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第12話:距離

 朝の現場は、まだ空気が湿っていた。


 前日に建て込んだ柱の根元に、うっすらと露が残っている。


 土台の上を歩くと、足袋の裏にわずかな滑りが出る。


 「足元気ぃつけや」


 親方の声に、大輔は軽く手を上げて応じた。


 「はい」


 今日は、間柱の位置出しと、胴縁の墨付け。


 図面は頭に入っている。


 前よりも、手が止まらない。


 柱の芯を拾って、スケールを当てる。


 455、910……リズムで刻む。


 その途中で——


 ふと、違和感。


 (……ズレてるな)


 墨の位置が、ほんの数ミリだけ合わない。


 普通なら誤差で流すレベル。


 でも今日は、妙に引っかかる。


 視界の端に、赤い点が滲む。


 ——触れれば、分かる。


 大輔は一瞬だけ迷って、


 手を止めた。


 (……やめとくか)


 スケールを持ち直し、測り直す。


 今度は、ちゃんと合わせる。


 目と手だけで。


 「……これでええか」


 自分で納得して、次へ進む。


 そのとき。


 少し離れた場所で作業していた男の動きが、目に入った。


 森川だった。


 レーザー墨出し器を置こうとして——


 ほんのわずかに位置をズラした。


 床の上には、何もない。


 障害物もない。


 それでも、避けるように。


 (……今の)


 大輔は思わず見た。


 森川は、何事もなかったかのように機械を固定する。


 だが——


 (避けたよな、今)


 昼前。


 刻みの終わった材を運びながら、大輔は声をかけた。


 「……あの」


 森川がちらっと見る。


 「ん?」


 「それ、避けてましたよね」


 一瞬だけ、空気が止まる。


 森川は目を細める。


 「何の話や」


 とぼけ方が、少しだけ雑だった。


 大輔はそのまま言う。


 「赤い点」


 ——間。


 現場の音が遠くなる。


 釘打ち機の乾いた音だけが、やけに響いた。


 森川は一瞬、大輔を見る。


 目だけで測るように。


 それから、すぐに視線を外す。


 「……何もない」


 短く言う。


 「仕事や」


 それで会話は切れた。


 午後。


 休憩時間。


 材の上に腰掛けて、二人で缶コーヒーを飲む。


 現場の匂い。


 木の粉、汗、少しの油。


 森川がスマホを一度だけ見る。


 画面はすぐに消える。


 それから、大輔を見る。


 「……お前さ」


 少しだけ間。


 「軽いノリで聞いてくるな」


 声は低い。


 「その話、外ですんなって言われてるやろ」


 大輔は何も言えない。


 森川は続ける。


 「俺がそっちじゃなかったら——」


 言いかけて、止める。


 「……やめとけ」


 缶コーヒーを一口飲む。


 何事もなかったかのように。


 しばらくして、森川が口を開いた。


 「どこまでやってるんや」


 大輔は少しだけ迷ってから言う。


 「前は…やったけど……今は、少し」


 森川の手が止まる。


 ほんの一瞬。


 それから、小さく息を吐く。


 「……あー」


 短く、理解した声。


 「めんどいとこやな」


 笑って言う。


 でも、目は笑っていない。


 「森川さんは?」


 「俺は点が見えるだけや」


 「それで終わり?」


 「終わり」


 あっさり。


 「触れへんし、何も起きへん。ただの目印や」


 缶を軽く振る。


 「まあ、仕事にはちょうどええけどな」


 「それで仕事になるんですか」


 「なるで」


 即答。


 そして、少しだけ間を置いて——


 「むしろそれくらいでちょうどええ」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 「……なんでですか」


 森川は肩をすくめる。


 「深く関わるとろくなことない」


 短い。


 それだけ。


 仕事終わり。


 日が落ちきる前の、薄暗い時間。


 森川が声をかけてきた。


 「飯でも行くか」


 近くの居酒屋。


 木のカウンターに、二人並んで座る。


 焼き鳥の煙と、ビールの泡。


 現場の話を少しして、


 どうでもいい雑談をして、


 それから——


 森川がふと聞く。


 「どこまでやってるんや、ほんまは」


 大輔は箸を止める。


 少し考えてから、


 「……触ったら、見える」


 それだけ言う。


 森川の動きが止まる。


 ほんの一瞬。


 それから、息を吐く。


 「ほらな」


 小さく笑う。


 「戻られへんくなるで」


 「仕事になるし」


 反射で言っていた。


 森川は否定しない。


 「まあ、そらそうやな」


 むしろ肯定する。


 だから余計に、言葉が刺さる。


 森川はグラスを置く。


 「でもな」


 少しだけ真面目な声になる。


 「見えるもん全部見なあかんわけちゃうで」


 その一言で、空気が変わる。


 大輔は黙る。


 「見えるのは事実や」


 「でもな」


 森川は続ける。


 「見ないんは選択や」


 シンプルだった。


 でも、逃げ場がない。


 「俺は見えへんから楽や」


 森川は笑う。


 軽く。


 「羨ましいやろ」


 大輔は少しだけ考える。


 「……分からんす」


 正直に言う。


 森川はそれ以上押さない。


 ただ、ぽつりと言う。


 「そのうちな」


 間。


 「見んでも見えるようになるで」


 大輔は、思わず言っていた。


 「……もうなってるかも」


 森川は一瞬だけ黙る。


 それから、苦笑する。


 「ほらな」


 店を出る。


 夜の空気が少し冷たい。


 別れ際。


 森川が軽く手を上げる。


 「無理すんなよ」


 大輔も返す。


 「……そっちも」


 帰り道。


 街灯の下。


 コンクリートの地面。


 視界の端に、赤い点。


 一つ。


 また一つ。


 大輔は、少しだけ立ち止まる。


 (……見るか)


 一瞬、考えて——


 目を逸らす。


 「……全部見る必要、ないか」


 小さく呟く。


 そのまま歩き出す。


 背中に、何かが残る。


 でも振り返らない。

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