第21話:一歩
壁の匂いが、残っていた。
パテ。糊。
乾ききっていない、内装の匂い。
床は張り終わっている。
踏むと、硬さがそのまま返ってくる。
音はある。
道具の音。
話し声。
でも。
どこか薄い。
大輔は、手を動かしていた。
ボードを運ぶ。
合わせる。
言われた通り。
それだけ。
それだけのはずやのに――
(……なんやろな)
噛み合っていない。
手は動いている。
体も反応している。
でも。
意識が遅れる。
自分の動きに、あとからついていく感じ。
「そこ、もうちょい寄せて」
「……はい」
返事は出る。
でも。
頭は、別のところにある。
休憩に入る。
壁にもたれて座る。
スマホを出す。
何気なく、ニュースを開く。
そのまま、止まる。
見出し。
――作業中のクレーン車、横転。
指が動かない。
画面をスクロールする。
場所を見る。
その瞬間。
呼吸が、わずかに止まる。
澪の事故現場と同じ。
あの日の場所。
何度も行った場所。
何度も立ち止まって、
何度も見ようとした場所。
大輔は、そこに通っていた。
理由は一つ。
澪のことが知りたかった。
何が起きたのか。
なぜそうなったのか。
納得できる何かを、探していた。
そのたびに。
点に触れた。
赤い点。
断片。
でも――
決定的なものは、出なかった。
「……またや」
小さく漏れる。
記事を追う。
アウトリガーの設置不良。
地盤の問題。
操作ミス。
どれも、あり得る。
説明としては、通る。
でも。
(……ちゃう気がする)
どこか、引っかかる。
原因は分かる。
でも。
そこに至る流れが、見えていない。
理由はある。
でも、納得はできない。
胸の奥がざわつく。
澪の事故。
最近の事故。
そして――
海田。
繋がりかけている。
点が、線になる。
「……関係、あんのか」
ほとんど音にならない。
頭の中に、声が重なる。
「もうええって」
澪。
「関わるな」
森川。
「管理しろ」
組織。
「使え」
海田。
全部、一度に来る。
どれも間違っていない。
でも。
どれも、自分じゃない。
並べられているだけ。
大輔は目を閉じる。
現場の音が遠くなる。
「……うるさい」
吐き出す。
それだけで、少し静かになる。
思考が残る。
組織。
佐伯。
海田。
どれを選ぶか。
違う。
それは全部、後から置かれたもの。
最初にあるべきものは――
自分。
「……俺が決める」
はっきり言う。
仕事は最後までやった。
急がない。
抜かない。
ただ終わらせる。
それでいい。
現場を出る。
誰にも言わない。
足は止まらない。
向かう先は、決まっている。
近づく。
あの場所。
空気が変わる。
静か。
でも。
落ち着かない。
何かが残っている。
澪の事故現場。
何度も来た場所。
何度も見ようとして、
何も掴めなかった場所。
でも――
今日は違う。
視界の端。
赤い点。
一つじゃない。
複数。
濃い。
偏っている。
大輔は止まる。
息を整える。
そして。
自分から触れる。
映像。
あの日。
クレーンの配置。
地面。
わずかな沈み。
人の動き。
そして――
流れ。
本来なら、選ばない動き。
でも。
自然にそこへ行く。
誘導。
偶然じゃない。
(……やっぱり)
確信に近い。
海田。
もう一度。
触れる。
本来なら、ここで止める。
でも。
止めない。
映像が揺れる。
同じ時間。
同じ場所。
でも。
違う。
倒れる。
倒れない。
いる。
いない。
分岐。
未来みたいなものが混ざる。
頭が痛い。
視界が揺れる。
「もうええって」
声。
澪。
止める声。
一瞬、止まる。
でも。
「……まだや」
進む。
次の瞬間。
切れる。
強制的に。
外から断たれる。
組織か。
海田か。
分からない。
現実に戻る。
足が揺れる。
息が荒い。
でも。
分かる。
見たら、残る。
見たら、影響する。
でも。
見なかったら、分からない。
スマホが震える。
取り出す。
着信。
組織。
海田。
知らない番号。
全部、同時。
数秒。
見る。
そして。
電源を落とす。
顔を上げる。
空。
曖昧な色。
どちらでもない。
「……誰のでもない」
一拍。
「俺のや」
風が動く。
赤い点が揺れる。
大輔は、それを見たまま。
もう、逸らさなかった。




