第四話「楽園の侵入者」
「事後処理の班を向かわせる。お前らはそこで待機しろ」
インカム越しに聞こえたアドの声は、ひどく冷たく、そして僅かに焦燥を含んでいるように聞こえた。
ボスの遺言——『天秤の犬』、『あの方の計画』という言葉をアリスが報告した直後、通信の向こう側で数秒の重い沈黙があったのだ。いつもなら軽口の1つでも叩くはずのアドが、完全に仕事の、それも『危機的状況』を知らせる声色になっていた。
「了解」
アリスが短く返し、インカムの通信を切る。
地下クラブのメインフロアは、狂乱の残骸と化していた。明滅するレーザー光線が、無惨に転がる30の死体と、床に広がる赤黒い血だまりを無機質に照らし出している。
私は、自分の左腕から流れ落ちる血を止めるため、近くの死体が着ていた比較的綺麗なシャツを引き裂き、止血帯代わりに上腕をきつく縛り上げた。
「……ピュアちゃん、顔色悪いよ。血、結構出てるじゃない」
アリスが心配そうに覗き込んでくる。彼女自身も顔や服にべっとりと返り血を浴びており、お世辞にも綺麗な状態とは言えなかったが、彼女の瞳には私への純粋な気遣いだけが浮かんでいた。
「問題ないわ。大動脈は傷ついていないし、出血量から計算してショック状態に陥るまでには至らない。ただ、左脇腹の打撲が少し厄介ね。呼吸のたびに肋骨が肺を圧迫する感覚がある」
「それ、普通に重傷だからね!? 全然問題なくないから!」
アリスは半ば悲鳴のように声を上げ、私の無事な右腕をそっと支えた。
私にとって、肉体の損傷とは『車体が破損し、アラートが鳴っている状態』に過ぎない。アラート自体を『不快だ』と思うことはあっても、それにパニックを起こすような感情的回路は持ち合わせていないのだ。
10分ほど待った頃、メインフロアの重厚な防音扉が開かれ、黒い作業着に身を包んだ数人の男たちが雪崩れ込んできた。
先頭を歩いていたのは、見覚えのあるダウンジャケットの男——シンだった。
「待たせ……」
シンは言葉を切り、床に散乱する凄惨な光景を目の当たりにして完全に足を止めた。
彼の視線が、銃弾で頭を吹き飛ばされた男たちや、首を掻き切られた死体の上を滑っていく。そして、その死体の山の中心に立つ私とアリスを見て、彼はゴクリと喉を鳴らした。
「……お前ら、本当に人間かよ」
「遅いよシン。さっさと事後処理始めなさいよね」
「はいはい、わかってるよ。……おい、お前ら、早く死体を袋に詰めろ。血の清掃と薬物の回収も急げ」
シンが部下たちに指示を飛ばす。30人分の死体処理ともなれば、かなりの時間と労力を要するはずだが、彼らの手際はプロそのものだった。
シンは私たちに近づき、私の血まみれの左腕を見て鼻で笑った。
「なんだ、期待の新人サンも、無傷とはいかなかったみたいだな」
「でも、私は生きているし、標的は全滅した。結果が全てでしょ」
「そりゃそうだ。寧ろこの人数相手によくその程度で済んだもんだよ。外でお迎えの車が待ってる」
シンの言葉に従い、私たちは地下クラブを後にした。
地上に出ると、午前3時を回った冬の深夜の冷気が、汗と血に塗れた私の体を容赦なく冷やしにかかった。細胞が熱を逃がすまいと微細に震え始める。
路地裏に停められていた、外見は普通のワンボックスカーだが内部が簡易的な処置室になっている車両に乗り込むと、すぐに車は霞ヶ関の事務所へと走り出した。私たちが乗ってきた車はシン達が回収してくれるらしい。
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事務所の1室にある提携の闇診療所。
無機質な白熱灯が照らす診察台の上で、私は上半身のジャケットと防弾インナーを脱がされ、スポーツブラ1枚の姿になっていた。
「驚いたな。この至近距離から散弾を食らって、よく立っていられたもんだ」
白衣を着た初老の専属医が、私の左脇腹にできた広範囲の紫色の痣と、左上腕の肉が裂けた傷口をペンライトで照らしながら呟いた。
「インナーの防弾繊維のおかげで、鉛玉のほとんどは皮膚の表面で止まってるか、跳ね返されてる。だが、衝撃で左の第6肋骨に微小な亀裂が入ってるな。腕の傷には、鉛玉が3つほどめり込んでる。今から摘出するが……局所麻酔をするから、少し我慢するんだぞ」
「麻酔は要らない。運動神経に影響を残したくない」
「……お前さん、痛くないのか?」
医者が気味悪そうに私を見る。
私は静かに首を横に振った。
「痛覚は正常に受信しているわ。でも、それが私を行動不能にする理由にはならない」
「……末恐ろしい15歳だ」
アリスが私の右側に立ち、私の右手を彼女の両手でぎゅっと包み込んでくれた。
彼女はシャワーを浴びて血を洗い流し、清潔なスウェットに着替えていたが、その表情はどこか不安げだった。
「ピュアちゃん……痛かったら、私の手、いくらでも握っていいからね」
「そんなことをしたら、アリスの手の骨が折れるわ。合理性がない」
「もう! そういう理屈じゃなくて、気持ちの問題!」
アリスは私の手をさらに強く握りしめた。
他者の体温。血が巡り、脈打つ命の熱。
施設にいた頃、人との接触は監視役の無機質な手のひらか、冷たい金属の手錠くらいしかなかった。だが、アリスの手はひどく温かく、柔らかい。
その熱が私の右腕から体内に伝わり、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていくのを感じた。
「……ありがとう、アリス。あなたの手、すごく温かくて、心地いい」
「……うん。頑張ってね、ピュアちゃん」
医者がメスとピンセットを使い、私の腕にめり込んだ散弾の鉛玉を摘出していく。
カチャン、カチャンと、血濡れた小さな鉛玉がステンレストレイに落ちる乾いた音が響く。肉を引っ張られ、縫合の糸が通る感覚は確かに不快だったが、私の意識の半分以上は、右手を包み込むアリスの温もりに向いていた。
「よし、終わった。肋骨のヒビは自然治癒を待つしかないから、3週間は激しい運動を控えなさい。腕の抜糸は1週間後だ。化膿止めの抗生物質と痛み止めを出しておくからな」
「痛み止めは要らない。痛みがなくなると、肉体の限界を誤認する危険があるから」
「……好きにしろ。全く、アドの奴はどこからこんな怪物を見つけてきたんだか」
医者は呆れたように肩をすくめ、処置の道具を片付け始めた。
私は用意された清潔な黒のパーカーに袖を通し、アリスと共に診療所を出た。
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午前4時半。
私たちはアドの執務室に呼び出されていた。
簡素なデスクの向こう側で、アドは眉間に深い皺を刻み、苛立たしげに煙草の煙を吐き出していた。灰皿にはすでに何本もの吸い殻が山になっている。
「……傷の具合はどうだ、ピュア」
「問題ないわ。戦闘行動も可能よ」
「ドクターストップがかかってんだろ。無理すんな」
アドは短く吐き捨て、デスクの上で組んだ手に顎を乗せた。
「アリスから報告は受けた。バベルのボスが、『天秤の犬』『あの方の計画』と言い残して死んだそうだな」
「ええ。間違いなくそう言ったわ。……ねえ、アド。そもそも『天秤』って、私たちの組織の名前なの?」
私が尋ねると、アドはゆっくりと頷いた。
「お前にはまだ詳しく話していなかったな。俺たちの組織の正式なコードネームが『天秤』だ。俺が弁護士バッジをつけているのも、ただの弁護士としてじゃない。法の外側で、法では裁けない悪を裁き、社会の均衡を保つ。それが俺たちの存在意義だからだ」
「でも、その名前は司法と行政の上層の極一部しか知らないはずよね。どうして末端の半グレが知っていたの?」
アリスが身を乗り出して問い詰める。
アドの目が、スッと細められた。
「……情報が漏れている。それも、俺たちに仕事を回してくる『上』の連中の中からな」
「それって、警察や政治家の中に裏切り者がいるってこと?」
「裏切り者というより、最初から俺たちを『疎ましい』と思っている勢力が存在しているんだろう」
アドは煙草を灰皿に押し付け、新しい1本に火をつけた。
「バベルのような未成年の半グレ集団が、いきなり海外から大量の重火器や薬物を仕入れられるわけがない。必ず、彼らに資金とルートを提供し、操っていた巨大な『黒幕』がいるはずだ」
「それが、ボスの言っていた『あの方』……」
「そうだ。その黒幕は、俺たち『天秤』の存在を知りながら、あえてバベルを暴れさせた。俺たちを誘い出し、戦力を削ぐためか、あるいはもっと別の『計画』のための陽動か……」
執務室に重い沈黙が降りた。
外界に出て、私は自分が圧倒的な力を持っていると信じていた。だが、この世界は私が想像していた以上に複雑で、底知れない悪意が幾重にも絡み合っている。
私とアリスの暴力すらも、誰かの描いた盤上の『駒』として計算されていたのかもしれない。その事実は、私の論理的思考に強い警戒心を抱かせた。
「ピュア、アリス。お前らしばらく『休暇』だ」
「え?」
アドの予期せぬ言葉に、アリスが声を上げた。
「待ってよアド! ピュアちゃんはともかく、私たちの組織が狙われてるかもしれないのに、休んでる場合じゃないでしょ!」
「相手の全貌が掴めない以上、今は動くべきじゃない。下手に動けば、連中の罠に自ら飛び込むことになる。それに、お前らはうちの組織でも切り札になる戦闘力を秘めてるんだ。ピュアの傷を治して切り札温存もそうだが、お前メンターだろ」
アドは鋭い視線で私を見た。
「今回の任務、2人の働きは完璧だった。報酬の30億はすでに折半してお前らの口座に振り込んである。俺とシンで『あの方』とやらの裏を取る。それまでは、おとなしく外界の生活でも楽しんでおけ。……いいな?」
「……わかった。指示に従うわ」
私が頷くと、アリスも不服そうに唇を尖らせながらも、「わかったよ……」と同意した。
見えない巨大な敵の影。
だが、私にはそれを恐れる感情はない。ただ、次に戦うべき時が来たなら、その時は『物理的に排除する』という単純な計算式が頭の中にあるだけだった。
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午前6時。
私とアリスは、私のタワーマンションへと帰還した。
運転はアリスが代わってくれた。車用エレベーターで30階の空中ガレージへと上がり、エンジンを切る。
ガラス扉を開けてリビングに入ると、東の空から冬の澄んだ朝陽が差し込み、白と黒を基調とした部屋を黄金色に染め上げていた。
死線を超え、血と硝煙の匂いにまみれた夜が終わり、完全な『安全地帯』へと戻ってきたのだ。
「ふぁぁ……疲れたぁ……。一気に緊張が解けたかも」
アリスがソファにダイブし、クッションを抱きしめて大きく伸びをした。
「アリス、自分の家に帰らなくてよかったの?」
「だーめ! ピュアちゃん怪我してるんだから、私が看病するの! 左腕痛いでしょ? 着替え、手伝ってあげる」
「別にいいのに」
アリスはむくりと起き上がり、私の元へとやってきた。
パーカーを脱ぐのを手伝ってもらい、クローゼットからシルクのルームウェアを取り出して着せてもらう。1人でもできることだが、彼女の世話を焼きたがる性格を無碍にする合理的な理由は見当たらなかった。何より、彼女に触れられている時間は、悪くない。
「よし、お着替え完了! ピュアちゃんはベッドで横になってて。私が朝のコーヒー淹れてあげるから!」
「……アリス。お湯の温度は93度。豆は15グラムきっちり量って。蒸らしの時間は30秒。絶対に適当にやらないでね」
「うっ……厳しい……。わ、わかってるよ! ピュアちゃんの理系コーヒー、ちゃんと再現してみせるから!」
アリスは袖を捲り上げ、キッチンへと向かっていった。
私は寝室のベッドに腰掛け、毛布を引き寄せてキッチンで奮闘するアリスの背中を眺めた。
カチャカチャと計量器をいじる音。お湯を注ぎながら「ああっ、こぼれた!」と小さな悲鳴を上げる声。
私は自分の左脇腹にそっと手を当てた。鈍い痛みがある。
左腕の傷も、熱を持ち始めていた。
身体が壊れることへの恐怖はない。だが、もし昨夜、私が裏口の男たちを取り逃がし、アリスの背後を撃たせていたら。
もし、アリスがリミッターを外したまま暴走し、自らの肉体を壊して死んでしまっていたら。
——彼女を失う。
その仮説を脳内でシミュレートした瞬間、私の心臓が、今まで経験したことのない不規則なリズムを刻んだ。
恐怖ではない。不安でもない。
ただ、この心地よい時間を共有する『存在』が消滅することに対する、強烈な『拒絶反応』。
これが、誰かを想う、ということなのだろうか。
私は小さく呟き、シーツを握りしめた。
施設では、両親も監視役も、ただの『環境の一部』でしかなかった。気に食わなければ排除し、利用できるものは利用する。
だが、アリスは違う。
彼女は私に強さを教え、無償の優しさを与え、そして私を人間として扱ってくれる。私は彼女をコントロールしたいわけじゃない。ただ、私の隣でずっと笑っていてほしいのだ。
「お待たせー! ピュアちゃん特製、理系コーヒーの完成だよ!」
アリスがマイセンのカップを2つお盆に乗せて、寝室へとやってきた。
ベッドのサイドテーブルにカップを置き、彼女は私の隣に腰を下ろす。
「分量と温度、完璧に守ったから! 飲んでみて!」
「……いただくわ」
私は右手でカップを持ち上げ、1口飲んだ。
豆の持つ果実のような酸味と甘みが広がる。だが、お湯の注ぎ方が均一でなかったせいか、私が淹れる完璧な抽出に比べると、微かな雑味とエグみがあった。
物理的には、間違いなく『失敗』だ。
「……どう? 美味しい?」
アリスが不安そうに上目遣いで私を見る。
私はもう1口飲み、それからカップを置いた。
「抽出にムラがある。お湯を注ぐスピードが一定じゃない」
「うぅ……やっぱり私にはピュアちゃんみたいに精密なことは無理かぁ……」
「でも」
私は言葉を切り、アリスの顔を真っ直ぐに見つめた。
「今まで飲んだどのコーヒーよりも、美味しく感じる」
「……え?」
「うまく説明できないけど、アリスが私のために一生懸命淹れてくれたという事実が、このコーヒーの物理的な欠陥を上書きして、私に『美味しい』と思わせてる、気がする」
私が論理的に、しかし本心からそう告げると、アリスは目をぱちくりと瞬かせ、それから顔を真っ赤にして吹き出した。
「あははははっ! なにそれ! ピュアちゃんってば、照れ隠しも理系なんだから!」
「事実を述べただけ」
「はいはい、わかってるよ。美味しいって言ってくれて、ありがとね」
アリスは私の頭を優しく撫でた。
私はされるがままに目を細め、彼女の体温を感じた。
見えない『あの方』という黒幕。
司法の裏で暗躍する『天秤』という組織の闇。
私が望んだはずの外界のルールは残酷で、血に塗れている。これからも、私たちは互いの背中を預け、死線を潜り抜けなければならないだろう。
でも、構わない。
私のリミッターを外したこの暴力は、もう私自身の快楽や我儘のためだけにあるのではない。
隣で笑うこの人を、どんな理不尽からも守り抜くため。
そして、私が私らしく、この外界で生き続けるため。
「寝るね。おやすみ、アリス」
「うん。おやすみ、ピュアちゃん」
東京の空が完全に白み、新しい1日が始まる。
私は、自分が人間として少しだけ成長したことを確信しながら、心地よい疲労感と共に静かに目を閉じた。
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2016年2月上旬。
30人の半グレ集団『バベル』の殲滅から約2週間が経過していた。
私の左腕の抜糸は数日前に終わり、左脇腹の肋骨のヒビも、日常生活を送る上ではまったく痛みを感じない程度にまで回復していた。組織の専属医には「治癒力が異常だ」と気味悪がられた。
アドから言い渡された『休暇』は、まだ続いていた。
巨大な黒幕『あの方』の正体を掴むため、アドとシンをはじめとする天秤のメンバーが水面下で情報収集に奔走しているらしい。私とアリスは、完全に外界の平穏な日常へと放り出されていた。
その間、アリスは私のタワーマンションに半ば入り浸っていた。
朝は私が厳密な温度と分量でコーヒーを淹れ、アリスが買ってきたパンやサラダを食べる。日中は2人で映画を見たり、私が買ったばかりのポルシェで都内をドライブしたりして過ごす。
施設という無機質な箱庭で10年を過ごした私にとって、誰かとこれほど長い時間を共にすることは初めてだった。だが、不思議とストレスはない。むしろ、アリスが自分のマンションに帰ってしまう夜の方が、少しだけ室内の温度が下がったように感じられて不快だった。
「ピュアちゃん、今日は新宿に行こっか!」
リビングの巨大なソファでくつろいでいた時、アリスがスマートフォンを見せながら提案してきた。
「新宿? 以前行った時、空気は汚いし人も多くてあまり良い印象がないんだけど」
「お買い物のためだよ! ピュアちゃんの冬服、まだ少なかったでしょ。それに、すっごく美味しいジェラートのお店が新しくオープンしたの! 食べに行こうよ!」
「ジェラート。……冷たくて甘い食べ物?ちょっと気になる」
私は合理的とは言えない理由で、あっさりとアリスの提案に乗った。
美味しい食べ物と、アリスの楽しそうな顔。それ以上の理由など必要なかったからだ。
私たちは車を出し、新宿の地下駐車場に車を停めた。
休日の新宿は、相変わらず凄まじい人の波だった。すれ違う人々の話し声、大型ビジョンから流れる広告の音、そして様々な香水や排気ガスの匂い。五感が鋭すぎる私には少し情報過多な環境だが、隣を歩くアリスが私の腕に自分の腕を絡ませてくれているおかげで、不快指数はかなり抑えられていた。
「このコート、ピュアちゃんに似合いそう! 黒の細身で、ピュアちゃんのスタイルの良さが引き立つよ!」
「そうね。アリスが選んでくれるなら、それがいい」
「もう、適当に返事してない? ほら、1回羽織ってみて!」
高級ブティックでいくつか服を見繕い、両手に紙袋を提げながら、私たちは目的のジェラート店へと向かって大通りを歩いていた。
——その時だった。
私の鼻腔を、冷たい冬の空気とは明らかに異質な、どす黒い匂いが掠めた。
香水でも、食べ物でも、排気ガスでもない。
甘ったるく、どこか金属が焼け焦げたような、化学的で粗悪な悪臭。
私の脳の海馬が、瞬時に1つの記憶のファイルを引きずり出した。2週間前、渋谷の地下クラブで30人の死体とともに充満していた、あの違法薬物の匂いだ。
「……アリス」
「ん? どうしたのピュアちゃん。ジェラートのお店、もうすぐそこだよ」
私は立ち止まり、アリスの腕を軽く引いた。
彼女は私の声のトーンが『日常』から『仕事』へと切り替わったことに即座に気づき、周囲に溶け込むような自然な笑顔のまま、声だけを低くした。
「何か見つけた?」
「あの匂いよ。バベルの地下クラブで嗅いだ、粗悪な薬物の匂いがする」
私は人混みの中、匂いのする方角へと視線を巡らせた。
大通りから1本外れた、少し薄暗い路地。そこへ足早に入っていく、3人の若い男の後ろ姿を捉えた。
彼らはダボついたダウンジャケットやパーカーを着崩しているが、先頭の男の首筋に、見覚えのある毒々しい塔のタトゥーが刻まれているのが見えた。バベルの構成員が好んで入れていたものと同じだ。
「……あいつら。バベルの残党ね」
アリスが私の視線の先を追い、小さく舌打ちをした。
「30人で全員じゃなかったんだ。あの日、たまたまアジトにいなかった末端の連中かな」
「どうする? 私たちは今、休暇中だけど」
「でも、あいつらがバベルの薬物をまだ持ってて、他の組織に合流したり売り捌いたりしたら面倒なことになるよ。……追おう。ピュアちゃん、こっち」
私たちはジェラート店へ向かうのをやめ、紙袋を持ったまま、3人の男たちの後を自然な足取りで尾行した。
彼らは周囲を警戒するように何度も振り返りながら、繁華街の喧騒からどんどん離れていく。やがて、再開発の計画から取り残されたような、シャッターの閉まった古い雑居ビル群の中へと入っていった。
男たちが、窓ガラスの割れた4階建ての廃ビルの裏口に姿を消すのを確認し、私たちは物陰に身を隠した。
「間違いなく、あそこに何か隠してるね。お金か、薬物の残りか」
「すぐ片付けられる人数ね。3人なら、数秒で終わる」
私はジャケットのポケットから仕事用のスマートフォンを取り出した。
事後処理の必要性を考慮し、アドに確認の電話を入れる。コールは2回で繋がった。
『どうした、ピュア。休暇中に連絡なんて』
「新宿でバベルの残党を見つけた。3人。古い廃ビルに入っていった。どうやら薬物の隠し場所みたいだけれど」
『……チッ。あいつら、まだ湧いてきやがるか』
電話の向こうで、アドが忌々しそうに舌打ちをする音が聞こえた。
『他の組織に合流される前に芽は摘んでおきたい。末端のガキどもなら、黒幕の情報も持っていないだろう。……処理して構わん。ただし、お前らは今休暇中だってことを忘れるな。絶対に人目につかないよう、サクッと片付けろ』
「了解。事後処理の班だけ手配しておいて」
私は通話を切り、アリスに頷いた。
「許可は出た。始末しましょう」
「オッケー。でもピュアちゃんはまだ全快じゃないんだから、無理しないでよ? 私がメインでやるから」
「3人程度で無理も何もないわ」
私たちは買ったばかりの紙袋を物陰に隠し、腰のホルスターと背中から、それぞれサイレンサーを装着した自動拳銃を取り出した。
カチャリ、とセーフティを外す。
つい数分前まで「どの服が似合うか」と他愛無い会話をしていた日常から、血と硝煙の殺し合いの世界へと、私たちの意識は完全に切り替わっていた。
音を殺して廃ビルに侵入する。
内装は剥がれ落ち、コンクリートが剥き出しになった薄暗い階段を2階へと上がる。
奥の1室から、男たちのくぐもった話し声が聞こえてきた。
「早くしろよ! あの化け物に見つかったら俺らもミンチにされちまうぞ!」
「わかってるよ! ボスがここに隠してたクスリと現金、全部持っていけば、しばらくは遊んで暮らせる。さっさとカバンに詰めろ!」
「おい、お前もぼさっとしてねぇで手伝えよ! 借金チャラにしてほしけりゃ手ぇ動かせ!」
「ひっ……は、はい……っ!」
2人の粗暴な声に対し、もう1つの声はひどく怯え、震えていた。
私はアリスと目配せをした。
アリスが扉のノブに手をかけ、3本の指を立てる。
3、2、1。
アリスが勢いよく扉を蹴り開けた。
蝶番がひしゃげる凄まじい音とともに、室内にいた3人の男が一斉にこちらを振り返る。
床にはジュラルミンケースが開かれ、札束と白い粉の入ったビニール袋が散乱していた。
「なっ……お、お前らっ!?」
「なんでここが……!!」
首にタトゥーのある男と、金髪の男がパニックを起こし、腰から拳銃を抜こうとした。
だが、遅すぎる。
彼らの筋肉が収縮し、銃口がこちらを向くコンマ数秒の間に、私はすでに部屋の中央へと滑り込んでいた。
パシュッ! パシュッ!
サイレンサー越しの乾いた発砲音が2度、連続して響く。
私の放った弾丸は、首にタトゥーのある男の眉間と、金髪の男の心臓を寸分の狂いもなく撃ち抜いた。
彼らは悲鳴を上げる暇すらなく、床に散らばる札束の上へと崩れ落ち、ピクピクと痙攣したのち完全に沈黙した。
私の怪我は、銃を構え、引き金を引くという物理的な動作には全く影響を及ぼさなかった。合理的で、無駄のない制圧だ。
「あと1人——」
私は残る1人に銃口を向けようとした。
だが、それより早く、扉の側にいたアリスがその最後の1人の男の頭に銃を突きつけていた。
最後の1人は、他の2人とは明らかに異質だった。
年齢は私より少し下くらいだろう。だが、服はダボついたストリートファッションではなく、着古した地味なパーカーとジーンズ。髪も黒く、タトゥーやピアスの類は一切ない。
何より、彼は武器を持っておらず、逃げようともしなかった。
床にへたり込み、顔面を蒼白にしながらも、ただじっとアリスの銃口を見つめていたのだ。
「……殺さないでくれ」
男は震える声で、しかし必死に言葉を絞り出した。
「俺は、バベルの人間じゃない。借金のカタに、今日無理やり荷物運びを手伝わされただけなんだ……! クスリもやってない! ほんとだ!!」
「……」
アリスは銃を突きつけたまま、無言で男を見下ろしていた。
「お願いだ……俺が死んだら、妹が1人になっちゃうんだ……! 俺が働いて食わせてやらないと……だから、見逃してくれ!! 何も言わない、警察にも行かないから!!」
男の言葉には、嘘をついているような響きはなかった。その必死さは本物だった。
私の目は、男の身体的特徴を冷徹にスキャンしていた。
瞳孔の開き具合は正常。薬物中毒特有の震えや肌の荒れはない。そして、彼が床についている手には、ペンだこや、肉体労働でできたと思われる無数の硬いマメがあった。人を殴ったり、銃を撃ったりするような人間の手ではない。真面目に働いてきた、ただの一般人の手だ。
先ほど彼らが話していた「借金チャラにしてほしけりゃ手伝え」という言葉と合致する。
彼は半グレ集団の構成員ではなく、たまたま脅されて使役されていた、巻き込まれただけの一般人である確率が極めて高かった。
「……ピュアちゃん」
アリスの銃口が、微かに震え始めた。
「この人、違う」
「何が違うの?」
私は銃を下ろさずに尋ねた。
「彼はこの場所にいて、バベルの薬物と現金を見て、私たちの顔も見た。彼がバベルの人間であろうとなかろうと、組織の情報を外部に漏らすリスクがある以上、排除するのが合理的な判断よ。それが私たちの『仕事』でしょ」
アドの命令は「サクッと片付けろ」だ。情けをかけて生かしておけば、後でどんな形で自分たちの首を絞めるかわからない。それが裏社会の絶対的なルールだと、私は本で読み、アドからも教わった。
私は1歩前に出た。
「アリスが撃たないなら、私が殺すわ。退いて」
私が男の額に銃口を合わせようとした瞬間。
ガシッ、と。
アリスの左手が、私の構えた右腕を強く掴んだ。
「……待って、ピュアちゃん」
アリスは私を制止し、私と男の間に立ち塞がるように身を乗り出した。
彼女の目は、いつもの明るいアリスでも、狂気に染まった殺し屋のアリスでもなかった。
ひどく悲しそうで、痛みを堪えるような、迷いに満ちた瞳をしていた。
「ダメだよ……この人は、殺しちゃダメ」
「どうして? 彼は目撃者よ。生かしておくメリットは何もない」
「メリットとか、合理的とか、そういう問題じゃないの!」
アリスは私の手を握ったまま、強く首を振った。
「私は……何の罪もない両親を通り魔に殺された。理不尽な暴力で、日常を奪われたの。だから、私は組織に入る時、アドに条件を出した。『悪人しか殺さない』って」
「彼は悪人たちと一緒にいたわ」
「でも、彼は悪意を持ってここにいたわけじゃない! 家族を守るために、仕方なく脅されてただけなの! この人を殺したら……私たちは、私の両親を殺したあの通り魔と同じ、ただの『理不尽な暴力』になっちゃう!」
アリスの言葉に、私は理解が追いつかず眉をひそめた。
私にとって、他者は等しく『環境の一部』だ。それが悪人であろうと善人であろうと、自分にとって『障害』であるならば排除する。両親を殺した時もそうだった。そこに『罪の有無』などという非合理的な概念を挟む余地はなかった。
だが、アリスは違うのだ。
彼女の行動原理の根底には、強烈な『善悪の基準』と、過去のトラウマからくる『弱者への共感』がある。
目の前で震え、妹のために命乞いをするこの男の姿に、彼女はかつて理不尽に殺された自分の家族の姿を重ねてしまっているのだ。
「お願いだ……俺を、殺さないでくれ……」
男は顔を青ざめさせながらも、かすれた声で懇願した。
私はアリスの顔を見た。
彼女は唇を強く噛み締め、私を見つめ返している。その瞳には「お願いだから、この人を撃たないで」という懇願の色がはっきりと浮かんでいた。
合理的判断か。それとも、アリスの感情の尊重か。
施設にいた頃の私なら、1秒も迷わず、アリスごとこの男を撃ち抜いていただろう。私を止める障害物はすべて排除すればいいだけだからだ。
しかし、今の私にはそれができない。
アリスの悲しむ顔を見ることが、私自身の『不快』に直結してしまうからだ。彼女を失いたくない。彼女に嫌われたくない。その感情が、私の冷徹な論理回路に強烈なエラーを吐き出させていた。
「……アリス」
私は小さく息を吐き、銃口をゆっくりと床へと下げた。
アリスはホッとしたように、私の腕を掴む力を緩めた。
「でも、どうするつもり? 殺さないなら、この男の口を確実に塞ぐ方法が必要よ。逃がして警察に駆け込まれるのも、他の組織に捕まって情報を吐かれるのも、私たちにとっては致命傷になる」
私が冷静に事実を突きつけると、アリスは1つ頷き、男を見下ろした。
「だったら、連れて帰るしかないよ。私たちの組織で保護して、監視下に置く。アドには私が掛け合ってみる」
「彼を組織に? ただの一般人を?」
「逃がすよりはマシでしょ? 彼の借金の件も、組織の力ならどうにかできるかもしれないし」
アリスは銃をホルスターにしまい、男の腕を掴んで強引に立たせた。
「あなた、名前は?」
「……早乙女……早乙女、蓮です」
「そう、早乙女……って、え?」
アリスが驚いたように私を振り返った。
私も、一瞬だけ思考が停止した。
『早乙女』。
私が5歳の時に殺した両親の苗字であり、私自身の本名と同じだったからだ。外界でこの名前に出くわすとは思ってもみなかった。
「……珍しい苗字ね」
「これって……」
「偶然でしょ。気にする必要はない」
私は感情を波立たせることなく、事実だけを切り捨てた。私にとって過去の家族など意味を持たない。ただ、彼が私と同じ苗字を持つという符合に、ほんのわずかなノイズを感じただけだ。別に私以外に居ない苗字でもないはずだ。
アリスは気を取り直し、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「早乙女蓮。よく聞きなさい。あなたを殺しはしない。でも、逃がすわけにもいかない。今からあなたを私たちの組織に連れて行く。そこで大人しくしていれば、命の保証はする。妹さんの安全も確保してあげる。わかった?」
「あ……はい……っ! ありがとうございます……!」
蓮は安堵からか、膝から崩れ落ちそうになりながらも深く頭を下げた。
「……これでよかったの、ピュアちゃん?」
男を立たせたまま、アリスが少しだけ不安そうに私を振り返った。
無関係な人間を組織に連れ帰るなど、アドがすんなり認めるはずがない。厳しく咎められるのは確実だ。
「合理的ではないわ。リスクをゼロにする一番簡単な方法は、彼をここで殺すことだった」
「……ごめん」
「でも」
私はホルスターに銃をしまい、うつむくアリスの隣に立った。
「アリスが彼を殺して、そのあとずっと悲しい顔をしているよりは、生かして連れ帰る方が、私にとっては『マシ』な選択よ」
「え……?」
「彼をどうするかはアドが判断する。もしアドが彼を殺せと命令したなら、その時は私が殺す。アリスの手は汚させない。だから、もう謝らなくていいわ」
私の言葉に、アリスは目を丸くし、それから少しだけ潤んだ瞳で私を見た。
そして、たまらなくなったように私に抱きついてきた。
「ピュアちゃぁぁん……! ありがとぉ……! ピュアちゃん、ほんとに、ほんとに優しいねぇ……っ!」
「苦しい。それに、私は優しくなんかないわ。自分の快不快に従って計算しただけよ」
「いいの! そういうところも全部含めて、ピュアちゃんが大好き!!」
アリスの温もりと、少し大げさなほどの愛情表現。
私は抵抗するのをやめ、彼女の背中にそっと手を回した。
バベルの残党は処理した。薬物と現金は、後でアドの手配したクリーニング班が回収するだろう。
私たちはこの厄介な仕事を一瞬で終わらせ、そして、1つだけ『生きた不確定要素』を組織に持ち帰ることになった。
それが吉と出るか凶と出るかはわからない。だが、アリスの心を守れたのなら、今の私にとってはそれが正解だった。
「さ、処理班が来る前に彼を車に乗せましょ。ジェラートは……お預けね」
「うぅ……ごめんね、ピュアちゃん。今度、絶対奢るから!」
血の匂いのする廃ビルを後にし、私たちは蓮を連れて、再び冬の新宿の街へと歩き出した。
冷たい空気が、火照った思考を静かに冷やしていく。
私の世界は、アリスという存在によって、確実に狂わされ、そして鮮やかに彩られ始めていた。
新宿の地下駐車場。
私の愛車である漆黒のポルシェの前に立った蓮は、その威圧的なフォルムと、見るからに後部座席が存在しないように見える構造に目を丸くしていた。
「あ、あの……俺はどこに乗れば……?」
「助手席の後ろ。シートを倒すから入りなさい」
私が助手席のレバーを引いて背もたれを前に倒すと、そこには申し訳程度の小さな後部座席——通称『2+2』と呼ばれる、大人が乗るにはあまりにも狭すぎる空間が現れた。
「狭っ……! なんですかこの車、足入れる隙間もないじゃないですか。後ろに人乗るようにできてないですよ……!」
「文句言うならエンジンルームに入れるわよ。……焼き肉になるかもしれないけれど」
「す、すみません! 乗ります、乗りますから!」
蓮は慌てて身体を丸め、窮屈そうに後部座席へと潜り込んだ。長身の彼が無理やり押し込まれた姿は、まるで小さな箱に詰められたパズルのピースのようで滑稽だった。
私が運転席に、アリスが助手席に乗り込み、エンジンをかける。水平対向エンジンの腹に響く爆音が地下駐車場に轟き、後部座席の蓮が「ヒッ」と小さく悲鳴を上げた。
車を走らせ、霞ヶ関の事務所へと向かう。
車内には、スポーツカー特有の硬い走行音と、蓮の窮屈そうな息遣いだけが響いていた。
「ねえ、蓮くんって言ったっけ」
助手席のアリスが、バックミラー越しに後ろを振り返りながら口を開いた。
「妹さんがいるって言ってたけど、いくつなの?」
「……10歳です。心臓に生まれつきの病気があって、定期的に病院に通わないといけないんです。だから、薬代と生活費がどうしても必要で……借金なんて払ってる余裕、本当はないのに」
蓮は膝を抱えるように丸まりながら、ぽつりぽつりと身の上を語り始めた。
「俺、妹って言いましたけど、本当は血の繋がりはないんです」
「えっ、実の妹じゃないの?」
「はい。俺が育った孤児院に、後から入ってきた子で……親から酷い虐待を受けてて、施設に来たばかりの頃はずっと部屋の隅で泣いてました。それを見てたら、なんだかほっとけなくて。俺がずっとそばで面倒を見てたんです。俺が施設を出て働き始める時に、あいつもどうしても俺と一緒がいいって泣くから、俺が親代わりになるって誓って引き取ったんです」
その話を聞いて、私は思わず眉をひそめた。
「理解できないわ。血の繋がりもない、ただの他人のために、自分の人生の時間を削り、あまつさえ命の危険まで犯すなんて。非合理的にも程があるわ」
私にとって、他者とは自己の利益や快適さを阻害するか否かで判断する対象だ。ましてや、施設でたまたま一緒になっただけの他人のために、借金を背負い、裏社会の半グレの手伝いをするなど、狂気の沙汰としか思えなかった。
「……ピュアちゃん、そういうのは理屈じゃないのよ。蓮くんは、その子が大切で、守りたいって心から思ったんだよ。だから血の繋がりなんて関係ないの」
アリスが少しだけ咎めるような声色で私に言った。
私は小さく息を吐き、視線を前方の道路へ戻した。
アリスが言うなら、そういうものなのかもしれない。外界の人間たちが持つ『情』という不確定要素は、私にはまだ完全には計算しきれない未知の領域だった。
「……すみません。俺みたいなバカな人間のせいで、お姉さんたちにまで迷惑をかけてしまって」
「いいのよ。あなたは悪くない。悪いのはあなたを脅した連中だから」
アリスの優しい声に、蓮は後部座席で静かに頭を下げていた。
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午前11時。
霞ヶ関の事務所、アドの執務室。
部屋の空気は、凍りつくような緊張感に包まれていた。
デスクの向こう側に座るアドは、眉間に深い皺を刻み、灰皿にタバコを力強く押し付けた。その視線は、部屋の隅で小さく縮こまっている蓮と、堂々と前に立つ私たちを交互に射抜いている。
「……サクッと片付けろ、と言ったはずだが?」
地を這うような、ドスの効いた低い声だった。
アドの背後では、シンが壁によりかかりながら呆れたようにため息をついている。
「30人の殲滅任務を完璧にこなしたと思えば、今度はいきなり生きたお荷物を連れて帰ってきやがった。どういうつもりだ、アリス、ピュア」
「だって、この人はバベルの人間じゃないの! 親の借金のカタに脅されて、無理やり荷物運びをさせられてただけの一般人なんだよ! 見殺しになんてできなかった!」
アリスがデスクに両手をつき、身を乗り出してアドに反論する。
だが、アドの表情は微塵も動かなかった。
「俺たちはボランティアじゃねえ。ここは『天秤』だ。目撃者は消す。自分たちの組織の情報漏洩リスクをゼロにする。それが裏社会の絶対のルールだろうが。……ただでさえ、俺たちは『あの方』とやらに目をつけられている状況なんだぞ」
「だからって、無関係な人を殺すのが『天秤』の正義なの!? 私は悪人しか殺さないって条件でこの組織に入ったんだよ!」
「ルールはルールだ。それに今回の仕事をするって言ったのはお前らだろ。こいつを生かしておいて、もし警察に駆け込まれたらどうする。他の組織に捕まって拷問され、お前らの顔やこの事務所の情報を吐かされたらどうする。いや、警察ならまだいい、揉み消せるからな。だがな、今回の事をSNSやその他の手の届かないところまで広められたら。そのリスクをどうやって担保するつもりだ」
アドの論理は完璧だった。
彼の言う通り、組織を維持するためには、この場で蓮の頭を撃ち抜くのが最も安全で合理的な選択だ。
アドは忌々しそうにアリスから視線を外し、今度は私を見た。
「ピュア、お前はどう思う。お前なら、こいつを殺すのが一番手っ取り早いと合理的に判断できたはずだ」
水を向けられ、私は淡々と事実だけを口にした。
「ええ。一番簡単な方法は彼を殺すことだったわ。でも、私が彼に銃口を向けた時、アリスが止めたの。アリスがこの男の死を悲しむことは、私の『不快』に直結する。だから、生かして連れ帰るのが、私にとっての最適解だったわ」
「……」
アドは一瞬ポカンとし、それから大きなため息を吐いて天を仰いだ。
「……お前ら、ふざけるのも大概にしろよ」
「アド、お願い! この人を組織で保護して! 借金の件も、組織の力ならどうにかできるでしょ!?」
アリスが必死に食い下がる。
アドはこめかみを指で揉みほぐし、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……こいつの妹は、まだ組織のことも、こいつが裏社会に足を突っ込みかけたことも知らないただの一般人なんだな?」
「はい……! 何も知りません!」
部屋の隅で、蓮が震えながら答えた。
「妹の病気の治療費や生活の面倒は、俺の息のかかった表の支援団体に手配させてやる。親代わりとなって責任を持って面倒を見るから、安心しろ」
「ほ、本当ですか……!? ありがとうございます、ありがとうございます……っ!!」
蓮は床に額をこすりつけるようにして泣き崩れた。
だが、アドの目は冷酷なままだった。
「その代わりだ。お前はこれから、死ぬまで俺たちの『監視下』に置かれる。逃げることも、勝手に妹に会うことも許されねえ。……そして」
アドの鋭い視線が、再び私へと向けられた。
「そして、こいつの妹にかかる費用、管理と同居は、ピュア。お前がやれ」
「絶対に嫌」
私は1秒の迷いもなく即答した。
自分のテリトリーに赤の他人を入れるなど、言語道断だ。私が外界に出てようやく手に入れた、あの白と黒の完璧なパーソナルスペースを、あんな得体の知れない男に汚されるなど想像するだけで吐き気がした。
「アリスが連れ帰りたいと言い出したのだから、アリスが面倒を見ればいいじゃない」
「ダメだ。アリスにこいつを任せれば、万が一こいつが裏切って逃げようとした時、情に流されて殺せねえだろうが」
アドは冷徹な事実を突きつけた。
「その点、お前ならどうだ。こいつが組織の不利益になるような行動を起こした瞬間、何の躊躇いもなくこいつの眉間を撃ち抜けるはずだ。お前のその『冷たさ』だけが、この生きた爆弾を抱えるための唯一の担保になる。俺がこいつを生かす許可を出せる妥協点は、そこだけだ」
「それなら私じゃなくても、殺せる人間は他にもいるでしょう」
「お前も当事者の1人だろ。お前が責任取れ」
アドの論理は、やはり完璧だった。
アリスの弱点を補い、組織のリスクを最小限に抑えるための采配。私に反論の余地はなかった。
「……お願い、ピュアちゃん!」
アリスが私の両手を握り、涙目で懇願してきた。
「私もしょっちゅうピュアちゃんの家に遊びに行くし、手伝うから! ね? お願い! ピュアちゃんしか頼めないの!」
アリスの温かい手と、私を頼りにしてくれるその視線。
そして、アドの筋の通った論理。
私は舌打ちをしたい衝動をグッと堪え、深く息を吐き出した。
「……わかったわ。私が責任を持って監視する。でも、私の生活のペースを少しでも乱したら、その時は本当に殺すわよ」
「うんっ! ありがと、ピュアちゃん!! 大好き!!」
アリスが私に抱きつき、私は渋々その重みを受け止めた。
こうして、私の静かで完璧な外界の生活に、最悪の不確定要素が入り込むことが決定してしまったのだった。
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午後2時。
私は蓮を連れ、タワーマンションへと帰還した。
リビングの扉を開けた瞬間、蓮は目を丸くして言葉を失っていた。
「す、すげえ……! なんですかここ、映画のセットみたいだ……!」
大理石の床、イタリア製の高級家具、そしてガラス張りの空中ガレージに鎮座するポルシェ。彼がこれまで生きてきたであろう貧しい環境とは、次元の違う空間だったはずだ。
だが、私は彼が感動しているのなどどうでもよかった。
私の心の中は、他人が自分のテリトリーに足を踏み入れているという事実に対する、強烈な不快感で満たされていた。
「そこを動かないで」
私が冷たく言い放つと、蓮はビクッと肩を震わせて直立不動になった。
私は彼を一瞥し、冷徹に私のルールを突きつけた。
「そこの廊下の奥、右側にあるのがゲストルームよ。その部屋を1つ、あなたにあげる。このカードも渡すから、食事や必要な生活費はそこから落としなさい。限度額はないわ」
私は彼に、予備のブラックカードを投げ渡した。
蓮は慌ててカードを受け取り、オロオロと視線を彷徨わせた。
「え、あの……俺、この家で何をすれば……掃除とか、料理とか……?」
「何もいらない。あなたに求めるのは、たった1つ」
私は彼の目を見据え、氷のように冷たい声で宣言した。
「私の視界に、現れないで」
「え……?」
「私は自分の時間を誰にも邪魔されたくないの。あなたが私のプライベートな空間と時間を奪わなければ、部屋の中で何をしていようと自由よ。でも」
私は1歩、彼に近づいた。
「少しでも私の邪魔をしたり、生活のペースを乱したりしたら……その時は、アドの命令がなくても、私があなたを殺すわ。わかった?」
私の本気の殺気を孕んだ言葉に、蓮は顔面を蒼白にし、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼は私がバベルの残党を躊躇なく撃ち抜いた姿を見ている。私の言葉が冗談ではないことは、骨の髄まで理解しているはずだ。
「……はい、わかりました。命を助けていただいて……ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
蓮は深く、申し訳なさそうに頭を下げると、私から逃げるようにしてゲストルームへと向かっていった。
パタン、と静かに扉が閉まる音が響く。
リビングには再び静寂が戻ったが、同じ屋根の下に『早乙女』という私と同じ苗字を持つ男がいるという事実が、私の心の奥底に微かな、しかし確かなノイズを響かせ続けていた。
深夜。
私は主寝室で、シーツに包まれながら、暗い天井を見つめていた。
静かだ。空調の微かな稼働音さえ、計算し尽くされたかのようにノイズキャンセリングされている。この完璧な空間こそが、私が外界に作り上げた絶対的な『安全地帯』のはずだった。
しかし、今の私の頭の中には、どうにも拭い去れない論理的なエラーが渦巻いていた。
新宿になんて行かなければよかったのだ。
あるいは、あの不快な薬物の匂いを嗅ぎ取った時、見逃してジェラート屋に直行していれば。
仮に廃ビルに突入したとしても、あの男——早乙女蓮を、一瞬の躊躇もなく撃ち抜いていれば。
どれか1つでも合理的な選択を取っていれば、私のこの完璧な空間に『赤の他人』という不確定要素が入り込む余地はなかった。
施設での10年間、私は他者との接触を極限まで絶たれた無菌室で育った。他人が自分のパーソナルスペースに存在すること自体が、私にとっては強烈なストレスなのだ。しかも相手は、ただの一般人の男。
組織の秘密を握らせたまま生かすリスク。それを監視するために自分の生活の自由度を下げるコスト。
どう計算しても、私にとってマイナスしかない。
「……バカみたい」
自分自身の非合理的な行動に、私は小さく毒づいた。
だが、その非合理の根源にあるものを思い返すと、胸の奥の不快感は奇妙なほどあっさりと霧散していく。
『ごめんね、ピュアちゃん。今度、絶対奢るから!』
去り際のアリスの、ペロッと舌を出したおどけた笑顔。
私の判断を狂わせたのは、間違いなく彼女だ。彼女の悲しむ顔を見たくない、彼女に嫌われたくない。そのたった1つの感情が、私の冷徹な論理回路を完全にショートさせた。
私は、自分の内側に芽生えたこの奇妙な感情に振り回されている。だが、不思議とそれを『悪いこと』だとは思えなかった。アリスのあの笑顔を守れたのなら、この結果も許容範囲だと、脳が勝手に解釈を書き換えているのだ。
「……まあ、いいわ」
私は寝返りを打ち、ふわりと香るシーツの匂いに息を吐いた。
蓮には『視界に現れるな』と厳命した。このタワーマンションは無駄に広い。彼がゲストルームに引きこもって息を潜めている限り、私の視覚や聴覚にノイズが入ることはない。実質的に、これまでの一人暮らしと何ら変わらない生活が保てるはずだ。
もし彼が少しでもルールを破れば、その時はアドとの約束通り、私が彼を殺せばいいだけのこと。
そう結論づけると、頭の中の計算式はようやく辻褄が合い、私は深い眠りへと落ちていった。
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翌朝。午前7時。
設定した時刻に自動で遮光カーテンが開き、冬の澄んだ朝陽が寝室を黄金色に染め上げた。
私はいつも通りの時間に目を覚まし、ベッドから抜け出した。
シルクのルームウェアのまま、洗面所で顔を洗い、お気に入りのヒノキと柑橘の香りがする洗顔料で肌を整える。完璧なルーティン。私の精神を安定させる、朝の重要な儀式だ。
タオルで顔を拭き、私はキッチンへと向かった。
昨夜の不快感は嘘のように消え去っていた。頭の中はすでに、今日のコーヒー豆の抽出時間と湯温の計算で満たされている。
しかし。
システムキッチンの大理石のカウンターに目を向けた瞬間、私の足はピタリと止まった。
カウンターの上に、見慣れない『異物』が置かれていたのだ。
透明なラップに綺麗に包まれた、きつね色に焼かれた2切れのホットサンド。
その横には、不器用な字で書かれた小さなメモ書きが添えられている。
『勝手にキッチンを使ってすみません。朝食です』
……プツン、と。
私の中で、冷たく細い糸が切れる音がした。
ここは私の城だ。私の許可なく他人が立ち入り、あまつさえ私の神聖なコーヒーを抽出するための空間で、勝手に調理器具を使用し、このような異物を残していくなど。
私の生活のペースを乱すなと言った。視界に現れるなと言った。
それなのに、この男は一晩で私のルールを破り、私のテリトリーを侵犯した。
動悸が速くなる。アドレナリンが血管を駆け巡り、昨夜強引に抑え込んだはずの不快感が、明確な『殺意』となって爆発した。
これ以上の思考は不要だ。
私は無言のまま踵を返し、玄関のチェストにしまってあった黒い星の刻印が入った自動拳銃——愛用のハンドガンを手に取った。
スライドを引き、薬室に弾丸を送り込む。カチャリという冷たい金属音が、静かな朝の廊下に響いた。
私は一直線にゲストルームへと向かい、鍵の掛かっていない扉を躊躇なく蹴り開けた。
ダンッ!! という凄まじい音に、ベッドで横になっていた蓮が悲鳴を上げて跳ね起きた。
彼はまだ服を着替えておらず、昨日の着古したパーカーとジーンズのまま、ベッドの隅に縮こまっていた。昨夜は一睡もできなかったのか、目の下には濃い隈ができている。
「ひぃっ……!!」
私は無言で部屋に踏み込み、ベッドの上の蓮に向かって銃口をピタリと突きつけた。
「な、なに……!? 俺、何かしましたかっ!?」
「私の生活のペースを乱すなと言ったよね」
私の声は、自分でも驚くほど低く、氷のように冷え切っていた。
銃口から逃れるように壁際に貼り付く蓮の額に、銃口を押し当てる。
「視界に現れるなとも言った。それなのに、あなたは勝手に私のキッチンに立ち入り、得体の知れない食べ物を置いていった。私のルーティンは完全に破壊されたわ。これは、明確なルール違反よ」
「あ……ああっ……! そ、それは……!!」
蓮の顔から血の気が完全に失せ、唇がカタカタと震え始めた。
私の指は、すでにトリガーに半分ほどかかっている。アドとの約束だ。少しでも不利益をもたらすなら、私が殺す。この男をここで処理すれば、私の完璧な日常が戻ってくる。
「最後に、一応理由だけは聞いてあげる。どうしてあんなことをしたの?」
私は彼を見下ろし、淡々と尋ねた。
蓮は銃口を押し当てられながらも、必死に息を吸い込み、涙目で私を見た。
「お、恩返しが……したかったんです……っ!」
「……恩返し?」
「命を助けてもらって、こんな立派な部屋まで貸してもらって……俺の妹の面倒まで見てくれるって。俺、お金もないし、殺し屋でもないから、あなたたちの役に立てるようなことなんて何もなくて……」
蓮は震える両手で、自分の膝を強く握りしめていた。
「だから……せめて、食事の用意くらいなら俺にもできると思って……っ。視界に入らないように、あなたが起きてくる前に作って、置いておいただけなんです。邪魔をするつもりは……本当に、なかったんです……っ!!」
私は彼の目を見つめ、身体的反応を冷徹にスキャンした。
激しい脈拍、異常な発汗、拡張した瞳孔。それは死の恐怖に直面した人間の正常な反応だ。しかし、彼の瞳の奥に嘘をついている時の微細な揺らぎはない。
彼は本心から言っている。命を助けられたことへの『恩返し』として、自分にできる唯一の手段である『料理』を提供した。ただそれだけだ。
そこに、私を害しようとする悪意や、組織の裏をかこうとする企みは微塵も存在しなかった。
「……何か少しでも、恩返しがしたくて」
蓮が絞り出すように呟いたその言葉に。
私の脳裏で、ふと、1つの映像がフラッシュバックした。
『恩返しなんていらないよ! ピュアちゃんがこうやって笑って生きててくれれば、私はそれだけで満足だもん』
私がポルシェを買ってもらった日、空中ガレージでアリスが私に向けてくれた、あの眩しい笑顔。
施設では、他者との関わりは常に『損得』か『支配』でしかなかった。だが、外界に出た私に、アリスは『無償の優しさ』という非合理的なものを与えてくれた。
自分の利益にならないのに、他者のために行動する。
目の前で震えているこの男の『恩返し』という行動原理も、根底にあるのはアリスのそれと同じ、他者への純粋な善意ではないのか。
「……」
私は、銃のトリガーにかけていた指から、ゆっくりと力を抜いた。
この男の行動は、私のルーティンを壊したという点において『不快』だ。
しかし、その動機がアリスと同じ種類のものだとしたら。
もしかすると、私はこの早乙女蓮という男に対しても、アリスに抱いたような『好意』や『大切に思う感情』を、万が一にも抱くことができるのかもしれない。
私は感情の欠落した怪物だ。だが、外界で人間らしく生きるためには、感情という不確定なアルゴリズムを学習する必要がある。アリスというたった1人のサンプルだけでなく、この男もまた、私にとっての『感情の観測対象』になり得るのではないか。
それは、漆黒の闇の中に垂らされた、蜘蛛の糸のように細く、頼りない光だった。
だが、その光を手繰り寄せてみたいという、実験的な興味が湧き上がってきたのは事実だった。
「……」
私は無言のまま銃を引いた。
そして、チャキリ、とセーフティをかけてポケットにしまった。
額から銃口が離れ、蓮は「はぁっ……!」と大きく息を吐き出してその場に崩れ落ちた。
「殺すのは、やめておくわ」
「え……?」
「あなたの動機に、悪意がないことは証明された。それに、朝食を用意してくれたこと自体は、労働力の提供という点において私に利益をもたらしている。だから、今回のルール違反は不問にしてあげる」
私が淡々と告げると、蓮は信じられないものを見るような目で私を見上げた。
「あ……ありがとうございます……っ!」
「ただし、家のルールを少しだけ変更するわ」
私は腕を組み、冷ややかな視線で彼を見下ろした。
「1つ。共用スペースであるリビングやキッチンの出入りは、自由にして構わない」
「え……?」
「2つ。ただし、共用スペースで何か行動を起こす時——例えばキッチンを使う時は、事前に私に許可を取ること。私のルーティンを予測不能な形で乱されるのは不快だから」
蓮はポカンと口を開け、呆然と私の言葉を聞いていた。
「そして3つ目。『私の視界に現れるな』というルールは、今日から『努力義務』に格下げするわ」
「ど、努力義務……?」
「なるべく私の視界に入らないように努力して。でも、偶然出くわしてしまったり、同じ空間にいる必要がある場合は、即座に殺すことはしない。……ただし、私に話しかける時は手短にね」
それだけ言い残し、私は踵を返した。
「ちょっと待って……それって、つまり……」
「私の気が変わらないうちに、顔を洗ってきなさい。身だしなみも整えずに共用スペースに出るのは許可しないから」
私はゲストルームを出て、再びキッチンへと戻った。
大理石のカウンターには、まだほんのりと温かいホットサンドが残されている。
私はラップを剥がし、その1つを手に取った。
かじりつくと、サクッと焼かれたパンの中から、とろけたチーズとハム、そしてマスタードの適度な酸味が口の中に広がった。
「あの時に比べれば……まあ、悪くないのかも」
施設で食べていたパサパサのトーストよりは、はるかに美味しかった。
それに、誰かが私のために作ってくれた食事を食べるというのは、アリスの淹れてくれたコーヒーと同じように、物理的な味覚以上の『何か』を感じさせる。
私はコーヒー豆を挽くためにミルを手に取りながら、ふと、リビングの奥のゲストルームの扉を見た。
早乙女蓮。
血の繋がらない妹のために命をかけ、殺されかけた相手に恩返しをしようとする、底抜けにお人好しな男。
私の静かで完璧な生活は、確実に崩れ去ろうとしていた。だが、胸の奥で燻っていた不快感は、いつの間にか微かな期待へと変容している。
外界の生活は、本当に計算通りにいかない。
私は小さく息を吐き、お湯の温度を93度に設定した。




