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冷血の花は愛に散る  作者: 神城零
第一章「無垢なる怪物の羽ばたき」
6/16

第五話「一輪の黒百合は花園を知る」

 2月下旬。

 30人の半グレ集団『バベル』の殲滅から、3週間ほどの時間が経過していた。


 私の左脇腹に入っていた肋骨の微小なヒビは、組織の専属医が「気味が悪い」とこぼすほどの異常な回復力で完全に癒えていた。左上腕の裂傷もすでに塞がり、薄いピンク色の痕が残るだけになっている。私の肉体は、いつでもリミッターを外して限界を超動できる完璧な状態へと戻っていた。

 だが、アドから言い渡された『休暇』は未だに明けていない。

『あの方』と呼ばれる正体不明の黒幕の尻尾を掴むため、アドやシンが水面下で情報を集めているものの、相手は想像以上に用意周到らしく、決定的な証拠は掴めていないようだった。


 結果として、私は外界の平穏な日常——という名の退屈な時間を持て余すことになっていた。

 しかし、私のタワーマンションでの生活環境は、バベルの残党狩りの日を境に、劇的な変化を遂げていた。

 私の静謐で完璧なテリトリーに、『早乙女蓮』という不確定要素が入り込んでしまったからだ。


 最初の数日、私は彼が同じ空間で呼吸しているという事実だけで、強烈な不快感に苛まれていた。施設での10年間、完全な隔離状態で育った私にとって、他者が自分のパーソナルスペースに存在するというのは、それだけでエラーを吐き出したくなるほどのストレスだったのだ。

 だが、その不快指数は、日が経つにつれて徐々に——そして確実に低下していった。


 午前7時。

 自動で開く遮光カーテンの光を浴びてベッドから起き上がった私は、シルクのルームウェアのままリビングへと向かった。

 大理石の床は塵1つなく磨き上げられ、窓ガラスは指紋1つ残さず拭き取られている。

 そして、システムキッチンのカウンターには、私が指定した通りの温度を保った白湯と、綺麗に盛り付けられた新鮮な野菜のサラダ、そしてスクランブルエッグが静かに置かれていた。


 蓮は、私が「共用スペースを使う時は許可を取れ」と言ったルールを破らないよう、私が寝ている深夜から早朝にかけての時間を使い、音を一切立てずに完璧な家事をこなしていた。

 そして、私が起きる気配を察知すると、すぐさま自分のゲストルームへと引っ込み、扉を閉ざす。私がリビングで過ごしている間は、決して姿を見せない。

 私の『視界に入らない』という努力義務を、彼は命がけで死守していた。


「……優秀ね」


 私は白湯を一口飲み、小さく呟いた。

 私が彼に求めたのは「私の生活のペースを乱さないこと」だけだったが、彼は私の行動パターンを観察し、私が不快に思わない絶妙なラインで、生活の質を向上させる労働力を提供し続けていた。

 最初のホットサンドの件以来、私は彼が用意した食事を毎日口にしている。アリスが淹れたコーヒーと同じように、物理的な味覚以上の『悪くない感覚』がそこにあったからだ。

 だが、私はサラダにフォークを刺しながら、ふとゲストルームの閉ざされた扉に視線を向けた。


 アドが手配した表の支援団体により、彼の血の繋がらない妹は、最新の設備が整った病院で心臓の治療を受けられることになったらしい。

 その報告を聞いた時の蓮は、床に伏して泣きじゃくっていた。

 妹の命の安全が確保されたことで、彼は完全に安堵し、このタワーマンションのゲストルームという『檻』の中で、ただ私のために家事をこなし、息を潜めて生きることに何の疑問も抱いていないようだった。


「……」


 私はサラダを咀嚼しながら、胸の奥にざらつくようなノイズを感じていた。

 その正体が何なのか、私自身にもまだわかっていなかった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 その日の午後。

 私は、珍しくゲストルームの扉の前に立っていた。

 ノックを2回すると、中から「ひっ」という短い悲鳴の後、慌ててスリッパを擦る音が聞こえ、扉が細く開いた。


「あ、あの……ピュアさん。俺、何かルールを破りましたか……?」


 蓮は顔面を蒼白にしながら、怯えた子犬のように私を見上げた。

 私の前では、彼はずっとこの調子だ。私がいつ機嫌を損ねて眉間を撃ち抜くか、本気で恐れているのだろう。


「別にルールは破っていないわ。少し、あなたに確認したいことがあっただけ」

「か、確認……ですか?」

「リビングに出なさい」


 私が顎でしゃくると、蓮は「はい」と小さく返事をして、縮こまりながらリビングの端に立った。私はソファに深く腰掛け、彼の姿を改めて上から下まで冷徹にスキャンした。


 初めて廃ビルで彼を見た時から思っていたが、彼の身体的な特徴には、1つ大きな疑問があった。


「あなた、そういえば年齢はいくつなの」

「え……?」

「聞き取れなかった? 年齢よ」

「あ、えっと……11歳、です」


 その言葉に、私は思わず眉をひそめた。


「11歳?」

「は、はい……」

「嘘をつくなら殺すわよ」


 私が低い声で威圧すると、蓮は首をちぎれんばかりに横に振った。


「う、嘘じゃありません! 妹が10歳で、俺がその1つ上ですから、本当に11歳です!」


 私は彼の全身をもう一度見つめ直した。

 彼は着古したパーカーとジーンズ姿だが、その身長はヒールを履いていない私とほとんど変わらない。160センチメートル前後。肩幅もしっかりしており、声も少し低くなり始めている。

 どう見ても、中学生から高校生——15、6歳には見える体格だ。だからこそ、廃ビルで彼を見たアリスも「10代後半の若者」だと錯覚したのだろう。


「11歳にしては、発育が良すぎるわね。私が知っている11歳の平均的な身長を、優に超えているわ」

「む、昔から……背だけは高くて。孤児院にいた頃から、大人びてるってよく言われてました」

「そう。でも、だとしたら計算が合わないわ」


 私は腕を組み、彼をまっすぐに見据えた。


「11歳の子供が、どうして孤児院を出て、半グレの闇金から借金をして、あまつさえ裏社会の運び屋なんてさせられていたの。日本の法律上、11歳の児童が施設を出て自立することなんて不可能なはずよ」

「それは……」


 蓮はうつむき、ギュッと両手を握りしめた。

 しばらく沈黙が続いた後、彼は絞り出すように口を開いた。


「……逃げたんです」

「逃げた?」

「はい。俺たちがいた孤児院の院長は、最低のクズでした。国からの補助金や寄付金を自分のギャンブルと酒代に全部着服して……俺たちには、適当なパンと水みたいなスープしか出さなかった。冬は暖房もなくて、凍えるような部屋に押し込められて」


 蓮の言葉に、私は施設の簡素だが清潔だった自分の寝室を思い浮かべた。私がいた隔離施設は、犯罪者を収監するための檻だったが、少なくとも人権は保障されていた。彼のいた環境は、私のそれよりも遥かに劣悪だったらしい。


「俺はどうでもよかった。でも、妹は心臓が悪かったんです。定期的に病院で薬をもらわないと、いつ発作が起きるかわからないのに……院長は『そんな金はない』って、妹を病院に連れて行くのをやめたんです。妹は毎日苦しそうに咳をして、どんどん痩せていって……」


 蓮の瞳に、当時の絶望が鮮明に蘇っているのがわかった。


「このままじゃ、妹が殺される。そう思って……去年の冬、院長が酒を飲んで寝ている隙に、妹を背負って施設から逃げ出しました」

「なるほど。脱走したのね」

「でも、11歳のガキがまともに働ける場所なんてありません。だから俺……自分のこの背の高さと体格を利用して、年齢を15歳だってごまかしたんです」


 蓮は自嘲するように笑った。


「身分証なんて持ってないって嘘をついて、日雇いの土木作業とか、深夜の清掃の仕事とか……書類のチェックが甘い違法なブラックバイトを掛け持ちして、必死に働きました。体だけは大きかったから、大人の男と同じように力仕事ができたんです」

「それで、妹の薬代を稼いだと」

「最初はなんとかなってました。でも、妹の病状が悪化して……手術しないと助からないって言われたんです。その手術費用が、数百万。日雇いの稼ぎじゃどう逆立ちしても足りなくて」


 そこまで聞いて、私は全てを理解した。


「それで、裏の金貸し——バベルの息がかかった闇金に手を出したのね」

「はい……。当然、返せるわけがなくて。利子は雪だるま式に膨れ上がって、気づいたら1000万を超えてました。それで、借金をチャラにする代わりに違法薬物の運び屋を手伝えって脅されて……あの廃ビルにいたところを、ピュアさんたちに見つかったんです」


 蓮は話を終え、深くため息を吐いた。


「バカですよね。妹を助けたくて施設を逃げ出したのに、結局もっと悪い連中に捕まって、妹を危険な目に遭わせるところだった。俺1人じゃ、結局何も守れなかったんです」

「……」


 私は無言で彼を見つめていた。


 11歳。

 たった11歳で、血の繋がらない妹の命を背負い、自分の年齢を偽って過酷な労働に身投じ、裏社会の闇にまで飲み込まれようとしていた。

 彼の行動は、私から見れば非合理の極みだ。自分の生存確率を下げるだけの、無駄な自己犠牲。

 だが、その非合理な選択を可能にした『原動力』の強さだけは、私が物理的な力でねじ伏せてきた半グレの男たちよりも、遥かに太く、強靭なものに思えた。


「……それで? 今は満足なの?」


 私の問いかけに、蓮は顔を上げた。


「満足、ですか?」

「ええ。アドの手配で妹の治療費と安全は保障された。でも、その代償として、あなたは私に監視され、このタワーマンションのゲストルームから1歩も出られない軟禁状態に置かれている。あなたは今、別の『檻』に入っただけよ。それについて、不満はないの?」

「不満なんて……あるわけないじゃないですか」


 蓮は少しだけ泣きそうな顔で、しかしはっきりとした声で答えた。


「妹が助かるんです。温かいベッドで寝て、ちゃんとしたご飯を食べて、病院の先生に治してもらえる。俺がどれだけ働いても手に入らなかったものを、あなたたちが与えてくれた。だから俺は、一生この部屋から出られなくても、ピュアさんのために家事をして、ただ息をしてるだけでも……それで十分幸せです」


 蓮は深く頭を下げ、それ以上何も言わなかった。

 私は彼に「部屋に戻りなさい」と告げ、彼がゲストルームの扉を閉めるのを見送った。


 リビングに1人残された私は、黒いレザーソファに沈み込み、目を閉じた。


『俺は、一生この部屋から出られなくても、それで十分幸せです』


 彼のその言葉が、私の鼓膜の奥にこびりついて離れなかった。

 私の胸の中で燻っていた『ノイズ』が、一気に膨れ上がり、明確な『不快感』となって私を苛立たせた。


 彼は満足していると言う。安全な檻の中で、妹の命の保証と引き換えに、自分の人生という時間をただすり減らすだけの生活に。


 ——ああ、だからか。


 私はようやく、自分が彼に対して抱いていた不快感の正体に気がついた。


 彼の姿は、数年前の私と同じだったのだ。

 5歳で両親を殺し、児童自立支援施設という無機質な箱庭に収監された私。

 食事は与えられ、雨風は凌げ、本を読む自由はあった。安全で、何も不自由のない隔離生活。私はその小さな世界で、ただ呼吸を繰り返し、それが世界の全てだと思い込んで生きていた。


 だが、15歳を目前にしたあの日。

 私はその『檻』を物理的に破壊し、外の世界へと飛び出した。

 見知らぬ社会のルールも、プロの殺し屋から向けられる殺意も、全てを乗り越えて。

 私は自分の意志で、自分の自由を勝ち取ったのだ。


 私は自分の手で檻を壊した。

 それなのに、私の用意したこの完璧なテリトリーの中で、自ら新たな檻に閉じこもり、それに満足して安住しようとしている人間がいる。

 その光景が、私には耐え難いほど目障りで、不快だったのだ。


「……バカみたい」


 私は目を開け、冷たい天井を見つめた。


 11歳の子供に、裏社会の組織から逃げる力などあるはずがない。彼が今の状況を受け入れるのは、最も合理的で生存確率の高い選択だ。

 だが、私の感情は、その合理性を拒絶していた。


 私は彼に、私と同じように『自由』を与えたいとすら思っている自分に気がついた。

 アリスが私を外界へと導き、強さと人間らしさを教えてくれたように。

 私も彼を、ただの居候ではなく、もっと意味のある存在に引き上げたい。


 せっかくなら、組織(天秤)に入れてしまえばいい。

 私と同じように、アドの庇護下で仕事を与えられ、莫大な金とある程度の自由を手に入れられれば、彼は一生檻の中で息を潜める必要はなくなる。


 しかし、彼に殺しはできない。あの優しすぎる性格と、一般人の精神構造では、銃を持たせても弾1発撃てないだろう。

 なら、どうするか。


「……」


 私は頭の中で、幾つもの計算式を並べ替え、1つの完璧な『解』を導き出した。


 殺し屋になれないなら、私の手足にすればいい。

 純玲ピュア専属の、サポーター(裏方)だ。


 武器のメンテナンス補助、情報の処理、外界での偽装工作、そして私の生活の身の回りの世話。

 彼を私の所有物として、私の機能の1部として組み込む。そうすれば、私は面倒な雑務から解放され、仕事のパフォーマンスを最大化できる。彼もまた、組織の人間として正式な役割と報酬を得て、ただの軟禁状態から抜け出すことができる。


 私にとっても、彼にとっても、組織にとっても、これ以上ない合理的な解決策だ。

 私は立ち上がり、コートを羽織った。

 この不快感を拭い去るためには、すぐに行動を起こす必要があった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午後4時。

 私は霞ヶ関のビジネス街にある、組織の事務所を訪れていた。

 アドの執務室の扉をノックもせずに開けると、デスクで書類仕事に追われていたアドが、忌々しそうに顔を上げた。


「ノックくらいしろ、ピュア。……休暇中だってのに、何の用だ。まさか『あの方』の情報を掴んだとか言わねえだろうな」

「いいえ。個人的な提案があって来たの」


 私はアドの向かいの椅子に堂々と腰を下ろし、単刀直入に切り出した。


「早乙女蓮を、『天秤』に正式に加入させて。私専属のサポーターとして」


 沈黙。

 アドは咥えていた煙草をポロリとデスクに落としそうになり、慌てて灰皿に押し付けた。


「……は?」

「聞こえなかった? 彼を私の専属の裏方として雇いたいと言ったの」

「アホか、お前」


 アドは心底呆れたように天を仰ぎ、深くため息を吐いた。


「いいか、ピュア。あいつは何の訓練も受けていないただの一般人だ。裏社会の組織——それも司法の裏で殺しを請け負う『天秤』に、そんなお荷物を正式加入させるわけがねえだろうが」

「お荷物ではないわ。彼を組織に組み込むことは、非常に合理的な判断よ」


 私はアドの目を真っ直ぐに見据え、ロジカルに畳み掛けた。


「彼をただの居候としてタワマンに飼い殺しにしておくのは、私にとって強烈なデメリットでしかないわ。彼が何も生産しない『餌を食うだけの存在』である状態は、私の精神衛生上、非常に不快なの」

「だからって組織に入れる理由にはならねえ」

「いいえ、なるわ。彼はすでに私たちの顔を知り、組織の秘密に触れている。妹を人質に取って隔離しているとはいえ、いつかボロを出すリスク、あるいは他組織に狙われるリスクを抱え続けるより、組織の末端として正式に組み込み、完全に『共犯者』にしてしまった方が、情報漏洩のリスクは下がるわ」


 アドは眉間に皺を寄せ、黙って私の言葉に耳を傾けていた。


「それに、何より私自身のパフォーマンス向上のためよ。私が仕事に集中するためには、武器のメンテナンス、現場までの移動のダミー、情報処理といった雑務を丸投げできる存在が必要なの。彼を私の手足として使役すれば、私の戦闘能力はさらに最適化される。これは組織にとって、決して悪い取引ではないはずよ」

「……」


 アドはデスクの上で両手を組み、ジッと私を観察するように見つめた。


「ピュア。お前、本気で言ってんのか?」

「本気よ。彼を私の『所有物』として扱う許可をちょうだい」

「……お前も、アリスに似てきたな」


 アドは自嘲するように笑った。


「変な情が移ったか? あのガキが可哀想になったってんなら、随分と人間らしくなったもんだがな」

「情じゃないわ。あくまで合理的な計算よ」

「屁理屈をこねるな。……だが、まあいい」


 アドは引き出しから新しい煙草を取り出し、火をつけた。


「お前の言う通り、ただ軟禁しておくよりは、お前の監視下で働かせた方がリスク管理としては理にかなっている。それに、お前が『自分の所有物』だと言い張るなら、そいつの命はお前の命と同義だ」


 アドの目が、冷酷なプロの殺し屋のそれに変わった。


「いいだろう、ピュア。早乙女蓮の組織入りを認めてやる。……ただし、絶対の条件がある」

「何?」

「万が一、あいつが組織を裏切るような真似をした時、あるいはお前のコントロールを外れて暴走した時。……何かあったら、お前が責任を持って『処分』しろ。一切の躊躇なく、お前の手で眉間を撃ち抜け。それができるな?」

「もちろん」


 私は1秒の迷いもなく即答した。


「彼が私の役に立たなくなったなら、あるいは私に牙を剥くなら、いつでも私の手で壊してあげるわ。それが彼を拾った私の責任でしょ」

「……結構。なら好きにしろ」


 アドは手をひらひらと振り、私を執務室から追い払う素振りを見せた。


「ただし、あいつの給料はお前の報酬から天引きだ。車の運転免許もないガキだからな、せいぜい家事と銃の弾込めくらいにしか使えねえだろうが、しっかりこき使ってやれ」

「言われなくてもそうするわ。ありがとう、アド」


 私は立ち上がり、足早に事務所を後にした。

 目的を達成し、私の胸の奥に渦巻いていた不快なノイズは、嘘のように綺麗に消え去っていた。

 むしろ、新しいおもちゃを手に入れた子供のような、奇妙な高揚感すら覚えている自分に気がついた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午後6時。

 私はタワーマンションへと帰り、リビングのソファに腰を下ろした。


「蓮。居るなら出なさい」


 私が声をかけると、数秒後にゲストルームの扉が開き、蓮がオドオドとした様子で顔を出した。

 彼は私が機嫌を損ねて帰ってきたのではないかと、顔色を窺うようにリビングの端に立つ。


「あ、あの……お帰りなさい、ピュアさん」

「そこに座りなさい」


 私が対面のソファを指差すと、蓮は「えっ」と驚いた顔をした。今まで、彼が共用スペースの家具を使用することは1度もなかったからだ。


「いいから座りなさい。首が痛くなるわ」

「は、はい……失礼します」


 蓮は恐る恐る、高級なレザーソファの端にちょこんと腰掛けた。

 私は彼を真っ直ぐに見据え、冷徹な声で宣告した。


「今日から、あなたは『天秤』の人間よ」

「……え?」

「アドの許可は取ったわ。あなたは今日から、私の専属サポーターになりなさい」


 蓮はポカンと口を開け、私が何を言っているのか理解できないというように瞬きを繰り返した。


「て、天秤の人間って……俺が、ですか? で、でも俺、人殺しなんてできませんよ!? 銃の撃ち方だって知らないし……!」

「殺しなんてさせないわ。私があなたに求めるのは、私の裏方よ」


 私は足を組み、彼に私のルールを突きつけた。


「私の武器のメンテナンス補助、スケジュールの管理、外界での情報収集のサポート、そしてこの家の家事全般。あなたが私のために働くことで、私は殺しの仕事に専念できる。これは組織の利益になるわ」

「……ピュアさんの、サポート……」

「ここでは『視界に入るな』と言ったけれど、これからは私のために働きなさい。妹のために一生この檻に引きこもるつもりだったかもしれないけれど、私の所有物になった以上、そんな無為な時間は許さないわ」


 私の言葉に、蓮はうつむき、ギュッと膝の上の布地を握りしめた。

 彼は賢い子供だ。私の言葉の裏にある真意——彼をただの軟禁状態から救い出し、役割と自由を与えようとしていることに、薄々気がついているはずだ。


「……ピュアさん」


 蓮が顔を上げた時、その瞳には微かに涙が滲んでいた。


「俺……本当に、いいんですか? あなたの、役に立っても……」

「役に立たなければ殺すと言っているのよ」

「……はい」


 蓮は涙を指で拭い、それから、私が初めて見るような、真っ直ぐで力強い決意に満ちた表情を見せた。11歳の子供とは思えない、責任を背負った男の顔だった。


「俺、一生懸命やります。妹のためにも……そして、俺を救ってくれたピュアさんのためにも。絶対に足手まといにはなりません」

「期待はしていないわ。せいぜい努力しなさい」


 私が冷たくあしらうと、蓮は「はい!」と力強く頷いた。

 その顔を見て、私はふと、アリスの淹れてくれたコーヒーを飲んだ時と同じような、胸の奥が温かくなる感覚を覚えた。


 彼もまた、私の世界を狂わせる因子の1つだ。

 だけど、この非合理な繋がりも、今は悪くないと思える。


「とりあえず、今日の夕食を作りなさい。冷蔵庫の余り物でいいわ。私の食事のペースを乱さないように、30分以内でね」

「はい、ピュアさん! すぐに用意します!」


 蓮は勢いよく立ち上がり、キッチンへと向かっていった。

 その後ろ姿を眺めながら、私は小さく息を吐き出した。


 鳥籠から抜け出した私は、自分の意志で、新たな共犯者をこの世界に引きずり込んだ。

 この選択が、どれほど血に塗れた未来を呼ぶことになるのか。

 今はまだ、計算する必要はない。

 私はただ、この外界の予測不可能な日常を、もう少しだけ楽しんでみることにした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━


 3月上旬。

 私の静謐なタワーマンションの生活に、早乙女蓮という11歳の少年が『私の所有物』として組み込まれてから、数日の時間が経過していた。


 彼は私の生活のペースを乱さないというルールを完璧に守りつつ、食事の用意や清掃といった家事全般を黙々とこなしていた。

 彼が私の視界に入ることは許可したが、それでも彼は自ら進んで気配を殺し、私が読書やコーヒーの抽出に集中している時は、決して音を立てないようにリビングの隅で息を潜めていた。

 まるで、獰猛な肉食獣の檻に放り込まれた草食動物のようだ。

 だが、その怯えと従順さは、私にとって非常に都合が良く、合理的だった。


 その日の午後。

 リビングのソファで私が物理学の専門書を読んでいると、傍のテーブルに置かれた仕事用のスマートフォンが短く振動した。

 ディスプレイに表示されたのは『アド』の文字だ。


「私だけど」

『おう、ピュア。ブツが完成したぞ』


 アドの声は、いつものように紫煙の混じった掠れたトーンだった。


「蓮の戸籍ね」

『ああ。お前の時と同じく、完全に綺麗に書き換えておいた。前科も借金も、過去のしがらみも一切ない真っ白な戸籍だ。データは今、お前のタブレットに送った』


 私は手元のタブレットを開き、アドから送られてきたPDFファイルを開いた。

 そこには『早乙女蓮』という名前と共に、顔写真と生年月日が記載されていた。


「……1995年12月30日生まれ。私と同じってことは、20歳?」

『そうだ。お前と同じで、11歳のガキを組織で使うには、法的な年齢制限が邪魔になることが多すぎる。あいつは幸い、ガタイだけは立派で声変わりも済んでるからな。20歳で登録しても、少し童顔な若者にしか見えねえだろう。これで酒もタバコも、何より『契約』が自分の名義でできる』


 確かに、11歳のままでは外界の様々なサービスを享受する上で不都合が生じる。私自身も15歳でありながら20歳として戸籍を偽装されている。彼も同じ処理を施されるのは当然の帰結だった。


「わかったわ。これで彼を本格的に私の手足として動かせる」

『ああ、それとな』


 アドが電話の向こうで少しだけ意地悪く笑う気配がした。


『ちょうどお前と同じ「早乙女」って苗字だったからな。怪しまれねえように、法的にはお前の「双子の弟」ってことにして登録しておいたぞ。早乙女純玲と、早乙女蓮。仲のいい姉弟で何よりだ』

「……悪趣味ね。私に弟なんていないし、家族ごっこをするつもりもないわ」

『建前の話だよ。外界で行動する時に、赤の他人の同居人より、姉弟の方が色々と融通が利くからな。じゃあな、給料分きっちり働かせろよ』


 一方的に通話が切れ、私は小さく息を吐いた。

 私が姉で、彼が弟。

 過去に自分の手で家族を解体した私が、外界に出て、再び法的な『家族』を持つことになるとは、なんとも皮肉な巡り合わせだった。だが、アドの言う通り、世間を欺くためのカモフラージュとしては非常に合理的だ。


「蓮。居るなら来なさい」


 私が声をかけると、キッチンの奥で包丁を動かしていた蓮が、慌てて手を拭きながらリビングへと小走りでやってきた。


「はい、ピュアさん! 何かご用ですか?」

「あなたの戸籍が完成したわ。今日からあなたは、法的に20歳の大人よ」


 私がタブレットの画面を見せると、蓮は目を丸くして画面を覗き込んだ。


「は、20歳……!? 俺が、大人に……?」

「ええ。そして、外界でのカモフラージュとして、あなたは私の弟として登録されたわ。外で誰かに聞かれたら、私たちは姉弟だと答えなさい」

「弟……俺が、ピュアさんの弟……」


 蓮はタブレットの画面と私の顔を交互に見比べ、なぜか頬を少しだけ赤く染めた。

 11歳の子供からすれば、突然大人の身分を与えられ、私のような人間の弟という立場になったことは、情報過多で処理が追いつかないのだろう。


「喜ぶのはまだ早いわ。法的に大人になったということは、あなたが私のために遂行できるタスクが増えたということよ」

「タスク、ですか?」

「ええ。まず、あなたには私の『専属ドライバー』になってもらうわ」


 私は彼を真っ直ぐに見据え、決定事項として告げた。


「これまでは移動の際、アリスや組織の人間が車を出してくれていたけれど、私は自分のスケジュールを他人に依存したくないの。仕事の現場までの移動、日常の買い物、そして万が一の逃走。すべてをあなたが運転してこなしなさい。私は助手席か後部座席で休むわ」


 私の言葉を聞いた瞬間、蓮の顔から一気に血の気が引いた。


「う、運転って……車の、ですか!?」

「他に何があるの? 馬車でも引くつもり?」

「む、無理です! 俺、今まで自転車すらまともに乗ったことがないのに! あんな鉄の塊を動かすなんて、絶対に事故ります!」

「無理じゃないわ。私があなたをドライバーとして使うと決めたの。これは命令よ」


 私が冷徹に言い放つと、蓮は涙目になりながらギュッと身を縮めた。


「で、でも、車なんて持ってないですし……ピュアさんの、あの黒いスポーツカーを俺が運転するんですか……? あんなの、傷でもつけたら俺、一生かかっても弁償できません……!」

「あれは私の車よ。あなたには触らせない。だから、あなたが運転するための車を、これから買いに行くわ」

「か、買いに……今からですか!?」

「ええ。移動手段の確保は最優先事項よ。アリスを呼んであるから、すぐに出発するわよ」


 私は有無を言わさず立ち上がり、クローゼットへ向かった。

 車の運転には免許が必要だ。だが、その前にまず彼が操作する物理的な『機材』を確保しなければならない。

 私は車の工学的な構造には詳しいが、外界の市場にどんな車種が存在し、目的に応じてどれを選ぶべきかという知識が欠如している。だからこそ、外界の消費行動において絶対的な信頼を置いているアリスに、今回の車選びのコンサルティングを依頼していたのだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午後2時。

 私のタワーマンションの地下駐車場に、アリスの運転する真っ赤なポルシェが滑り込んできた。

 私と蓮が車に乗り込むと、アリスはいつものように快活な笑顔で出迎えてくれた。


「ヤッホー、ピュアちゃん! 蓮くんも元気そうね!」

「お久しぶりです、アリスさん」


「早速だけど、アリス。条件は伝えてあるわよね」

「うん、バッチリだよ! 蓮くんをピュアちゃんの専属ドライバーにするための車選びでしょ? 私に任せて!」


 アリスはウインカーを出し、車を都内の幹線道路へと走らせた。


「ピュアちゃんからのオーダーは2つ。『仕事の拠点として使えて、かつ長距離移動が可能な車』と、『普段使いで目立たず、でも舐められない送迎用の車』。でしょ?」

「ええ。私と蓮が外界で効率よく動くためには、その2種類の機能が必要不可欠だと思うの」

「うんうん、理にかなってると思う! だからね、私、最高の車を見繕っておいたよ!」


 アリスが自信満々に胸を張る。


「まず向かうのは、ちょっと特殊な輸入車の専門ディーラーだよ。そこで、仕事の拠点になる『動く要塞』を買おう!」


 車は港区の湾岸エリアにある、巨大な倉庫のような建物の前で停まった。

 中に入ると、そこには一般的な自動車ディーラーの光景とは全く異なる、まるで大型バスやトラックのような巨大な車両が何台も展示されていた。


「ここは、海外製の超高級モーターホーム……つまり、キャンピングカーの専門店なの」


 アリスが先陣を切って歩きながら解説する。


「仕事で地方に行ったり、ターゲットを何日も張り込んだりする時、ホテルを取ると足がつくリスクがあるでしょ? だから、車自体を完璧な居住空間にしちゃえばいいのよ」

「なるほど。移動可能な拠点ね。合理的な判断だわ」


 私が感心していると、奥から初老の支配人らしき男が揉み手で近づいてきた。


「お待ちしておりました、塩見様。お電話で承りました『最高峰のモデル』、ご用意しております。こちらへどうぞ」


 案内された先に鎮座していたのは、全長12メートルを超える、黒光りする巨大な鉄の箱だった。

 まるで要塞だ。大型観光バスほどのサイズがありながら、直線的で無骨なデザインは軍用車両のような威圧感を放っている。


「ドイツ製の超大型モーターホーム、『フォルクナー・モービル』の特注モデルだよ。お値段、軽く3億円ってとこかな」


 アリスがポンと車体を叩きながら言った。


「室内は高級ホテル並みの設備。キングサイズのベッドルームに、フルオーダーのキッチン、シャワールームはもちろん、床暖房に大容量のリチウムイオンバッテリー、さらには防弾ガラス仕様にカスタマイズしてあるの」

「……素晴らしいわ。これなら外界のどこにいても、私の快適なパーソナルスペースを完璧に維持できる」


 私はその合理的なスペックに深く頷いた。だが、私が一番気になったのは、その車体の下部——巨大な腹の下にある、不自然な切れ込みのような構造だった。


「アリス、この下側のスペースは何?」

「ふふっ、よくぞ聞いてくれました! これが、私がこの車を選んだ最大の理由だよ!」


 アリスが支配人に合図を送ると、彼はリモコンのボタンを押した。

 ウィーン、という重低音とともに、巨大なモーターホームの車体側面の腹部が開き、中から鉄板のステージがスライドして飛び出してきたのだ。


「なんと! このモーターホーム、腹の下にスポーツカーを1台、丸ごと格納できる『セントラルガレージ』がついてるのだ!」

「……!」

「これなら、普段はこの巨大な車で蓮くんに運転させて現地まで移動して、いざという時や、細かい移動が必要な時は、腹の中からピュアちゃんのポルシェを出してピュアちゃん自身が爆速で走れるってわけ! どう!? 最高でしょ!」


 アリスのプレゼンテーションを聞き、私は目を見開いた。

 母艦となる巨大な居住空間と、そこから射出される漆黒のクーペ。私の快適性と機動力を完璧に両立させる、これ以上ない物理的ソリューションだった。


「完璧よ、アリス。これを買うわ」

「えっ、ちょ、ちょっと待ってくださいピュアさん!?」


 今まで呆然と巨大な車を見上げていた蓮が、パニックを起こして私の袖を引いた。


「これ、俺が運転するんですか!? こんな、バスみたいなでかい車……! 絶対に無理です! 街中で曲がれませんし、ぶつけたら3億円なんて……!」

「うるさいわね。あなたが私のドライバーとして機能するために必要な機材よ。物理法則に従ってハンドルを回し、ペダルを踏むだけ。何も難しいことはないわ」

「そういう問題じゃ……ひぃっ!」


 私が冷たい視線を向けると、蓮はヒュッと息を飲んで口を閉ざした。

 私はブラックカードを支配人に渡し、即金での購入手続きを済ませた。


「よし! じゃあ次は、普段使いの車を買いに行こっか!」


 アリスは上機嫌でディーラーを後にし、今度は都内の高級車が立ち並ぶエリアにある、国産車の大型店舗へと私たちを案内した。


「いくらモーターホームが便利でも、ちょっとスーパーに買い物に行ったり、都内の狭い道を走ったりするのに、12メートルの要塞を出すわけにはいかないからね。だから、普段使い用の小回りが利いて、でも舐められない車が必要なの」


 アリスが指差した先には、黒塗りの巨大なミニバンが展示されていた。


「トヨタの『アルファード』。フルサイズワゴンって呼ばれる、VIP送迎用の車だよ」


 アルファードよりもさらに1回り大きく、角ばったデザインと巨大なフロントグリルが、圧倒的な威圧感を放っている。窓ガラスは真っ黒なスモークが貼られ、中の様子は全く窺えない。


「後部座席は完全なプライベート空間。本革のキャプテンシートで、ピュアちゃんは足を伸ばしてゆったり寝られるよ。しかも、見た目が完全に『その筋の送迎車』だから、街中で変な輩に煽られたり、舐められたりすることは絶対にないの」

「私の視覚的・空間的な不快感を排除しつつ、外界のノイズから身を守るための完璧な装甲車だわ」


 私は車のドアを開け、後部座席に座ってみた。

 シートのホールド感、足元の広さ、静粛性。私のポルシェのような戦闘的な硬さとは違う、究極の『快適さ』を追求した空間だった。これなら、移動中に読書をしたり、仮眠を取ったりするのに何の支障もない。


「これも買うわ。1番上のグレードで、フルオプションをつけてちょうだい」


 私は再びブラックカードを切り、営業マンが腰を抜かさんばかりの勢いで契約書にサインをした。


「……あ、あの、ピュアさん……」


 車の横で、蓮が絶望に染まった顔で立ち尽くしていた。


「この車も……全長5メートル以上あるんですけど……」

「そうね。モーターホームに比べれば、随分とコンパクトで可愛らしいサイズだわ。これならあなたもすぐに慣れるでしょう」

「コンパクト……? これが……?」


 蓮は巨大なアルファードと私を交互に見比べ、完全に魂が抜けたように膝から崩れ落ちた。


「俺、死ぬかもしれない……。こんなでかい車、2台も……」

「死なせないわよ。あなたは私の所有物なんだから。……でも、確かにあなたがこのまま公道に出れば、周囲の車を破壊すし尽くすリスクが高いわね」


 私は彼の言うことにも一理あると判断し、腕を組んだ。

 彼は法的に20歳になったとはいえ、運転の技術や知識はゼロだ。私のように、車の構造を物理学的に理解し、一発でスポーツカーを乗りこなすような才能や度胸は、彼には微塵も存在しない。


「仕方ないわ。あなたをドライバーとして完成させるために、まずは『インストール』の工程を踏ませてあげる」

「い、インストール……?」

「教習所よ。大型免許と普通免許、両方を同時に取得してきなさい」


 私が冷徹に宣告すると、蓮は「きょうしゅうじょ……」と呟き、深々とため息を吐いた。


「アリス。組織の裏ルートで、融通が利いて、かつ最短で免許が取れる教習所の手配をお願いできる?」

「もちろん! アドに頼んで、みっちりしごいてくれるVIP対応の教習所を予約しておくね。通いで毎日通わせれば、1ヶ月もあれば両方取れるはずだよ!」


 アリスが楽しそうにウインクをする。

 こうして、私の専属ドライバー兼サポーターとしての、早乙女蓮の地獄の特訓の日々が幕を開けたのだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 それからの約1ヶ月間。

 私のタワーマンションでの生活は、奇妙な静けさと、夕方以降の奇妙な『疲労の気配』によって彩られることになった。


 蓮は毎朝、私が起きる前に朝食の用意とリビングの掃除を完璧にこなし、私が指定した時間に家を出て、組織が手配した教習所へと通っていた。

 大型免許と普通免許の同時取得。しかも、彼が乗ることを想定しているのは3億円の超大型モーターホームと、VIP送迎用のフルサイズワゴンだ。教習所の教官たちも、組織からの『絶対に事故を起こさないプロのドライバーに仕上げろ』というプレッシャーを受け、彼に対して容赦のないスパルタ指導を行っていたらしい。


 私は彼が教習所で何を言われ、どんなミスをしているのか、具体的な現場の光景を見ることはなかった。

 私にとって重要なのはプロセスではなく、彼が『免許を取得し、安全に車を運行できる』という結果だけだ。だから、彼が日中教習所でどれだけ怒鳴られようが、汗を流そうが、私の知ったことではない。


 だが、夜になると、その過酷なプロセスの片鱗が、私の視界に否応なく入り込んでくるようになった。


 午後8時。

 私がリビングで、新しく届いた化学の専門書を読んでいると、玄関のドアが重々しく開く音がした。


「……ただいま、戻りました……」


 這うような足取りでリビングに現れた蓮は、まるでゾンビのように生気を失っていた。

 目は虚ろで、肩はうなだれ、髪はボサボサになっている。

 彼はフラフラとキッチンのカウンターに向かい、私が夕食を終えて置いておいた食器を片付け始めたが、その手つきすらも危うい。


「食器の片付けは後でいいわ。割られたら不快だから」


 私が本から目を離さずに声をかけると、蓮は「すみません……」と蚊の鳴くような声で謝り、リビングの端にある小さなスツールに腰を下ろした。


 彼は自分のリュックから、分厚い自動車教習所の学科教本と、大型車両の構造図が描かれたプリントの束を取り出した。

 そして、疲労で重く垂れ下がるまぶたを必死にこすりながら、ブツブツと何かを呟き始めた。


「……内輪差……大型車の後輪は、前輪よりも内側を通る……だから、交差点を左折する時は、前輪を交差点の中心近くまで進めてからハンドルを切り始める……エアブレーキの踏みしろは……」


 彼はマーカーペンを握りしめ、教本と睨み合っている。

 だが、5分もすると、彼の手からペンが滑り落ち、カタンと床に音を立てた。

 視線を向けると、蓮は教本を抱きかかえるようにして丸まり、スツールの上で完全に寝落ちしていた。規則正しい寝息が聞こえてくる。


「……」


 私は本を閉じ、彼の方へと歩み寄った。

 11歳の子供が、毎日朝から晩まで、大人の男でも音を上げるような過酷な運転教習と学科の勉強に追われているのだ。肉体的にも精神的にも、限界を超えているのは明らかだった。


 私は床に落ちたマーカーペンを拾い上げ、テーブルの上に置いた。

 彼が寝落ちしたままの姿を見下ろす。

 以前の私なら、彼が私のリビングで無防備に寝ているという事実だけで、強烈な不快感を覚え、即座に叩き起こしてゲストルームへ放り込んでいただろう。私のパーソナルスペースを『疲労のノイズ』で汚されるのは、本来なら許容できないエラーだ。


 だが、今の私は、彼を叩き起こそうとはしなかった。

 毛布をかけてやるような感傷的な行動も起こさない。ただ、静かに彼の寝顔を観察していた。


 彼は、私のために必死に努力している。

 妹のためという理由もあるだろうが、彼が私から命じられた『専属ドライバーになる』というタスクを完遂するために、自分の限界を削って知識と技術をインストールしているのは紛れもない事実だった。


「……不器用ね」


 私は小さく呟いた。

 私なら、こんな教本など1時間もあれば全て記憶し、物理法則の計算式に当てはめて完璧に理解できる。彼が何日もかけて苦労しているプロセスは、私から見ればひどく非効率で、無駄が多い。

 しかし、その非効率な泥臭さが、なぜか私には『嫌なもの』には見えなかった。


 自分が拾い上げ、自分の所有物として定めた駒が、私の期待に応えようと形を成していく過程。

 それは、ただの居候が息を潜めているだけの状態とは違う。彼が明確に『私の機能の一部』になろうと削られている音は、不思議と私の精神に心地よい充足感を与えていたのだ。


 私は彼をそのまま放置し、キッチンへと向かった。

 冷蔵庫を開けると、彼が朝のうちに作り置きしてくれていた、冷製のポタージュスープと、チキンのマリネが綺麗にタッパーに収められていた。

 教習所でどれだけ疲弊していても、彼は私が口にする食事の準備だけは絶対に怠らなかった。


 私はタッパーを取り出し、1人で遅めの夜食をとった。

 スープの滑らかな舌触りと、マリネの的確な酸味。

 完璧な温度で抽出されたコーヒーほどの物理的正確さはないかもしれないが、彼が作る食事には、私の味覚の好みを完全に学習し、最適化しようとする『意図』が込められている。


「……悪くないわ」


 私はスープを飲み干し、静かなリビングの空気の中で小さく息を吐いた。


 彼が免許を取得し、あの巨大なモーターホームとアルファードを乗りこなせるようになるまで、もう少しの辛抱だ。

 彼が私の手足として完成した時、私は外界での圧倒的な機動力と、不快なノイズから隔離された完璧な移動空間を手に入れることになる。


 その時、『あの方』と呼ばれる黒幕がどのような罠を仕掛けてこようと、私とアリス、そしてこの未熟な私の所有物が織りなす暴力と機動力で、全てを物理的に粉砕してやればいい。


 私は寝落ちしている蓮の横を通り過ぎ、自分の寝室へと向かった。

 私の世界は、静かに、しかし確実に、血に塗れた次の戦いへ向けての準備を整えつつあった。


 4月上旬。

 私のタワーマンションに居候——もとい、私の専属サポーターとして『天秤』に加入した早乙女蓮が、約1ヶ月に及ぶ地獄の教習所通いを終えた。


「ピュアさん……ようやく、取れました……」


 その日の夕方、玄関のドアを開けてリビングに這うように入ってきた蓮は、1枚の真新しいプラスチックカードを震える両手で私に差し出した。

 受け取って確認する。公安委員会が発行した、正規の運転免許証だ。

 種類欄には『普通』と『大型』の文字がしっかりと記載されている。名義はもちろん、アドが偽造した『早乙女蓮、1995年生まれ』の20歳のものだ。


「予定より3日早い計算ね。ご苦労様」

「もう、2度と……あんな思いはしたくないです……。教官に毎日怒鳴られて、クランクで脱輪して……」


 蓮はソファの端に崩れ落ち、深い安堵の溜息を吐き出した。

 私は彼が教習所でどのような指導を受けていたかなど一切興味はない。私にとって重要なのは、彼が公道でアルファードとモーターホームを合法的に、かつ安全に運行できる物理的な資格と技術を獲得したという結果だけだ。


「休んでいる暇はないわよ。すぐに実地テストを行うわ。地下駐車場へ行きなさい」

「えっ!? 今からですか!?」

「鉄は熱いうちに打て、という非合理的なことわざがあるけれど、脳の神経回路に定着した運動記憶をすぐに実戦で出力するのは、脳科学的にも非常に理にかなっているのよ。さあ、立って」


 私は反論を許さず、彼を引きずり出して地下駐車場へと向かった。

 まずは普段使い用のVIP送迎車、アルファードだ。

 蓮は運転席に座り、私は後部座席の豪奢なキャプテンシートに深く身を沈めた。


「目的地は新宿の組織のセーフハウス。1番混雑している甲州街道を通りなさい。制限速度は厳守、急発進・急ブレーキは私の快適性を損なうから減点よ」

「は、はい……!」


 蓮はガチガチに緊張しながらエンジンをかけ、全長5.3メートルの巨大な車体をゆっくりと発進させた。

 だが、私の懸念は杞憂に終わった。

 駐車場からの出庫、スロープの登り、そして幹線道路への合流。彼のハンドルさばきとアクセルワークは、1ヶ月前まで自転車すらまともに乗れなかった11歳の子供とは思えないほど、スムーズで安定していた。

 VIP対応の教習所でみっちりしごかれた成果だろう。車間距離の取り方も的確で、ブレーキを踏む際もGの変動が極めて少ない。私が後部座席で読書をしていても、まったく酔う気配がなかった。


「……合格よ」


 セーフハウスの周辺を一周し、タワーマンションに帰還してエンジンを切った瞬間、私がそう告げると、蓮はハンドルに突っ伏して「よかったぁ……」と泣きそうな声を上げた。

 これで、私の移動に関するタスクは完全に彼へと移行された。


「さて、運転免許の取得はあくまで『第1段階』よ」

「……え?」

「私の休暇も、そろそろ終わるわ。アドから近々仕事を回すという連絡が入っているの。あなたが私のサポーターとして現場で機能するためには、運転以外のイロハも頭に叩き込んでもらう必要があるわ」


 私は彼をリビングに連れ戻し、あらかじめ用意しておいたホワイトボードと数台のノートPC、そしてガンケースをテーブルに並べた。


「今日から、あなたには私の手足として必要な知識と技術を全てインストールしてもらうわ。睡眠時間は削ってもらうことになるけれど、妹さんのためにも死ぬ気で食らいつきなさい」

「……はい! やります!」


 蓮は顔を叩き、必死の覚悟で私の前に座った。


 そこからの数日間は、彼にとって教習所以上の地獄だったに違いない。

 私はまず、東京の複雑怪奇な道路網の地図を完全に暗記させた。

 カーナビなどという不確定な機械に依存していては、緊急時の逃走経路を瞬時に構築することは不可能だ。


「いい? 首都高の出入り口、一方通行の路地、曜日と時間帯ごとの渋滞ポイント、Nシステムとオービスの設置場所。これらを全て頭に叩き込みなさい。私が『A地点からB地点へ向かえ』と指示した瞬間、脳内で最短かつ安全なルートを3パターン弾き出すのよ」

「さ、3パターンも……!?」

「メインルートが封鎖された時のバックアップは常識よ。ほら、この白地図に23区内の主要な抜け道を書き込んで」


 蓮が泣きそうになりながら地図と睨み合っている間、私はPCの基本操作とネットワークの知識を教え込んだ。

 私は施設に収監されていた頃、退屈しのぎに理学や情報工学の専門書を読み漁り、施設の堅牢なフィルタリングを突破してダークウェブにアクセスするほどのハッキング技術を独学で身につけていた。

 それを彼に応用させる。


「現場の監視カメラの掌握、ネットワークへの侵入、信号機のトラフィック制御。1からプログラミングを教える時間はないから、私が組んだスクリプトを状況に合わせて実行するだけの簡単なUIユーザーインターフェースを作っておいたわ」

「……俺、パソコンなんて学校の授業でちょっと触ったことしかないんですけど……」

「マウスはいらないわ。ショートカットキーとコマンドラインだけで操作しなさい。IPの偽装とMACアドレスのスプーフィングの概念は昨日教えたわね。今からこのマンションの防犯カメラのサーバーにバックドアを作って、映像をこの端末に引いてきなさい。制限時間は3分」

「3分!? む、無理です、タイピングが追いつきません!」

「手が止まっているわよ。ほら、Enterキーを叩いて」


 私の教育は、一切の妥協を許さない理詰めのスパルタだった。

 そして極めつけは、私たちが仕事で使用する『物理的な機材』——すなわち、銃器の取り扱いだ。


「私は弾の装填や銃のメンテナンスに自分の時間を割きたくないの。これからはあなたが私の武器を完璧な状態に保ちなさい」


 私はテーブルの上に、H&K社のHK416アサルトライフルと、グロック19ハンドガンを無造作に置いた。


「アサルトライフルの分解清掃手順を教えるわ。テイクダウンピンを2本抜いて、アッパーレシーバーとロアレシーバーを分離。ボルトキャリアグループを取り出して、カーボンの汚れを専用の溶剤で落とすの。パーツの紛失は命取りよ。弾倉への弾込めも、バネのテンションを均等に保つように注意して。はい、やってみて」


 蓮の指先はガンオイルとススで真っ黒になり、目には濃い隈ができていた。

 だが、彼は弱音を吐くことなく、私が要求するタスクを1つ1つ、泥臭くクリアしていった。

 彼が夜遅くまで、何度も何度もストップウォッチで時間を測りながらアサルトライフルの分解と組み立てを繰り返す姿を見ていると、私は胸の奥に奇妙な満足感を覚えていた。


 私の要求する非情なまでの高いハードルに、必死に食らいつき、自分の形を変えていく。

 彼が私の『優秀な手足』として機能拡張されていくプロセスは、全く不快ではなかった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 4月中旬。

 蓮への知識と技術のインストールが一定の基準を満たしたと判断した私は、彼と共に地下駐車場と、契約した大型倉庫に停めてあるモーターホームへと向かった。

 アリスが手配してくれた大量の銃火器と弾薬を、2台の車にセッティングするためだ。


「これからは、この2台の車が私たちの『移動要塞』であり『前線基地』になるわ」


 私はアルファードのトランクを開け、彼に指示を出した。


「3列目シートの後ろにある隠しコンパートメントに、グロックの予備と、サイレンサー、そしてアサルトライフルを2丁セットして。5.56ミリ弾の予備弾倉は最低でも20本、すぐ取り出せるようにラックに固定しなさい」

「はい、ピュアさん。……でも、こんなに大量の武器、一体誰と戦争するつもりなんですか?」


 蓮は重い弾薬箱を運びながら、引き攣った顔で尋ねた。


「備えよ常に、よ。いつ『あの方』と呼ばれる黒幕の手先が何十人で襲ってくるかわからないもの」


 モーターホームの方の武装は、さらに苛烈を極めた。

 巨大な車体の居住スペースの壁面を一部改造し、指紋認証で開く隠し武器庫を構築。そこにはアサルトライフルだけでなく、長距離狙撃用のボルトアクション式スナイパーライフル(M24 SWS)や、分隊支援火器レベルの軽機関銃(M249 MINIMI)、さらにはスタングレネードや小型のC4爆薬までが整然と陳列されている。

 もはや、小さな国の軍隊の小隊規模の武装だ。


 さらに、モーターホームの助手席側には、蓮がハッキングや情報処理を行うためのマルチモニター環境を備えたコンソールデスクを設置した。

 そして腹下のセントラルガレージには、私の漆黒のポルシェがいつでも射出可能な状態で格納されている。


「これで準備は完璧ね」


 私は完成したモーターホームの内部を見渡し、満足げに頷いた。


「はい。武器のメンテナンスも、弾の装填も全て完了しています。ネットワークの接続テストも問題ありませんでした」


 ガンオイルの匂いを微かに漂わせながら、蓮が頼もしげに報告する。

 彼の顔には、教習所に通い始めた頃のオドオドとした弱々しさはなく、裏社会の組織のサポーターとしての自覚と、かすかな自信が宿り始めていた。


「いいタイミングだわ。アドから仕事の依頼が入ったの」


 私のスマートフォンが振動し、タブレットに暗号化された任務のファイルが転送されてきた。

 私はそのファイルを開き、蓮に画面を見せた。


「標的は4人。都内で振り込め詐欺や違法カジノの元締めをやっている悪徳ブローカーとその護衛よ。『天秤』の保護下にある人間に手を出したため、排除が決定したわ」

「4人……。場所はどこですか?」

「品川区の湾岸エリアにある、古びた貸しビルの一室。小規模な案件ね。私の休暇明けのウォーミングアップと、あなたのサポーターとしての『実地テスト』にはちょうどいいわ」


 私は蓮の目を見据え、口角をわずかに上げた。


「行くわよ、蓮。アルファードを出して」

「了解しました、ピュアさん」


 蓮は短く返事をし、運転席へと乗り込んだ。

 私たちの、最初の任務が幕を開けた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午後11時45分。

 品川区の湾岸エリア。潮の香りとヘドロの匂いが混ざる人気のない工業地帯に、私たちの乗る黒塗りのアルファードが音もなく滑り込んだ。


「ピュアさん。ターゲットが潜伏しているビルから2ブロック離れた路地に停車しました。ここなら、対象のビルの窓からの死角になります」


 運転席の蓮が、エンジンをアイドリング状態に保ったまま後部座席の私に報告する。


「上出来よ。さあ、オペレーションを開始して」

「はい」


 蓮は助手席に固定されたノートPCを開き、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。彼に教え込んだショートカットキーの操作が、流れるようなタイピング音を生み出していく。


「対象のビル周辺の監視カメラ、およびビル内部の防犯カメラのネットワークに侵入します。……IPアドレスの偽装完了。ファイアウォールを突破。バックドアを構築……カメラの映像、引けました」


 蓮のPCの画面に、ビルのエントランス、廊下、そしてターゲットがいると思われる部屋の前の映像が分割して表示される。


「現在、エントランスに人影はなし。ターゲットは3階の奥の部屋です。廊下に護衛が1人、タバコを吸って立っています。部屋の中にはターゲットを含めて3人。計4人で間違いありません」

「逃走ルートの確保は?」

「裏口のドアの電子ロックを強制解除しました。路地の出口にある信号機も、システムに侵入済みです。ピュアさんが車に戻り次第、我々の進行方向をすべて青信号に固定できます」


 蓮の流れるような報告を聞きながら、私は思わず感嘆の息を漏らした。

 完璧だ。

 これまで私が単独で動く場合、現場の索敵、カメラの死角の計算、敵の配置予測などを全て自分の脳内で処理しながら戦闘を行わなければならなかった。

 だが今、それらの面倒な情報処理のタスクは、すべてアルファードの車内にいる蓮が肩代わりしてくれている。

 私の思考リソースは、純粋に『敵をどう物理的に排除するか』という戦闘行動の計算だけに100%割り振ることができるのだ。


「素晴らしいわ、蓮。あなたのサポートのおかげで、私の仕事は非常に合理的になる。……エントランスのカメラの映像を、誰もいない状態のループ映像に差し替えて」

「完了しました。ピュアさんがいつエントランスを通っても、記録には残りません」

「行ってくるわ。通信は繋いでおいて」


 私は耳に小型のインカムを装着し、右手にサイレンサーを取り付けたグロック19を握って、アルファードを降りた。


 夜の冷たい風を切りながら、音を立てずにビルのエントランスへと侵入する。

 頭の中には、すでに蓮が提供してくれた敵の配置図と、最短の制圧ルートが完璧に構築されていた。


『ピュアさん。3階の廊下にいる護衛、現在スマホを見ています。警戒は完全に緩んでいます』

「了解」


 インカムから聞こえる蓮の落ち着いたナビゲートに従い、私は階段を音もなく駆け上がった。

 3階の防火扉をそっと開けると、廊下の奥でスマートフォンの画面を眺めている大柄な男の背中が見えた。

 距離は15メートル。


 私は足を踏み出し、迷うことなくトリガーを引いた。

 パシュッ、というくぐもった発砲音。

 放たれた9ミリ弾は、男の延髄を寸分の狂いもなく撃ち抜いた。男は声を発する暇もなく、糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちる。


『護衛の沈黙を確認。残り3人です。部屋の中央のテーブルに集まって、酒を飲んでいます』

「突入するわ。5秒数えて」

『了解。5、4、3、2、1……』


 私は男の死体を跨ぎ、奥の部屋のドアノブに手をかけた。

 鍵はかかっていない。蓮のカウントがゼロになった瞬間、私はドアを蹴り開け、部屋の中へと滑り込んだ。


「なんだっ!?」


 テーブルを囲んでいた3人の男たちが、驚愕の表情でこちらを振り返る。

 だが、彼らの脳が状況を理解し、手元の武器に手を伸ばそうとするより早く、私の銃口はすでに彼らの急所を捉えていた。

 私は一切の感情を交えず、ただ物理的な作業としてトリガーを連続して絞る。


 パシュッ! パシュッ! パシュッ!


 1発目は右の男の眉間。2発目は左の男の心臓。そして3発目は、逃げようと立ち上がったターゲットの元締めの側頭部。

 3つの乾いた音が響き終わる頃には、部屋の中に立っているのは私だけになっていた。


「制圧完了」


 私はインカムに向かって短く告げ、銃のセーフティをかけてポケットにしまった。


『了解しました。裏口に車を回しています。そのまま1階へ降りてきてください』

「ええ」


 私は血だまりを一瞥することもなく、踵を返して階段を降りた。

 裏口のドアを開けると、そこにはすでにエンジンをかけたアルファードが待機していた。自動でスライドドアが開き、私は後部座席へと滑り込む。


「出なさい」

「はいっ」


 蓮がアクセルを踏み込む。巨体を感じさせないスムーズな加速で、車は深夜の路地を抜け、幹線道路へと合流した。

 前方の信号機が、私たちの接近に合わせて次々と青色に変わっていく。蓮がハッキングでトラフィックを制御しているのだ。私たちは一度のブレーキも踏むことなく、現場から完璧に離脱した。


 私はシートに深く寄りかかり、手元のストップウォッチを確認した。

 私がアルファードを降りてから、3階で4人を制圧し、再びこの後部座席に戻ってくるまでの時間。


 ——ジャスト、1分。


「……信じられないわ」


 私は思わず、小さく笑い声を漏らした。

 これまで1人で仕事をした時も、戦闘自体は数秒で終わっていた。だが、現場の確認や死角の確保、逃走ルートの構築にはそれなりの時間を割いていた。

 しかし今回は、蓮という『拡張された手足』のおかげで、到着から完了までの全てのプロセスが、極限まで圧縮され、最適化されたのだ。

 私の計算は間違っていなかった。早乙女蓮という駒を私のサポーターとして組織に組み込んだことは、私の殺し屋としての機能を、2倍にも3倍にも跳ね上げた。


「蓮」

「は、はい! ピュアさん、何か不手際がありましたか……!?」


 運転席の蓮が、バックミラー越しにビクッとして尋ねてくる。


「いいえ。完璧なオペレーションだったわ。あなたのナビゲートのおかげで、私は思考の全てを殺しに集中できた。信号の制御も文句なしよ」

「あ……」

「あなたは、私の優秀な手足として見事に機能したわ。よくやったわね」


 私が心からの評価を口にすると、蓮は驚いたように目を瞬かせ、それから、恥ずかしそうに、しかしひどく嬉しそうに頬を緩めた。


「ありがとうございます……! 俺、ピュアさんの役に立てたんですね……!」

「ええ。これからは、私の仕事の時は必ずあなたがサポートにつきなさい。アリスの車に乗せてもらう必要はもうないわ」

「はいっ! ピュアさんの専属サポーターとして、命がけでやらせてもらいます!」


 蓮の声には、もはや私が彼を拾った時のオドオドとした弱々しさはなかった。

 彼は自分の存在価値を見出し、私の世界の一部として完全に組み込まれたのだ。


 窓の外を流れる深夜の東京の景色を眺めながら、私は心地よい疲労感に包まれていた。

 完璧な1分間。完璧なコンビネーション。

 私が外界で見つけた、初めての『私だけの武器』。

 これなら、これからどんな困難な任務が舞い込もうとも、あるいは『あの方』と呼ばれる黒幕が立ち塞がろうとも、私と蓮の2人で、全てを物理的に排除できるだろう。


「帰ったら、銃のメンテナンスをしておいて」

「了解しました。お疲れ様でした、ピュアさん」


 アルファードの静かな車内で、私は目を閉じた。

 私の世界は、彼という新しい歯車を手に入れ、さらに速く、冷酷に回り始めていた。

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