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第30話:誘い

 現場終わり。


 工具をまとめて、外に出る。


 日が落ちかけている。


 風が少し冷たい。


 いつも通りの帰り道。


 でも――


(……なんや)


 足が止まる。


 視線。


 感じる。


 赤い点じゃない。


 もっとはっきりしたもの。


 “人”の気配。


 振り返る。


 誰もいない。


 でも、消えない。


(おるな)


 歩く方向を変える。


 細い路地へ。


 人気がない。


 音も少ない。


 奥に進む。


 足音だけが響く。


 そのとき。


「久しぶりやな」


 後ろから声。


 振り返る。


 立っている。


 壁にもたれて。


 軽い姿勢。


 でも――


 空気が違う。


 海田。


「……何しに来た」


 短く言う。


 距離は取ったまま。


 海田は笑う。


「挨拶や」


 軽い。


 前と同じ調子。


 でも、目は笑ってない。


 観察している。


 じっと。


「だいぶ締められてるやん」


 一言。


 心臓が一瞬止まる。


「……なんで知ってる」


 声が低くなる。


 海田は肩をすくめる。


「知ってるやつは知ってる」


 曖昧。


 でも、逃げてない。


 確信で言っている。


(どこまで……)


 考えかけて、止まる。


 海田が一歩、近づく。


 距離が縮まる。


「お前、もうズレ始めてるな」


 核心。


 即座に刺す。


「ちゃう」


 反射で返す。


 でも。


 弱い。


 自分でも分かる。


 海田は笑わない。


「見分けついてへんやろ」


 さらに踏み込む。


 言い返せない。


 頭の中に浮かぶ。


 壁の奥の配管。


 触れていないのに流れた手順。


 無理な角度のまま押し込む動き。


 止めてないのに、始まっていた感覚。


 混ざった流れ。


 選べなかった原因。


 口が閉じる。


 沈黙。


 海田は、それを見ている。


「なぁ」


 少しだけ声を落とす。


「楽になりたないか?」


 近い。


 言葉が、やけに静かに入る。


「全部見ればええやん」


 即答。


 迷いがない。


 大輔は目を逸らす。


「……壊れる」


 短く。


 海田は、間を置かない。


「壊れへんやつもおる」


 自分を指すように。


 当たり前みたいに言う。


「止めるからおかしなるんや」


 理屈が逆。


 でも。


 どこか通る。


「中途半端が一番あかん」


 その言葉。


 引っかかる。


(……今の俺や)


 言われなくても分かっていることを、言われる。


 海田はさらに続ける。


「お前、この前の現場でも迷ったやろ」


 一瞬、息が止まる。


(見てたんか……?)


「どっちが正しいか分からんのに」


「適当に選んだ」


 胸の奥に刺さる。


 あの違和感。


 誤魔化した報告。


 全部、思い出す。


 視線が揺れる。


 海田が、少しだけ笑う。


「全部見えたら」


「迷わんで済むで」


 甘い。


 単純で。


 分かりやすい。


 だから、危ない。


「金も、情報も、全部手に入る」


 軽く言う。


 でも現実的な話。


 過去の記憶がよぎる。


 デイトレ。


 数字。


 増えていく残高。


 動画。


 伸びていく再生数。


 あの感覚。


 コントロールしている感覚。


「好きやろ?そういうの」


 見透かした声。


 否定しきれない。


 海田はさらに踏み込む。


「彼女もな——」


 その言葉。


 体が反応する。


 止めるより先に。


「全部知ってたら死なんかったかもな」


 一瞬。


 世界が止まる。


「……やめろ」


 低く。


 絞り出す。


 でも、海田は止まらない。


「知りたないか?」


 近い。


 囁く。


「真実」


 その一言。


 重い。


 澪の顔が浮かぶ。


 あの事故。


 もし。


 全部見えていたら。


 止められたのか。


 違う未来があったのか。


 頭の中で、何かが傾く。


 足が、少しだけ動く。


 前に。


 無意識に。


(……あかん)


 止める。


 歯を食いしばる。


「……いらん」


 低く。


 押し出す。


 はっきりとは言えない。


 でも、拒否。


 海田は、少しだけ目を細める。


 それから、笑う。


「ええやん」


 軽く。


 楽しそうに。


「どうせ来るから」


 断言。


 未来を決めているみたいに。


 背を向ける。


 そのまま歩き出す。


「中途半端、長持ちせえへんで」


 最後の一言。


 振り返らない。


 そのまま、角を曲がる。


 姿が消える。


 気配も消える。


 静かになる。


 大輔は動けない。


 その場に立ったまま。


 呼吸だけが荒い。


(……なんやねん)


 頭の中に、言葉が残る。


 全部見ればいい。


 迷わない。


 楽になる。


 澪。


 真実。


 混ざる。


 視界の端。


 赤い点。


 浮かぶ。


 さっきより濃い。


 触れれば、いける。


 分かる。


 でも。


 手は動かない。


 動かさない。


 目だけが、そこに向く。


「……全部、見たら」


 小さく漏れる。


 一拍。


「ほんまに楽なんか」


 答えはない。


 ただ。


 選ばされる感覚だけが、残っていた。

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