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第3話:足りない

 夕方の空気は、少しだけ冷えていた。


 現場からの帰り道。

 工具袋を片手に、だらだらと歩く。


 足が重い。


 疲れのせいだけじゃない。

 頭の奥に残っている違和感が、抜けきらない。


 「……はぁ」


 小さく息を吐く。


 何も考えたくない。

 考えたら、あれを思い出す。


 赤い点。


 手を伸ばしかけた感覚。

 止めた、自分。


 「……」


 首を振る。


 無理やり思考を切る。


 アパートの階段を上る。

 古びた手すり。軋む音。


 鍵を回して、部屋に入る。


 ——静かだった。


 靴を脱ぐ。

 電気をつける。


 それだけで、やっと一日が終わる気がする。


 荷物を床に置き、そのまま数秒、動かない。


 「……だる」


 声に出して、ようやく体が動く。


 財布を取り出す。


 中身を確認する。


 小銭と、折れた千円札が数枚。

 レシートがぐしゃっと詰まっている。


 「……こんなもんか」


 淡々と呟く。


 分かっていたことだ。


 スマホを開く。


 銀行アプリ。


 残高を確認する。


 ——少ない。


 見慣れた数字。


 でも、見るたびに少しずつ減っている。


 「……」


 画面を閉じる。


 次に、メッセージアプリを開く。


 現場の連絡。


 スクロールする。


 「明日の現場キャンセルになりました」

 「次はまた連絡します」


 「……は?」


 思わず声が出る。


 読み返す。


 変わらない。


 キャンセル。

 未定。


 つまり——


 仕事がない。


 「……はぁ……」


 長く息を吐く。


 スマホを投げるようにベッドに置く。


 何もする気が起きない。


 冷蔵庫を開ける。


 中は、ほとんど空だった。


 コンビニの残り。

 開けかけのペットボトル。


 「……」


 しばらく見つめる。


 閉める。


 また開ける。


 結局、適当に残っていたものを取り出す。


 味なんて分からない。

 腹に入ればいい。


 水を飲もうと、ペットボトルを口に運ぶ。


 その瞬間——


 視界の端に、赤い点。


 「……」


 一瞬、動きが止まる。


 でも——


 そのまま飲む。


 無視する。


 「……今はええ」


 小さく呟く。


 それどころじゃない。

 今は。


 ペットボトルを置く。


 視線を逸らす。


 消えたかどうかは、確認しない。

 したら負ける気がした。


 ベッドに座る。


 スマホが目に入る。


 無意識に手を伸ばす。


 画面を開く。


 写真フォルダ。


 数枚だけ残っている。


 澪との写真。


 特別なものじゃない。


 コンビニの前。

 適当な飯屋。

 どうでもいい日常。


 でも——


 笑っている。


 確かにそこにいた。


 「……」


 しばらく見つめる。


 そのとき。


 「もうええって」


 声が重なる。


 あのときと同じ調子で。

 軽く、笑いながら。


 大輔は、すぐに画面を閉じた。


 見ない。


 これ以上は。


 「……」


 スマホを置く。


 ベッドに背中を預ける。


 天井を見る。


 何もない。


 何も変わってない。


 ——変わってないはずなのに。


 「……このままでええんか」


 ぽつりと漏れる。


 誰に聞くでもない。


 答えなんてない。


 分かっている。


 何も変わってないどころか——


 悪くなっている。


 収入は不安定。

 貯金も減っている。


 このまま続けても、先は見えない。


 そのとき。


 ふと、浮かぶ。


 「あの力あったら……」


 思考が止まる。


 でも、消えない。


 続く。


 過去が見える。

 情報が取れる。


 使い方次第で——


 「……あかん」


 すぐに打ち消す。


 体を起こす。


 そんなこと、考えるな。


 あれが何か、分かっているだろう。


 終わったはずだ。

 終わらせたはずだ。


 それでも——


 完全には消えない。


 部屋の壁に、視線が流れる。


 そこに——


 赤い点。


 うっすらと。


 でも、確かにある。


 「……」


 今までより、長く残っている。


 消えない。


 見てしまう。


 目が離せない。


 その奥で——


 ほんのわずかに、何かが“引っかかる”。


 音のような。

 気配のような。


 再生まではいかない。


 でも、確実に近づいている。


 「……やめろ」


 低く呟く。


 視線を切る。


 無理やり、逸らす。


 スマホが震えた。


 びくっと体が反応する。


 画面を見る。


 通知。


 バイト募集。


 条件を見る。


 安い。時間もきつい。


 「……終わってるな」


 小さく笑う。


 乾いた笑い。


 現実はこれだ。


 選べる立場じゃない。

 でも、選びたくもない。


 画面を閉じる。


 そのとき。


 別の通知が目に入る。


 ——家賃。


 支払い期限、間近。


 「……」


 何も言えない。


 沈黙だけが残る。


 逃げ場がない。


 部屋の中が、やけに狭く感じる。


 天井を見上げる。


 「普通って……こんなんやったっけ」


 ぽつりと呟く。


 答えはない。


 ただ、時間だけが過ぎる。


 そのとき。


 スマホが震えた。


 着信。


 画面を見る。


 ——知らない番号。


 指が止まる。


 取らない。


 しばらく見つめる。


 鳴り続ける。


 切れる。


 静かになる。


 (数秒)


 もう一度、鳴る。


 同じ番号。


 「……」


 画面を見つめる。


 指は動かない。


 でも——


 切らない。


 そのまま。


 鳴り続ける。


 画面の光だけが、部屋の中で揺れていた。

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