幕間「表裏一体の会合」
それは、蓮が大型免許と普通免許を同時に取得するための地獄の教習所生活を送っていた最中、月に1日だけ与えられた貴重な休日のことだった。
私のタワーマンションに、朝からアリスが押し掛けてきたのだ。
「ヤッホー、ピュアちゃん! 蓮くん! 今日は教習所お休みでしょ? 前に行きそびれた新宿のジェラート屋さん、リベンジしに行こうよ!」
相変わらずの嵐のようなテンションでリビングに上がり込んできた彼女は、教習所の疲労で泥のように眠っていた蓮を叩き起こし、有無を言わさずに真っ赤なポルシェの後部座席へと押し込んだ。
私としては、貴重な静寂の時間を奪われるのは本来なら不快なはずだった。だが、彼女が「ジェラート」という未知の甘味を提示してきたことと、何より彼女自身の楽しそうな顔を無下にすることが合理的な選択だとは思えなかったため、素直に助手席に収まることにしたのだ。
そうして私たちは、以前バベルの残党を見つけて処理したせいで辿り着けなかった、新宿の大通り沿いにある新店舗のジェラート専門店へとやってきた。
店内は白とパステルカラーを基調とした、いかにも外界の若い女性が好みそうな内装だった。ショーケースの中には、色とりどりの氷菓が山のように盛られ、芸術品のように美しくディスプレイされている。
「どれにしようかな〜! ピスタチオもいいし、季節限定のストロベリーも捨てがたい……。ピュアちゃんはどうする?」
「そうね。私は、このカカオ80パーセントのダークチョコレートと、シチリア産レモンのソルベにするわ。脂質と糖分のバランス、そして柑橘系のクエン酸が脳の疲労回復に最も効率的だと計算できるから」
「出た、ピュアちゃんの理系チョイス! じゃあ、私はストロベリーとミルク! 蓮くんは?」
「あ、えっと……俺は、普通のバニラで大丈夫です……」
教習所の疲れが抜けきっていない蓮が、遠慮がちに答えた。
アリスが全員分を奢ってくれ、私たちは店の奥にある丸いテーブル席に3人で腰を下ろした。
私はスプーンでダークチョコレートのジェラートを少しだけすくい、口に運んだ。
舌の上で冷たい物質が急激に融解していく。同時に、カカオの強烈な苦味と、それを支える奥深い甘みが口の中を満たした。続いてレモンのソルベを口にすると、今度は鋭い酸味がチョコレートの重さを完璧にリセットし、味覚のコントラストを際立たせる。
「……なるほど。温度変化による味覚の錯覚と、素材の化学反応を計算し尽くした食べ物ね。非常に美味しいわ」
「あはは! 食レポが硬すぎるよピュアちゃん! でも美味しいならよかった!」
アリスが自分のストロベリージェラートを幸せそうに頬張りながら笑う。
蓮も無言でバニラのジェラートを口に運んでいたが、その顔には微かに安堵と幸福感が滲んでいた。教習所の教官の怒声から解放された甘味は、彼の疲弊した神経に直接作用しているのだろう。
「そういえば、アリス」
「ん?」
「さっき、カウンターで注文を取ってくれた店員。彼、この間私たちがこの店の前を通りかかった時にも、休憩中だったのか店の裏口でタバコを吸っていた男よ。右膝の半月板に軽度の損傷があるのか、歩行時に体重移動のブレがコンマ2秒ほど生じているわ。間違いない。あのタバコのせいで、微妙に嗅覚が狂ったのを覚えてる。ああいう軽犯罪法に触れる人間は組織では殺せないの?」
私が淡々と分析結果を告げると、アリスは目を丸くしてスプーンを止めた。
「軽犯罪法違反は殺せないかなあ…って、えっ……ピュアちゃん、そんなことまで覚えてるの? ていうか、歩き方の癖で同一人物だって判断したの?」
「ええ。骨格の歪みや筋肉の収縮の癖は、個人を特定するための非常に強固な暗号キーになるから。指紋や網膜のパターンに近い精度で識別できるわ」
「……普通、顔で覚えない?」
アリスが呆れたようにツッコミを入れる。
隣で蓮も「確かに……」と小さく頷いていた。
「顔?」
私は首を傾げた。
「そうだよ。ピュアちゃんって、1回見た資料は全部暗記できるくらい頭がいいし、私の車のナンバープレートとかも一瞬で覚えてたじゃない。なのに、アドの顔とか、私の顔とか、最初の頃全然覚えてくれなかったよね?」
「……確かに、人間の顔の造形を記憶するのは、私にとって非常に優先順位の低い処理だわ」
私はレモンのソルベを口に含み、冷たさで脳を覚醒させながら、自分の認識のアルゴリズムを言語化した。
「脳の記憶領域は無限ではないの。私はそこに、物理法則や化学式、建物の構造、そして対象の骨格や運動パターンといった『圧縮可能で法則的なデータ』を優先して保存している。それに比べて、人間の『顔』という情報は、非常に曖昧で変動しやすい不確定要素の塊なのよ」
「変動しやすい?」
「ええ。表情筋の動き1つでパーツの配置はミリ単位で変わるし、髪型や化粧、加齢によっても簡単に偽装できてしまう。そんな不確かな視覚情報にリソースを割くのは、極めて非合理的だわ」
私は蓮の方を指差した。
「例えば蓮。彼が今、顔面を整形して全く違う顔になったとしても、私は彼の歩幅、肩の傾き、呼吸のペース、そして何よりその『オドオドとした神経質な筋肉の強張り』を見れば、100パーセントの精度で彼だと特定できる。顔なんて、単なる表面のパッケージに過ぎないのよ」
「な、なんか俺、めちゃくちゃ情けない特徴で覚えられてる気がするんですけど……」
「事実を述べたまでよ」
蓮が肩を落とすのを見て、アリスがクスクスと笑った。
「なるほどね〜。感情がないピュアちゃんにとっては、他人の『表情』を読み取る必要がなかったから、顔全体を1つの情報として認識する機能が発達しなかったのかもしれないね。骨格や歩き方で個体を識別するなんて、完全にターミネーターの視点だよ、それ」
「ターミネーターが何かは知らないけれど、対象を最も確実にロックオンするための合理的な手段よ」
私はスプーンを置き、今度は私が疑問を提示する番だとばかりに、アリスの顔を真っ直ぐに見つめた。
「人間の『感情』や『表情』といえば。私からも1つ、あなたに聞きたいことがあったの」
「私に? なになに?」
「アリス。あなたは先日、廃ビルで蓮を見つけた時、彼が一般人であることに気がついて殺すのを躊躇ったわよね」
「う、うん。まあ、それはそうだけど」
「あなたのその『善悪の基準』や『弱者への共感』という感情の強さを考えると、1つの矛盾が生じるの」
私は論理の糸を紡ぎながら、彼女の過去の任務におけるデータの不自然さを指摘した。
「あなたは17歳で組織に拾われてから、数え切れないほどの殺しをこなしてきたはずよ。裏社会の仕事なんて、ターゲットが悪人であっても、その場に無関係な一般人や、脅されて手伝わされていた末端の人間が巻き込まれているケースは少なくない。それなのに、あなたが過去の任務で、蓮の時のように『殺せない人間を持ち帰ってきた』という記録や話は、アドからも聞いたことがないわ」
「……」
「あなたの性格なら、蓮みたいな人間に遭遇するのは日常茶飯事で、その度に組織と揉めていてもおかしくないはずよ。どうして今まで、彼のような人間を拾ってこなかったの?」
私のロジカルな追及に、アリスは少しだけ驚いたように目をパチクリとさせ、それから、どこか照れくさそうにストロベリージェラートのピンク色の表面をスプーンでつついた。
「……ピュアちゃんってば、本当に鋭いね。うん、ピュアちゃんの言う通り。私が普通に裏社会の殺し屋をやってたら、蓮くんみたいな可哀想な人を見捨てることなんてできなくて、組織のルール違反を繰り返して、とっくに処分されてたと思う」
「だったら、どうして?」
「アドだよ」
アリスは顔を上げ、少しだけ誇らしげに笑った。
「アドがね、私に回す仕事を、事前にめちゃくちゃ精査してくれてたの。私が現場に行っても絶対に迷わないように、『純度100パーセントの、どうしようもない外道』しかターゲットにならない仕事だけを、私に割り振ってたんだよ」
「アドが……?」
「うん。あの人、口は悪いしルールには厳しいけど、私が『悪人しか殺さない』って言った条件を、裏で完璧に守ってくれてたの。無関係な一般人が巻き込まれるリスクがある現場や、末端の人間が混ざっているようなグレーな案件は、全部他の班や、シンなんかに回してたんだって。後からシンに聞いて知ったんだけどね」
私は少しだけ虚を突かれた思いだった。
アドという男は、常に組織の利益と合理性を最優先に考える冷徹な管理者だと思っていた。だが、彼がアリスの『感情』という非合理な要素を組織の不利益にならないよう、事前に情報のフィルタリングというコストをかけてまでコントロールしていたのだ。
「蓮くんの時は、ピュアちゃんの休暇中に偶然見つけた『突発的な事態』だったから、アドのフィルターを通ってなかったんだよね。だから、あんな風に巻き込まれただけの蓮くんと鉢合わせちゃった」
「なるほどね……」
私は深く納得した。
アドがアリスの『精神の安定』を維持するために、わざわざ手間をかけていた。それは一見すると非合理だが、アリスという絶大な戦力を組織に繋ぎ止めておくための、最大の『安全装置』だったのだろう。
「私、アドにはすごく感謝してるんだ。彼がいなかったら、私はとっくに自分の心が壊れて、ただの人殺しのバケモノになってたと思うから」
アリスの言葉に、私は自分の内側を省みた。
私自身もまた、アリスという存在に出会ったことで、ただの『自己中心的なバケモノ』から、少しだけ人間の感情を学習し、外界で生きていくためのバランスを保てるようになりつつある。
この組織『天秤』は、冷徹なようでいて、それぞれが互いの欠落を補い合う、奇妙な均衡で成り立っているのかもしれなかった。
「……なんか、真面目な話になっちゃったね!」
アリスはパチンと手を叩き、空気を変えるように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
そして、その標的は、これまで黙ってバニラジェラートを食べていた蓮へと向けられた。
「ねえねえ、蓮くん! 今日はせっかくの休日なんだし、もっと年相応の恋バナとかしようよ!」
「こ、恋バナ、ですか……!?」
「そう! 蓮くんって戸籍上は20歳だけど、中身は11歳の男の子でしょ? 年頃なんだし、好きな女の子のタイプとかあるんじゃないの?」
アリスが身を乗り出して尋ねると、蓮は「ゲホッ」とジェラートを喉に詰まらせて咽せた。
私は彼が窒息してドライバーとしての機能に支障をきたさないかだけを注視しつつ、話の行方を静観した。
「す、好きなタイプって……俺、ずっと孤児院にいて、逃げ出してからは毎日必死に働いてただけで……そんなこと、考えたこともなかったです……」
「えー! つまんない! いいじゃん、想像で! アイドルとか女優さんでもいいし、身近な人でもいいからさ! どんな子が好きなの?」
アリスの執拗な追及に、蓮は顔を真っ赤にして視線を泳がせた。
そして、チラリと私の方を見て、すぐに目を逸らし、またアリスの方を見て、しどろもどろになりながら口を開いた。
「えっと……そ、そうですね……。性格は……アリスさんみたいに、明るくて、優しくて……誰かのために怒ってくれるような人が、いいなって思います……」
「おっ! 私みたいな性格? やったー! 蓮くん、見る目あるね〜!」
アリスがご機嫌にピースサインを作る。
だが、蓮の言葉には続きがあった。
「で、でも……その……」
「ん? なになに?」
「顔とか、スタイルは……ピュアさんみたいな人が……すごく、綺麗だなって……思います……」
その言葉が発せられた瞬間、テーブルの上に数秒の奇妙な沈黙が降りた。
蓮は自分が言ってしまった言葉の恥ずかしさに耐えきれず、両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまった。耳の先まで真っ赤に染まっている。
「……えーっ!!」
沈黙を破ったのは、アリスの爆笑だった。
「あははははっ!! 蓮くん、めちゃくちゃ面食いじゃん!! 性格は私で、見た目はピュアちゃん!? なにその超ワガママな理想設定!!」
「す、すみません! 忘れてください! 今のはなしで……!!」
「なしにはならないよ〜! いやー、でもわかる! ピュアちゃんの顔面偏差値は異常だもんね! お人形さんみたいに完璧だし、手足も長くてスタイル抜群だし! でも蓮くん、気をつけてね! ピュアちゃんは中身が超絶ヤバいから、騙されちゃダメだよ!」
アリスが涙目になりながら机をバンバンと叩いて笑い転げている。
私はその光景を冷ややかに見つめながら、蓮の提示した条件について脳内で論理的な検証を行った。
「アリス。私の外見が視覚的に好まれるのは、物理的な事実として当然のことよ」
私が冷静に告げると、アリスは笑いを堪えながら「えっ?」と顔を上げた。
「私の顔のパーツの配置は、人間が視覚的に美しいと感じる黄金比の数値に極めて近い。それに加えて、無駄な脂肪がなく、筋肉と骨格のバランスが最適化されているため、生物学的にも『健康で優秀な個体』として本能的に惹きつけられるようにできているの。だから、彼が私の外見を好むのは、単なる本能的なプログラムの反応に過ぎないわ」
「……ピュアちゃん、自分で自分の顔をそこまでロジカルに絶賛できるの、逆にすごいよ……」
「事実をデータとして述べているだけよ。でも、蓮」
私はテーブルに突っ伏している蓮の頭を、冷徹な声で叩き斬った。
「あなたが提示した『性格はアリス、外見は私』という条件。それは生物学的に考えて、キメラを望むようなもので、極めて非現実的よ」
「キ、キメラ……」
「ええ。アリスのあの過剰なまでに明るく感情豊かな性格は、彼女の表情筋を頻繁に動かし、顔の造形に影響を与えているわ。対して、私の顔がシンメトリーでシワ1つない完璧な状態を保っているのは、無駄な感情表現によって表情筋を酷使していないからよ。つまり、アリスの性格と私の顔は、トレードオフの関係にあるの。両立は不可能だわ」
私の身も蓋もない物理的かつ生物学的な解説に、アリスは再び「あははははっ!!」と腹を抱えて笑い出した。
「もう最高、ピュアちゃん!! 蓮くんの淡い初恋の理想を、理詰めで完膚なきまでに粉砕したよ!! キメラって!!」
「うぅ……俺がバカでした……。もう帰りたい……」
蓮は顔を覆ったまま、ジェラートの冷たさも忘れて完全に小さくなっていた。
私は残っていたレモンのソルベを口に運びながら、彼らの賑やかなやり取りを静かに眺めていた。
恋心だの、理想のタイプだの、私には全く理解できない非合理な概念だ。
私が誰かを『好き』だと感じる基準は、あくまで私のテリトリーを害さないか、私に利益をもたらすか、そして私の不快感をどれだけ取り除いてくれるか、という計算式に基づいている。
だが、こうしてアリスが笑い、蓮が恥ずかしそうに身を縮めている空間。
教習所の地獄のような日々から一時的に解放された蓮と、常に死と隣り合わせの殺し屋という本性を隠して無邪気に笑うアリス。
この何気ない雑談の時間が、私の精神のアルゴリズムに極めて良質な安定をもたらしていることだけは、否定しようのない事実だった。
「ほら、蓮。ジェラートが溶けるわよ。糖分をしっかり摂取して、明日の教習に備えなさい」
「は、はいっ! いただきます……!」
蓮は慌てて顔を上げ、少し溶けかかったバニラジェラートを口に運んだ。
その顔はまだ少し赤かったが、先ほどの疲労感は嘘のように消え去っていた。
3つの空になったジェラートのカップ。
外界に出てから手に入れた、私なりの『居場所』。
この平穏な時間がいつまで続くかはわからない。
『あの方』と呼ばれる黒幕の影は、確実に私たちに近づいている。
だが、次に血生臭い硝煙の匂いを嗅ぐ時まで、私はこの非合理的で、少しだけ温かい日常を、私の所有物と共に楽しんでおくことにした。
その日の夜。
タワーマンションの最上階には、再び私と蓮の2人きりの静寂が戻ってきた。
私は日中の外出で外界の塵や排気ガスを浴びた身体を清めるため、広々としたバスルームへと向かった。
設定温度は38度。副交感神経を優位にし、全身の血流を促進することで細胞の疲労を回復させるための、最も合理的な温度管理だ。大理石の浴槽に身を沈め、今日1日の出来事を脳内で整理する。
新宿でのジェラートの摂取、アリスの非合理だが興味深い感情のメカニズム、そして蓮の『キメラ』発言。
私の生活は、施設にいた頃の完璧な無菌状態とは程遠い、予測不可能なノイズに満ちている。だが、それが今の私には必要な刺激として機能していることも事実だった。
15分間の正確な入浴を終え、私はバスタブから立ち上がった。
吸水性の高いバスタオルで全身の水分を効率よく拭き取り、脱衣所へと出る。
「……ミスね」
私は脱衣所の棚を見て、小さく呟いた。
いつもならここに用意してあるはずの、シルクのルームウェアと下着のセットがない。入浴前にリビングのソファで本を読んでいた際、うっかり自室のクローゼットから持ち出すのを忘れていたのだ。
通常であれば、衣服を取りに行くために何かを羽織るのが外界の『常識』なのだろう。
だが、私の脳内アルゴリズムは瞬時に別の最適解を弾き出した。
衣服とは本来、体温調節と物理的な外的要因からの保護を目的としたツールに過ぎない。現在、マンション内の空調は完璧な適温に保たれており、凍える心配はない。さらに、ここは私の絶対的なテリトリーであり、外的要因など存在しない。
リビングには蓮がいるかもしれないが、彼は私の専属サポーター——言うなれば『私の機能の1部』であり、所有物だ。彼に肌を見られたところで、私にとって何の物理的損失もない。ルンバや観葉植物の前を全裸で歩くのと同じことだ。
着るものを取りに戻るためにバスタオルを巻くという無駄な工程を省き、私は生まれたままの姿——すなわち全裸のまま、堂々と脱衣所のドアを開けてリビングへと足を踏み入れた。
「えっと、この標識は『警笛鳴らせ』で……こっちが……」
リビングのテーブルでは、教習所の学科試験に向けた復習をしていた蓮が、プリントと睨み合っていた。
私の足音に気づいた彼が、何気なくこちらを振り向く。
「あ、ピュアさん、お風呂上がっ——」
蓮の言葉は、途中で完全にフリーズした。
彼の視界に、濡れた黒髪を背中に張り付かせ、一糸まとわぬ全裸の状態で優雅に歩く私の姿が飛び込んだのだ。
数秒の完全な硬直。
彼の脳が視覚情報を処理するのに要したその時間の後、彼の顔は首の根元から耳の先まで、瞬時に茹でダコのように真っ赤に染まった。
「ぶっ……!? な、ななななっ!?」
蓮は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで後ずさり、テーブルの脚にすねを強打して「痛っ!」と情けない声を上げた。彼は両手で顔を覆い隠そうとしながらも、指の隙間から私の身体を直視してしまい、パニックで呼吸を浅く乱している。
「ピ、ピ、ピュアさんっ!? なんで……なんで裸なんですかっ!?」
「着替えを忘れたのよ。自室に取りに行くだけだから、気にしないでちょうだい」
私は歩みを止めることなく、極めて冷静に事実だけを伝えた。
だが、蓮のパニックは収まるどころか加速していく。
「き、気にしないって無理ですよ! ちょ、ちょっと、隠して! ふ、服を着てください!!」
その瞬間。
私の歩みがピタリと止まった。
ピキリ、と。
私の胸の奥で、冷たい不快感が鎌首をもたげる。
「……蓮」
私は振り返り、顔を真っ赤にしてうずくまる彼を氷のように冷たい視線で見下ろした。
「今、なんて言ったの?」
「え……あ、いや、だから、服を……」
「『着てください』って言ったわね。それは、私に対する指示? それとも命令のつもり?」
私の声の温度が一気に零下まで下がる。
「あなたは私の所有物よ。私の家で、私がどのような姿でいようと私の自由だわ。それなのに、単なる機能の一部に過ぎないあなたが、私の行動を制限しようとした。それは明確な越権行為であり、反逆よ」
「ち、違います! そういうつもりじゃなくて、ただ俺が……その、目のやり場に困るというか……!」
「ルンバが私の裸を見て困るかしら? あなたは私が視界に入ったのなら、壁でも見つめていればいいのよ」
私が冷徹に糾弾すると、蓮は「ルンバと同列……!?」と呟きながら、さらに顔を赤くして後ずさった。
私は彼を処罰しようと一歩近づいた。
だが、その時、私は彼の身体的反応における『ある矛盾』に気がついた。
彼の拡張した瞳孔、急激な心拍数の上昇、顔面の毛細血管の拡張による紅潮、そして不自然なまでに上がった体温。
これは、私が以前彼に銃口を突きつけた時の『死の恐怖』からくる反応とは明らかに違う。
彼は私を恐れているのではなく、別の強力な刺激によって脳内物質を過剰分泌させているのだ。
「……なるほど」
私の探究心に、チリッと火がついた。
「これが、外界の人間が言うところの『性的興奮』や『羞恥心』という生理的反応ね」
私は彼のパニックを観察しながら、純粋な学術的興味に基づき、全裸のまま彼との距離をさらに詰めた。
「ひぃっ!? ピ、ピュアさん、近いです! 近づかないで!!」
「逃げる必要はないわ。私はただ、あなたの生体反応のメカニズムを検証したいだけよ」
私は彼をソファの端まで追い詰め、身を乗り出して彼の顔を覗き込んだ。
私の胸の膨らみや、腰のくびれが彼の視界いっぱいに広がる。蓮は悲鳴を飲み込み、目を固く閉じてソファの背もたれに張り付いた。
「私の顔や身体の造形が、生物学的に『健康で優秀な個体』であることを示しているのは知っているわ。でも、それはあくまで種の保存のためのデータよ。現在、我々の間に生殖行為を行う目的も合理性もないのに、なぜ視覚情報だけであなたの脳は発情に近い興奮を引き起こすの? これは非常に非効率なバグよ」
「バ、バグじゃないです! 健全な男なら誰だって、あんな、その……綺麗な女の人の裸を見たら、おかしくなります!!」
「綺麗? 具体的にどこが?」
私はさらに身を乗り出し、冷徹な真顔のまま彼に尋問を開始した。
「乳房の脂肪量と位置関係? それとも骨盤の傾きがもたらすウエストとヒップの黄金比率(0.7)が、あなたの本能的な生殖能力の指標を刺激しているの? 皮膚の質感の均一性が、遺伝的欠陥のなさを証明しているから?」
「そ、そんな理科の授業みたいな言い方しないでくださいっ! わかんないです!! 全部です!!」
「『全部』という曖昧な回答は許さないわ」
私は全裸であることの羞恥など微塵も感じないまま、彼を逃がさないようにソファの肘掛けに手をついた。
「日中のジェラート屋で、あなたは『私の顔やスタイルが好きだ』と言ったわね。ならば、私の身体のどのパーツの、どの比率があなたの脳にドーパミンを分泌させているのか、具体的に言語化しなさい。これは所有者からの命令よ」
「む、無理です! 言えるわけないじゃないですか!!」
「言えない? それとも自分の脳の処理プロセスを理解していないの? 自分のバグの理由も説明できないなんて、サポーターとして無能すぎるわ」
「無能でいいです!! 勘弁してください!!」
蓮はついに限界を迎えたのか、私が隙を見せた瞬間にソファの上を転がるようにして逃げ出し、四つん這いになりながら自分のゲストルームへと猛ダッシュした。
「逃げるなと言っているでしょう」
私は彼を追いかけ、全裸のまま廊下を早足で歩いた。
バタンッ!! と凄まじい音を立ててゲストルームの扉が閉まり、カチャリと内側から鍵がかけられる音が響いた。
私は扉の前に立ち、ノブをガチャガチャと回した。
「開けなさい、蓮。検証はまだ終わっていないわ」
「絶対に開けません!! ピュアさんが服を着るまで、俺はここから1歩も出ませんからね!!」
「私の合理的な質問から逃げるなんて許さないわよ。私の身体のどこが良いのか、具体的に言語化して提出しなさい」
「だから無理だって言ってるじゃないですかぁっ!!」
「扉を破るのは造作もないことよ。言わないなら、殺すわよ」
私は扉越しに、一切の冗談を交えずに冷徹に脅迫した。
扉の向こうから「ひぃぃっ! 理不尽すぎる!!」という蓮の情けない悲鳴が響き渡る。
「骨格のシンメトリー? それともメラニン色素の少なさ? 答えなさい」
「勘弁してください〜〜っ!!」
静寂に包まれるはずだったタワーマンションの最上階に、私の執拗な尋問と、蓮の半泣きの悲鳴が夜遅くまで響き続けることになった。
人間の感情のメカニズムは、やはり全くもって非合理的で理解し難い。




