最終話「命の清算」
高校生活最初の週末、日曜日。
遅めの朝食を済ませた後、私はダイニングテーブルで参考書を開いていた蓮に声をかけた。
「蓮。今日、妹さんに会いに行かない?」
「えっ……?」
私が唐突に尋ねると、蓮はシャーペンを落としそうになりながら顔を上げた。
「あ、いや……純玲さんがお休みの日に、俺だけ抜け出して会いに行くのは……それに、昨日は純玲さんが出かけていたから、今日は家の掃除とか、純玲さんのサポートをしようと思ってたし……」
蓮は慌てて言い訳を並べ立てた。
彼が私に隠れて、休みの日にこっそりと妹のお見舞いに行っていることは、当然知っている。彼の行動パターンやスケジュールを把握するのは、私のサポーターを管理する上で基本中の基本だ。それに、彼が妹をどれだけ大切に想っているかも、あの夜の会話で痛いほど理解している。
私は彼を縛り付けるつもりはない。むしろ、彼が家族と過ごす時間を奪いたくないと、心から思っていた。
「私のサポートなら必要ないわ。掃除なんてルンバに任せておけばいいし、食事の準備もたまには私がやるから」
私が微笑みながら言うと、蓮は信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「そ、そんな! 純玲さんに家事なんてさせられませんよ! 俺がやりますから!」
「遠慮しないで。……それにね」
私は、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「私も、あなたの妹さんに会ってみたいの」
「え……?」
「あなたが自分の命を懸けてでも守りたかった女の子が、どんな子なのか。……私、すごく興味があるのよ。一緒にお見舞いに行ってもいいかしら?」
私の言葉に、蓮はしばらくの間、驚きで言葉を失っていた。
無理もない。かつての感情を持たない殺し屋だった私が、他人の家族に興味を持ち、わざわざお見舞いに行きたいと言い出したのだから。
でも、今の私には、彼が大切にしているものを、私も一緒に大切にしたいという『心』が確かに芽生えていた。
「……はい! もちろんです!」
蓮の顔に、パッと明るい笑顔が広がった。
「あいつも、きっと喜びます! 俺、純玲さんのこと、あいつにたくさん話してますから!」
「そう? 変なこと言ってないでしょうね?」
「言ってないですよ! すっごく綺麗で、かっこよくて、俺の命の恩人だって言ってます!」
蓮が鼻息を荒くして弁明するのを見て、私は小さく笑い声を漏らした。
私たちは出かける準備を整え、マンションの地下駐車場へと向かった。
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アドが手配してくれた、都内でも有数の設備が整った総合病院。
日曜日ということもあり、ロビーには多くの見舞い客の姿があった。
私たちは小児科病棟のナースステーションで面会の手続きを済ませ、一番奥にある個室へと向かった。
組織の力と資金が投入されているだけあって、セキュリティもプライバシーも完璧に守られた特別室だ。
コンコン、と蓮が控えめにドアをノックする。
「……はーい」
中から、少しだけか細いけれど、可愛らしい女の子の声が聞こえた。
蓮がドアを開け、「入るぞー」と明るく声をかけて部屋に入る。私も彼の後ろに続いて足を踏み入れた。
ベッドの上には、パジャマ姿の小さな女の子が座っていた。
年齢は10歳。蓮よりも二つ下だ。
肌は透けるように白く、少しだけ痩せているけれど、瞳はとても大きくて、黒曜石のようにキラキラと輝いている。
彼女は、蓮の姿を見ると、パッと花が咲いたような笑顔になった。
「お兄ちゃん!」
「よっ。調子はどうだ?」
「うん! もう全然苦しくないよ! 先生も、もうすぐ退院できるかもって言ってた!」
蓮がベッドの傍らに歩み寄り、彼女の頭を優しく撫でる。
その光景は、私が想像していた通りの、とても温かく、愛情に満ちた兄妹の姿だった。
血が繋がっていなくても、二人の間にある絆は、本物の家族以上に強い。
「そっか、よかったな。……ほら、今日は俺だけじゃないぞ」
蓮が私の方を振り返り、妹に私を紹介した。
「この人が、俺がお前に話した……俺たちを助けてくれた、純玲さんだ」
妹の大きな瞳が、私をじっと見つめた。
私は少しだけ緊張しながら、彼女のベッドのそばへと歩み寄った。
子どもと接するのは、あまり慣れていない。私が不用意な言葉で彼女を怖がらせてしまわないか、不安だった。
「初めまして。早乙女純玲よ」
私ができるだけ柔らかい声で挨拶をすると、彼女はベッドの上で居住まいを正し、ぺこりと深く頭を下げた。
「初めまして! お兄ちゃんから、いつもお話聞いてます! 純玲お姉ちゃん、すっごく綺麗!」
「ありがとう。あなたも、とても可愛いわね」
彼女の屈託のない笑顔に、私の緊張もスッと解けていくのを感じた。
「お兄ちゃん、純玲お姉ちゃんのこと、いつも『世界で一番すごい人だ』って言ってるの。俺の命の恩人で、一番尊敬してる人だって」
「ちょ、ちょっと! お前、そんなことまで言わなくていいだろ!」
蓮が顔を真っ赤にして慌てふためくのを見て、私と妹は思わず顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
「蓮がそんな風に言ってくれているなんて、嬉しいわ。……でも、私はそんなに大層な人間じゃないのよ。蓮が一生懸命頑張ってくれたから、私も助けられたの。蓮は、私にとっても大切な家族よ」
私がそう言うと、蓮はさらに顔を赤くして、照れ隠しに頭をガシガシと掻いた。
「純玲お姉ちゃん」
妹が、ベッドの脇のサイドテーブルから、何か小さなものを手に取って、私に差し出した。
「これ……お姉ちゃんに、プレゼント」
彼女の小さな手のひらに乗せられていたのは、色とりどりの折り紙で作られた、精巧な花の飾りだった。
ひまわり、バラ、そして、小さな青い花。
ベッドの上で、彼女が一生懸命に折ってくれたのだろう。
「……私に?」
「うん。……お兄ちゃんを助けてくれて、病院に入れてくれて、本当にありがとう。お姉ちゃんのおかげで、私、また元気になれるの」
彼女の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「お兄ちゃんが、私のためにお金を作ろうとして……危ないことしてたの、私、知ってたから。……お兄ちゃんが死んじゃうかもしれないって、毎日すごく怖かった」
彼女は、蓮の服の袖をギュッと握りしめながら、泣きじゃくった。
「でも、お姉ちゃんがお兄ちゃんを助けてくれて、一緒に暮らしてくれているから……私、すごく安心してるの。……だから、本当に、本当にありがとう……っ」
彼女の純粋な感謝の言葉と、温かい涙。
私は、彼女の手から折り紙の花を受け取り、両手でそっと包み込んだ。
この折り紙に込められた彼女の『心』が、私に痛いほど伝わってくる。
「……ありがとう。とても綺麗な折り紙ね。大切にするわ」
私の目からも、自然と熱いものが込み上げてきた。
私は、彼女の頭を優しく撫で、それから、蓮の方を見た。
蓮もまた、目を赤くして、妹の頭を撫でていた。
「退院したら、一緒に美味しいものを食べに行きましょう。蓮の作るご飯も美味しいけれど、外にはもっとたくさんの美味しいものがあるのよ」
「うんっ! 私、パンケーキ食べてみたい!」
「ええ、連れて行ってあげるわ。……だから、早く元気になってね」
私たちが約束を交わすと、病室は明るい笑顔と希望に包まれた。
「退院したら、一緒に美味しいものを食べに行きましょう。蓮の作るご飯も美味しいけれど、外にはもっとたくさんの美味しいものがあるのよ」
「うんっ! 私、パンケーキ食べてみたい!」
「ええ、連れて行ってあげるわ。……だから、早く元気になってね」
私たちが約束を交わすと、病室は明るい笑顔と希望に包まれた。
蓮が少しの間、ナースステーションへ主治医に挨拶をしに席を外した隙に、私は丸椅子に座り直し、ベッドの上の彼女に少しだけ顔を近づけた。
「ねえ、少し聞いていいかしら」
「ん? なあに、純玲お姉ちゃん」
彼女は、ニコリと無邪気な笑顔で首を傾げた。
私は、手に持った折り紙の花をそっと撫でながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「あなたは蓮と血が繋がっていないのに、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいるわよね。……彼の、どんなところが好きなの?」
私の問いかけに、彼女は少しだけ照れたように頬を掻き、それから、とても優しい、温かい目をして話し始めた。
「お兄ちゃんね、すごく不器用で、いっつも失敗ばっかりするんだよ」
「ええ、知っているわ。彼、すぐパニックになるし、私の前でもよく物をひっくり返したりしているもの」
「あはは、お姉ちゃんの前でもそうなんだ! ……でもね」
彼女は、窓の外の青空を見つめ、嬉しそうに言葉を紡いだ。
「お兄ちゃんは、私が泣いてる時、絶対に一人にしないで、ずっとそばにいてくれたの。……施設で他の子にいじめられた時も、ご飯が食べられなくてお腹が空いた時も、お兄ちゃんがいつも守ってくれて、自分のご飯を半分こしてくれた」
彼女の言葉から、蓮の底抜けの優しさと、自己犠牲の精神が伝わってくる。
「お兄ちゃんってね、自分が辛い時でも、私の前では絶対に泣かないの。いつも『大丈夫だぞ』って、笑って頭を撫でてくれる。……そういう、少し無理して強がってるところが、すごく『お兄ちゃん』だなぁって思うの」
彼女は、私に向き直り、満面の笑顔で言った。
「だから私、お兄ちゃんが世界で一番大好きなの!」
その言葉は、私の胸の奥に、スッと静かに、けれど確かな重みを持って落ちてきた。
自分が傷ついても、誰かのために笑うこと。誰かを一人にしないこと。
それは、アリスが私にしてくれたことと、全く同じだった。
蓮もまた、私にとってのアリスのような、温かくて強い『太陽』を持っていたのだ。
「……そう。蓮は、本当に立派なお兄ちゃんね」
私は、彼女の言葉を一つ一つ、大切に脳のアーカイヴに刻み込んだ。
そして、私も彼女に微笑み返した。
「私ね、今まで一人でいるのが一番正しいって思っていたの。でも、蓮や、あなたのお話を聞いて……私も、そういう風になりたいって、心からそう思ったわ」
「お姉ちゃんが?」
「ええ。誰かのために強がって、誰かのために笑って、大切な人を絶対に一人にしない。……そんな、優しくて強い人に、私もなりたいわ」
私が素直な気持ちを伝えると、彼女は目を丸くし、それから、ふふっと楽しそうに笑った。
「純玲お姉ちゃんなら、絶対になれるよ! だって、お兄ちゃんが『純玲さんはすごく優しい人だ』って言ってたもん!」
「……蓮が? まったく、あの子は私の前ではそんなこと一言も言わないのに」
私が苦笑していると、病室の扉が開き、蓮が戻ってきた。
「ただいま戻りました! ……あれ、二人で何の話してたんですか?」
蓮が、少しだけ警戒したような目で私たちを交互に見る。
「なんでもないわよ。ただ、あなたの不器用なところについて、少しだけ意見交換をしていただけよ」
「えっ!? ちょっと、何吹き込んでるんですか! 俺、純玲さんの前では完璧なサポーターとして……」
「お兄ちゃん、顔真っ赤だよー!」
妹にからかわれ、蓮がさらに顔を赤くして慌てふためく。
その滑稽で、けれど限りなく温かいやり取りを見ていると、私の胸の中は、これまでにないほどの穏やかな光で満たされていた。
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「純玲お姉ちゃん、次はこれ読んで!」
蓮の妹が、ベッドの上で目を輝かせながら、一冊の絵本を私に差し出してきた。
私は、その表紙に描かれた可愛らしい動物のイラストを見つめ、少しだけ戸惑ってしまった。これまで私が読んできた本といえば、物理学や情報工学、あるいは人体の構造に関する専門書ばかりだったからだ。
絵本を読み聞かせるというタスク。声のトーンはどのくらいが適切なのか、登場人物の感情をどう表現すればいいのか、私のデータには全くインプットされていない。
「……純玲さん、無理しなくてもいいですよ。俺が読みますから」
見かねた蓮が助け舟を出してくれようとしたが、私は小さく首を横に振った。
「いいえ、私がやるわ」
私は、感覚の戻った手で絵本を受け取り、妹の隣に腰を下ろした。
ページをめくり、たどたどしいながらも、できるだけ優しい声になるように意識して文字を読み上げていく。
最初は感情の込め方がわからず、ただの情報の読み上げになってしまったかもしれない。けれど、妹が「わぁっ」と声を上げたり、「それでそれで?」と身を乗り出してきたりするたびに、私の中に『相手を楽しませたい』という温かい感情が湧き上がり、自然と声に抑揚がついていった。
絵本の次は、あやとりだった。
紐の長さと指の配置から、どうすれば目的の形状が作れるのかを頭の中で立体的に演算し、私は「ほうき」や「はしご」を次々と完成させてみせた。
「お姉ちゃん、すごーい! 天才!」
「ふふっ、これくらい物理的な構造を理解すれば簡単よ」
私が少し得意げに笑うと、蓮が横で「純玲さん、それ全然子ども向けの遊び方じゃないですよ」と苦笑いしていた。
その後も、彼女の「あれやりたい」「これやりたい」という無邪気な要求に、私はわからないなりに一生懸命付き合った。
折り紙で鶴を折り、お絵描き帳に一緒に花の絵を描く。
私の拙い絵を見て、妹は声を上げて笑ってくれた。
その笑顔を見ていると、私の胸の奥に溜まっていた過去の冷たいノイズが、春の陽光に溶ける雪のように消え去っていくのを感じた。
「じゃあね、純玲お姉ちゃん! また絶対遊びに来てね!」
「ええ、約束するわ。早く元気になってね」
私たちは、ベッドの上で大きく手を振る彼女に見送られながら、病室を後にした。
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病院のエントランスを抜け、外に出ると、空はすでに夕暮れの茜色に染まり始めていた。
大通りには家路を急ぐ車が行き交い、歩道を歩く人々の影が長く伸びている。
私は、隣を歩く蓮の横顔を見た。彼の表情には、妹が順調に回復していることへの深い安堵と、幸せな疲労感が浮かんでいた。
「……蓮」
私が静かに声をかけると、彼はハッとしてこちらを向いた。
「はい、純玲さん。どうしました?」
「私ね……今日、あなたの妹さんと遊んで、本当に楽しかったわ」
私は、自分の胸に手を当て、そこにある確かな温もりを確かめるように言葉を紡いだ。
「あなたが、自分の命を懸けてでも彼女を守りたかった理由が、痛いほどよくわかったわ。……あんなに真っ直ぐに慕われて、大好きだって言ってもらえるなんて、本当に素敵なことね」
私の言葉に、蓮は少し照れくさそうに頭を掻き、「あいつ、本当に純玲さんのこと気に入ったみたいですね」と嬉しそうに笑った。
「私も……あなたみたいになりたいわ」
「え?」
「今まで、私は誰かから奪うことしかしてこなかった。自分の生存や目的のために、他者を排除することしか知らなかった。……でも、これからは違う」
私は、茜色の空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
「私も、あなたみたいに……誰かに慕われて、『大好き』と言ってもらえるような、誰かに何かを『与えられる人』になれるように、頑張るわ」
私が心からの決意を口にすると、蓮は足を止め、少しだけ驚いたように私を見つめた。
そして、彼はとても優しく、温かい笑顔を浮かべた。
「……純玲さん。純玲さんは、もうとっくに『与えられて』ますよ」
「私が?」
「はい。俺の命も、妹の未来も、純玲さんがくれたものです。……それに、アリスさんも、クォーツさんも、アドさんも。みんな、純玲さんのことが大好きなんですよ。俺だって……純玲さんのこと、誰よりも尊敬してますし、大切に想ってます」
蓮の言葉は、何の飾り気もない、純度100パーセントの本心だった。
その言葉が、私の胸の一番奥にある柔らかい部分を、優しく撫でてくれた。
私は、もう一人じゃない。愛し、愛されることを許された、一人の人間なのだと、蓮が教えてくれた。
目頭が熱くなり、私は「……ありがとう、蓮」と、震える声で感謝を伝えた。
私たちが、病院の敷地を出て、大通りの歩道に差し掛かった、その瞬間だった。
——キラッ。
私の異常に発達した動体視力が、向かいのビルの屋上付近で、不自然に反射した光を捉えた。
夕日の反射ではない。あんな高い位置に、あんな角度で光るガラスは存在しない。
私の脳内の演算回路が、極限の速度でその光の正体を導き出す。
スナイパーライフルの、スコープの反射光。
距離、約400メートル。風速、仰角。
そして、その射線が向いている先。
私ではない。
私の隣で、無防備に笑っている、蓮の頭部だ。
「……っ!!」
思考するよりも早く、私の身体が動いていた。
感情を持たない機械だった頃なら、私は自分の生存を最優先し、瞬時に物陰へと飛び込んでいただろう。あるいは、相手の狙いが自分ではないと計算し、反撃の体勢を整えていたかもしれない。
だが、今の私を突き動かしたのは、論理でも計算でもない。
『大切な家族を、絶対に失いたくない』という、純粋で強烈な愛情と恐怖だった。
「蓮ッ!!」
私は、声の限りに叫びながら、全力で床を蹴り、蓮の身体に向かって飛び込んだ。
両手で彼の肩を強く突き飛ばす。
「えっ……純玲さ——」
蓮が驚愕の声を上げるのと、空気を切り裂くような破裂音が轟いたのは、ほぼ同時だった。
ドァァンッ!!
弾丸が、音速を超えて飛来する。
蓮の身体がアスファルトに転がり、彼が本来いたはずの空間に、私の身体が入り込む。
——ドスゥッ!!
「ァッ……!!」
私の右腹部に、焼け火箸を叩き込まれたような、圧倒的な衝撃と激痛が走った。
ライフル弾が、私の肉を裂き、内臓を破壊して貫通していく。
痛覚が完全に戻っている私の脳に、致死量を超えるエラー信号がダイレクトに叩き込まれた。
「ア……ァァッ……!」
私は、その場に崩れ落ち、アスファルトの上に血だまりを作りながら倒れ込んだ。
視界が真っ赤に染まり、呼吸をするたびに口から血の泡が溢れ出す。
即死する急所(心臓や脳)は外れた。だが、弾丸は確実に私の重要な臓器を破壊しており、このままでは下手すれば死んでしまう重傷であることは、私の脳が冷静に計算していた。
「純玲さん!! 純玲さんッ!!」
突き飛ばされて地面に倒れていた蓮が、血相を変えて這いずり寄ってきた。
彼は、私の腹部からとめどなく溢れる血を見て、パニックを起こして絶叫した。
「嘘だろ……っ! 純玲さん、なんで……っ! 俺を庇って……っ!!」
「……れ、ん……無事、ね……」
私は、血反吐を吐きながら、震える手を伸ばして彼の頬に触れた。
私の手は血まみれだったけれど、彼が生きているという確かな温もりが、私の手のひらに伝わってきた。
よかった。彼を守れた。私の大切な弟を、失わずに済んだ。
「ダメだ、死なないでください! 病院が目の前だ、今すぐ人を呼んできます! だから、目を開けててください!!」
蓮は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、立ち上がって病院の救急入り口へと狂ったように走り出した。
「誰か!! 助けてください!! 撃たれたんです!!」という彼の悲痛な叫び声が、夕暮れの街に響き渡る。
一人残された私は、冷たいアスファルトの上で、薄れゆく意識と戦っていた。
寒い。血が抜けていくたびに、身体の熱が奪われていく。
アリスが死んだ時、彼女もこんな風に冷たくなっていったのだろうか。
——ブーッ、ブーッ。
不意に、私のコートのポケットの中で、スマートフォンが振動した。
アドからの連絡か? いや、こんなタイミングでかけてくるはずがない。
私は、激痛に耐えながら、震える血まみれの手でスマートフォンを取り出し、画面を見た。
表示されているのは『非通知』。
私の頭の奥で、嫌な予感が警報を鳴らした。
私は、通話ボタンを押し、血のついた画面を耳に当てた。
「……誰」
掠れた声で尋ねると、電話の向こうから、聞き覚えのある、中性的な笑い声が聞こえてきた。
『やあ、ピュア。久しぶりだね』
その声に、私の瞳孔が極限まで収縮した。
ルミナス。
私たちの仲間だった狙撃手であり、レイが『内通者』だと予測した裏切り者。
「……ルミナス。あなたが、撃ったのね」
『ご名答。風の計算が少し狂ったかな。ロータスくんの頭を吹き飛ばそうと思ったのに、まさか君が身代わりになるとはね』
ルミナスの声には、かつての飄々とした態度はなく、底知れぬ狂気と、ドス黒い憎悪が渦巻いていた。
『でも、ちょうどよかったよ。ロータスくんを殺せば君に隙が生まれるかと思ったけど、君自身が死んでくれるなら、これ以上最高なことはない』
「どうして……。あなたは、なぜ神宮寺に……」
『「あの方」を殺しておいて、よくもまあ幸せな人生を送ってるね、ピュア』
ルミナスの声が、氷のように冷たく、鋭く突き刺さってきた。
『あの方は、僕にとってのすべてだった。僕を拾い、僕に存在意義を与えてくれた、絶対的な神だったんだ。……それなのに、君はあの方を殺した。君たち天秤の連中は、僕の神様を奪ったんだよ』
その言葉を聞いて、私はすべてを理解した。
ルミナスは、ただ金で買われたスパイなどではなかった。彼は、神宮寺誠一郎という男に心酔し、狂信的な忠誠を誓っていたのだ。
神宮寺が死んでも、彼の残した毒は、こうして狂気となって確実に生き続けていた。
『あの方を殺した僕の憎しみは、永遠に消えない。……そのまま、自分の無力さを呪いながら、苦しみ抜いて死ぬといいさ、ピュア』
ツーツー、という無機質な電子音だけを残して、電話が切れた。
私は、血まみれのスマートフォンを握りしめたまま、アスファルトの上に仰向けになった。
空は、暗くなり始めていた。
星が一つ、二つと瞬き始めている。
痛い。苦しい。
でも、不思議と、ルミナスの言葉を聞いても、私の心に絶望はなかった。
「……バカね。私は、後悔なんて……1ミリも、していないわ」
私は、血の混じった息を吐き出しながら、小さく微笑んだ。
彼らは、私からすべてを奪おうとした。
でも、私はアリスの仇を討ち、そして今、蓮という大切な家族の命を守り抜いた。
私が奪ってきた命の数には到底足りないかもしれないけれど、私は最後に、自分の命を投げ打ってでも『与える側』になれたのだ。
「先生!! こっちです!! ピュアさん!!」
遠くから、ストレッチャーを引いた医療スタッフたちと共に、蓮が泣き叫びながら駆けてくるのが見えた。
彼の無事な姿を見届けて、私の目から、すーっと一筋の涙がこぼれ落ちた。
(……アリス。私、ちゃんと人間になれたかな)
胸元のロケットペンダントが、私の微かな心臓の鼓動に合わせて、冷たく光っている。
視界が、急速に暗闇へと沈み込んでいく。
痛みも、寒さも、遠のいていく。
私は、愛する仲間たちの温かい記憶に包まれながら、静かに、ゆっくりと、その意識を手放した。
━━━━━━━━━━━━━━━━
重い瞼をわずかに押し上げると、まず視界に飛び込んできたのは、見慣れたタワーマンションの天井でもなく、夕暮れの茜色の空でもない。眩しいほどに真っ白で、無機質な蛍光灯の光だった。
鼻腔を突くのは、アルコールと消毒液の鋭い匂い。
そして耳元では、絶え間なく鳴り響く電子音が空間を支配していた。
ピーッ、ピーッ、ピーッ……。
心電図のモニターが、私の生命活動の危機を知らせるアラームを、休むことなくけたたましく吐き出し続けている。
(……ここは、病院ね)
ぼんやりとした頭で、私は現在の状況をゆっくりと理解し始めた。
腹部に意識を向けると、焼け付くような、息をするだけでも内臓が引き裂かれるような鈍い激痛が走った。分厚い包帯が何重にも巻かれているのが、感覚の戻った皮膚から伝わってくる。左腕には点滴の針が深く突き刺さり、そこから冷たい液体が絶え間なく私の血管へと流し込まれていた。
痛い。本当に、息をするのすら苦しい。
けれど、私にはその痛みが、自分がまだこの世界に人間として繋ぎ止められている証のように思えて、少しだけ愛おしかった。
「……っ、ピュアさん……! 純玲さん……っ!」
すぐ傍から、嗚咽にまみれた声が聞こえた。
右手に、ぎゅっと力強く握りしめられる温かい感触がある。
視線をそちらへと向けると、パイプ椅子に座り込んだまま、私の手を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしている蓮の姿があった。
彼の顔は青ざめ、服のあちこちには、私から流れた赤黒い血がべっとりとこびりついている。彼がどれほど必死に私を抱え、ここまで助けを求めて走ってくれたのかが、その痛々しい姿から痛いほどに伝わってきた。
「……蓮」
私が、掠れた、空気の漏れるような声で彼の名前を呼ぶと、蓮は「純玲さん……っ!」と叫んで、さらに強く私の手を握りしめた。
彼の涙が、私の手の甲に落ちる。温かい。彼が生きている。私を庇って死ぬことなく、ちゃんとここで息をしている。
その事実だけで、私の心は深い安堵に包まれた。
「……気がつかれましたか」
ベッドの反対側から、静かな、けれどひどく重苦しい声が聞こえた。
白衣を着た中年の医師が、カルテを手にしながら悲痛な顔で私を見下ろしていた。
「先生……彼女、気がついたんです! お願いです、助けてください! 手術すれば、また元気に……っ!」
蓮が、すがるような目で医師を見上げた。
しかし、医師はゆっくりと首を横に振り、重い口を開いた。
「……申し訳ない。私たちも、持てる限りの技術を尽くして応急処置を施しました。しかし……放たれたライフル弾は、彼女の腹部を貫通する際に、肝臓や腎臓を含む主要な臓器をいくつも激しく破壊しています。内部の損傷があまりにも甚大で……懸命に止血を試みていますが、もはや手の施しようがありません」
医師の言葉は、冷酷なまでに事実だけを突きつけていた。
「非常に申し上げにくいのですが……おそらく、もう助かりません。彼女の命の灯火は、あと数時間……いや、数十分もつかどうか……」
その宣告が病室に響き渡った瞬間。
蓮は、雷に打たれたように完全に言葉を失い、目を見開いたまま固まった。
私は、自分の身体のことだというのに、驚くほど心が静かだった。
痛覚が戻った私の身体は、自分の内側がもう修復不可能なほどに壊れてしまっていることを、誰に言われるまでもなく正確に理解していたからだ。
血が足りない。手足の先からどんどん熱が奪われ、深い冷たさが這い上がってきている。私の時間は、もうすぐ終わるのだ。
「……そう」
私は、浅い呼吸を繰り返しながら、できるだけ穏やかな声で医師に告げた。
「教えてくれて、ありがとう、先生。……じゃあ、最後に。蓮と2人だけで、話をさせてちょうだい」
私の言葉に、医師は深く、本当に深く頭を下げた。
「……わかりました。外で待機しています」
彼はそれだけを静かに残し、病室の扉を開けて出て行った。
カチャン、と扉が閉まる音が、この部屋を世界から完全に切り離したようだった。
部屋に残されたのは、私と、絶え間なく鳴り続ける心電図のアラーム音、そして、私の手を握ったまま震え続けている蓮だけになった。
「嘘だろ……なんで……なんでだよ……っ!」
蓮の口から、絞り出すような、絶望に満ちた叫びが漏れた。
彼は、私の手に額を押し当て、子どものように声を上げて泣きじゃくり始めた。
「そんな急に……っ! 俺たち、組織を抜けて、これから……これから、一緒に普通の幸せを噛みしめようって……学校にも通い始めて、これから……これから幸せになろうっていうのに……っ!」
「……蓮」
「俺のせいだ……! 俺が、あんなところで気を抜いていたから……! 俺なんかを庇うから……っ! 俺の代わりに、純玲さんが死ぬなんて……そんなの、絶対に嫌だ……っ!!」
彼が流す涙の熱さが、私の冷えゆく手にじんわりと染み込んでいく。
私が死ぬことを、こんなにも悲しんで、自分を責めて泣いてくれる人がいる。感情を持たないバケモノだった頃の私には、想像もできなかった最期だ。
蓮は泣き叫び、理不尽な運命を呪っている。
けれど、私は不思議なほどに落ち着いていた。
死ぬことへの恐怖や、未来を奪われることへの絶望感は、今の私の胸には驚くほど存在していなかった。
むしろ、どこか「ああ、やっぱりこうなるのね」という、静かな納得感すらあったのだ。
私が今まで、どれだけの命をこの手で奪ってきたか。
自分の両親を殺し、邪魔なものを排除し、冷徹な計算式のもとで数え切れないほどの血を流してきた。アリスの命さえも、私がその首を絞めて終わらせた。
そんな血に塗れた殺人鬼が、アドやアリスのおかげで少しだけ人間らしい感情を取り戻したからといって、すべてを忘れて光の当たる世界で『普通の幸せ』を手に入れられるはずがない。
私が奪ってきた命の重さは、いつか必ず、私自身の命で清算しなければならない。私は、心のどこかで、ずっとその報いが来る日を予感し、覚悟していたのだ。
それが今日、ルミナスの放った凶弾という形で現れただけ。
神宮寺を倒し、アリスの仇を討ち、そして最後に、私がこの世界で一番大切に想う『家族』である蓮の命を守り抜くことができた。
奪うことしか知らなかった私が、最後に誰かに命を『与える』ことができたのだ。
これほど完璧で、これほど美しい結末が、他にあるだろうか。
「……泣かないで、蓮。あなたが悪いんじゃないわ」
私は、感覚の戻った左手をゆっくりと持ち上げ、彼の黒い髪をそっと撫でた。
私の慰めの言葉に、蓮は顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で私を見た。
これから死にゆく私と、残される彼。
あまりにも突拍子がなく、現実味のない展開に、私たちはしばらくの間、言葉を失い、深い沈黙に包み込まれてしまった。
ピーッ、ピーッ、というアラーム音だけが、無情にも私の残り時間をカウントダウンしている。
映画や小説の中なら、こういう時は気の利いたセリフや、感動的な別れの言葉がスラスラと出てくるのだろう。けれど、現実の死というものは、あまりにも唐突で、どう言葉を紡げばいいのか全くわからない。
ただ、彼の温かい手の感触と、私の腹部の激しい痛みだけが、これが現実なのだと教えてくれている。
私は、彼の手を優しく握り返し、ゆっくりと、ぽつりと、心の中に浮かんだ言葉をこぼし始めた。
肺が焼け付くように痛み、口の中に鉄の味が広がるけれど、今、この瞬間に伝えておかなければならないことがあった。
「……蓮」
私が微かに声をこぼすと、うつむいていた彼がハッと顔を上げた。
涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔。私のために泣いてくれる、私の大切な家族。
「はい……。俺、ここにいます。ずっと、ここにいますから……」
「私ね……あなたに、ずっと言えずにいたことが、あるの」
私は、乾いた唇を微かに動かし、ぽつりぽつりと話し始めた。
もう、強がる必要もない。計算式で感情を覆い隠す必要もない。私はただの早乙女純玲として、彼に真実を渡さなければならない。
「……前に、私が母の実家に行って、祖母に会った話をしたわよね」
「はい……。純玲さんが、自分の過去の真実を知ったって……」
「あの時、祖母から……一つだけ、小さなメモを渡されたのよ」
私は、ゆっくりと瞬きをして、視界の端に滲む光を散らした。
「それは、私が五歳の時に両親を殺した日……母のお腹の中にいた、私の弟が預けられた孤児院の名前と住所だったわ」
その言葉を聞いて、蓮の肩がビクッと震えた。
彼の瞳が、驚きと戸惑いに見開かれる。
「……え? 純玲さんに、弟さんが……いたんですか? その、お腹の中に……?」
「ええ。母は助からなかったけれど、病院で緊急の帝王切開が行われて、その子だけは奇跡的に命を取り留めたの。……神宮寺の魔の手から逃がすために、祖母がこっそりと遠方の孤児院に預けたそうよ」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
彼の黒い髪、少しだけ癖のある目元。私とは似ていないようで、どこか同じルーツを感じさせるその輪郭。
「その孤児院の名前はね……あなたが育ち、妹さんと出会った施設と、全く同じ名前だったのよ」
蓮は、息を呑んだ。
彼の口が微かに開き、信じられないものを見るように私を見つめている。
「……それって……」
「ただの偶然かもしれない。世の中に同じ年齢の孤児なんてたくさんいる。……そう思って、私は最初は気にしないようにしていたわ。でも、モニターの療養所に匿ってもらっていた時……あなたが使っていたコップをもらって、ドクターにDNA鑑定をお願いしたの」
私は、懺悔するように、静かに告白した。
「私の血液と、あなたの唾液で、DNA鑑定をしてもらったのよ。……結果は、九十九・九パーセントの確率で、私たちは実の姉弟だという判定だったわ」
その事実が病室に落ちた瞬間。
蓮は、完全に言葉を失い、絶句した。
彼が私の手を握る力が、一瞬だけフッと抜けそうになり、そして再び、震えながらギュッと強く握り直された。
「俺が……純玲さんの、弟……?」
彼は、信じられない現実を咀嚼しようと、掠れた声で呟いた。
「嘘、だろ……。だって俺、両親は火事で死んだって、院長から……」
「ええ。そこが、私の記憶とあなたの記憶の、唯一の矛盾点だったわ」
私は、痛む腹部を庇いながら、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「組織を抜けてから、私たち、普通の生活を送るための準備をしていたでしょう? その裏で、私はアドにお願いして、あの日の事件の調書や、実家の火災記録を極秘に調査してもらっていたの。……私の過去を、完全に清算するためにね」
私が五歳の時に起こした、両親の殺害事件。
私は包丁で彼らを刺し、血の海の中で立ち尽くしていた。その後、警察に保護され、施設へと送られた。
だが、その直後、早乙女の家は全焼していたのだ。
「私が警察に保護された直後、神宮寺が手下を連れて実家にやってきたのよ。彼らは、あそこで行われていた狂った実験のデータや痕跡をすべて消し去るために、家に火を放ったの」
「神宮寺が……火を……」
「そう。でもね、その時……母には、まだ微かに意識が残っていたのよ」
私は、調査の過程で知ったその事実を思い出すたびに、胸の奥が不思議な熱を帯びるのを感じていた。
「母は、私に刺されて致命傷を負いながらも……神宮寺の放った火の手から、お腹の中のあなたを守るために、必死に床を這って、水のある風呂場へと逃げ込んだの。……消防隊が駆けつけた時、彼女は風呂場の湯船の中で、あなたを庇うようにして息絶えていたそうよ」
その言葉を聞いて、蓮の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
私を実験動物として扱い、暗い納戸に閉じ込めていたあの冷酷な母が。
最期の最期で、自分の命が尽きるその瞬間に、まだ見ぬ我が子を守るために炎の中で足掻いたのだ。
「だから……あなたが孤児院の院長から聞かされていた『両親は火事から俺を庇って死んだ』という話は、決して嘘じゃなかったのよ。……母は、あなたを愛して、命懸けで守ってくれたの」
私は、自分が親から愛されなかったという事実を受け入れ、諦めていた。
けれど、母が最後に弟の命だけは守り抜いたという事実を知った時、私はなぜか、ほんの少しだけ救われたような気がしたのだ。
私を愛してはくれなかったけれど、彼女の中にも、確かに母親としての人間らしい愛情が残っていたのだと。
「あぁ……っ、あぁぁ……っ」
蓮は、両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。
彼はずっと、顔も知らない両親の愛を信じ、妹を守ることでその愛に応えようとして生きてきた。その両親の最期の真実が、これほどまでに凄惨で、けれど確かな愛情に満ちていたことに、彼の心は激しく揺さぶられていたのだろう。
「……ごめんなさい、蓮」
私は、涙で視界を滲ませながら、彼に謝罪した。
「私が……お父さんとお母さんを、殺したのよ。私が彼らを刺さなければ、あなたは普通の家庭で、両親の愛情を受けて育つことができたかもしれない。……私が、あなたの運命を狂わせたの」
それが、私がずっと抱えていた一番重い罪悪感だった。
私が親を殺したから、彼は孤児院でつらい思いをし、妹のために闇金に手を出さなければならなくなった。
すべての不幸の元凶は、私なのだ。
「違う……っ! 違いますよ、純玲さん……っ!」
蓮は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を激しく横に振り、私の手を両手で強く、痛いほどに握りしめた。
「純玲さんが悪いわけじゃない……っ! 純玲さんは、あんな酷い実験をされて……生きるために、そうするしかなかったんじゃないですか……っ! 俺、純玲さんのこと、恨むわけない……絶対に、恨みません……っ!」
彼のその真っ直ぐな言葉が、私の心の一番深いところに刺さっていた氷の棘を、優しく溶かしてくれた。
彼は、私が親殺しだと知っても、私を拒絶しなかった。
私の弟は、こんなにも優しくて、温かい心を持った少年に育ってくれていたのだ。
「……ありがとう、蓮」
私は、息も絶え絶えになりながら、彼に向けて心からの笑顔を作った。
「私があなたと血の繋がった姉弟だと知った時から……私は、あなたを私の唯一の肉親として、私の持っているすべての愛情を与えるべき存在なんだって、そう意識し始めたのよ」
私が、彼をルミナスのライフルから守った。
それは、ただのサポーターへの気遣いではなく、姉が弟に向ける、純粋で無償の愛だった。
私は、彼に「大好き」と言ってもらえるような人になりたかった。彼が妹を愛したように、私も彼を愛し、守り抜きたかったのだ。
「だからね、蓮」
私は、残された力を振り絞り、彼の頬にそっと手を伸ばした。
感覚のない私の手が、彼の涙で濡れた熱い頬に触れる。
「さっき……ビルの屋上でライフルの反射光を見た時。……私があなたを庇って飛び出したことに、一ミリも、後悔なんてないのよ」
「純玲、さん……っ」
「私が奪ってしまったあなたの家族の代わりに……私が、あなたの盾になれるなら。……私の命を懸けて、あなたを守れるなら、これほど幸せな結末は……ないわ」
私の言葉に、蓮は声を上げて泣き崩れた。
彼は、私の手に自分の顔を擦り付け、子どものように嗚咽を漏らし続けている。
「嫌だ……っ! そんなの嫌だ……っ! 俺、やっと……やっと本当の家族に会えたのに……っ! 純玲さんがお姉ちゃんだってわかったのに……っ! どうして……どうして置いていくんですか……っ!!」
蓮の悲痛な叫び声が、無機質な病室の壁にぶつかっては、私の胸の奥に重くのしかかってきた。
彼が私の手を握りしめる力は、きっと骨が軋むほど強かったに違いない。私にはもうその圧力を感じられず、彼の手からこぼれ落ちる熱い涙が、私の皮膚の表面を伝ってシーツへと落ちていくのも視界の情報としてしか受け取れなかった。
「ごめんなさい、蓮……。本当に、ごめんなさい……」
私は、掠れた声で謝ることしかできなかった。
彼を助けたことに後悔はない。でも、彼にまたしても家族を失う悲しみを背負わせてしまうことだけは、どうしても申し訳なくて、胸が引き裂かれそうだった。
蓮は、私の手に顔を押し当てたまま、しばらくの間、子どものようにしゃくり上げ続けていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったその顔は、11歳という実年齢相応の幼さを残しながらも、どこか切羽詰まったような、ひどく苦しげな大人の男の表情を浮かべていた。
「……俺」
蓮は、血走った目で私を真っ直ぐに見つめ、震える唇を開いた。
「俺……純玲さんのことが、好きだったんです」
その言葉が病室に落ちた瞬間、私の呼吸がわずかに止まった。
好き。
それは、家族としての親愛の情ではなく、もっと深く、切実な響きを持っていた。
「……え?」
「俺……ずっと、純玲さんに恋をしてたんです。……あの日、廃ビルで俺の命を救ってくれた時から。俺の不器用なご飯を美味しいって言って笑ってくれた時から……ずっと、ずっと……っ」
蓮の目から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
私は、驚きで言葉を失った。
彼が私を特別に慕ってくれていることはわかっていた。でも、それが『恋愛感情』だったなんて、私の計算式には1ミリも組み込まれていなかったのだ。
彼はまだ11歳だ。私とは4歳も離れているし、何より私たちは、アドの計らいで戸籍上は姉と弟として一緒に暮らしてきた。
「戸籍上は姉弟になって……でも、それはただの偽装だからって、自分に言い聞かせてました。……俺がもっと大きくなって、もっと強くなって……純玲さんの隣を歩くのに見合う男になれたら。……いつか絶対に、この気持ちを伝えようって……そう、思ってたんです」
蓮は、私の感覚のない左手を両手で強く握りしめ、嗚咽を漏らした。
「でも……っ。ここで、実の姉弟だったなんて告げられて……その上、純玲さんがもうすぐ死んじゃうなんて……っ」
彼の声が、絶望に裏返る。
「あんまりじゃないですか……っ!! どうして……どうして神様は、俺から全部奪っていくんだよ……っ!! 俺が、純玲さんを好きになっちゃいけなかったからですか……っ!? だから、こんな残酷な罰を与えるんですか……っ!!」
蓮の悲痛な叫びは、私の胸の奥の一番柔らかい部分を、鋭利な刃物で何度も何度も突き刺してきた。
あんまりだ。本当に、彼の言う通りだ。
彼はただ、純粋に誰かを愛し、その人のために強くなろうと必死に努力してきただけなのに。
その想い人が、実の血を分けた姉であり、しかも今まさに自分の目の前で命を落とそうとしているのだ。
こんな理不尽で残酷な運命を、わずか11歳の少年に背負わせてしまうなんて。
「……蓮……っ」
私は、涙で視界を歪ませながら、感覚のない左手をゆっくりと持ち上げ、彼の頬にそっと触れた。
彼が私に寄せてくれていた、その真っ直ぐで温かい想い。
もし私たちが、こんな血に塗れた裏社会ではなく、光の当たる普通の場所で出会えていたら。彼がもっと成長して、立派な大人になった時、私は彼のその気持ちに、どう答えていたのだろうか。
「ごめんね……。ごめんね、蓮……っ」
私は、彼の頬を撫でながら、ただひたすらに謝り続けた。
「私が、あなたの気持ちに気づいてあげられなくて……こんな重い事実を、最期に突きつけてしまって……本当に、ごめんなさい……っ」
「純玲さん……っ、純玲さぁぁん……っ!!」
「あなたのその優しい気持ちに、私は応えてあげられない……。ごめんなさい…本当にごめんなさい……っ」
私は、彼の手を握り返すこともできない自分の身体を呪いながら、何度も何度も「ごめんね」と口にした。
蓮は、私の左手に自分の顔を擦り付け、声を枯らして泣き続けた。
彼が流す涙の温度だけが、私がこの世界にまだ存在しているという唯一の証明だった。
ピーッ……ピーッ……。
無機質な心電図のアラーム音が、少しずつその間隔を広げ、ゆっくりとしたリズムに変わり始めていた。
私の身体の奥底から、急速に熱が奪われていくのがわかった。
腹部の焼け付くような激痛は、いつの間にか遠のき、代わりに深い深い冷たさが、足先からじわじわと全身へと這い上がってきている。
細胞が、一つまた一つと機能停止していく感覚。
私の命の演算が、いよいよ最終のシャットダウンプロセスに入ったのだ。
「……っ、あ……」
不意に、私の視界を覆っていた蛍光灯の白い光が、まるでノイズが走ったようにチカチカと明滅し始めた。
残された左目の視界の端から、黒い靄のようなものが侵食してくる。
ピントが合わない。
蓮の泣き顔が、輪郭を失ってぼやけていく。
「……蓮」
「はい……っ、はい、純玲さん……っ」
「……私、もう……目が、見えなく……なってきたみたい……」
私がそう告げると、蓮がハッと息を呑む音が聞こえた。
真っ暗闇が、私の世界をゆっくりと、しかし確実に飲み込もうとしていた。
視覚が失われれば、私と外界を繋ぐセンサーは聴覚だけになる。
「嫌だ……っ、純玲さん、目を開けてください! 俺を見てください……っ!!」
蓮の声が、ひどく遠くから聞こえるような気がした。
私は、見えなくなりつつある左目を必死に見開き、彼がそこにいるであろう空間に向かって、微かに口角を上げた。
「……泣かないで。私は、暗闇には……慣れているもの……」
5歳の時、両親に閉じ込められたあの冷たい納戸。
神宮寺のラボで、右目を潰されて放り込まれた絶対的な暗黒。
でも、今の暗闇は、あの時のような恐ろしいものではなかった。
だって、私のすぐそばには、蓮がいてくれる。彼が私の手を握ってくれているという事実が、私の心の中にあるから。
視界が、完全にブラックアウトした。
光の粒子すら存在しない、完全な無の世界。
それでも、私の頭の中は驚くほどクリアだった。
「……ねえ、蓮」
私は、最後の力を振り絞り、肺に残ったわずかな酸素を使って、彼に問いかけた。
「……はい、純玲さん……っ」
「私……ちゃんとお姉ちゃんに、なれてたかしら」
その問いは、私が外界に出てからずっと、心の奥底で探し求めていた答えだった。
親の愛を知らず、奪うことしか知らなかった私が、彼と出逢い、彼を守るために戦ってきた。
私は、彼に何かを与えられたのだろうか。彼にとって、誇れる家族になれたのだろうか。
私の問いかけに、蓮はしゃくり上げるのを必死に堪え、息を大きく吸い込んだ。
「……当たり前じゃないですか……っ!」
彼の声は、涙で震えていたけれど、どこまでも力強く、真っ直ぐだった。
「純玲さんは……俺にとって、世界で一番優しくて、かっこいい……最高のお姉ちゃんです……っ!!」
その言葉が、私の鼓膜を震わせ、心の一番深いところへとすとんと落ちてきた。
最高のお姉ちゃん。
ああ、そうか。私は、ちゃんと人間になれていたんだ。
誰かを愛し、誰かに愛され、誰かのために命を懸けることができた。
私の15年間の人生は、決して無駄なエラーの連続なんかじゃなかった。
「……ありがとう、蓮」
私は、見えない暗闇の中で、心からの笑顔を浮かべた。
胸の奥にあったすべての不安や未練が、スーッと消え去っていくのを感じた。
もう、何も怖いものはない。
私の呼吸が、どんどん浅くなっていく。
心臓の鼓動が、ゆっくりと、ゆっくりと、その間隔を広げていく。
私は、自分の意識が、肉体というハードウェアから完全に切り離され、ふわりと宙に浮き上がるような感覚に包まれた。
(……温かいわね)
私は、静かに目を閉じた。
暗闇の中で、私の脳裏に、一つの鮮やかな映像が浮かび上がった。
赤いメッシュの入った黒髪。向日葵のような、底抜けに明るい笑顔。
アリスが、光の中で私に向かって手を差し伸べている。
彼女の隣には、タイガーが豪快に笑って立っている。
私は、彼女の伸ばした手を取るために、ゆっくりと歩みを進めた。
(……ごめんね、アリス)
私は、心の中で彼女に語りかけた。
(だいぶ早く、こっちに来ちゃったわ。……あなたにもらった命なのに、こんなに簡単に手放してしまって、怒るかしら)
幻影のアリスは、少しだけ困ったように笑い、それから、優しく私を抱きしめてくれたような気がした。
その温かさは、私がずっと求めていた、彼女の本当の温度だった。
(でもね、アリス。私……最後に、ちゃんと誰かを守れたのよ。あなたが私にしてくれたように、私も彼に、私のすべてをあげることができたの)
だから、褒めてね。
私が最後に紡いだその思考は、温かい光の中に完全に溶け込んでいった。
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
病室に、心電図のフラットな電子音が、長く、冷たく鳴り響いた。
早乙女純玲の心臓が、その十五年の生涯のすべての運動を、完全に停止した。
「純玲さぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!!!!」
蓮の絶叫が、病室の壁を震わせる。
彼は、動かなくなった彼女の身体にすがりつき、声を枯らして泣き続けた。
冷たくなっていく彼女の左手を、自分の両手で包み込み、自分の額に何度も何度も押し当てる。
どれだけ泣いても、彼女がその目を開けて「うるさいわね」と理屈っぽく笑ってくれることは、もう二度とない。
窓の外では、完全に日が落ち、東京の街に冷たい夜の闇が降りていた。
病室には、少年の慟哭と、命の終わりを告げる無機質な電子音だけが、いつまでも響き続けていた。




