。


 ——なのに。


 一瞬、違和感。


 足の運び。

 位置取り。


 まるで——


 “何かを避けている”ような。


 (……なんや)


 少し気になる。


 でも、すぐに視線を外す。


 関わらない。


 それが一番楽だ。


 部屋。


 ドアを閉める。


 静けさ。


 靴を脱ぎ、そのまま床に座る。


 数秒、動かない。


 ポケットに手を入れる。


 名刺を取り出す。


 今度は、見る。


 シンプルな文字。


 名前。番号。


 それだけ。


 余計な情報はない。


 「……」


 指で軽くなぞる。


 昨日の会話が、蘇る。


 ——“あの時、止まりました”


 (……知ってる)


 確信まではいかない。


 でも、完全な他人ではない感覚。


 それが、妙に引っかかる。


 ベッドに腰を下ろす。


 天井を見る。


 「……どうすんねん」


 独り言。


 答えはない。


 怖いのは分かっている。


 関われば、戻る。


 あの状態に。


 それでも——


 (このままも、あかんやろ)


 生活は詰んでいる。


 現場も、このままじゃ続かない。


 頭の奥に残る、あの感覚。


 “見える側”に戻りかけている自分。


 逃げても、完全には消えていない。


 ふと——


 声。


 「もうええって」


 柔らかく。

 近くで。


 大輔は目を閉じる。


 「……分かってる」


 小さく返す。


 本当に分かっている。


 あれ以上は危ない。


 止まった方がいい。


 それは、理解している。


 でも——


 「……でも」


 言葉が、自然に続く。


 目を開ける。


 「……このままも、ええわけちゃうやろ」


 静かに、吐き出す。


 どっちも正しい。

 どっちも間違っている。


 だから——選べない。


 スマホを手に取る。


 名刺の番号を見る。


 指が、少しだけ震える。


 発信ボタンの上で、止まる。


 (……)


 数秒。


 何も押さない。


 ただ、止まる。


 ——選びきれない。


 その状態のまま、


 画面の光だけが、部屋に残る。

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