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冷血の花は愛に散る  作者: 神城零
第一章「無垢なる怪物の羽ばたき」
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第三話「狂宴のモルモット」

 2016年1月23日、午前7時12分。


 静寂に包まれた寝室で、私はゆっくりとまぶたを開けた。

 視界に飛び込んできたのは、施設にあったシミだらけの無機質な天井でも、あのボロホテルの黄ばんだ壁紙でもない。間接照明が美しく埋め込まれた、高く洗練された純白の天井だった。

 設定しておいた時刻になると自動で開く遮光カーテンの隙間から、冬の澄んだ朝陽が差し込み、真新しい部屋を薄い黄金色に染め上げている。


 私は、自分が横たわっているベッドの感触を確かめるように、シーツの上で指先を滑らせた。

 アリスと一緒に青山で選んだ、最高級のエジプト綿で織られたシーツ。肌に吸い付くような滑らかさと、体温を逃がさない絶妙な温もりがそこにはある。マットレスは私の骨格と筋肉の重みを完璧に分散し、まるで宙に浮いているかのような錯覚さえ覚えさせた。


 心地よい。

 外界に出てから知ったこの『心地よい』という感覚に、私はすっかり魅了されていた。

 施設にいた頃は、与えられた環境に疑問を持つことすらなかった。パイプベッドの硬さも、化学繊維の擦れる感覚も、「そういうものだ」と処理して終わっていた。だが、自分が『合理的だ』と感じるものを自分の意志で選び取り、それらに囲まれて生きるということが、これほどまでに心を満たすものだとは知らなかった。


 ベッドから起き上がり、裸足のままリビングへと向かう。

 床暖房が効いた大理石のフローリングが、足の裏にじんわりと心地よい熱を伝えてくる。私はまず洗面所へ向かい、鏡の前に立った。


 蛇口を捻ると、適温に設定されたお湯が滑らかに流れ出す。

 私は、洗面台の端に並べたガラス瓶の1つを手に取った。先日、アリスに連れられて行った銀座の化粧品店で買った、オーガニックの洗顔料だ。

 手のひらに数滴垂らし、少しの水を加えて泡立てる。きめ細かい泡を作っていく過程で、柑橘系とヒノキを混ぜたような、深く透き通った香りがバスルームいっぱいに広がった。

 この香りが、私はとても気に入っている。人工的な匂いが充満していた新宿の街の空気とは違う、森の中にいるような静謐さがあるからだ。

 きめ細かい泡で顔を包み込むように洗い、ぬるま湯で洗い流す。用意しておいた今治産のふかふかのタオルで水分を吸い取ると、肌が新しく生まれ変わったような錯覚に陥った。


 洗顔とスキンケアを終えた私は、システムキッチンへと向かった。

 朝の儀式とも言える、コーヒーを淹れる時間だ。


 施設にいた頃、監視役にオーダーして毎朝飲んでいたのは、ただ苦いだけの泥水のようなブラックコーヒーだった。しかし、外界に出て、一流のフレンチレストランで食後に提供されたコーヒーを飲んだ時、その複雑な味わいと果実のような酸味に私は衝撃を受けた。

 それ以来、私はコーヒーという飲み物に強い興味——私なりの『こだわり』を持つようになったのだ。


 私は、キッチンの棚から艶やかな黒塗りのキャニスターを取り出した。

 中に入っているのは、アリスにお願いして専門店で買い付けた『パナマ・ゲイシャ』という最高等級の浅煎り豆だ。100グラムで数万円もする代物だが、今や億単位の金が動く口座を持つ私にとって、値段など気にするようなものではない。

 私が惹かれたのは、その豆の持つポテンシャルと、抽出における『物理的な完璧さ』への追求だった。


 計量器にガラスのビーカーを乗せ、正確に15.0グラムの豆を量り取る。

 それを手挽きのミルに移し、ゆっくりとハンドルを回す。ゴリ、ゴリ、という豆が砕ける確かな手応えと、メカニカルなギアの振動が腕に伝わってくる。この物理的な抵抗感が、なんとも言えず心地よい。

 挽きたての粉からは、ジャスミンの花やベルガモットのような、甘く華やかな香りが爆発するように立ち上った。


 電気ケトルで沸かしたお湯の温度を、デジタル温度計で測る。

 93度。抽出に最適な温度だ。

 ペーパーフィルターをセットしたドリッパーに粉を移し、中心から静かにお湯を落としていく。粉がハンバーグのようにふっくらと膨らみ、炭酸ガスを放出する。この『蒸らし』の30秒間が、美味しい成分を引き出すための最も重要なプロセスだと、専門書で読んだ。


 タイマーを見つめながら、数回に分けてお湯を注ぐ。

 お湯の重み、粉の層を通り抜ける速度、抽出される液体の色。全てが物理法則と化学反応の賜物だ。狙い通りの時間と湯量で抽出を終え、琥珀色の液体がサーバーに落ちきったのを見届けてから、私はそれをマイセンの白いカップに注いだ。


 カップを手に取り、リビングに置かれた黒いレザーソファに深く腰を掛ける。

 一口飲むと、紅茶のように軽やかな口当たりの中に、鮮やかなフルーツの酸味と蜂蜜のような甘みが広がり、スッと消えていく。完璧だ。今日の抽出は、昨日よりもさらに私の理想に近い。


 私はコーヒーの余韻を楽しみながら、ソファの真正面——リビングのガラス越しに見える空中ガレージに視線を向けた。

 そこには、昨日納車されたばかりの愛車が、朝日を浴びて静かに鎮座している。

 ポルシェの最高峰クーペ。低く構えた漆黒のボディは、ただ止まっているだけでも圧倒的な暴力を内包しているのがわかる。


「……乗ってみよう」


 私はコーヒーを飲み干すと、カップをテーブルに置き、寝室へと向かった。

 アリスに見立ててもらった黒のレザーセットアップに着替え、足元は動きやすさを重視して細身のブーツを選ぶ。

 アドから渡された『早乙女純玲、20歳』の運転免許証と、車の鍵である流線型のスマートキーをポケットに忍ばせ、私はリビングからガレージへと続くガラス扉を開けた。


 ガレージの中は、新しいタイヤのゴムの匂いと、オイル、そして高級なレザーの香りが混ざり合った、車特有の匂いが満ちていた。

 私は黒いボディに近づき、ドアハンドルに手をかける。

 重厚な金属の感触。カチャリ、と小気味良い音を立ててドアが開き、私はドライバーズシートに身を沈めた。


 体を包み込むようなホールド感のあるバケットシート。目の前には、5つの円形メーターが並ぶ計器類。ステアリングは手触りの良いアルカンターラ素材で覆われている。

 私は大きく深呼吸をして、新車の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。


 さて、ここからだ。

 私は、施設にいた頃に車両工学の専門書を読み漁っていたため、エンジンの構造やトランスミッションの仕組み、タイヤの摩擦係数といった理論的な物理法則は全て頭に入っている。

 しかし、『現代の最新スポーツカーをどうやって動かすのか』という、UIユーザーインターフェースの知識が絶望的に欠けていた。


 まず、鍵穴がない。

 シンの車もそうだったが、最近の車はスマートキーを持っていれば鍵を挿さなくてもいいらしい。それは知っている。

 私はブレーキペダルを右足で強く踏み込んだ。

 しかし、スタートボタンが見当たらないのだ。通常、ハンドルの右奥か左奥にあるはずの丸いボタンを探すが、いくら見回してもそれらしきものがない。

 ハンドルの左奥に、何やら鍵のつまみのようなものが固定されているのを見つけた。


「……これを回すの?」


 ブレーキを踏んだまま、その左奥のつまみを右に捻ってみる。

 キュルキュルッ、という短いセルの音に続き、背後から「ズォォォン!!」という腹の底に響くような凄まじいエンジン音と振動が轟いた。

 ポルシェ伝統の水平対向6気筒エンジンが目覚めた音だ。あまりの迫力と音圧に、私は思わず肩をビクンと跳ねさせてしまった。アイドリングの低い排気音が、コンクリートとガラスのガレージ内に反響している。


「エンジンはかかった。次は……」


 私はセンターコンソール(運転席と助手席の間のスペース)に目をやった。

 そこにあるのは、小さな、シェーバーのスイッチのようなレバーだけだった。


「……これがシフトレバー?」


 私が知っている『オートマ車の操作』は、施設で監視役が乗っていたセダンのような、ガチャンガチャンと動かす大きな棒状のものだ。しかし、この車にはそれがない。

 PパーキングRリバースNニュートラルDドライブという文字は小さく光っているが、この小さなスイッチをどう動かせば『D』に入るのか。手前に引くのか、押し込むのか。

 さらにもう一つ致命的な問題があった。

 パーキングブレーキ(サイドブレーキ)のレバーがないのだ。足踏み式のペダルもない。『P』と書かれた小さなスイッチがあるだけだ。


 私はハンドルの前で手を止めた。

 理論上は、アクセルを踏めば莫大なトルクが発生し、この車は弾丸のように発進する。

 しかし、もし操作を間違えて『R』や『D』に入ったまま予期せぬ挙動をしたらどうなるか。

 ここは地上30階の空中ガレージだ。目の前は強化ガラスとはいえ、4000万円の車で35億のマンションのリビングに突っ込むか、あるいはガラスを突き破って東京の空へダイブすることになる。


 いくら私でも、恐怖を感じるまでもなく「それは非常にまずい」という合理的な計算結果が弾き出された。


「……よし」


 私は深追いするのをやめ、素直にポケットからスマートフォンを取り出した。

 連絡帳アプリを開き、『アリス』の文字をタップする。

 コール音は1回すら鳴りきらなかった。


『ピュアちゃん!? おはよう! どうしたの、こんな朝早くに!』


 スピーカー越しでも耳が痛くなるような、相変わらずの元気な声がガレージ内に響き渡る。


「おはよう、アリス。朝早くにごめんね」

『全然大丈夫だよ! 私も今起きてコーヒー淹れようかなって思ってたところだし! で、どうしたの? 家電の使い方がわからないとか?』

「ううん。車に乗ってみたんだけど」

『おお! ついにポルシェデビュー! 乗ってみてどう!? エンジン音最高でしょ!』

「うん、音はすごい。でも」


 私は目の前の小さなスイッチを睨みつけながら、正直に告白した。


「前に進むためのスイッチがどれかわからない。サイドブレーキもないし、適当に触ってリビングに突っ込んだら困るから、助けてほしい」

『あははははっ!!』


 電話の向こうで、アリスが腹を抱えて爆笑する声が聞こえた。

 私は少しだけ不快感を覚えたが、殺意は湧かなかった。むしろ、彼女の笑い声を聞いていると、張り詰めていた緊張が解けていくような安堵感があった。これもまた、血圧と心拍数が適正値に落ち着いたことによる生理的な反応だと脳内で処理しておく。


『そっかそっか! 最新のポルシェの電子シフトは初見殺しだもんね! ごめん、私が納車の時に一緒に乗って教えてあげればよかったね!』

「今から来れる?」

『もちろん! メイクだけ10分で終わらせて、すぐそっち向かうよ! ウチからピュアちゃんちまで車で15分くらいだから、30分くらい待ってて!』

「わかった。待ってる」

『オッケー! エンジン切って、あったかい部屋で待っててね! じゃあ後で!』


 ブツッ、と通話が切れる。

 私は左奥のつまみを逆方向へ捻り、暴れる獣のようなエンジンを眠りにつかせた。

 静寂が戻ったガレージの中で、私はふと、自分の口元がまた僅かに緩んでいることに気がついた。


「人を頼るって、こういうことなのね」


 外界に出て、自分の無知を知る。

 できないことを無理に行わず、素直に他者の助けを求める。

 施設では全てが1人で完結していた私にとって、それはひどく新鮮で、不思議と心が温かくなる経験だった。


 私は車を降り、ガラス扉を開けて再びリビングへと戻る。

 アリスが来るまでの30分間。私は彼女に振る舞うために、もう一度、慎重に最高のコーヒーを淹れる準備を始めた。


━━━━━━━━━━━━━━━


 2016年1月23日、午前7時45分。


「おはよー! ピュアちゃん、来たよ!」


 インターホンが鳴ると同時に、アリスの元気な声がスピーカーから飛び出してきた。

 オートロックを解除して玄関のドアを開けると、アリスは黒のタイトなライダースジャケットに身を包み、手には有名ベーカリーの紙袋を提げていた。


「朝ごはん、買ってきたよ! クロワッサンとデニッシュなんだけど、コーヒーと一緒にどうかなって思って!」

「ありがとう。ちょうどコーヒーも淹れ終わったところ」


 私がリビングのテーブルに案内すると、アリスは「うわぁ、いい匂い!」と目を輝かせた。

 マイセンのカップに注がれた琥珀色の液体を一口飲み、アリスは大きく息を吐き出す。


「……んんっ! なにこれ、すっごく美味しい! 私がいつも適当に淹れてるコーヒーと全然違うんだけど!」

「お湯の温度と、豆を蒸らす時間をきっちり秒単位で量っただけ。物理法則に従えば、味は必ず安定するから」

「出た、ピュアちゃんの理系脳! でも本当に美味しい。毎朝これ飲めるなら、ウチから通いたいくらいだよ」


 冗談めかして笑うアリスの言葉に、私は「別にいいけど」と素直に返した。

 アリスは一瞬驚いたように瞬きをして、それから嬉しそうにふわりと微笑んだ。私が外界で初めて手に入れた『心地よい時間』が、ここにはある。

 サクサクとしたバターの香りが豊かなクロワッサンを平らげ、コーヒーを飲み終えると、アリスは立ち上がってガレージの方を指差した。


「よし! 朝の優雅なティータイムも終わったし、早速ポルシェの動かし方を教えよっか!」

「お願い。適当に触ってガラスを突き破りたくないから」


 私たちはガラス扉を開け、空中ガレージに鎮座する漆黒のクーペへと乗り込んだ。

 私が運転席に、アリスが助手席に座る。上質なレザーシートが、私の体をぴったりとホールドしてくれた。


「まずね、エンジンのスイッチが左側にあるのは分かった?」

「うん。でも、なぜ左なの? 普通は右か、真ん中じゃないの?」

「それはね、昔のル・マンっていうレースの伝統なの。ドライバーが車に走って乗り込んで、左手でエンジンをかけながら右手でシフトレバーを操作して、1秒でも早く発進するためだったんだって」

「なるほど、合理的な理由ね。好きよ、そういうの」


 私はブレーキペダルを強く踏み込み、左奥のつまみを捻った。

 ズォォォン、という腹の底に響く咆哮とともに、水平対向6気筒エンジンが目覚める。


「で、問題のシフトレバーなんだけど」

 私はセンターコンソールにある、親指ほどの小さなスイッチを見下ろした。

「これ、ただの小さなトグルスイッチだよ。手前にカチッと引けば『Dドライブ』。奥に押せば『Rリバース』。パーキングは、その下の『P』って書かれたボタンを押すだけ。サイドブレーキは、さらに下にあるスイッチを引けばかかるし、アクセルを踏めば自動で解除されるわ」


 アリスの説明を聞いて、私は思わず拍子抜けした。


「……それだけ?」

「そう、それだけ。今のスポーツカーは、人間がガチャガチャ操作しなくても、賢いコンピューターが全部最適なギアを選んでくれるの」

「なんだ。拍子抜けするくらい簡単ね」


 私はブレーキを踏んだまま、小さなスイッチを手前にカチリと引いた。メーターパネルに『D』の文字が点灯する。


「ガレージのエレベーターを下ろすリモコンは、サンバイザーに挟んでおいたから。さあピュアちゃん、外界の道路へ出発だよ!」


 リモコンのボタンを押し、重低音とともにエレベーターが地上へと下降していく。

 1階の出入り口が開き、冬の冷たい外気が車体を包んだ。

 私はブレーキから足を離し、恐る恐るアクセルペダルに右足を乗せた。

 グッ、と車体が滑らかに、しかし力強く前に押し出される。私はハンドルを握り直し、東京の公道へと車を滑り出させた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 私たちが向かったのは、首都高速都心環状線——通称『C1』だった。

 休日の朝ということもあり、道路は適度に空いている。


「合流、気をつけてね! アクセル踏んで一気に加速して!」

「わかってる」


 ETCゲートを抜け、短い合流車線でアクセルを深く踏み込んだ。

 その瞬間、背後から爆発的なエキゾーストノートが轟き、私の体はシートに激しく押し付けられた。

 脳の血液が後ろに引っ張られるような、圧倒的なG(重力加速度)。並のスーパーカーとは次元の違う、四輪駆動の暴力的なまでの加速力だ。

 だが、恐怖はない。

 私の動体視力と反射神経は、リミッターを外さずとも常人を遥かに凌駕している。周囲の景色が後ろへ飛ぶように流れていく中、私の目には前方を走る車たちの動きがスローモーションのように遅く見えていた。

 滑らかに本線へ合流し、ステアリングを微細に操作して車線の中央をキープする。車体は路面に吸い付くように安定しており、まったくブレる気配がない。


「わっ……ピュアちゃん、運転初めてなのにめちゃくちゃ上手いね! 全然ふらついてないし、合流も完璧!」

「車が優秀なだけ。私が思った通りに、寸分の狂いもなく動いてくれる。自分の手足が拡張されたみたいで、すごく気分がいい」


 ビルの谷間を縫うように走る首都高の景色が、次々とフロントガラスに展開していく。

 冷たい風を切るような風切り音と、背後で唸るエンジンの鼓動だけが車内を満たしていた。


「ピュアちゃん、運転好き?」

「悪くない。自分がコントロールできるものに囲まれているのは、安心するから」

「そっか。なんかピュアちゃんって、冷たい機械みたいに合理的で隙がないのに、美味しいコーヒーとか運転の楽しさとか、そういう『好き』って感情にはすごく素直だよね。そういうとこ、可愛いなって思う」


 助手席のアリスが、窓の外の景色を眺めながらふふっと笑う。


「……アリスの方こそ、おしゃべりでうるさいのに、急に冷酷なプロの目になる。そのギャップが、不思議と心地いい」

「えっ! 今のって褒め言葉!? やったぁ、ピュアちゃんに褒められちゃった!」


 助手席ではしゃぐアリスを横目に、私は緩やかなカーブを滑らかに駆け抜けていく。

 施設では絶対に味わえなかった、誰かと何気ない会話をしながら流れる時間。この空間が、私はひどく気に入っていた。


 ——ブーッ、ブーッ。


 車内の平穏を破るように、私のジャケットのポケットで、仕事用のスマートフォンが振動した。

 ディスプレイには『アド』の文字が表示されている。

 私はステアリングのボタンを操作し、車のスピーカーフォンに接続した。


「私だけど」

『ピュアか。アリスは一緒か?』

「隣でうるさくしてる」

「ヤッホー、アド! 今ピュアちゃんの新車の助手席でドライブデート中!」

『朝から元気なこって。悪いが、デートはそこまでだ。急ぎの仕事が入った。そのまま2人で事務所に来い』


 アドの声は、いつになく低く、張り詰めていた。


「急ぎって、どういうこと?」

『……少し、面倒な案件が回ってきた。お前ら2人の『底力』を見込んでの指名だ。急ぎだからな、詳しい話は事務所でやる』

「わかった。すぐ向かう」


 通話を切り、私は首都高の出口へとウインカーを出した。

 隣を見ると、先ほどまでのはしゃいだ笑顔は消え去り、アリスは静かに、氷のように冷たい『殺し屋の目』をしていた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午前9時15分。

 私たちは霞ヶ関のビジネス街にある、組織の事務所へと到着した。

 カードキーと指紋認証を抜けてフロアの奥へ進むと、会議用の大きなテーブルにアドが険しい顔で座っていた。


「来たか。座れ」


 アドが顎で席を示す。私とアリスが椅子に腰を下ろすと、アドがタブレットを操作し、テーブルの中央に置かれたモニターにいくつかの資料を映し出した。


「今回の標的は、新宿や渋谷を拠点にしている『バベル』と名乗る半グレ集団だ。構成員はおよそ30名。問題なのは、そのほとんどが18歳未満の未成年だということだ」


 モニターには、派手なストリートファッションに身を包んだ、まだあどけなさの残る少年少女たちの写真が次々と映し出された。


「未成年。だから警察も手が出しづらいってわけね」

「それもあるが、ただのガキの遊びじゃ済まなくなったんだ」


 アドが忌々しそうに舌打ちをする。


「こいつら、最近調子に乗ってマフィア気取りで、海外のルートから違法薬物や銃火器の密輸にまで手を出し始めやがった。しかも、それをシノギにするだけじゃなく、素人の若者たちに面白半分で売り捌いてる。放置すれば一般社会に多大な被害が出るからな、司法と行政の裏の意志として、完全な排除——つまり『殲滅』が決定した」


 私はモニターに映る少年たちの顔を冷めた目で見つめた。

 彼らもまた、私と同じ未成年の犯罪者。だが、私のように自己完結した暴力ではなく、社会に毒を撒き散らす群れとしての暴力だ。


「30人を殲滅。数が多いね」

「ああ。しかも連中はすでに大量の銃火器で武装している。アジトは廃墟になった地下の大型クラブだ。出入り口は限られてるし、中は入り組んでいる。普通の殺し屋が数人で乗り込んでも、多勢に無勢で蜂の巣にされるリスクが高い」

「だから、私とアリスを指名したのね。30人を正面から皆殺しにできる戦力として」

「そういうことだ」


 アドは深く煙草を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出した。


「ピュア、お前が自分の『リミッター』を外して、限界を超えた身体能力を引き出せる特異体質だということは、調査の段階で把握している。そして……」


 アドの視線が、私の隣に座るアリスへと向けられた。


「アリス。お前もだ」


 私はわずかに目を見開いてアリスを見た。

 アリスは無表情のまま、静かに頷いた。


「17歳の時、無差別通り魔を素手で制圧した時……。私の中で『糸がプツンと切れた』って言ったでしょ。私、極限の感情の昂りを感じると、脳のストッパーが外れて、自分でも制御できないくらいの力が出せちゃうの。だから、あの時犯人の腕をへし折ることができたのよ」

「やっぱり。アリスも、私と同じ体質だったのね」

「少し違うわ。ピュアちゃんは感情が欠落している代わりに、自分の意志で理性をコントロールして意図的にリミッターを外せる。でも私は、感情が爆発しないと引き出せないし、一度外れると理性が飛んじゃうから、普段は絶対に抑え込んでるの」


 だからこそ、あの日、私の部屋で私に銃を突きつけた時、彼女は『暴力』ではなく『コントロールされた強さ』で私を制したのだ。リミッターを外せば、自分がどうなるか分かっているから。


「相手は30人の武装したガキどもだ。数が多い以上、どうしても被弾のリスクは跳ね上がる。通常戦力じゃ被害が大きすぎるんだよ」


 アドはモニターを消し、私たちを真っ直ぐに見据えた。


「お前ら2人の『怪物としての底力』を見込んでの依頼だ。今回は出し惜しみすんなよ。ただし、アリスが暴走した時のストッパーは、同じリミッター解除状態で動けるピュア、お前にしかできない。アリスの制御はお前に任せるぞ」

「……わかった。やってみる」


 私は即答した。恐怖はない。むしろ、自分の全力を出し切れる環境が与えられたことに、私の血はわずかに熱を帯びていた。


「私とピュアちゃんなら余裕だよ。ガキどもに、本当の暴力ってやつを教えてあげよっか」


 アリスの瞳の奥に、仄暗い殺意の炎が灯る。

 私たちは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。


 未成年の半グレ集団30人。対するは、リミッターを外した2人の『怪物』。

 外界に出て初めての、本気の殺し合いの時間が、幕を開けようとしていた。


「決行は今日の深夜2時だ。連中が酒と薬でラリって、一番警戒が緩んでいる時間帯を叩く」


 アドの冷徹な声が会議室に響き渡った。

「相手は30人。アジトは渋谷の円山町にある、廃墟になった地下の大型クラブだ。入り口は正面と、搬入用の裏口の2つしかない。今回は2人だけで現場に向かい、逃げ道を完全に塞いで1人残らず殲滅しろ」

「了解」

「わかった」


 私とアリスが同時に返事をすると、アドは満足げに頷き、会議は解散となった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 深夜の襲撃まで、まだ半日以上の時間があった。

 私たちは事務所の奥にある、分厚い鋼鉄の扉で守られた武器庫兼準備室へと向かった。無機質な蛍光灯に照らされた室内には、ハンドガンからアサルトライフル、様々な種類のナイフやタクティカルギアが壁一面に整然と陳列されている。


「相手は銃を持ってるって話だからね。いくら私たちでも、丸腰で行くのはリスクが高すぎるよ」


 アリスはそう言いながら、ハンガーにかかっていた黒い長袖のインナーシャツを2着取り出し、1着を私に放り投げた。受け取ると、普通のシャツよりも少し重みがあり、生地が硬い。


「何これ」

「防刃・防弾機能のあるケブラー素材の特注インナー。シンみたいに鉄板を仕込むと重くて動きが鈍るけど、これなら私たちの機動力を殺さずに、ある程度の被弾や刃物を防いでくれるの。アウターの下に着ておいてね」

「なるほど、合理的な素材ね。助かるわ」


 私はインナーを自分の体に当ててサイズを確認し、傍らのテーブルに置いた。

 続いて、アドから支給された黒い星の刻印が入ったグロック19を取り出し、弾倉を抜いてスライドを引き、内部の汚れをチェックする。装弾数は15発。薬室に1発送り込めば、計16連射が可能だ。可動部に少しだけオイルを差し、動きを滑らかにしておく。施設で学んだ銃器のメンテナンス知識が、外界でこうして役に立つとは思わなかった。


「手際がいいね、ピュアちゃん。本当に今日が2回目の仕事とは思えないや」


 隣で自分の愛用するハンドガンを調整しながら、アリスが感心したように言った。私は銃に弾倉を装填し、テーブルに置いた。


「知識として知っていたことを、物理的に実行しているだけ。……ねえ、アリス」

「ん? なに?」

「さっきの会議で、アドが私の体質について言っていたでしょ。リミッターを外して限界を超えた力を引き出せる特異体質だって。あれ、どこまで調べがついてるの?」

「んー、基本的には警察や施設が残した医療記録から拾った情報だと思うよ。でも、アドも詳しいメカニズムまでは分かってないんじゃないかな。ただ『使える手札』として認識してるだけで」


 アリスは銃の手入れの手を止め、私の方に向き直った。


「ピュアちゃんは、自分がその体質だっていつ自覚したの? 5歳の時、ご両親を殺した時にはもう外れてたんでしょ?」

「そうね。5歳の時、両親を包丁で滅多刺しにした時、私の両腕は筋繊維が断裂して骨にヒビが入っていた。でも、その時はただ『腕が動かなくなった』という結果しか理解していなくて、自分が何をしたのかよくわかっていなかったの」


 私は椅子に腰掛け、自分の細い両腕を見下ろした。傷跡こそ残っていないが、私の肉体は今でも、その気になればいつでも自らを破壊できる爆弾を抱えている。


「はっきりと自覚したのは、施設に収監されて数年経って、トレーニングルームで筋トレをしていた時よ」

「トレーニングで?」

「ええ。体を鍛えるためのマシンがあったんだけど、私は筋力をつけるためには、とにかく重い負荷をかけ続ければいいという理論だけを知っていたの。だから、自分の体重の何倍もあるような最大負荷に設定して、無理やり持ち上げようとした」


 当時の記憶が蘇る。関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げ、プチプチと筋繊維が千切れる嫌な音が体内で鳴り響いていた。


「普通の人間なら、そこで『痛い』と感じて、これ以上やったら体が壊れると思って力を抜くでしょ。でも、私には『恐怖』や『不安』がない。そして、『痛み』を『行動を止めるための警告』として処理する機能が欠落していたの」

「……痛みを感じないの?」

「痛覚はあるわ。でも、それが『不快だからやめる』という行動に結びつかないの。ただ『神経が刺激を受信している』としか認識しない。だから、腕の筋肉が完全にちぎれて、バーベルの下敷きになって骨が折れるまで、私は全力で力を込め続けてしまった」


 あの時、血まみれで倒れている私を発見した監視役の男の、血の気を失った顔は今でも覚えている。すぐに系列の病院に運ばれ、厳重な監視下で精密検査を受けた。


「その時の医師が言ったの。『人間の脳は、自身の肉体を破壊しないように常にブレーキをかけている。痛みはそのための安全装置だ。だが、君の脳にはそのリミッターが存在しないか、意図的に外すことができる回路ができあがっている』って」

「なるほどね……。痛みを恐れないから、脳のストッパーをいつでも自分の意志で100パーセント解除できちゃうんだ。でも、それってすごく危険なことだよ」


 アリスは少し悲しそうな顔をして、私の腕をそっと撫でた。


「ええ。使えば体が壊れて、しばらく動けなくなる。それは私にとって不便で、合理性を欠く結果になるから、普段は理屈でセーブしているだけ。でも、いざとなればいつでも外せるわ」


 私はアリスの目を見つめ返した。


「アリスは? あなたは感情が爆発しないとリミッターが外れないって言っていたけど、17歳の時の通り魔事件以外でも、外れたことはあるの?」

「……あるよ。2回だけね」


 アリスは視線を落とし、自分の手のひらを見つめた。そこには、普段の明るい彼女からは想像できないほどの、暗くて重い影が落ちていた。


「1回目は、通り魔を殺してアドに拾われ、この組織に入った直後。アドに『お前のその力を仕事に使え。殺しをやれ』って強制された時だった」

「アドに反抗したのね」

「うん。私は普通の高校生だったから、人殺しなんて絶対に嫌だった。でも、アドに力ずくで押さえつけられて、逃げられないって悟った時……恐怖と怒りと絶望で、頭の中が真っ白になってパニックになったの」


 アリスの拳が、微かに震えていた。


「気づいたら、私、アドの腕の骨をへし折って、自分自身の肩の関節も外しちゃってたのよ。アドも本気で焦ってた。私がただの小娘じゃなくて、制御不能な怪物だって思い知ったみたいでさ。結局、その一件でお互い少し妥協して、私は『悪人しか殺さない』って条件で組織の仕事を引き受けることになったの」

「あのアドの骨を折るなんて、大した力ね。……じゃあ、2回目は?」


 私が尋ねると、アリスは深く息を吐き出した。


「組織に入って数年経った頃。私にすごく良くしてくれた、姉御肌の先輩の殺し屋がいたの。一緒に買い物に行ったり、ご飯を食べたりして、本当の姉妹みたいに仲が良かったんだけど……ある時、その人が罠に嵌められて、敵対してた組織に殺されちゃったの」

「……」

「知らせを聞いた時、私は理性が飛んだ。悲しみと、抑えきれない怒りで、目の前が真っ赤に染まった。アドが止めるのも聞かずに、1人でその組織の事務所に乗り込んだの」


 アリスの瞳の奥に、かつての凄惨な記憶が蘇っているのがわかった。


「……気がついたら、事務所にいた20人くらいは、全員原型をとどめないくらいに引き裂かれて肉塊になってた。銃なんて使わなかった。全部素手で、壁や床に叩きつけて壊したの。でも、私も無事じゃ済まなかった。全身の筋肉が断裂して、自分の骨が内臓に刺さって、血の海の中で意識を失ってた。後から駆けつけたアドが病院に運んでくれなかったら、間違いなく死んでたよ」


 アリスは自嘲するように笑い、両手で自分の顔を覆った。


「だから、私は普段、絶対に感情をコントロールしてるの。怒りも、悲しみも、一定のラインを超えないように。私がリミッターを外すってことは、周りも自分も、全部を破壊し尽くすってことだから」


 彼女が常にテンションを高く保ち、おどけたように明るく振る舞っている理由が、ストンと腑に落ちた。

 彼女は、自分の内なる『怪物』を檻に閉じ込めておくために、必死に『陽気なアリス』という枷を被り続けているのだ。

 意図的にリミッターを外せる私とは違い、感情という不確定なスイッチで起爆してしまうアリスの体質は、あまりにも危うく、そして哀しかった。


「……アリス」


 私は立ち上がり、顔を覆うアリスの肩にそっと手を置いた。


「もし今日、あなたの感情が昂って暴走しそうになったら、私が止めるわ」

「ピュアちゃん……?」

「あなたがいなくなったら、私はまた外界との接し方がわからなくて困るから。私以外に殺されるのも、あなたが自滅するのも、今の私にとってはすごく『不快』なの。だから、私が止める。心置きなく暴れていいわ」


 私の不器用な慰めに、アリスは顔を上げ、目を丸くした。

 それから、彼女の目からポロリと1粒の涙がこぼれ落ちた。


「……えへへ。なんだか、すごく頼もしい後輩を持っちゃったなあ」


 アリスは涙を指で拭い、いつもの明るい笑顔を浮かべた。彼女の涙を見たのはこれが初めてだったが、それが私が知りたかった『絶望の涙』ではなく、どこか温かい『安堵の涙』であることは、私にも理解できた。


「ありがと、ピュアちゃん。でも大丈夫。私だってプロだもん。そう簡単には我を忘れないよ」

「そう。ならいいけど」

「よし! 準備も終わったし、ちょっと仮眠取ってから出撃しよっか! 今夜は長い夜になるよ!」


 アリスは勢いよく立ち上がり、黒いインナーシャツを自分の体に当ててサイズを確かめ始めた。

 私はその背中を見つめながら、自分のポケットの中の銃の重みを確認した。

 不思議な感覚だった。今まで自分のためだけに振るってきた暴力が、今日は初めて、『自分以外の誰か』のストッパーとして機能するかもしれないのだ。

 それが正しいことなのかはわからないが、悪くない気分だった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 午前1時30分。

 冷え切った冬の空気が、東京の街を静寂に包み込んでいる。


 私たちは、アリスが手配した組織の目立たない黒いSUVに乗り込み、渋谷の円山町へと向かっていた。

 ラブホテルや雑居ビルが密集するこのエリアは、深夜になってもネオンが毒々しく光り、得体の知れない欲望の匂いが漂っている。だが、目抜き通りから1本裏路地に入ると、街灯もまばらな暗闇が広がっていた。


「この先だよ。車は路肩に停めて、歩いて近づこう」


 運転席のアリスがヘッドライトを消し、エンジンを切る。

 私たちは黒いケブラー素材のインナーの上に、動きやすいダークトーンのジャケットを羽織り、車を降りた。冷たい風が頬を刺す。吐く息は白く、路地裏にはネズミがゴミ袋を漁る音だけがカサカサと響いていた。


「今回は私たち2人だけだからね。私が正面から派手に突入して連中の気を引く。ピュアちゃんは裏口に回って、逃げようとする奴らを後ろから叩いて。中で合流しよう」

「わかった。逃げ道は完全に塞ぐわ」


 アリスは耳に装着した小型のインカムをタップし、私に頷きかけた。私も同じようにインカムを耳に押し込む。


 入り組んだ裏路地を足音を殺して進んでいくと、やがてコンクリートの壁に囲まれた古びた建物の裏手にたどり着いた。そこが、半グレ集団『バベル』のアジトとなっている廃墟の大型地下クラブの裏口だった。


 重厚な鉄の扉は固く閉ざされている。防音設備が生きているのか、クラブ特有の重低音は外までは漏れてこない。しかし、扉の隙間からは、微かな人の話し声と、タバコの煙に混じった、薬物特有の甘ったるく化学的な悪臭が漂ってきていた。


「……臭い。頭が痛くなるような匂いね」

「気をつけて、ピュアちゃん。中に入ったら、もっと酷い匂いと惨状が待ってるはずだから。……じゃあ、私は正面に回るね」


 アリスは腰のホルスターから愛用のハンドガンを抜き、スライドを引いて薬室に弾を送り込んだ。

 私もジャケットの後ろポケットから黒い星の刻印が入ったグロック19を抜き、カチャリとセーフティを外す。冷たい金属の感触が、私の神経を研ぎ澄ませていく。


『ピュアちゃん、こっちは正面入り口の前に着いた。いつでも行けるよ』

 数分後、インカム越しにアリスの落ち着いた声が響いた。

「こっちも準備できてる。いつでもどうぞ」

『了解。じゃあ、私の銃声を合図に突入して。……いい? 1人も逃しちゃだめだからね』

「任せて」


 通信が切れ、静寂が戻る。

 私は銃を構え、重厚な鉄扉を見据えた。


 施設を抜け出し、外界のルールを知り、自分の弱さを自覚して、私は初めて『プロ』として、そしてアリスの『相棒』として仕事に臨む。

 ドアの向こうには、30人の武装した悪党たちが待っている。


 ——パンッ! パンッ! パンッ!!


 分厚いコンクリートの壁越しに、正面から連続した発砲音が響き渡った。アリスの陽動が始まったのだ。

 同時に、扉の向こう側で「なんだ!?」「表に誰か来たぞ!」という怒声と足音が慌ただしく行き交う気配がした。


 私は小さく息を吐き、扉の鍵穴に向かってためらいなく発砲した。

 金属が砕け散る音とともに錠が破壊される。

 錠を撃ち抜き、弾き飛ばすように裏口の鉄扉を蹴り開けると、地下へと続く薄暗いコンクリートの階段が現れた。

 私は銃を両手で構え、足音を完全に殺して階段を駆け下りる。


 地下からは、正面入り口側で暴れているアリスの銃声と、クラブのスピーカーから流れたままになっている耳障りな重低音のヒップホップ、そして怒声と悲鳴が混ざり合って響いてきた。薬物とアルコール、そして真新しい血と硝煙の匂いが鼻を突く。


 階段を下りきり、バックヤードへと通じる狭い通路に足を踏み入れた瞬間だった。


「裏口からも来やがったぞ!!」


 暗がりから、正面の騒ぎから逃げ出そうとしていた3人の男たちと鉢合わせた。

 派手な柄シャツにタトゥーを入れた、まだ10代後半の若者たちだ。彼らの目は薬物で血走り、恐怖と興奮で異常なほど見開かれている。

 3人は反射的に、手にしていた拳銃やサブマシンガンの銃口をこちらへ向けた。


 ——遅い。


 私には、彼らの動きがまるで泥水の中でもがいているかのように、スローモーションで知覚できた。

 彼らが殺意を持って引き金に指をかけ、肩の筋肉を収縮させ、銃口が私の体を捉えるまでの過程。そのすべての物理的挙動が、私の異常な動体視力の前では手に取るようにわかるのだ。


 弾丸そのものを目で見て避けることなど、物理的に不可能だ。音速を超える鉛玉を視認してから避けたのでは、脳の信号が筋肉に伝わる前に肉体を貫かれる。

 だから私は、『弾が放たれる前』に射線から体を逸らす。

 こめかみに銃口を当てられる時とは訳が違う。避ける時間が十分にあれば、こんなもの玩具と何ら変わりない。


 先頭の男の指が引き金を引き切るコンマ数秒前。銃口の延長線上から、私は姿勢を極端に低くして左斜め前方へと滑り込んだ。

 パパンッ! という乾いた破裂音とともに、私が先ほどまで立っていた空間を弾丸が虚しく通り過ぎ、背後のコンクリート壁に着弾して火花を散らす。


 私は低い姿勢を保ったまま、手元のグロック19のトリガーを絞った。


 タンッ! タンッ! タンッ!


 サイレンサー越しのくぐもった発砲音が3度響く。

 1発目は先頭の男の眉間。2発目は左の男の喉笛。3発目は右の男の鼻柱。

 正確無比な3発の弾丸は、コンマ数秒の狂いもなく彼らの急所を撃ち抜き、男たちは文字通り糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。


 私は立ち上がりながら、両手に残る確かな反動(リコイル)の感触を反芻していた。

 外界に出て銃を撃つのはこれが2度目だ。実践経験は皆無に等しい。

 しかし、私の肉体は、施設にいた頃に読み漁った兵器マニュアルや力学の専門書の記述を、完璧にトレースしていた。


 発砲時に生じる反発力を腕の筋力だけで抑え込もうとすれば、銃口は必ず跳ね上がる。だから、手首を固定し、肘の関節にわずかな遊びを持たせ、衝撃を肩から背中の広背筋へと逃がす。

 グリップを握る力は、強すぎず弱すぎない最適なテンションを維持する。

 頭の中で構築した物理的・力学的な理論を、私の異常な運動神経と身体能力が寸分の狂いもなく『出力』しているのだ。それはまるで、長年戦場で生きてきた熟練の兵士のように、私の細胞に深く染み付いていた。


「なっ……なんだこの女!?」

「撃て!! ぶっ殺せ!!」


 バックヤードの奥、酒瓶が並ぶ倉庫エリアから、さらに4人の男たちが現れた。

 今度は拳銃だけでなく、短銃身のアサルトライフルまで混ざっている。まともに撃ち合えば、いくら私でも蜂の巣になる弾幕だ。


 私は即座に、近くにあった業務用冷蔵庫の裏へと身を翻した。

 直後、鼓膜を劈くようなフルオートの連続射撃が始まり、倉庫内の酒瓶や段ボール箱が粉々に吹き飛ぶ。ガラスの破片とアルコールの飛沫が雨のように降り注ぎ、コンクリートの破片が私の頬を掠めた。


 遮蔽物の裏で、私は冷静に敵の残弾を計算する。

 アサルトライフルの発射サイクルから計算して、30発のマガジンが空になるまで約3秒。

 銃声が途切れ、カチャッ、という金属音が響いた瞬間——弾切れによるリロードの隙。


 私は冷蔵庫の陰から飛び出し、近くの壁の柱を蹴って三角跳びの要領で空中に身を投げ出した。

 空中で姿勢を制御しながら、銃を構え直す男たちの死角となる上方から銃弾を撃ち下ろす。

 2人の頭部を正確に撃ち抜き、着地と同時に前方へ前転。そのまま膝立ちの姿勢になり、残る2人の心臓に2発ずつ弾丸を撃ち込んだ。


 4人が崩れ落ちるのを見届けた私は、手元の銃の弾倉排出ボタンを押し、空になったマガジンを床に落とす。同時に、右袖に仕込んでいた予備マガジンを滑り込ませ、スライドを引いて次弾を装填した。一連の動作タクティカルリロードは1秒とかからなかった。


 だが、その直後だった。


「死ねやァァァァッ!!」


 死角となっていた機材の裏から、薬物で完全に理性が飛び、口から泡を吹いた男がふらふらと姿を現した。

 その手には、水平二連式の散弾銃ショットガンが握られていた。


 男の焦点の合っていない眼球と、異常に収縮した瞳孔。

 先ほどの連中と違い、この男の筋肉の動きには法則性がない。完全に恐怖が麻痺し、ただ反射だけで引き金を引こうとしている。

 散弾銃の弾道は広範囲に拡散する。しかも至近距離だ。完全に避けるのは物理的に不可能だった。


 私は反射的に脳のストッパーを一段階深く解除し、爆発的な瞬発力で真横に跳んだ。

 ドゴォォォン!! という耳を聾する爆音とともに、無数の鉛玉が扇状にばら撒かれる。


 私は急所を庇うように身を捻ったが、拡散した散弾の一部が私の肉体を捉えた。

 数発の鉛玉が、防弾インナーの左脇腹に直撃する。直撃は防げたとはいえ、凄まじいハンマーで殴られたような衝撃が内臓を揺らし、肋骨がミシリと嫌な音を立てた。

 さらに、インナーで保護されていない左の上腕部を、1発の散弾が浅く抉り取って後方の壁へと消えた。


「……ッ!」


 一瞬、呼吸が止まる。

 肉を削られ、骨に響く鈍痛。間違いなく、普通なら痛みにうずくまるほどのダメージだ。

 だが、私にとって『痛み』とは、単なる『車体にエラーが起きたことを知らせる警告ランプ』に過ぎない。腕は動く。足も動く。なら、行動に支障はない。


 私は痛みを情報として冷徹に切り捨て、床を転がって体勢を立て直すと同時に、男の顔面に向けて3発の銃弾を叩き込んだ。

 散弾銃が床に落ちる重い音が響き、男は背中から崩れ落ちた。


「ふぅ……」


 私はゆっくりと立ち上がり、自分の左腕を見た。

 ジャケットの袖が裂け、パックリと開いた浅い傷口から赤い血が滴り落ちている。インナー越しに被弾した脇腹も、ジンジンと熱を持ち始めていた。骨にヒビが入っているかもしれない。

 外界に出て初めて負った、明確な『戦傷』だった。


 アドの言った通りだ。

 いくら異常な身体能力があっても、数の暴力と予測不可能な狂気の前では、完全無傷とはいかない。だが、これくらいなら私の機動力に問題はない。


 私は滴る血を気にすることなく、血溜まりを避けて通路をさらに奥へと進んだ。

 重い防音扉を押し開けると、そこは地下クラブのメインフロアだった。

 ミラーボールが狂ったように回り、赤と青のレーザー光線が明滅する広大なダンスフロア。


 そこはすでに、地獄のような惨状と化していた。


 床には20人近い半グレたちの死体が、文字通り足の踏み場もないほどに転がっている。銃で撃ち抜かれた者、首を鋭利な刃物で掻き切られた者、さらには、凄まじい力で壁に叩きつけられ、原型を留めていない者までいた。

 そして、その死体の山の中心に、黒いライダースジャケットを返り血で赤く染めたアリスが立っていた。


 彼女は片手にハンドガン、もう片方の手には鮮血のついたタクティカルナイフを逆手で握っている。

 彼女の足元で、最後の1人だったらしい男が痙攣し、やがて動かなくなった。


「アリス」


 私が声をかけると、アリスはビクッと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。

 その瞳は、暗い殺意の炎でギラギラと燃え盛っている。リミッターが外れかかり、内なる怪物が顔を覗かせている、危うい目だ。


「……あ、ピュアちゃん」


 だが、私を認識した途端、彼女の瞳からスッと殺意が抜け落ち、いつもの陽気なアリスの顔に戻った。

 彼女はナイフについた血を死体の服で拭いながら、私の方へと歩いてくる。


「表側は粗方片付けたよ。そっちは……って、ピュアちゃん、血!」


 アリスは私の左腕から滴る血と、破れたジャケットを見て血相を変えた。


「大丈夫!? 撃たれたの!?」

「ただのかすり傷よ。腕も問題なく動くし、骨も無事。脇腹にインナー越しで何発か受けたから、肋骨にヒビくらいは入ってるかもしれないけど、行動に支障はないわ」

「支障ないって……! 痛くないの!?」

「不快な感じはするけど、『痛いから動けない』っていう思考にはならないのよ」


 私が淡々と説明すると、アリスは「本当に無茶苦茶な体質だね……」と呆れたように息を吐いた。


「でも、無事でよかった。ピュアちゃんが裏口を塞いでくれたおかげで、逃げられた奴はいないはずだよ」

「ええ。裏に回ってきた連中は全員片付けたわ。……でも」


 私は明滅するレーザー光線の中、床に転がる死体の数をざっと見渡した。

 裏口で私が仕留めたのが8人。メインフロアに転がっているのが約15人。


「アドが言っていた構成員の数には、まだ足りないわね」

「うん。それに、事前にもらってた顔写真のリストにあった、一番偉そうなボスの姿がここにはないの」


 アリスはフロアの奥——DJブースのさらに奥にある、厳重な電子ロックがかけられた重厚な扉を顎でしゃくった。


「多分、あそこ。VIPルームの奥に隠し部屋があるって情報だったから、残りの連中とボスはそこに引きこもってるはずだよ」


 扉の向こうからは、一切の音が聞こえない。だが、確実にそこに何者かが潜み、銃口を構えて息を潜めている気配がした。


「ここからが本番みたいね」


 私は左腕から垂れる血をジャケットの袖で適当に拭い、黒い星の刻印の銃を構え直した。

 傷の痛みは、私の脳をより冷徹に研ぎ澄ませている。

 私たちは視線を交わし、最後にして最大の獲物が潜む扉へと、足音を殺して近づいていった。


 VIPルームの奥に隠された、重厚な電子ロック付きの扉。

 アリスは躊躇うことなく、そのキーパッドに小型爆薬を貼り付けた。

 私たちは扉の両脇に身を隠す。


「残りはボスを含めて7人ってところかな。私が突っ込むから、ピュアちゃんは後ろからカバーお願い」

「わかった。あなたの背中は私が守る」

「ふふっ、頼もしいね」


 アリスは短く笑い、起爆スイッチを押した。

 鼓膜を震わせる爆音とともに電子ロックが吹き飛び、分厚い扉が内側へとひしゃげるように開く。

 もうもうと立ち込める粉塵と硝煙の中へ、アリスは弾丸のようなスピードで飛び込んでいった。


「撃て! 殺せぇっ!!」


 部屋の奥から、パニックに陥った男たちの絶叫とともに、嵐のような銃弾が放たれる。

 私は扉の陰から身を乗り出し、銃を構えた。

 室内は広く、高級な革張りのソファやガラスのローテーブルが置かれた豪奢な空間だった。だが、そこに隠れている男たちは皆、盲滅法にアサルトライフルや拳銃を乱射している。


 その弾幕の中を、アリスは人間離れした機動力で駆け抜けていた。

 彼女の動きは、先ほどまでの明るくおどけた先輩の姿とは全く異なっていた。床を蹴るたびにコンクリートが軋むほどの踏み込み。弾道を予測しているかのように、上体を極限まで反らし、あるいは獣のように四つん這いになりながら射線を躱していく。


 そして、彼女は瞬く間に最前列の男の懐へと潜り込んだ。

 男が悲鳴を上げて銃口を下げるより早く、アリスの右手から放たれた銃弾が男の膝を砕く。体勢を崩した男の首筋へ、彼女の左手に握られたタクティカルナイフが閃いた。

 一切の淀みがない、滑らかで暴力的な一閃。頸動脈を正確に切り裂かれた男から、鮮血が噴水のように吹き上がる。


「ヒッ……化け物っ!?」


 返り血を頭から浴びたアリスは、笑っていた。

 その顔を見て、私は息を呑んだ。

 彼女の目は極限まで見開かれ、口角は耳まで裂けんばかりに吊り上がっている。瞳孔は開ききり、理性のタガが外れ落ちるギリギリの境界線で、凄まじい破壊衝動に身を委ねているのがわかった。


 これが、リミッター解放寸前のアリスの姿。

 彼女の中に飼われている、制御不能な『怪物』の輪郭。

 彼女の身体からは、筋肉が軋み、尋常ではないアドレナリンが沸騰しているのが、少し離れた私にも肌で感じ取れた。彼女は今、自らの肉体が壊れるかどうかの瀬戸際で、望まないその圧倒的な暴力の渦を一身に受け止めている。


「アリスは狙わせない」


 私は左脇腹の痛みと、左腕の傷から流れる血の不快感を完全に意識から切り離し、冷徹にトリガーを引き絞った。

 狂気のごとき近接戦闘を繰り広げるアリスに気を取られ、横から彼女に銃口を向けようとしていた2人の男。

 私の動体視力は、彼らの筋肉の収縮と銃のポインティングを完全に捉えている。

 タンッ、タンッ。

 くぐもった2発の銃声。アリスの死角を狙っていた2人の男の側頭部に、私の放った弾丸が正確に吸い込まれた。脳漿を撒き散らし、彼らは崩れ落ちる。


 アリスは狂ったように笑いながら、目の前で絶命した男の体を盾にし、別の男へ向かってハンドガンを乱射した。近距離からの連射をまともに浴び、男が蜂の巣になって吹き飛ぶ。

 残るは2人。部屋の最奥、マホガニーのデスクの後ろに隠れているボスらしき男と、その横でアサルトライフルを構え直した護衛だ。


「死ねェッ!」

 護衛の男が、アリスに向けてフルオートで発砲しようとした瞬間。

 私はアリスの肩越しに射線を通し、男の構えるアサルトライフルの機関部と、男の眉間を順番に撃ち抜いた。

 金属部品が弾け飛び、男は頭部を激しく後ろに跳ね上げて即死した。


「……あはっ、ピュアちゃん、ナイスカバー!」


 アリスは血に染まった顔でこちらを振り返り、ウインクをした。

 その声にはまだ興奮の余韻が色濃く残っていたが、瞳の奥の狂気はスッと潮が引くように収まり、いつものアリスの理性が戻ってきているのがわかった。

 彼女は、あの極限状態の中で、自らの怪物をギリギリで押さえ込んでみせたのだ。

 その強靭な精神力に、私は底知れぬ尊敬の念を抱いた。


「来るな……! 来るなァッ!!」


 静寂が降りた部屋の奥で、デスクの陰から悲痛な叫び声が上がった。

 バベルのボス——派手なスーツを着崩し、金と権力で裏社会を気取っていたはずの若い男が、腰を抜かして床を這いずりながら後ずさっていた。手には震える拳銃が握られている。


「ヒィィッ……バケモノどもめ……!」


 男はパニックに陥り、目を閉じたまま私とアリスに向かって引き金を引いた。

 バンッ! バンッ!

 デタラメな軌道を描いた弾丸は、見当違いの壁や天井を穿つだけだ。

 私は冷ややかに男の動きを見極め、彼が握る拳銃のシリンダーを正確に撃ち抜いて破壊した。

 火花が散り、衝撃で銃を弾き飛ばされた男が悲鳴を上げて手首を押さえる。続いて、男の右太ももと左肩に1発ずつ弾丸を撃ち込んだ。


「ギャアアアアッ!!」


 致命傷を避け、完全に行動不能にするための計算された2発。

 男は大量の血を流しながら、デスクの脚にもたれかかるように崩れ落ちた。


「これで全員ね」


 私は銃口を下げ、血だまりを避けて男の元へと歩み寄った。

 アリスもナイフをしまい、肩で息をしながら私の隣に並ぶ。その身体からは、まだ異常な熱気が立ち上っていた。


「ハァ……ハァ……。ごめんね、ピュアちゃん。ちょっとテンション上がりすぎちゃった」

「いいのよ。あなたの背中は私が守るって約束したでしょ。それに……あなたのその姿、嫌いじゃないわ」


 私が素直な感想を告げると、アリスは少しだけ困ったように笑い、それから床でのたうち回るボスを見下ろした。


「さて、と。あんたがバベルのボスだね。こんなガキ集めてマフィアごっこなんて、随分舐めた真似してくれたじゃない」

「くそっ……お前ら……!」


 男は脂汗を流しながら、血走った目で私たちを睨みつけた。

 そして、私の手にある自動拳銃のグリップ——そこに刻印された『黒い星』を見て、ヒュッと喉を鳴らした。


「その星の刻印……やっぱりな…お前ら、あの『天秤リブラ』の犬か……!」

「……え?」


 アリスが微かに眉をひそめた。私も、思わず男の顔をまじまじと見下ろした。

 天秤。アドのスーツの襟についていた、弁護士バッジの意匠だ。

 アドが率いる組織は、司法と行政の裏で暗躍する極秘の存在のはず。こんな末端の、調子に乗っただけの半グレのボスが、どうして組織のことを知ったような口を聞くのか。


「どうして? 私たちのこと、知っているの?」


 私が冷たい声で問い詰めると、男は痛みに顔を歪めながらも、嘲るような笑みを浮かべた。


「ハッ……どうしてって……お前ら、こんな派手に殺し回って誰も嗅ぎつけてねぇとでも思ってんのかよ」


 アリスが1歩踏み出し、男の胸ぐらを掴み上げた。

 その強い力に、男の傷口からさらに血が噴き出す。


「ゲホッ……お前らみたいな、使いっ走りのガキには……わかるまい……。あの方の……計画は……すでに……」


 男の口から、ゴボリと大量の血が溢れ出した。

 私が撃ち込んだ太ももの傷から、大腿動脈の出血が予想以上に早かったのか、あるいは先ほどまで服用していたであろう違法薬物のショックが重なったのか。

 男の眼球が上を向き、全身が大きく痙攣した。


「ちょ、ちょっと待って! 誰の計画!? あの方って誰のこと!?」


 アリスが男の頬を平手で叩くが、男の焦点が再び合うことはなかった。

 最後にゴツッという喉の鳴る音を立て、ボスの体は完全に力なく項垂れた。即死には至らないはずの部位を撃ったが、出血性ショックによる絶命だ。


「……死んじゃった」

「情報を持っていたのに。生け捕りにしてアドに尋問させるべきだったわね。悪かったわ」

「ううん、ピュアちゃんのせいじゃないよ。こいつ、元々薬で心臓がボロボロだったろうし」


 アリスは男の体を床に放り出し、忌々しそうに血で汚れた手を拭った。


「でも、これは厄介なことになったね」

「ええ。アドたちの組織——私たちの存在を知っていて、意図的にこの半グレ集団を操っていた黒幕がいるってことだもの」

「しかも、『計画』なんて物騒なことまで言ってた。これはただの麻薬取引の始末じゃ終わらないかも」


 私たちは無言で顔を見合わせた。

 報告しなければならない重大な懸念事項ができてしまったが、アジトにいた30人の殲滅という当初の任務は、これで完全に達成されたことになる。


「とりあえず、仕事は終わりね」

「うん。ピュアちゃん、腕と脇腹、大丈夫? 痛む?」

「痛みはあるけれど、問題ないわ。アドに連絡して、事後処理の班を呼んでちょうだい」


 私は静かに銃のセーフティをかけ、ポケットにしまった。

 血と硝煙に塗れた地下クラブの冷たい空気の中で、私の肉体に刻まれた傷が、外界の裏社会の複雑さと底知れなさを静かに訴えかけていた。

 だが、隣にはアリスがいる。

 私は小さく息を吐き、傷口を軽く押さえながら、アドへの報告を待つことにした。


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