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第11話:楽な方へ

 朝の現場は、湿った木の匂いが立っている。


 昨日入ったばかりの土台。


 桧の香りに混じって、土とコンクリの冷たい匂い。


 刻み終わった柱と梁が、ブルーシートの上に整然と並んでいる。


 「大輔、そこ通り見といて」


 「あ、はい」


 差し金を腰袋から抜く。


 墨とレーザーラインを合わせる。


 基準は合っている。


 でも——


 「……ん?」


 違和感。


 土台の上に乗る柱の位置。


 通りが、ほんの数ミリだけ流れている。


 目で見ても分からない。


 でも、差し金を当てたときの“感触”が違う。


 ピタッと来ない。


 「……なんやこれ」


 原因が浮かばない。


 ただ、気持ち悪い。


 そのとき。


 視界の端に、赤い点が滲む。


 土台の角。


 アンカーボルトのあたり。


 触れれば、分かる。


 「……」


 一瞬だけ、手が止まる。


 でも、そのまま。


 自然に触れる。


 ——切り替わる。


 少し前。


 土台据えの工程。


 職人がナットを締める。


  一度だけ、仮締めのまま位置を動かしている。


 そのとき、わずかに芯がズレる。


 ほんの一手。


 締め直しを飛ばしただけ。


 ——戻る。


 「……ああ」


 現実に戻る。


 体感は一瞬。


 でも、全部繋がる。


 「ここ、ちょっと流れてます。さっき動かしたとこ」


 「え?どこや」


 親方が来る。


 差し金を当てる。


 「……あ、ほんまや。これ、このままやったら後で狂うわ」


 ナットを緩めて、叩いて、締め直す。


 「助かったわ」


 軽く言われる。


 それだけ。


 でも、その一言が残る。


 ——早い。


 頭で組み立てるより先に、答えが出る。


 段取りも、確認も、全部飛ばして。


 正解だけを拾う。


 「……早いな」


 小さく呟く。


 そして、すぐに続く感覚。


 ——楽や。


 昼。


 梁の仕口を合わせる。


 ホゾを差し込む。


 コンコン、と木槌で叩く。


 でも、収まりが悪い。


 「……きついな」


 少しだけ浮く。


 ほんの数ミリ。


 削れば入る。


 でも、どこを削るか。


 「……」


 考える前に。


 手が動く。


 梁に触れる。


 ——再生。


 刻みの場面。


 ノミが入る角度。


 一か所だけ浅い。


 ほんの数ミリ。


 それだけで、収まりが変わる。


 ——戻る。


 「ここ、ちょい残ってます」


 「どこや?」


 差し金で当てる。


 「……ああ、ほんまや。よう分かるな」


 ノミで一突き。


 カン、と音が変わる。


 もう一度合わせる。


 スッと入る。


 「……おお、入った」


 周りが、少しざわつく。


 でも、自分の中はもっと静かだった。


 ——分かる。


 触れればいいだけ。


 確認は一瞬。


 迷いがない。


 「……楽やな」


 ぽつりと出る。


 その言葉に、一瞬だけ引っかかる。


 同時に、こめかみの奥が鈍く痛む。


 「……っ」


 軽い頭痛。


 でも、手は止まらない。


 「こんくらいなら……」


 差し金を戻す。


 問題ない。


 この程度なら、何も支障はない。


 数日後。


 呼び出し。


 事務所。


 「現場での使用は控えてください」


 いつもの男。


 無機質な声。


 「……ちょっとだけです」


 軽く返す。


 男は表情を変えない。


 「“ちょっと”が問題になります」


 それ以上は言わない。


 帰り道。


 作業着のまま、コンビニ前。


 「……大げさやろ」


 思わず漏れる。


 危険だの、拡張だの。


 そんなもん、実感がない。


 現場は回ってる。


 むしろ、自分がいる方が早い。


 ミスも減る。


 「……別にええやん」


 夜。


 部屋。


 手のひらを見る。


 昼間、触れた木の感触が残っている気がする。


 ——赤い点。


 天井に浮かぶ。


 前より、少し増えている。


 「……気のせいか」


 目を細める。


 その瞬間。


 ——混じる。


 一瞬だけ。


 知らない現場。


 別の木組み。


 別の音。


 「……今の」


 身体が止まる。


 触れていない。


 何もしていない。


 それでも見えた。


 「……」


 違和感。


 でも、すぐに切る。


 「……気のせいや」


 そう決める。


 そうしないと、面倒になる。


 使っても問題ない。


 役に立ってる。


 誰も困ってない。


 むしろ助かってる。


 ——正しい。


 スマホ。


 振込通知。


 金額が増えている。


 「……」


 最初は、封筒やった。


 手渡しの現金。


 重さがあって、妙に現実やった。


 それが今は——


 数字だけ。


 画面の中。


 「……事務的やな」


 小さく呟く。


 「……普通にやるよりええやん」


 小さく笑う。


 汗かいて、時間かけて。


 それより、ずっと効率がいい。


 正解だけ取ればいい。


 そのとき。


 頭の奥。


 声。


 ——もうええって。


 「……」


 一瞬、止まる。


 「……分かってるって」


 小さく返す。


 でも。


 そのあと。


 口の奥から、本音が漏れる。


 「……でも楽なんや」


 天井。


 赤い点。


 静かに浮かぶ。


 今度は——


 自分から。


 少しだけ意識を向ける。


 触れない。


 でも、覗く。


 ——一瞬。


 刻みの音。


 ノミの入り。


 誰かの手元。


 すぐに消える。


 「……」


 口元が、わずかに緩む。


 止める理由はない。


 まだ、大丈夫や。


 そう思ったまま。


 視線は、赤い点から外れない。

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