第一話「花愛でし迅雷の猛虎」
5月中旬。
早乙女蓮が私の専属サポーターとして『天秤』に正式加入し、『ロータス』というコードネームを与えられてから、約1ヶ月の時間が経過していた。
彼との仕事のコンビネーションは、日を追うごとに洗練され、最適化されていった。
事前のハッキングによる情報収集、現場の監視カメラの掌握、逃走ルートの構築、そして完璧な送迎。私が物理的にターゲットを排除するためのあらゆるお膳立てを、彼はアルファードの車内からモニター越しに完璧にこなしてみせた。
結果として、アリスがメンターとして私の任務に同行する機会は、劇的に減少していた。
私が1人で、いや、ロータスという『拡張された手足』と共に、組織から与えられる任務を滞りなく完遂できるようになったからだ。
アリスと顔を合わせるのは、タワーマンションに遊びに来る時や、事務所で偶然すれ違う時くらいになっていた。彼女がいなくても仕事が回るのは合理的で喜ばしいことのはずだが、少しだけ胸の奥に物足りなさを感じる瞬間があることは、私自身の計算外のバグとして放置していた。
そして、その日の夜。
私とロータスは、アドから直接下された暗殺任務のために、港区のオフィス街へと赴いていた。
標的はたった1人。
裏社会の資金洗浄を請け負い、法網を潜り抜けて私腹を肥やしていた悪徳税理士だ。彼が今夜、自分のオフィスビルで愛人と密会し、同時に違法な裏帳簿のデータ処理を行っているという確かな情報を、ロータスがハッキングで掴み出した。
「ロータス。ビルのセキュリティ状況は?」
私はビルの裏手にある非常階段の影に身を潜めながら、インカム越しに尋ねた。
『メインの防犯システムは既に掌握済みです。警備員は1階のフロントに2人だけ。標的は最上階の10階、社長室にいます。愛人と2人きりですね。廊下のカメラもループ映像に差し替えました』
「了解。3分で終わらせるわ」
『お待ちしています、ピュアさん。裏口の路地で、エンジンをかけて待機しておきます』
ロータスの落ち着いた声を確認し、私は音もなく非常階段を駆け上がった。
10階までの移動は、私の身体能力をもってすれば1分もかからない。息を乱すことなく社長室の前に到着し、ピッキングツールで電子錠の物理的なシリンダーを数秒で解除する。
音を立てずに扉を開けると、広々とした社長室の奥で、標的の初老の男がガウン姿でワイングラスを傾けていた。傍らのソファでは、派手なドレスを着た若い女が眠りこけている。
私はサイレンサーを装着したグロック19を構え、男の死角から滑るように接近した。
「……ん? 誰だお前は——」
男がグラスを下ろし、私の存在に気づいた瞬間。
パシュッ、という乾いた発砲音が1度だけ室内に響いた。
私の放った9ミリ弾は、標的の眉間を寸分の狂いもなく貫き、男の脳幹を完全に破壊した。グラスが床に落ちて砕ける音とともに、男は事切れてデスクに突っ伏す。
ソファで寝ている女は、薬物でもやっているのか、目を覚ます気配すらない。起きた後騒ぎを起こされるのも面倒なので、ついでに殺しておいた。
「標的の沈黙を確認。制圧完了よ」
私は銃のセーフティをかけ、踵を返しながらインカムに向かって告げた。
いつもなら、ここでロータスから『了解しました。裏口でお待ちしています』という安堵の声が返ってくるはずだった。
だが。
『……っ! ピュアさん、逃げっ——! がはっ!!』
インカムの向こうから聞こえてきたのは、ロータスの悲痛な叫び声と、鈍い打撃音だった。
ガチャン、と機材が倒れるような激しい音が響き、複数の男たちの荒々しい怒声が混線する。
『おい、こいつだろ!』
『間違いない! バベルの仇だ! さっさと車ごと出せ!』
そして、ブツン、と無機質なノイズと共に、通信が完全に途絶した。
「……ロータス?」
私は足を止め、インカムのスイッチを何度かタップした。
応答はない。ただ、サーッという静寂のノイズが耳の奥で鳴り響いているだけだ。
私の脳が、急速に状況を演算し始める。
『バベルの仇』。
先ほど通信越しに聞こえた男の声は、間違いなくそう言っていた。
3ヶ月前、私とアリスが殲滅した半グレ集団『バベル』の生き残りか、あるいは彼らの背後にいた『あの方』と呼ばれる黒幕の差し金か。いずれにせよ、彼らは私たちの行動パターンを読み、私がビルに潜入してロータスが1人になるこのタイミングを狙って襲撃を仕掛けてきたのだ。
私は社長室を飛び出し、階段を1段飛ばしで駆け下りた。
1階の裏口を蹴り開け、路地へと飛び出す。
そこには、誰もいなかった。
待機しているはずの黒塗りのアルファードの姿はなく、ただ、アスファルトの上に無残に砕け散ったノートPCの破片と、微かなタイヤの摩擦痕が残されているだけだった。
「……」
私は、その場に立ち尽くした。
移動手段となる車がない。
街の監視カメラにハッキングして敵の逃走ルートを割り出す情報網もない。
そして何より、現場の状況を処理し、私を次の行動へと導いてくれる『サポーター』がいない。
自分の手足を、根元から物理的に切断されたような、強烈な不便さ。
そして、それに次いで湧き上がってきたのは、私の脳髄を焼き尽くすような、どす黒い『不快感』だった。
ここは私のテリトリーではない。外界の薄汚い路地裏だ。
だが、早乙女蓮は私の所有物だ。私の承諾もなく、私の所有物に触れ、あまつさえそれを奪い去るなど、絶対に許されることではない。
私の生活のペースを乱し、私の機能を低下させた彼らに対し、私は明確な殺意を抱いていた。
「……後悔させてあげる」
私は冷徹に呟き、すぐさまスマートフォンを取り出した。
ロータスがアルファードに積んだシステムが無ければ、車両に搭載されたGPSトラッカーの信号を私が直接受信することはできない。ハッキングの技術は私の方が上だが、現場でスマホ1つで即座にトラフィックを追跡するだけの機材が今の私にはない。
ならば、使えるものは全て使う。
私は『天秤』のメンバー全員に通じる、緊急用の共有無線周波数にアクセスした。
「ピュアよ。応答しなさい」
冷たく、感情を殺した声で呼びかける。
「ロータスが乗ったアルファードが、バベルの残党と思われる集団に奪われたわ。現在地は港区の裏路地。私の機動力と情報処理能力が完全にダウンしている。誰でもいい、近くにいる人間は私の『足』になりなさい。今すぐよ」
数秒の沈黙。
深夜の無線は、誰が起きているかもわからない。アドもアリスも電話に出ない。
だが。
『おお!噂に聞いとったピュアちゃんか!』
無線のノイズの奥から、やけに陽気で、場違いなほど軽快な関西弁が飛び込んできた。
『なんや、手足もがれて立ち往生しとるんか? 災難やなぁ。ワイはタイガーや。ちょうど六本木で仕事終わって、暇しとったとこやで』
タイガー。
組織の中で名前だけは聞いたことがある。アドと同年代で、普段は何の仕事をしているのかわからないが、バイクの運転技術と荒事に関しては右に出る者がいないという男だ。
「タイガー。あなたがどこにいようと構わないわ。バイクで来られるのなら、3分以内に私を拾って」
『3ッ分!? 無茶言うなや嬢ちゃん! まあええわ、GPSの信号はこっちで受信したる。アルファードのトラッカーもワイの端末で追えるから安心せぇ。今からぶっ飛ばして向かうさかい、そこ動かんで待っとれよ!』
通信が切れ、私は銃の残弾を確認しながら路地の入り口へと向かった。
約束の3分後。
静かなオフィス街の空気を切り裂くように、腹の底に響くような重低音の排気音が近づいてきた。
コーナーを凄まじいバンク角で曲がり、路地に滑り込んできたのは、漆黒の大型スポーツバイクだった。ヘッドライトの光が私を照らし出す。
バイクに跨っていたのは、派手な虎柄のスカジャンを着た、無精髭の目立つ大柄な男だった。
「待たせたな、ピュアちゃん! 噂に聞いとった通りのどえらいべっぴんさんやなあ!ワイが猛虎のタイガーや! さあ、後ろに乗りぃ!」
タイガーがヘルメットのシールドを上げ、ニカッと白い歯を見せて笑う。
「……随分と派手な保護色ね。暗殺組織の人間とは思えないわ」
「ワイは暗殺やのうて、強襲専門やからな! 細かいことはええ、さっさと乗らんと、お前の可愛い弟分が東京湾に沈められるで!」
「可愛いと思ったことは1度もないわ。でも、私の所有物を傷つけられるのは不快の極みよ」
私は迷うことなくタイガーの背後に跨り、彼の腰に両腕を回してしがみついた。
「ロータスの乗ったアルファードの現在地は?」
「首都高に乗ったみたいやな! 湾岸線方面に向かっとる。追いつくで、舌噛まんようにしっかり捕まっとれよ!」
タイガーがアクセルを煽ると、大型バイクはまるで弾丸のように路地を飛び出した。
凄まじい加速Gが私の身体を後ろに引っ張るが、私は背筋を固定し、タイガーの背中に身体を密着させて風の抵抗を最小限に抑えた。
「おおっ、ピュアちゃん、バイクの乗り方わかっとるやんけ! 体幹バッチリや!」
「物理法則に従って重心を最適化しているだけよ。無駄口を叩く暇があるなら、1秒でも早く追いつきなさい」
「へいへい、辛口やなぁ! ほな、行くでぇ!!」
タイガーのバイクは、深夜の首都高の料金所をETCで突破し、湾岸線へと合流した。
彼の運転技術は、まさに神業だった。
時速200キロを超える猛スピードで、一般車の間を縫うようにスラロームしていく。車体を左右に倒し込むタイミング、アクセルのオンオフ、その全てが完璧に計算され尽くしており、後ろに乗っている私でさえ交通状況以外のの情報を処理する暇がない。
私とロータスが『静の最適化』なら、この男は『動の暴力』の極致だ。
「見えたで! あれや!!」
タイガーが前方を指差した。
直線道路の遥か数百メートル先。真っ黒なスモークガラスで覆われた、見覚えのあるフルサイズワゴン——私のアルファードが、猛スピードで車線を変更しながら逃走していくのが見えた。
「タイガー、右側に寄せて。射線を通すわ」
「おっしゃ! 振り落とされるなよ!」
タイガーがバイクを右車線に振り、アルファードとの距離を1気に詰めていく。
時速200キロの暴風の中で、私はタイガーの腰から片手を離し、右のポケットからグロック19を引き抜いた。
風圧で銃口がブレそうになるが、私は肩と肘の関節を固定し、筋肉の力で反動をねじ伏せる。
「タイヤを撃ち抜いて止めるわ。車体がスピンするから、巻き込まれないように注意して」
「了解や! 派手にやったれ!!」
アルファードとの距離が10メートルにまで縮まった瞬間。
私はバイクのタンデムシートからわずかに腰を浮かせ、アルファードの右後輪に狙いを定めた。
タンッ!!
風の音にかき消されるような乾いた銃声。
私の放った弾丸は、高速回転するアルファードのタイヤのサイドウォールを正確に貫いた。
「うおっ!?」
バーストした右後輪から白煙が上がり、巨体がコントロールを失って左右に激しく蛇行を始める。
運転しているバベルの残党は、巨体を制御する術を知らないのだろう。アルファードはブレーキを引きずりながらスピンし、左側の防音壁に激しく車体を擦り付けながら、火花を散らして停止した。
「タイガー、止めて!」
「オラァッ!!」
タイガーが急ブレーキをかけ、バイクの車体を横に滑らせながらアルファードの斜め後方に停車する。
タイヤが軋む音が鳴り止むより早く、私はバイクから飛び降りていた。
バンッ!
スピンしてひしゃげたアルファードの運転席と助手席のドアが蹴り開けられ、中から3人の男たちがフラフラと這い出してきた。
全員、腕や首にタトゥーを入れた、半グレ特有の粗暴な身なりの男たちだ。手には拳銃やナイフが握られている。
「て、てめえら……! よくも俺たちの仲間を……!」
頭から血を流した男が、私に向けて銃口を上げようとした。
「仲間? 私の記憶領域にあなたたちのデータはないわ。どうでもいい存在だから」
私は一切の容赦なく、そして一切の感情を交えず、トリガーを引いた。
パシュッ、パシュッ!
1発目は男の右手首を粉砕し、銃を弾き飛ばす。2発目は、悲鳴を上げる男の膝の皿を的確に撃ち抜いた。男は「ギャアアアッ!」と絶叫しながらアスファルトに転がり回る。
即死させず苦しむ人間の姿を見るのは久々で、胸の中の不快感が拭われていく感じがした。
「ひぃっ!? 撃ちやがった!」
「ぶっ殺せ!!」
残る2人が私に向かって飛びかかってこようとしたが、私の背後から「オラァッ!!」というタイガーの咆哮が轟いた。
彼はバイクから飛び降りる勢いそのままに、2人の男の懐に飛び込み、強烈な回し蹴りと鉄拳を同時に叩き込んだ。男たちはボールのように吹き飛び、防音壁に激突して白目を剥いて気絶する。
「……手出しは無用よ、タイガー。彼らは私が処理するの」
「ええやんけ、ちょっとはワイにもええとこ見せさせろや! それより、お前の弟分が無事か確認したれや」
タイガーが気絶した男の首根っこを掴みながら笑う。
私は彼を無視し、アルファードの後部座席のスライドドアを強引に引き開けた。
「……うぅ……ピュア、さん……?」
キャプテンシートの間に転がされていた蓮が、呻き声を上げて顔を上げた。
彼は両手をインシュロックで後ろ手に縛られ、額からは1筋の血が流れていた。頬も腫れ上がり、何度か殴られた痕跡がある。
だが、命に別状はないようだ。
「……私の車をこんなに傷だらけにして、あなたまでボロボロになるなんて。本当に、サポーターとして無能ね」
私は冷たい声で言い放ちながら、ポケットから取り出したタクティカルナイフで、彼の手首を縛っていたインシュロックを切り飛ばした。
「す、すみません……。俺、油断してて……背後から、スタンガンでやられました……」
蓮はフラフラと立ち上がり、自分の情けなさに涙目になっていた。
「まあ、生きていたのだから良しとするわ。私の所有物が勝手に壊れるのは、非常に不快だから」
「……はい。ご心配、おかけしました……」
「心配などしていないわ。あなたがいないと私の機能が低下するから、回収しに来ただけよ」
私は彼を冷たく突き放したが、彼が無事であることを確認した瞬間、私の胸の奥に渦巻いていたどす黒い不快感は、嘘のように綺麗に消え去っていた。
「おいおい、ピュアちゃん。助けに来といてその言い草はないやろ。ツンデレっちゅうやつか?」
タイガーが後ろから茶化すように口を挟む。
「黙りなさい。それより、このゴミたち、生きているなら、アドに尋問させれば『あの方』の尻尾を掴めるかもしれないわ」
「せやな。しかし、この車、自走は無理そうやな。レッカー呼ばんとあかんのちゃう?」
無惨にひしゃげたアルファードと、気絶したバベルの残党3人が転がるアスファルトの上で、私は冷たい潮風を肺いっぱいに吸い込んだ。
「そうね、でも、まあ車は新しく買えば良いから」
私はスマートフォンを取り出し、シンへと連絡を入れた。
コールは数回で繋がり、状況を簡潔に伝えると、彼は「また派手にやったな……すぐに向かわせる」とだけ答えて通信を切った。現場の隠蔽と車両の回収、そして生け捕りにした残党の尋問は、彼ら処理班の専門分野だ。私がこれ以上ここに留まる合理的な理由はない。
「タイガー。あなたはロータスを乗せて、霞ヶ関の事務所へ向かってちょうだい。診療所でダメージチェックをさせる必要があるわ」
「おっしゃ、任せとけ! ほな、ロータス。ワイの背中にしっかり捕まっとれよ!」
「は、はい……ありがとうございます、タイガーさん……」
タイガーの漆黒の大型スポーツバイクのタンデムシートに、フラフラの蓮が跨る。彼は頭部を打撃されており、脳震盪の疑いがあった。このまま私の足手まといになられては困るため、早急な医療メンテナンスが必須だった。
「ピュアさんはどうするんですか……?」
ヘルメットを被りながら、蓮が不安げな声で私に尋ねてくる。
「私はシンが来るのを待って、彼の車で1度家へ帰るわ。バイクに乗ったせいで髪がバサバサ、帰って1度シャワーを浴びたら拾いに行くわ」
「お迎えに……。すみません、俺のせいで余計な手間を……」
「本当にそう思うなら、次はスタンガン程度で気絶するような隙を見せないことね。サポーターの機能停止は、私の生存確率を著しく低下させるエラーよ」
私が冷徹に釘を刺すと、蓮は申し訳なさそうに肩をすくめた。
タイガーが「ほな、先行くで!」と豪快に笑い、バイクのエンジンを咆哮させて、2人は凄まじい加速と共に夜の闇へと消えていった。
程なくしてシンの乗る偽装バンが到着し、私は現場を彼らに引き継いでタワーマンションへと帰還した。
シャワーを浴びて硝煙と血の匂いを完璧に洗い流し、髪を整え黒のレザージャケットに着替える。空中ガレージのエレベーターを下ろし、漆黒のポルシェのエンジンを目覚めさせた。
アクセルを踏み込み、私は蓮を回収するため、霞ヶ関の事務所へと車を走らせた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
午前2時半。
霞ヶ関のオフィスビルの地下に隠された、組織の専用駐車場。
厳重なセキュリティゲートを抜け、指定の駐車スペースにポルシェを滑り込ませた私の目に、見覚えのある虎柄のスカジャンが飛び込んできた。
タイガーだった。
彼は自分の乗ってきた漆黒の大型バイクのシートに腰掛け、美味そうに煙草を吹かしている。
「お、ピュアちゃん。わざわざそないえー車で迎えに来たんか。弟思いやな」
「勘違いしないで。私の手足を回収しに来ただけよ。放置しておけば、明日の朝食の準備に支障が出るから」
私が車を降りて近づくと、タイガーは「ガハハ!」と豪快に笑い、携帯灰皿に吸い殻を押し付けた。
「ロータスの坊主なら、今、裏の診療所でセンセに診てもろとるわ。頭を少し小突かれた程度で、骨にも異常はないみたいやから安心せぇ」
「そう。ならいいわ」
私は彼への労いの言葉を省き、彼の背後にある機材——先ほど私と蓮を乗せて首都高を爆走した、漆黒の大型スポーツバイクへと視線を移した。
フルカウルに覆われた流線型のボディ。獲物を狙う猛禽類のような鋭いフロントフェイス。サイドカウルには『Ninja H2』というエンブレムが鈍く光っている。
私はゆっくりと近づき、その車体を物理的、かつ工学的な視点でスキャンするように見つめた。
「……タイガー。少し、教えてちょうだい」
「ん? なんや、ワイの愛車に興味あるんか?」
「ええ。非常に論理的な疑問があるの」
私はポルシェの方を指差し、言葉を続けた。
「私のあのポルシェは、4000万円以上する最新のクーペよ。3リッターの水平対向6気筒ツインターボエンジンを搭載し、最高出力は優に400馬力を超える。4輪の広大な接地面積と、最新のトラクションコントロールの恩恵を受け、極めて効率的にアスファルトを蹴り飛ばすことができるわ」
「せやな。スーパーカーっちゅうやつや」
「対して、あなたのその2輪車。物理的なエンジンブロックのサイズから計算して、排気量はせいぜい1000ccから1400cc程度。馬力も200馬力前後のはずよ。4輪車に比べてタイヤの接地面積は圧倒的に少なく、空力特性においてもドライバーの身体が剥き出しになっている分、空気抵抗(Cd値)で不利になる」
私は彼の目を見据え、核心を突いた。
「それなのに、なぜあなたはあんな圧倒的なスピードでアルファードに追いつき、私の動体視力でも捉えるのが難しいほどの異常な加速を実現できたの? 4輪車と2輪車、物理的にどちらが優位に立てるか、私の計算式では4輪の圧勝になるはずなのに」
私は施設にいた頃、車両工学の専門書を読み漁ったが、それは主に4輪自動車の構造と力学に関するものだった。2輪車というジャンルは、転倒リスクが高く非合理的だという先入観から、意図的に学習データから除外していたのだ。
だからこそ、先ほどの首都高でのタイガーのバイクの機動力は、私の物理法則の計算式を根本から覆すほどの衝撃だった。
私の疑問を聞いたタイガーは、呆れたようにポカンと口を開け、それから腹を抱えて大爆笑した。
「ガハハハハッ!! ピュアちゃん、頭ええのにそんなんも知らんのか! 理屈っぽく語っとるけど、答えはめっちゃシンプルやで!」
「シンプル? どういうこと?」
「『パワーウェイトレシオ』や」
タイガーが自信満々に人差し指を立てた。
パワーウェイトレシオ。出力重量比。車両の重量を、エンジンの最高出力(馬力)で割った数値のことだ。数字が小さければ小さいほど、1馬力あたりが負担する重量が少なくなり、加速性能が向上する。
「ええ、知っているわ。車重を馬力で割る計算式ね」
「せや。嬢ちゃんのポルシェ、車重はなんぼや?」
「約1500キロよ」
「で、馬力が400馬力ちょい。パワーウェイトレシオは、1馬力あたり約3.7キロってとこやな。4輪の中じゃバケモンみたいな加速やろ」
タイガーは自分のバイクのタンクをバンバンと叩いた。
「でもな、ワイのこの『H2』はちょっと違うんや。車重はたったの230キロ。そこにスーパーチャージャーっちゅう過給機をぶち込んだ998ccのエンジン積んどる。最高出力は、231馬力や」
「230キロで、231馬力……!?」
「せや! パワーウェイトレシオは1キロを切る! 0.99キロや!!」
その数値を耳にした瞬間、私の脳内でスパークが起きた。
物理の基本法則であるニュートンの運動方程式、$F=ma$(力=質量×加速度)。
質量($m$)が極端に小さければ、同じ力($F$)でも加速度($a$)は圧倒的に大きくなる。
4輪車は、居住性や安全性、空調設備や音響システムといった、走るため以外の『無駄な装甲』を大量に積んでいる。だからどうしても車重が1000キロを優に超えてしまう。
だが、この2輪車はどうだ。
居住性も安全性も完全に投げ捨て、エンジンにタイヤを2つ付け、人間が直接その爆発力に跨って操作するだけの、極限まで無駄を削ぎ落とした『走るためだけの物理的暴力』の結晶だ。
パワーウェイトレシオが1kg/PSを切る4輪車を作ろうと思えば、数億円のフォーミュラカーでも持ち出さない限り不可能だ。それが、この2輪の機体ならば実現できているという事実。
「……4輪車の何分の1のコストで、物理法則の限界に迫る加速力を手に入れているというの……」
私が感嘆の声を漏らすと、タイガーはさらにニヤリと笑った。
「それに加速だけやないで。4輪は渋滞にハマったらただの鉄の箱や。逃げるにせよ追うにせよ、前が詰まったら終わりやろ? でもバイクなら、どんな狭い隙間でもすり抜けていける。東京みたいな狭いコンクリートジャングルじゃ、2輪の絶対的な『機動力』に勝るもんはあらへんのや」
その言葉は、私の脳髄に雷のような衝撃を与えた。
圧倒的な加速力。そして、地形や渋滞という外界の不確定なノイズに一切縛られない究極の機動力。
それは、あらゆる不快なエラーから自由になりたい私にとって、そして殺し屋という職業において、最も合理的で完璧なツールではないか。
「……素晴らしいわ」
私はタイガーのバイクの流線型のカウルにそっと触れた。
冷たい金属とカーボンの感触。その奥に眠る、圧倒的な爆発力を秘めた内燃機関。
「徹底的に無駄を削ぎ落とし、ただ前へ進むことだけに特化した機能美。これこそ、私が求める究極の物理的ソリューションよ」
「おっ、なんやピュアちゃん、バイクに惚れたか? 乗ってみるか?」
「ええ。これが必要だと計算できた以上、手に入れない理由はないわ」
私の目が、新たな知識と機能拡張への欲求で輝き始めた。
その時。
地下駐車場の奥にあるエレベーターの扉が開き、頭に白い包帯を巻いた蓮が、足を引きずりながら姿を現した。
「あ……ピュアさん……迎えに来てくれたんですね……」
蓮は私の姿を見ると、ほっとしたような、しかし自分の失態を恥じるような、情けない表情を浮かべた。
「ええ。あなたがいないと私の生活のペースが乱れるから。それに、アルファードが修理に出ている間、私の足代わりが必要でしょ」
「すみません……俺が油断したばかりに、車まで大破させてしまって……」
「過ぎたエラーを悔やむのは非合理的よ。次は改善しなさい」
私が淡々と告げると、蓮は「はい……」と深く頭を下げた。
「ところで、蓮」
「はい?」
「アルファードの修理が終わったら、あなたには次のタスクが待っているわ」
私はタイガーのバイクから手を離し、蓮の顔を真っ直ぐに見据えた。
「え……次のタスク、ですか?」
「ええ。教習所よ」
「……はい?」
「次は、大型2輪免許を取得しなさい」
その瞬間。
蓮の顔から、再びスッと血の気が引いた。
「は……? 2輪……バイク、ですか!?」
「そうよ。私も乗るわ。4輪の居住性や積載能力も捨てがたいけれど、東京という閉鎖空間で最速の機動力を手に入れるためには、2輪車という物理的ソリューションが不可欠だと計算できたから。これからは、あなたには4輪だけでなく、バイクの運転とメンテナンスもしてもらうわ」
「また、あの地獄の教習所に……!?」
蓮は頭を抱え、その場に膝から崩れ落ちた。
「嘘でしょ……俺、ついこないだ普通免許と大型免許で地獄を見たばっかりなのに……! しかも2輪なんて、自転車すら怪しいのに、あんな重い鉄の塊を2つのタイヤで転がすなんて絶対に無理です!! 死にます!!」
「死なせないわよ。バランス感覚は物理法則の応用よ。倒れる前にアクセルを開ければ、タイヤのジャイロ効果とキャスターアクションによって車体は自立するわ。遠心力と重力のベクトルを計算すれば、転倒する方が難しいくらいよ」
「そういう理屈の問題じゃないんですぅぅぅっ!!」
頭を抱えて絶望の淵に沈む蓮を見て、タイガーが「ガハハハハッ!!」と地下駐車場に響き渡る大爆笑を上げた。
「ピュアちゃん、ホンマおもろい姉ちゃんやな! ロータス、気張れよ! 猛虎の弟分なんやから、バイクくらいビビらんと乗りこなしたれや!」
「タイガーさんまでそんなこと言わないでくださいよぉ……!」
私は泣き言を漏らす蓮を無視し、再びタイガーのバイクを1瞥した。
車重を極限まで削ぎ落とし、エンジン出力に全てを全振りした狂気の乗り物。
パワーウェイトレシオの概念は、私の殺し屋としての在り方にも通じるものがある。無駄な感情や躊躇いを削ぎ落とし、ただ標的を物理的に排除することだけに特化する。
「新しい手足を拡張するわよ、蓮。明日から早速、教習所の手続きをしておくわ」
「鬼……悪魔……」
「合理的と言ってちょうだい」
私の世界は、奪われたものを取り戻すだけでなく、さらなる進化を求めて拡張を続けていく。
漆黒のポルシェの助手席に絶望する蓮を押し込みながら、私はまだ見ぬ『鉄の獣』に跨り、風を切り裂いて走る自分自身の姿を、脳内で完璧にシミュレーションしていた。
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6月上旬。
私の手元には、アドが偽造した『早乙女純玲』名義の運転免許証がある。
そこには普通自動車はおろか、大型自動車、牽引、そして大型自動2輪に至るまで、取得可能な免許の種類が全て埋め尽くされた『フルビット』と呼ばれる状態になっていた。
組織の裏ルートの力を使えば、法的な資格など単なるデータの書き換えに過ぎない。つまり、私は今すぐにでも大型バイクを買って公道を走る法的な権利を有していた。
しかし、私は合理的な計算に基づき、1つの結論に達していた。
「4輪車と違い、2輪車は物理的な『体幹』による重心移動と、ジャイロ効果を身体でコントロールできなければ、ただの鉄の塊に過ぎないわ」
リビングのソファで、私は膝を抱えて絶望している蓮を見下ろしながら宣告した。
「私の脳内には2輪車の構造と運動方程式が完全にインプットされているけれど、それを実際の肉体で出力し、エラーを修正するための『実証実験』が必要よ。よって、私もあなたと1緒に教習所に通うことにしたわ」
「ピュアさんも、ですか……?」
「ええ。知識と実践のすり合わせよ。最も効率よく安全なクローズドコースで、限界挙動を試してくるわ」
私がそう言うと、蓮は少しだけホッとしたような顔をした。自分だけが地獄を見るわけではないという、弱者特有の非合理な安堵感だろう。
だが、私たちの計画を聞きつけた、もう1つの不確定要素が乱入してきたのは、その日の午後のことだった。
「えーっ!! ピュアちゃんと蓮くんでバイクの教習!? なにそれ、ずるい!! 私も行く!!」
タワーマンションに遊びに来ていたアリスが、ポテトチップスを頬張りながら勢いよく立ち上がった。
「アリス。あなたは教習所に通う必要はないわ。移動はあなたのポルシェで事足りているでしょう」
「違うよピュアちゃん! バイクって風を切って走るロマンがあるじゃん! それに、2人だけでお揃いの趣味を持とうとするなんて抜け駆けだよ! メンターの私も混ぜて!」
「趣味じゃないわ。機動力の拡張よ。それに、抜け駆けという概念が全く理解できないのだけれど」
「いいの! アドに頼んで、私の分も教習枠ねじ込んでもらうから!」
アリスは私の反論を完全に無視し、スマートフォンを取り出してアドに電話をかけ始めた。
こうして、何故か私、蓮、アリスの3人で、大型2輪の免許を取得するための教習所通いがスタートすることになったのだ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
教習所での日々は、私たちの個体差が如実に現れる物理的な実験場となった。
まず、蓮。
彼は車重200キロを超える教習用の大型バイクに完全に翻弄されていた。
停止時に車体が少しでも傾けば、その重量を足で支えきれずに「うわぁぁっ!」と情けない声を上げて立ちゴケを繰り返す。引き起こしの訓練では顔を真っ赤にして汗だくになり、1本橋(平均台)ではバランスを崩して何度も落下していた。
「蓮。ニーグリップが甘いわ。太ももでタンクを挟み込み、上半身の力を抜きなさい。視線が落ちているから3半規管の水平感覚が狂ってバランスを崩すのよ」
「は、はいっ! わかってるんですけど、体が言うこと聞かなくて……!」
私がコースの脇から的確なアドバイスを飛ばすも、彼の運動神経の出力がそれに追いついていないようだった。
次に、アリス。
彼女は私のような論理的な計算を一切行わず、完全に『感覚』だけでバイクを乗りこなしていた。
「ひゃっほー! これすっごい楽しい!!」
彼女はスラローム(連続カーブ)を、信じられないほどのバンク角でヒラヒラとクリアしていく。アクセルの開け方が荒々しく、時折後輪が滑りそうになるが、持ち前の人間離れした反射神経で力引くねじ伏せている。
教官が「し、塩見さん! スピード出しすぎです! もっと慎重に!」と青ざめながらメガホンで叫んでいたが、彼女の耳には風の音しか届いていないようだった。
そして、私だ。
私は初日から、自分でも驚くほど完璧にバイクとシンクロしていた。
アクセルワイヤーの遊び、クラッチのミートポイント、ブレーキキャリパーの制動力。数周走っただけで、その機体の物理的な限界値が脳内に完全にマッピングされた。
1本橋では、極低速でのジャイロ効果の低下を、クラッチの半繋がりとリアブレーキの引きずりによってミリ単位で相殺し、規定の10秒どころか、30秒以上かけて微動だにせず渡り切る。
クランクや急制動でも、タイヤの摩擦係数と路面の温度から計算した最適なブレーキ入力を出力し、タイヤを一切ロックさせることなく最短距離で停止してみせた。
「……早乙女さん。あなた、本当にバイクに乗るの初めてですか?」
初老の教官が、私の完璧すぎるライディングを見て呆然と呟いた。
私はヘルメットのシールドを上げ、淡々と答えた。
「ええ。ニュートン力学と摩擦の法則に従えば、車体が転倒する要因を全て排除できるのよ、物理的に失敗する理由がないわ」
「……はあ。理屈はそうかもしれませんが、それを身体で完璧に体現できる人は初めて見ましたよ」
教官は乾いた笑いを漏らし、手元のバインダーに合格のハンコを押し続けた。
こうして、規定の教習時間を終え、私とアリスは無補習でストレートクリア。蓮は何度かの補習と立ちゴケの傷跡を乗り越え、泣きそうになりながらもなんとか卒業検定を突破した。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
6月下旬。
見事に全員が大型2輪の運転資格を得た私たちは、外界の機動力を手に入れるため、都内の高級外車ディーラー巡りを開始した。
タイガーの乗っていた国産のバイクも悪くはないが、私が求めるのは絶対的な機能美と、誰にも舐められない威圧感だ。そして何より、私のお抱えの『財布』であるアリスが「どうせなら外車のカッコいいやつにしようよ!」と主張したため、国産車は候補から外れていた。
最初に訪れたのは、イタリアの至宝と呼ばれるバイクメーカー、『Ducati』のディーラーだった。
ショールームに足を踏み入れた瞬間、私の視覚データは1台の真紅の機体に完全にロックオンされた。
「……これよ」
私が指差したのは、展示台の上で照明を反射し、妖しく輝く1台のスーパーバイクだった。
「おお! ピュアちゃん、お目が高い! 『1299パニガーレs』だね!」
アリスが横から覗き込み、ディーラーのスタッフも嬉しそうに頷いた。
「お客様、素晴らしい選択です。MotoGPという世界最高峰のレース技術をそのまま市販車にフィードバックした、ドゥカティの最高傑作です。排気量1285cc、最高出力は205馬力。そして車体重量は乾燥でわずか166キログラムしかありません」
166キロで、205馬力。
タイガーのバイクをも凌駕する、パワーウェイトレシオ1キログラム以下のバケモノだ。
私はその車体に近づき、徹底的に無駄を削ぎ落とされた流線型のカウル、片持ち式のスイングアーム、そしてフロントに装備されたダウンフォースを発生させるための空力ウイングを観察した。
私のポルシェと同じだ。走るため以外の機能を全て切り捨てた、圧倒的な物理的暴力の結晶。それでいて、イタリアの工学がもたらす芸術的なまでのシンメトリーと美しさを兼ね備えている。
「完璧だわ。私の思考のスピードに、一切のタイムラグなく追従できる機体。これを買うわ」
「お買い上げありがとうございまーす! お会計はこっちのカードで!」
私が決断するや否や、アリスが横からブラックカードをスタッフに差し出した。
相変わらずの札束の暴力だが、私の機動力が向上することは組織の利益になるため、素直に甘んじることにした。
「次は俺の……ですよね」
蓮が少し不安そうに尋ねてきた。
「ええ。あなたは私のサポーターよ。私のパニガーレは速いけれど、積載能力はゼロだわ。あなたが私の代わりに弾薬や通信機材、替えの武器を運搬できるだけのタフな機体が必要になる」
「運搬……俺、また荷物持ちなんですね」
私たちはドゥカティの店舗を後にし、次に向かったのはドイツの質実剛健なメーカー、『BMW Motorrad』のディーラーだった。
私が蓮のために選んだのは、1目でその巨大さに圧倒されるアドベンチャーバイクだった。
「BMW 『R 1200 GS』。これで決まりね」
私が指定したそのバイクは、私のパニガーレのようなスマートな流線型とは対極にあった。
鳥のくちばしのようなフロントフェンダー、巨大な燃料タンク、そして車体の左右と後方に搭載された、合計100リットルを超えるアルミ製の巨大なパニアケース(荷箱)。水平対向2気筒エンジンが車体の左右に大きく張り出し、まるで戦車のような威圧感を放っている。
「で、でかっ……! なんですかこれ、バイクっていうか、2輪の装甲車じゃないですか!?」
「その通りよ。これは世界中のどんな悪路でも走破し、大陸を横断するために作られたタフな機体。そして何より、この巨大なパニアケースには、アサルトライフルを分解して収納し、さらにノートPCや大量の予備弾倉を積載できる。私の『移動武器庫』兼『情報処理端末』として、これ以上の選択肢はないわ」
私がロジカルに解説すると、蓮は巨大な車体を前に膝から崩れ落ちた。
「教習車のバイクよりデカくて重いじゃないですか……。俺、これに乗ってピュアさんの後ろをついていくんですか……?」
「4の5の言わないの。4輪のモーターホームに比べれば、横幅なんて3分の1以下よ。立ちゴケして私の武器を壊したら許さないから」
「ひぃっ……が、がんばります……!」
蓮は涙目になりながらも、自分の新しい相棒となる巨大な鉄の獣に触れた。
これで、私の機動力とサポーターの兵站機能の確保は完了した。
「よし! じゃあ最後は私のバイクだね!」
アリスが目を輝かせて私たちを引っ張っていったのは、アメリカの象徴とも言えるバイクメーカー、『Harley-Davidson』の大型店舗だった。
店内には、メッキパーツをギラギラと輝かせた、巨大で重厚なクルーザータイプのバイクがズラリと並んでいる。
「私、ずっとこれに乗りたかったんだー!」
アリスが駆け寄って抱きついたのは、極太の前後タイヤと、ソリッドなディスクホイール、そして巨大なV型2気筒エンジンを搭載した、圧倒的な存在感を放つ1台だった。
「ハーレーの『ファットボーイ』だよ! めちゃくちゃカッコよくない!?」
「……物理的な合理性から言えば、非常に疑問が残る機体ね」
私はその重々しい車体を見て、冷徹に評価を下した。
「車重は300キロを優に超えているし、サスペンションのストロークも短い。空気抵抗を正面から受ける乗車姿勢で、コーナリングのバンク角も浅い。速く走ることも、悪路を走ることもできない、非効率の塊に見えるけれど」
「ピュアちゃん、バイクはスペックだけじゃないの! ロマンだよ、ロマン! 昔の『ターミネーター2』って映画で、シュワちゃんがこれに乗ってショットガンを片手で回しながら走るシーンがあるんだけど、それがもう最高にクールなの!」
アリスは目をキラキラさせながら、全く論理的ではない理由を熱弁した。
「私はこれに黒のレザージャケットを着て乗るの! ドコドコっていうエンジンの鼓動感を感じながら走るのが、アメリカンの醍醐味なんだから!」
「……まあ、あなたがそれで満足するなら、私が口出しすることではないわ」
私には到底理解できない選択基準だったが、アリスのあの過剰なまでに明るく感情豊かなキャラクターには、この重厚で無骨な鉄の塊が奇妙なほど似合っているように思えた。
こうして、私たちは3者3様の全く異なる特性を持ったバイクを購入した。
イタリアの真紅の剣、Ducati 1299パニガーレs。
ドイツの堅牢な盾、BMW R 1200 GS。
そしてアメリカの重厚な象徴、Harley-Davidson ファットボーイ。
外界での新たな『手足』を手に入れた私たちは、数日後の納車日を心待ちにすることとなった。
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6月下旬。
私のタワーマンションの地下駐車場に、3台のピカピカの大型バイクが並んだ。
私は黒のライダースジャケットに身を包み、真紅のパニガーレのキーを回した。
キュルキュルッというセルの音に続き、ドゥカティ特有の荒々しいV型4気筒の排気音が地下駐車場に轟く。まるで猛獣が目覚めたような、乾いていて暴力的なサウンドだ。
シートに跨り、セパレートハンドルを握ると、自然と深い前傾姿勢になる。車体と身体が完璧に1体化し、私の神経がバイクのタイヤの先まで拡張されたような感覚に陥った。
「ピュアさん、俺のもエンジンかかりました……!」
隣で、蓮が巨大なBMW・R1200GSに跨り、フラフラしながらもなんとか車体を直立させていた。
水平対向エンジンの低い鼓動が響き、アルミパニアケースに詰め込まれた私の予備弾倉とノートPCが微かに音を立てる。彼は完全に私の『動く兵站』として機能する準備を整えていた。
「ひゃっほー! 私のファットボーイも最高! エンジンのドコドコ感がたまらないよ!」
アリスも自分のハーレーダビッドソンに跨り、重低音の3拍子を響かせながらご機嫌な笑顔を浮かべている。
外界での新たな『手足』を手に入れ、私はこの暴力的な機動力をどこで試すべきか、脳内で都内のテストルートを構築し始めていた。
だが、クラッチを繋ごうとしたその瞬間。
私のレザージャケットのポケットで、仕事用のスマートフォンがけたたましく振動した。
ディスプレイに表示されたのは『アド』の文字だ。
「……タイミングが悪いわね」
私は少しだけ眉をひそめ、パニガーレのエンジンを切った。静寂が戻った地下駐車場で、スマートフォンを耳に当てる。
蓮とアリスも、私の様子を見てそれぞれのバイクのエンジンを停止させた。
「私よ。何事?」
『おう、ピュア。新しいオモチャが届いてご機嫌なところ悪いが……お前、なんか忘れてねえか?』
アドの掠れた声が、紫煙を吐き出す音と共に鼓膜を叩いた。
忘れている?
私の脳内ストレージは、過去の記憶や物理的・化学的データを寸分の狂いもなく保持している。記憶の欠落などあり得ない。
「私の脳機能にエラーはないわ。何の話かしら」
『……1ヶ月前、ロータスが攫われた時、お前が首都高でタイガーと一緒に捕まえたバベルの残党の3バカだよ。あいつらの尋問と事後処理の結果、聞きに来てねえだろ』
ああ、なるほど。
私はその言葉を聞いて、あっさりと納得した。
「忘れていたわけではないわ。ただ、あの3人は私にとって『すでに処理が完了したゴミ』だったから、脳内のアクセス優先度を極端に下げていたのよ。事後処理はシンたちの専門分野でしょう? 私からわざわざ結果を催促するほど、非合理的な真似はしないわ」
『……相変わらず可愛げのねえ理屈だな。まあいい、重要事項だから耳の穴かっぽじってよく聞け』
アドの声のトーンが、1段低くなった。
それは彼が『組織の危機』を共有する時の、極めて冷徹で仕事人としての声色だった。
『お前らが以前、渋谷の地下クラブで殲滅した半グレ集団「バベル」。あいつらの構成員たちには、共通して首や腕に奇妙な塔のタトゥーが入っていたのは覚えてるな?』
「ええ。視覚情報として記憶しているわ。彼らが群れを成すための、非合理的な帰属意識の象徴でしょう」
『俺も最初はそう思ってた。ただのチームのシンボルマークだとよ。だが、今回捕まえた3人の尋問と、以前の襲撃で転がってた死体どもをもう1度徹底的に解剖して調べ直した結果、とんでもねえことがわかった』
アドはそこで言葉を区切り、重々しい溜息を吐いた。
『あのタトゥーは、ただのマークじゃねえ。バベルの人間を「識別・管理」するために彫られた、いわば家畜の焼き印だ』
「……焼き印?」
私はオウム返しに尋ねた。
『ああ。タトゥーの染料には、特殊なマイクロチップの粉末のような磁性体が微量に混ぜられていた。外から特定の波長のリーダーを当てれば、そいつがいつ、どこで登録された「誰」なのかがデータベースと照合できるようになっていたんだよ』
「磁性体を混入させたタトゥー……。なるほど、体内埋め込み型のRFIDタグのようなものね。外科手術の手間を省きつつ、構成員を個体認識するための極めて合理的な手段だわ」
私は化学と情報工学の観点から、そのシステムの秀逸さを素直に評価した。
だが、半グレのガキの集まりに過ぎない連中が、そんな高度な生体管理システムを独自に運用できるわけがない。
「それは、明らかに『あの方』と呼ばれる黒幕の技術ね」
『ご名答だ。そして、問題はそれだけじゃねえ』
アドはさらに不気味な事実を突きつけてきた。
『捕まえた3人を地下の独房にぶち込んで尋問を始めたんだが、2日目から異常な禁断症状に苦しみ始めやがった。全身から脂汗を流し、壁に頭を打ち付けて、泡を吹いて狂ったように叫ぶんだ。ただのシャブやコカインの離脱症状じゃねえ。シンが専属医に血液を調べさせたら、見たこともない化学構造の合成薬物が検出された』
「未知の合成薬物……」
『バベルの連中はな、毎日、上の人間から「サプリメント」と称して、そのよくわからない薬を飲まされ続けていたらしい。少しでも組織の命令に逆らったり、逃げようとしたりすれば、その薬の供給が絶たれる』
「……恐怖による支配ではなく、化学的依存による完全な生体ハッキングね」
私はその悪辣で、しかし完璧に理にかなった支配構造に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
薬を与えられなければ、想像を絶する苦痛に苛まれる。
人間は痛みを避けるようにプログラムされている。その薬がなければ生きていけない身体に改造されてしまえば、彼らは命令に背くことなど物理的に不可能になる。
洗脳でもなく、金による買収でもない。脳内の報酬系と苦痛のレセプターを直接コントロールする、極めて純度の高い『暴力』だ。
「つまり、バベルの人間は組織を離れることができなかった。彼らは半グレなどではなく、文字通り薬で操られる『手足』だったということね」
『そういうことだ。だが、本当に厄介なのはここからだぞ、ピュア』
アドはタバコの灰を落とす音を響かせ、決定的な情報を口にした。
『俺たちはバベルを完全に殲滅したと思っていた。だが、今回捕まえた連中の自白や、他の裏ルートの情報を総合すると……バベルは、氷山の1角に過ぎなかった』
「どういうこと?」
『同様のタトゥーを彫られ、同じ薬で縛られている人間は……「バベル」という名前以外の別の組織として、都内や近郊にまだたくさん存在しているんだよ。いくつものダミー組織に分けられ、それぞれが独立して動いているように見せかけているが、根っこは全部同じだ』
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳内で、これまで点在していた情報が1本の太い線として繋がった。
「……なるほど。バベルは単なる1つのテストケース、あるいは無数の駒の1つに過ぎなかった。そして、先日ロータスが襲撃された件も、残党が偶然見つけて復讐してきたわけではないのね」
『ああ。尋問で吐かせたが、ロータスを襲ったあの3人は、「上」——つまり、すべての組織を束ねる「あの方」からの直接の命令で動いていた。お前が仕事でビルに入り、ロータスが1人になる瞬間を狙ってアルファードを奪え、とな』
アドの言葉に、私はスマートフォンを握る手に微かに力を込めた。
復讐ではない。
あれは、私の機能の一部であるロータスをピンポイントで物理的に排除し、私の機動力と情報処理能力を奪うための、極めて冷徹な『戦術的攻撃』だったのだ。
敵は、私たち『天秤』の戦力構造を完璧に分析している。そして、無数にある別のダミー組織の駒を使い捨てにしてでも、私たちを追い詰めようとしている。
『敵の規模は、俺たちが想定していたより遥かにでけえ。「あの方」とやらは、タトゥーと薬で操る私兵の軍隊を、この東京の地下に作り上げている。ロータスの件は、その宣戦布告だ』
「……よくわかったわ、アド。情報の共有に感謝するわ」
『気を引き締めろよ、ピュア。お前らが買ったその新しいバイク、ただのオモチャにしてる暇はなさそうだぞ。いつでも出撃できるようにしておけ』
通話が切れ、地下駐車場に再び静寂が降りた。
「ピュアちゃん、どうしたの? アド、なんて?」
アリスがファットボーイのシートから身を乗り出し、不思議そうに尋ねてきた。
隣のロータスも、私のただならぬ気配を察して、R1200GSのハンドルを握る手をこわばらせている。
「……2人とも、よく聞いて」
私はスマートフォンをポケットにしまい、彼らに向き直った。
そして、アドから聞いた情報を——タトゥーによる個体管理、未知の合成薬物による生体ハッキング、バベルが氷山の1角であること、そしてロータスの拉致が「あの方」からの直接の命令であったことを、淀みなく論理的に説明した。
「そ、そんな……」
事実を知らされたロータスの顔から、さっと血の気が引いた。
「俺が狙われたのは、ただの偶然じゃなかったってことですか……? 敵は、俺たち『天秤』のことを完全にマークしていて、ピュアさんの手足である俺を……意図的に潰そうとした……?」
「そういうことよ。あなたは私の弱点として狙われたの」
「俺のせいで……ピュアさんや組織を、危険に晒してしまった……」
ロータスは巨大なバイクに跨ったまま、うつむいてガタガタと震え始めた。
11歳の子供にとって、姿の見えない巨大な組織から明確な殺意を向けられ、自分がその標的の中心にいるという事実は、処理しきれないほどの恐怖だろう。
「……えげつないやり方だね」
アリスが、普段の明るい声を完全に消し去り、低く冷たいトーンで呟いた。
「薬物で人間の理性を奪って、痛みと依存で奴隷みたいに縛り付けるなんて。そんなの、生きてる意味がない。人間の尊厳を根こそぎ奪う、最低のクズのやることだよ」
アリスの瞳の奥に、仄暗い殺意の炎が灯っているのがわかった。
彼女の『悪』に対する強烈な嫌悪感が、完全にレッドゾーンへと振り切れている。
「でもさ、ピュアちゃん」
アリスは顔を上げ、私を見た。
「敵がいっぱいいるってことは、私たちがいっぱい仕事しなきゃいけないってことだよね? 全部見つけ出して、1人残らずぶっ潰すんでしょ?」
「当然よ」
私は真紅のパニガーレのタンクを軽く撫でながら、冷徹に答えた。
「敵が100人いようが1000人いようが、彼らの肉体が物理法則に従って動く有機有機物であることに変わりはないわ。銃弾を脳幹に撃ち込めば、どんな薬物でドーピングされていようと機能は停止する。私の計算式において、敵の数は単なる『処理時間の延長』でしかないの」
私は震えるロータスの方へ歩み寄り、その頭を無造作にポンと叩いた。
「ひゃっ!?」
「何を怯えているの、ロータス。彼らがあなたを狙ってきたのは、あなたが私にとって『有用な機能』であることを敵が認めた証拠よ」
「え……?」
「あなたがただの無能な居候なら、わざわざリスクを冒して拉致なんてしない。敵があなたを恐れたのよ。だから、あなたはこれからも私の優秀な手足として、堂々と機能し続ければいいの」
私のロジカルな、しかし彼なりの慰めを含んだ言葉に、ロータスは目を丸くし、やがてギュッと唇を噛み締めて大きく頷いた。
「……はい! 俺、絶対にピュアさんの足手まといにはなりません。どこまででもサポートします!」
「当たり前よ」
私は跨っていたバイクから降りる。
「しかし、ここまで私の情報が敵に回っていると思うと、無闇に外を出歩くのも控えた方がいいわ」
「えーっ! せっかく3人で走ろうと思ったのに!」
アリスがファットボーイのシートの上で不満げに唇を尖らせたが、彼女もプロの殺し屋だ。状況の深刻さを理解していないわけではない。
「……まあ、仕方ないか。敵の規模が想定以上に大きいなら、無防備に姿を晒すのはリスクが高すぎるもんね。今日のツーリングは中止! 大人しく家でピザでも頼んで作戦会議しよっか」
「それが合理的な判断ね」
私はパニガーレのキーを抜き、地下駐車場に静寂を取り戻させた。
新しい手足を物理的に稼働させるのは後回しだ。今は何より、この予測不可能な『あの方』という黒幕の襲撃に対する防衛線の構築が急務だった。
エレベーターでタワーマンションの最上階へと戻り、私はリビングのソファに深く腰を下ろした。
アリスが手慣れた様子でデリバリーのピザを注文している横で、私は部屋の隅に直立不動で立っている蓮を冷徹な視線でスキャンした。
「蓮。前に出なさい」
「は、はいっ」
蓮はビクッと肩を揺らし、私の前に進み出た。
「敵があなたをピンポイントで狙ってきたということは、今後も移動中や待機中にあなたが襲撃されるリスクが極めて高いということよ。車の中だからといって、絶対に安全という保証はどこにもなくなったわ」
「……はい」
「あなたは私の手足として機能しているけれど、装甲が薄すぎるの。またスタンガンで背後からやられて拉致されるような隙を見せる機能不全は、2度と許さないわ」
私が鋭く指摘すると、蓮は恥じ入るようにうつむいた。
「すみません……。でも、俺、喧嘩もまともにしたことないですし、格闘技なんて……」
「スポーツとしての格闘技など必要ないわ。あれはルールに守られた競技よ。私があなたに教えるのは、人体という物理的な構造物を、いかに効率よく機能停止させるかという『力学』よ」
「り、力学……ですか?」
「ええ。今日からあなたに、自己防衛のための物理的最適解を脳と肉体にインストールするわ。殺しは私がやるから、あなたはせめて自分の身は自分で守り、相手を鎮圧できるようになりなさい」
私の宣言に、蓮はゴクリと唾を飲み込んだ。
こうして、ただでさえ過酷だった彼のサポーター業務に、さらなる地獄のカリキュラムが追加されることになったのだ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
翌日から、私たちは霞ヶ関の事務所の地下にある『天秤』の専用訓練施設へと通うようになった。
分厚いコンクリートと防音材に囲まれた広大な空間には、射撃レーンや格闘用のマットが完備されている。
「人間の身体は、どれだけ筋肉の鎧を纏っていようと、関節の可動域や神経の集中する急所は鍛えることができないわ」
私はマットの上で、防具をつけた蓮に向かって歩み寄った。
「例えば首。頸動脈洞を正確に圧迫すれば、脳への血流が遮断されてものの数秒でブラックアウトする。膝の靭帯は横からの衝撃に極端に弱い。体重のベクトルを乗せて関節の可動域の逆方向に蹴り抜けば、どんな大男でも物理的に自立できなくなるわ」
「ひぃっ……! そ、それ、相手が死んだり、一生歩けなくなったりしませんか!?」
「死んでも構わないけれど、あなたの一般人としての精神衛生上、人を壊すことに抵抗があるなら、出力を調整しなさい。相手の運動エネルギーを削ぎ落とし、1時的に無力化できればそれでいいわ」
私は彼にゆっくりと掴みかからせ、その力を利用してテコの原理で彼の重心を崩し、マットに叩きつけた。
「ぐえっ!」
「力で対抗しようとするから反発が生まれるのよ。相手の力のベクトルを受け流し、自分の体重を相手の死角となる支点に乗せる。物理法則に従えば、筋力差は簡単に覆せるわ。さあ、立って。もう100回繰り返すわよ」
「ひぃぃぃっ!」
蓮の悲鳴が地下訓練場に響き渡る。
彼は戸籍上は20歳だが、実年齢は11歳だ。いくら発育が良く160センチメートル以上の体格があるとはいえ、骨格も筋肉もまだ完成していない。だが、私が教え込むのは力任せの殴り合いではないため、彼の体格でも十分に再現可能な技術だった。
格闘訓練の次は、射撃訓練だ。
「あなたは人を殺すことに強烈な精神的ブロックがかかっている。それは現状、修正するコストに見合わないから放置するけれど、武器として銃を扱う以上、相手の運動能力を奪うための射撃はマスターしなさい」
私は彼にグロック19を握らせ、15メートル先のターゲットを指差した。
「心臓や頭部を狙う必要はないわ。大腿四頭筋、肩関節、手首。命を奪わなくても、武器を持つ手を破壊したり脚を撃ち抜いたりすれば、相手の機動力と攻撃力はゼロになる。照準を合わせる時間を短縮し、初弾をコンマ5秒以内に放ちつつ反動を肩の筋肉で吸収しなさい」
「は、はいっ!」
蓮は銃の反動にビビりながらも、耳当てをして何百発とトリガーを引き続けた。
硝煙の匂いと、空薬莢が床に転がる乾いた音が響く。
彼の指はマメが潰れて血が滲み、全身は痣だらけになっていた。それでも彼は「俺、やります。ピュアさんの手足として、絶対に足手まといにはなりません」と歯を食いしばり、私が要求する非情なまでの高いハードルに必死に食らいついてきた。
教習所で培った集中力と、妹の命を救われたことに対する彼の底知れぬ忠誠心が、彼の肉体を急速に殺し屋のサポーターとしての形に作り変えていく。
そのプロセスを観察するのは、私にとって非常に興味深く、全く不快ではなかった。むしろ、私がインストールしたデータが彼の肉体を通じて出力され、最適化されていく様子は、1つの完璧な数式が解き明かされていくような心地よさがあった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
それから約3週間後。
7月の中旬。
蓮の動きは、訓練を始めた頃とは見違えるほどに洗練されていた。
無駄な力が抜け、重心の移動が滑らかになり、銃のドローから発砲までのタイムも私の設定した合格ラインをクリアするようになっていた。
完璧な戦闘員には程遠いが、私が標的を始末するまでの時間を稼ぐための『防壁』としては、十分な及第点を与えられる仕上がりだった。
そんな折、アドから私のタブレットに1件の任務依頼が転送されてきた。
「品川区の廃倉庫。塔のタトゥーを持つ男が1人潜伏しているわ」
私はリビングのソファでタブレットをスクロールさせながら、向かいに座る蓮に告げた。
「ダミー組織の1つで、薬物の売買ルートを管理している幹部クラスの男らしいわね。生け捕りにして情報を吐かせたいところだけれど、あの薬物の禁断症状のせいで、捕まると自傷行為に走るかショック死する可能性が高い。だから、男が持っている取引データの入ったハードディスクだけを回収し、男は始末しろというのがアドの命令よ」
「ターゲットは1人、ですね。場所の特定と監視カメラのハッキング、逃走ルートの構築は完了しています」
蓮が手元のノートPCのキーボードを叩き、素早く報告する。
その顔つきには、以前のような怯えは微塵もなく、プロの裏方としての冷静な眼差しが宿っていた。
「上出来よ。でも、今回はあなたにもう1つタスクを追加するわ」
「タスク、ですか?」
「ええ。実地試験よ」
私が冷徹に告げると、蓮はキーボードを叩く手を止めた。
「今回の任務、ターゲットの鎮圧はあなたがやりなさい。私はとどめを刺すだけよ」
「俺が……ですか?」
「そうよ。訓練の成果を実証する物理的テストだわ。相手は薬物で強化されている可能性もあるけれど、1対1ならあなたの今の技術で十分に制圧可能なはずよ。私からのサポートは一切しないわ。できるわね?」
私の厳しい要求に、蓮は1瞬だけ息を呑んだ。
人を殴ることも、銃を向けることも、彼にとっては極度のストレスを伴う行為だ。だが、彼は逃げなかった。
「……はい。やります。ピュアさんの背中を守るための、テストですから」
彼は深く頷き、自分の腰のホルスターにグロック19を差し込んだ。
私はその決意に満ちた表情を見て、小さく口角を上げた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
午後11時。
修理と防弾装甲の強化が完了した黒塗りのアルファードが、品川の運河沿いにある薄暗い廃倉庫の裏手に音もなく停車した。
潮の匂いと、錆びた鉄の匂いが夜風に混ざって鼻腔を突く。
「ピュアさん。ターゲットは2階の奥のプレハブ事務所に1人です。監視カメラの映像では、デスクでノートPCを操作しています。武装は腰の拳銃1丁と、机の上のサバイバルナイフを確認しました」
「了解。行くわよ」
私はアルファードを降り、蓮と共に廃倉庫の非常口へと向かった。
錆びついた鉄扉の鍵をピッキングで解除し、音を立てずに内部へと侵入する。倉庫内は乱雑に木箱が積まれ、埃っぽい空気が漂っていた。
私たちは鉄骨の階段を静かに上り、2階のプレハブ事務所の前に到着した。
私は扉の横に張り付き、蓮に顎で合図を送った。
蓮は大きく深呼吸を1つし、グロック19を両手で構え、勢いよく扉を蹴り破った。
バンッ!!
蝶番がひしゃげる凄まじい音と共に、室内にいたターゲットの男が弾かれたように振り返った。
首元には、報告通り不気味な塔のタトゥーが刻まれている。
「なっ、誰だてめえらっ!?」
男は驚愕に目を見開きながらも、反射的に腰の拳銃に手を伸ばした。
だが、蓮の動きは私の教え通り、極めて合理的だった。
彼は男が銃を抜くよりも早く、自身の銃口を男の足元に向け、躊躇うことなくトリガーを引いた。
パシュッ!!
サイレンサー越しの銃弾が、男の右太ももの外側を掠め、ズボンを切り裂いて肉を抉った。
致命傷には至らないが、強烈な痛みと筋肉の損傷により、男は「グアアッ!」と悲鳴を上げて体勢を崩した。
「動くな! 銃を捨てろ!」
蓮が鋭く叫ぶ。その声は震えておらず、相手を威圧するだけの十分な覇気があった。
だが、相手はただのチンピラではなかった。『あの方』の薬物で脳の報酬系を弄られ、痛覚のストッパーが外れかかっている狂人だ。
「ふざけんなガキィッ!!」
男は太ももから血を流しながらも、異常なアドレナリンの分泌により痛みを無視し、机の上のサバイバルナイフを掴んで蓮に向かって突進してきた。
その踏み込みは常人のそれを超えており、男の体重とナイフの切っ先が蓮の胸元へと迫る。
「っ……!」
蓮は焦らなかった。
彼は私の『力で対抗するな。ベクトルの向きを変えろ』という教えを忠実に守り、後ろに下がるのではなく、あえて男の懐の斜め前方へとステップを踏み込んだ。
ナイフが蓮の頬を数ミリの差で掠める。
その瞬間、蓮は男のナイフを持つ右腕の手首を下から掴み、自身の上半身の回転を利用して、男の腕を外側へと強烈に捻り上げた。
「ガアッ!?」
テコの原理。手首の関節は逆方向への可動域が極めて狭い。男の怪力がどれほどあろうと、物理的な関節の限界を超えることはできない。
男の身体が痛みに耐えかねて不自然に浮き上がった隙を突き、蓮は自分の全体重を落としながら、男の左膝の側面——靭帯の最も脆い部分に向かって、横からの強烈な蹴りを叩き込んだ。
バキィッ!!
鈍く、しかし決定的な骨と靭帯が砕ける音が事務所に響き渡った。
男の左足が不自然な方向へと曲がり、今度こそ彼は完全に支えを失って床へと崩れ落ちた。
ナイフが手から滑り落ち、カランと音を立てる。
蓮はそのまま男をうつ伏せに押さえ込み、右腕を背中側に完全にロックして身動きを封じた。
「ピュアさん! 鎮圧しました!」
蓮が荒い息を吐きながら、私に向かって報告する。
私はゆっくりとプレハブ事務所の中へと足を踏み入れた。
「……80点ね」
私は床で呻き声を上げる男を見下ろし、冷徹な声で評価を下した。
「最初の踏み込みがコンマ2秒遅かったわ。もし相手がナイフではなく銃を撃ってきていたら、被弾していた可能性が高い。けれど、関節の極め方と体重の乗せ方は力学的に完璧だった。合格よ」
「あ……ありがとうございます……っ」
蓮は額の汗を拭い、ホッとしたように安堵の息を吐いた。
彼の目には、人を傷つけてしまったことへの微かな恐怖と、血の匂いに対する嫌悪感が滲んでいたが、それでも彼は私の課したテストを見事に完遂してみせたのだ。
「てめえら……ただで済むと思うなよ……! 『あの方』が……必ずてめえらを……」
床に押さえつけられた男が、血と泡を吹きながら呪詛の言葉を吐き出す。
私はその言葉を最後まで聞くことなく、サイレンサー付きのグロック19を男の側頭部へとピタリと押し当てた。
「あなたのデータは私の記憶領域には不要よ」
パシュッ。
私は一切の感情を交えることなくトリガーを引いた。
男の頭部が跳ね、静かに動きを止める。
私は銃のセーフティをかけ、机の上に置かれていたノートPCと、接続されていたハードディスクを素早く回収した。
「データ回収完了。撤収するわよ、ロータス」
「……はい」
蓮は死体から目を逸らし、少しだけ青ざめた顔で立ち上がった。
アルファードへと戻り、車を発進させる。
深夜の運河沿いの道路を、黒塗りの車体が滑るように走り抜けていく。
「気分が悪いのなら、窓を開けて換気しなさい。血の匂いは脳の扁桃体を刺激して不快感を引き起こすから」
私が後部座席から声をかけると、運転席の蓮は小さく首を横に振った。
「大丈夫です。……俺、やれました。これで少しは、ピュアさんの役に立つ手足になれましたか?」
「ええ。あなたは私の防壁として、十分に機能することを物理的に証明したわ。これからも私のために、その身を捧げなさい」
「はい。命に代えても」
蓮の言葉には、1片の迷いもなかった。
11歳という年齢を考えれば、彼の背負っているものはあまりにも重く、残酷だ。
だが、私にとって彼は、外界で手に入れた最も優秀で、最も私を理解しようとする唯一無二の『所有物』だった。
彼が私のために傷つき、成長していくプロセス。
それは、私の胸の奥にある計算不可能なアルゴリズムを、心地よく満たしてくれる。
「帰ったら、回収したデータの暗号化を解きなさい。『あの方』の尻尾を、今度こそ物理的に叩き潰すわ」
「了解しました、ピュアさん」
アルファードの静かな車内で、私は窓の外を流れる東京の夜景を見つめた。
敵の姿はまだ見えない。だが、私の機動力と攻撃力は、蓮という手足の強化によって確実に1段階上のフェーズへと移行していた。
どんな非合理な暴力が襲いかかってこようとも、私のこの冷徹な論理と物理的破壊力で、全てを完璧に排除してみせる。
私の世界は、静かな自信と共に、次なる戦いへと備えていた。




