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第三話「与える側になれたかな」

 夕食を終えた私たちは、広々としたリビングのソファに移動し、蓮が淹れてくれた温かいカモミールティーを飲みながら、食後の穏やかな時間を過ごしていた。


「……はぁ」


 私は、ティーカップを両手で包み込むように持ちながら、今日一日で蓄積された精神的な疲労を吐き出すように、深いため息をついた。

 隣に座ってクッションを抱きしめていた雫が、私の顔を不思議そうに覗き込んでくる。キッチンで食器を洗い始めていた蓮も、水音の隙間から私のため息を聞きつけ、心配そうに振り返った。


「どうしたんですか、純玲さん。ため息なんてついて。……今日の夕飯、ちょっと味が濃かったですか?」

「ううん、ご飯はとても美味しかったわ。完璧な味付けだった。……ただ、今日の放課後のことを思い出したら、なんだか少しだけ気分が沈んでしまって」


 私がそう答えると、雫は小さく頷き、蓮は手を拭きながらリビングへと歩いてきた。


「ああ……旧校舎の裏で、女子生徒に絡まれたって話ですよね。怪我がなかったのはよかったですけど……やっぱり、嫌な思いをしましたよね」

「そうね。……私が目立っているのが気に入らないとか、そんな理由で三人で囲んできて、いきなり殴りかかってこようとしたのよ。論理も何もない、ただの理不尽な嫉妬や八つ当たりだった」


 私は、カップの縁を指でそっと撫でながら、胸の奥に渦巻いているモヤモヤとした感情を、そのまま言葉にして二人にこぼした。


「私ね、彼女たちのあの顔を見た時、すごく虚しくなってしまったの」

「虚しく……?」

「ええ。アドやアリス……私たちは、裏社会で必死に戦ってきたじゃない? 法で裁けない悪を狩って、一般の人たちが少しでも息のしやすい世界を作るために、命を懸けて『天秤』の仕事をしてきた。……でも、私たちが守ろうとしていた『普通の人たち』の中には、あんな風に他人の粗探しをして、自分勝手な理由で誰かを傷つけようとする人間もいるのよね」


 私は、窓の外の煌びやかなネオンを見つめた。


「あんな奴らを守るために、私たちは血を流してきたのかなって。……そう思ったら、なんだか私たちがやってきたことの意味が、急にちっぽけなものに思えてきてしまって」


 それは、感情を知ってしまったからこそ抱く、人間らしい絶望感だった。

 世界は美しいだけじゃない。アリスのように無償の愛をくれる人もいれば、今日の彼女たちのように、些細なことで他者を蹴落とそうとする人間もいる。

 私が守りたかった平穏な日常の裏側には、そんな醜い感情のノイズがそこかしこに溢れているのだと、思い知らされた気がしたのだ。


 私の愚痴を聞いて、リビングはしばらくの間、静まり返った。

 蓮は少しだけ困ったように眉を下げ、雫はクッションを抱きしめたまま、じっと私の顔を見つめていた。

 やがて、蓮がゆっくりと口を開いた。


「……でも、純玲さん。純玲さんは今日、その人たちを誰も傷つけなかったんですよね?」

「え? ええ、そうよ。顔面の数ミリ手前で拳を止めて、威圧しただけだから」

「それって、すごいことだと思いますよ」


 蓮は、優しく、けれどしっかりとした声で言った。


「以前の純玲さんなら、自分に危害を加えようとする相手は、その場で物理的に排除してたじゃないですか。相手の腕を折ったり、気絶させたりして。……でも、今日はそうしなかった」

「……ええ」

「純玲さんが、相手を傷つけずに、自分の間違いを思い知らせてやったってことは……それって、純玲さんがアリスさんと初めて会った日に、アリスさんからもらったものと、同じなんじゃないですか?」


 蓮の言葉に、私はハッと息を呑んだ。

 アリスと初めて会った日のこと。

 私は、自分に無条件の優しさを向けてくれるアリスを「自分のものにしたい」という歪んだ独占欲から、彼女を殺してホルマリン漬けにしようと本気で銃を向けた。

 けれど、アリスは私を力でねじ伏せて傷つけるのではなく、私のこめかみに銃を突きつけながら、向日葵のような笑顔で私を諭してくれたのだ。


『どんな感情が湧いても、殺すことでしか望みを叶えられない人間になっちゃだめ。殺す以外の方法で、自分の望みを叶えられる人間にならないといけないよ』


 あの時のアリスの言葉が、私の心に『人間としての心』を芽生えさせる最初の種になった。

 彼女は、狂っていた私を見捨てることも、傷つけることもせず、ただ圧倒的な余裕をもって私を制圧し、正しい道へと導いてくれたのだ。


「……純玲」


 隣に座っていた雫が、私の服の袖をそっと引いた。


「アリスが、純玲に心を教えてくれたみたいに。……純玲も、あの子たちに、暴力を振るわずに教えてあげたんだよ。人を傷つけるのはダメだって」

「……」

「だからね。……きっと、あの子たちも、純玲みたいに更生するよ。純玲がアリスにもらったみたいに、あの子たちも、今日のことできっと何か大切なことに気づいてくれると思う」


 雫のガラス細工のような声が、私の胸の奥にすとんと落ちてきた。


「俺もそう思います」


 蓮が、力強く頷いた。


「純玲さんがやったことは、絶対に間違いなんかじゃありません。アリスさんが純玲さんを変えてくれたように、純玲さんのその行動が、彼女たちを変えるきっかけになるんです。……純玲さんは、ちゃんと『与える側』になれてるんですよ」


 二人の言葉を聞いて、私は自分の手を見つめた。

 この手は、血に塗れている。けれど、今日は誰の血も流さなかった。

 私は、アリスが私にしてくれたように、相手の命を奪うことなく、圧倒的な力で相手の非合理な感情を制止したのだ。

 私がやっていることは、無意味なんかじゃない。

 アリスから受け取った優しさを、私が私なりの不器用なやり方で、この世界に還元しようとしているのだ。


「……ふふっ」


 私は、胸の奥で燻っていた冷たいノイズが、すーっと溶けて消えていくのを感じて、思わず小さく笑い声を漏らした。


「純玲さん?」

「ありがとう、二人とも。あなたたちの言う通りかもしれないわね。……私がアリスに救われたように、私のあの寸止めの一撃が、彼女たちの目を覚ます劇薬になってくれればいいのだけれど」


 私はカモミールティーを一口飲み、少しだけ冷めたその温度を味わいながら、二人に向かってわざとらしくため息をついてみせた。


「……でも、何も間違っていないのはわかったけれど。私が、あんな理不尽に噛み付いてくる女の子たちと『一緒だった』って言われると、なんだかちょっと落ち込むわね」

「えっ」

「私、あんな風にキャンキャン騒いだりしなかったわよ。もっと静かに、合理的に殺意を向けていたはずだもの」


 私が少しだけ唇を尖らせて不満を口にすると、蓮と雫は顔を見合わせ、それから「あははっ!」と声を上げて笑い出した。


「純玲さん、そこ気にするんですか!」

「……純玲、昔はもっと怖かったよ。目が、氷みたいだった」

「もう、二人ともひどいわね。私はこれでも、人間らしさを学習しようと努力しているのよ」


 私もつられて笑い出し、リビングは穏やかな笑い声に包まれた。


「でも、そうですね。次からはもう少しだけ手加減してあげてくださいね。相手の子、純玲さんのプレッシャーに本気で腰を抜かしてトラウマになってるかもしれませんから」

「そうね。気をつけるわ。これからは、言葉でのコミュニケーションももう少し磨かないといけないわね」


 私はティーカップを置き、ソファの背もたれに深く身体を預けた。

 窓の外の東京の夜景は、相変わらずキラキラと輝いている。

 その光の数だけ、色々な人間がいて、色々な感情が交差しているのだろう。


 アリスが残してくれたこの世界は、面倒くさくて、計算通りにいかないことばかりだけれど。

 それでも、やっぱり、とても優しくて愛おしい場所だった。


「さて、明日も学校だし、そろそろ休む準備をしましょうか」

「はい! 俺、お皿片付けちゃいますね」


━━━━━━━━━━━━━━━


高校生活四日目の放課後。

 春の夕暮れが校舎をオレンジ色に染め、部活動に向かう生徒たちの活気ある声が窓の外から聞こえてくる。

 私は帰り支度を済ませて鞄を肩に掛け、隣の席でノートを片付けていた雫に「駐輪場で待っていて」と声をかけた後、昇降口へと向かった。


 下駄箱でローファーに履き替えていると、不意に背後から大きな影が落ちた。

 振り返ると、そこには身長180センチメートルは優に超えるであろう、筋骨隆々の男子生徒が立っていた。制服のシャツがはち切れそうなほど鍛え上げられた胸板から察するに、柔道部かラグビー部といったコンタクトスポーツの選手だろうか。学年章の色は、彼が3年生であることを示していた。


「……早乙女純玲、だよな」


 男は、少しだけ見下ろすような視線で私に声をかけてきた。

 その威圧的な体格に、普通の1年生の女子生徒なら縮み上がってしまうかもしれない。けれど、神宮寺の研究所の強化兵や裏社会の死兵たちを相手にしてきた私からすれば、彼の放つプレッシャーなど、春のそよ風にも等しかった。


「ええ、そうだけれど。先輩が私に何の用かしら」


 私が冷静に、少しだけ首を傾げて尋ねると、男はニヤリと自信ありげな笑みを浮かべた。


「お前のこと、噂になってるぜ。入学初日からバイクで乗りつけて、先生を言い負かしためちゃくちゃ可愛くて頭が良い1年がいるってな。……俺は3年の剛田だ。早乙女、俺と付き合ってくれよ」


 ド直球の告白だった。

 私は、彼がわざわざ私を呼び止めた理由の非生産的な内容に、小さく息を吐いた。

 私が目立っているというデータは昨日も女子生徒たちから聞かされたが、どうやら男子生徒の間でも、私の外見と行動は随分とわかりやすい形で『興味の対象』として処理されているらしい。


「……ごめんなさい」


 私は、彼の期待に満ちた目を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと断りの言葉を告げた。


「私には、好きな人がいたの。……まだ、その人のことが忘れられないから。今は誰かとお付き合いする気はないわ」


 『いたの』。

 過去形で言葉を紡いだ瞬間、私の胸の奥がキュッと締め付けられるように痛んだ。

 脳裏に浮かぶのは、赤いメッシュの入った黒髪と、向日葵のように明るい笑顔。

 私に温もりを教えてくれて、私を「恋愛として好きだ」と言ってくれた、大切な人。

 アリスがいないこの世界で、私が誰かの隣で笑い、手を繋いで歩く未来なんて、今の私には全く想像できなかった。私の心の中の特別な場所は、永遠に彼女だけのものなのだから。


 私の少し切なげな拒絶の言葉を聞いて、剛田というその男は、引き下がるどころか、さらに一歩、私との距離を詰めてきた。


「なんだ、過去の男の話かよ。そんなの気にすんなって」


 彼は、強引に私の肩に手を伸ばそうとしてきた。


「俺が、その元カレのことなんか綺麗さっぱり忘れさせてやるよ。俺といる方が絶対に楽しいぜ?」

「……触らないで」


 私は、彼の手が私に触れる数ミリ手前で、スッと身体をずらして回避した。

 彼の無神経な言葉が、私の心をひどく冷めさせた。アリスのことを、ただの『過去の男』と一括りにされ、忘れさせてやると軽々しく言われたことに対する、明確な不快感。


「そういう、相手の気持ちを無視したただ強引なアプローチは、私は好きじゃないわ。……諦めてちょうだい」


 私が冷たくあしらい、背を向けて歩き出そうとした、その時だった。


「……ッ、待てよ!!」


 背後から、怒りに満ちた声が響いた。

 振り返ると、剛田の顔はプライドを傷つけられた屈辱で真っ赤に染まり、額には青筋が浮かんでいた。


「女のくせに、ちょっと顔が良くてチヤホヤされてるからって、調子に乗りやがって……! 3年の俺がわざわざ声かけてやってんだぞ!」


 昨日の女子生徒たちと全く同じだ。

 自分の思い通りにならないとわかった瞬間、相手をコントロールするために感情を暴走させ、物理的な暴力に訴えようとする。人間のエゴイズムというものは、本当に単純で厄介だ。


 剛田は、丸太のような太い腕を振り上げ、私の襟元を掴もうと猛烈な勢いで掴みかかってきた。

 普通の女子高生なら、その迫力に悲鳴を上げてしゃがみ込んでしまうだろう。

 だが、私にとっては、彼の動きはあまりにも大振りで、隙だらけの無駄なモーションの連続に過ぎなかった。


 私は、昨日の旧校舎裏での出来事を思い出した。

 あの時、私は相手の顔面スレスレで拳を寸止めし、強烈な殺気を放ってしまった。結果として、彼女たちに過剰なトラウマを与え、不用意に怯えさせてしまったのだ。

 蓮や雫は「間違っていない」と言ってくれたけれど、普通の高校生活を送る上で、私が『本当にヤバい奴』として認識されるのは避けた方がいい。


(……同じ轍は踏まないわ。今日は、少し違うアプローチで処理しましょう)


 私は、迫り来る剛田の巨大な手を、ひらりと最小限の体重移動で躱した。

 スカッ、と空を切った剛田が、勢い余って前のめりになる。


「なっ……!?」

「そんなに力任せに動いたら、疲れるだけよ」


 私は、彼の背後に回り込み、わざと挑発するように言葉を投げかけた。


「私とお付き合いしたいのなら、そうね。……もし、あなたが私を一度でも捕まえて、床に押さえつけることができたなら、お付き合いを考えてあげてもいいわよ」

「なんだと……!? 舐めやがって!!」


 私の挑発に、剛田は完全に怒りで我を忘れ、猛牛のように突進してきた。

 私は、駐輪場へと続く裏庭の広いスペースへと彼を誘導し、彼が振り回す拳やタックルを、まるで闘牛士のようにひらりひらりと躱し続けた。


 ブンッ! スカッ!


「くそっ、ちょこまかと……っ!」


 彼が右腕を振り下ろせば、私はスッと左へ抜け、彼が両腕で抱え込もうとすれば、私はしゃがみ込んでその腕の下をくぐり抜ける。

 私の感覚の戻った身体は、足の裏から伝わる地面の反発力を正確に計算し、彼の重心の移動をコンマ数秒先まで予測していた。彼がどれほど筋骨隆々であろうと、私の身体に触れることすら物理的に不可能なのだ。


 5分ほどが経過した頃には、剛田は完全に息を上げ、肩で激しく呼吸を繰り返していた。

 制服のシャツは汗でぐっしょりと濡れ、彼の瞳からは先ほどまでの自信が完全に消え失せていた。


「ハァ……ハァ……っ! ば、バケモノかよ、お前……っ」

「バケモノだなんて失礼ね。私はただ、無駄な動きを省いているだけよ。……もう諦めたら?」


 私が涼しい顔で告げると、剛田はギリッと奥歯を噛み締め、憎々しげに私を睨みつけた。

 そして、体力を消耗しきってウンザリした彼は、力で私を屈服させることを諦め、卑劣な手段に訴え始めた。


「……ハッ、調子に乗ってられるのも今のうちだぜ」

「何?」

「俺、この間見たんだよ。……お前が、一緒にいるあの女と、夜の橋の上でバイクに乗ってカーチェイスしてたところをな」


 その言葉を聞いた瞬間、私の脳内の処理回路がピタリと停止した。


「あの時、お前ら、後ろから追ってきた車を海に落としただろ? 俺、偶然帰りに、その一部始終を見てたんだよ」


 剛田は、ニヤァッと下劣な笑みを浮かべた。


「お前ら、ただの高校生じゃねえだろ。あんなヤバいことやってるのが学校や警察にバレたら、どうなるかな? ……俺と付き合って、俺の言うことを聞くなら、黙っててやってもいいぜ?」

「……」


 私は、彼の言葉を冷静に分析した。

 あの日、私と雫が神宮寺の残党を処理した現場を、この男は偶然目撃していたのだ。

 これは、単なる高校生同士の恋愛のいざこざの範疇を完全に超えている。彼がこの情報を学校やSNSで拡散すれば、私たちが懸命に築き上げようとしている『普通の日常』が根底から破壊されてしまう。

 それに、警察に目をつけられれば、アドたちが用意してくれた戸籍の偽装まで掘り返されるリスクがある。


 ……それは、少し厄介ね。


 私の心の中で、彼に対する『遊び』の時間が完全に終了した。

 トラウマを与えないように、などという手ぬるい配慮は、私と仲間たちの平穏な生活を脅かすこの男にはもはや不要だ。


「……そう。あなたが余計なものを見てしまったのは、不運だったわね」

「あ? なんだよ、急に大人しくな——」


 剛田が勝ち誇ったように口を開きかけた、その一瞬。

 私は、これまで彼との距離を保っていたステップを切り替え、爆発的な速度で彼との間合いをゼロに詰めた。


「えっ……」


 剛田の視界から私が消えたと思った次の瞬間、私は彼の懐に潜り込み、右手のひらの付け根——掌底を、彼の下顎の先端に向けて正確に押し上げるように打ち込んだ。

 力を入れすぎれば顎の骨が砕ける。私は緻密な計算に基づき、彼の脳をわずかに揺らして脳震盪を引き起こすためだけの、最小限の物理的インパクトを出力した。


 ガッ!!


「あ……」


 剛田の白目が剥き出しになり、彼の巨体が数秒間硬直した後、糸の切れた操り人形のように、ドサリと音を立てて校舎裏の土の上へと崩れ落ちた。


「……ごめんなさいね。私の日常のノイズになる人間を、野放しにしておくわけにはいかないの」


 私は、気絶してピクリとも動かなくなった巨漢を見下ろし、小さく息を吐いた。

 さて、このゴミをどう処理すべきか。

 ただこのまま放置して、彼が目を覚ました後に記憶を頼りに騒ぎ立てられては困る。徹底的に彼に『口外すればどうなるか』を理解させ、二度と私たちに関わろうと思わせないための、絶対的な恐怖の植え付けが必要だ。


 私はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、暗号化された通信アプリを立ち上げた。

 連絡先は、当然あの男だ。


『……なんだ、ピュア。また何かやらかしたのか』


 不機嫌そうなアドの声が、スピーカー越しに響く。


「アド、少し面倒なゴミが出たわ。回収をお願いしたいの」

『ゴミ? ……お前、まさか一般人を殺したんじゃねえだろうな』

「殺してないわよ。軽く脳震盪を起こさせて気絶させているだけ。……でも、この男、私と雫がこの間橋の上で残党を処理した現場を偶然目撃していたの。それをネタに私を脅迫してきたのよ」

『……チッ、面倒なガキだな。わかった、すぐに向かう』


 数分後。

 駐輪場で私を待っていた雫が、アドの運転する黒塗りの偽装バンの助手席に乗って、学校の裏門付近へとやってきた。


「純玲! 大丈夫だった!?」

「ええ、問題ないわ。ただ、この大きな荷物を運ぶのを手伝ってちょうだい」


 私が足元に転がっている剛田を指差すと、バンから降りてきたアドが、呆れたようにため息をついた。


「まったく……お前は学校に行ってもトラブルメーカーだな。でけえガキだ」


 アドは文句を言いながらも、軽々と剛田の身体を抱え上げ、バンの後部座席に乱暴に放り込んだ。


「それで、アド。この男、どうするつもり?」

「決まってんだろ。俺の今の仕事場に連れ込んで、たっぷり『教育』してやるのさ。お前たちがただの高校生じゃねえってことを、骨の髄まで叩き込んでやる。二度と他人に喋ろうなんて気が起きねえようにな」


 アドがニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。

 私たちが向かったのは、かつて『天秤』のセーフハウスとして使われ、現在はアドが個人的な仕事場として使用している、都内のはずれにある地下倉庫だった。


 バンが倉庫の地下ガレージに滑り込む。

 私たちは気絶したままの剛田を引きずり出し、倉庫の中央に置かれた冷たいパイプ椅子に座らせ、太いロープでぐるぐると縛り上げた。

 倉庫の中には、アドが裏社会の仕事で使うための物騒な機材や、鈍い光を放つ刃物類がそこかしこに無造作に置かれており、一般人が見ればそれだけで失神しそうな異様な空気が漂っていた。


「……ん……うぅ……」


 数十分後、剛田が微かに呻き声を上げ、ゆっくりと目を覚ました。


「おっ、お目覚めか、坊主」

「……え? こ、ここは……?」


 剛田は焦点の合わない目をしばたかせ、自分がロープで縛られ、薄暗いコンクリートの部屋にいることに気づくと、一気に顔面を蒼白にさせた。


「な、なんだこれ!? お、お前ら……!」


 彼の目の前には、腕を組んで冷たく見下ろす私と雫、そして、咥えタバコでドカッとソファに座り、凄まじい殺気を放つアドの姿があった。


「……ようこそ、坊主。お前が首を突っ込んだ世界がどんな場所か、俺が直々に教えてやるよ」


 アドが、ゆっくりと立ち上がり、剛田の目の前まで歩み寄る。

 その圧倒的な裏社会のプレッシャーに、剛田は「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、ガタガタと椅子ごと震え出した。


「さて、どこから話そうか。お前がどれだけ愚かな真似をしたか、そして、もし一言でも外で喋ったら、お前の家族や友人含めて、人生がどう終わるか……ゆっくりと、理解してもらおうか」

「ご、ごめんなさい!! 俺、何も見てないです! 誰にも言いませんから、命だけは……っ!」


 剛田の情けない命乞いが、冷たい倉庫の中に響き渡る。

 私は、彼のその怯えきった姿を静かに見つめながら、小さく息を吐き、アドの横へと並び立った。


「……こういうことよ。わかった?」


 私が冷たく見下ろしながら告げると、剛田は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を激しく上下させた。


「わ、わかりました! もう絶対に近づきません! 何も見なかったことにします! 学校でも話しかけません! だから、許してください……っ!」

「そうね。言葉だけなら、人間はいくらでも嘘をつけるわ。……だから、あなたが本当に私との約束を守るように、少しだけ『保証』をいただいておくわね」


 私は、傍らのテーブルに置いてあった、アドの仕事用の自動拳銃を手に取った。

 チャキリ、という冷たい金属音が地下倉庫に響く。


「ひっ……!」


 銃を見た瞬間、剛田の悲鳴が喉の奥で引き攣った。

 私は、銃口を彼に向けず、倉庫の奥の壁の方へと視線を向けた。


「あの壁の、右上のほうにある小さなシミ。……よく見ててね」


 私は、剛田に言葉を投げかけながら、一切のタメを作ることなく、片手で流れるようにトリガーを引いた。


 ダァァンッ!!


 鼓膜を劈くような銃声が閉鎖空間に轟き、コンクリートの壁が砕ける乾いた音が響く。

 剛田がビクッと肩を跳ねさせ、恐る恐る壁の方へ視線を向けると、そこには、私が指定した直径数センチのシミのど真ん中に、寸分の狂いもなく弾根が穿たれていた。


「……ヒッ……」

「私、その気になれば、いつでもあなたを殺せるの。……どこに逃げても、無駄よ」


 私は、まだ硝煙の立ち上る銃口を、ゆっくりと剛田の額にピタリと押し当てた。

 金属の冷たさが彼の皮膚に触れた瞬間、彼の全身の筋肉が硬直するのがわかった。


「ひぃぃっ……! 殺さないで……っ、やめて、やめてぇぇっ!!」


 私は、彼の懇願を完全に無視し、彼の目を真っ直ぐに見据えたまま。


 カチャッ。


 躊躇いなく、引き金を引いた。


「あァァァァァァッ!!!」


 剛田の絶叫が倉庫に響き渡る。

 しかし、銃口から弾丸が放たれることはなく、ただ撃鉄が空を切る乾いた金属音が鳴っただけだった。


「……」

「……え?」


 剛田は、自分が撃ち抜かれていないことに数秒遅れて気づき、ポカンと口を開けた。

 私は、弾倉マガジンを抜いた銃を彼に見せびらかすように軽く振った。


「最初から、弾は一発しか入れていなかったの。……でも、次、あなたが私との約束を破った時は、この空の薬室に、確実に実弾が送り込まれるわ」


 私が冷ややかに微笑むと、剛田の足元から、ポタポタと水滴が落ちる音が聞こえてきた。

 見下ろすと、彼はあまりの恐怖に失禁し、ズボンから床へと水たまりを作っていた。

 180センチメートルを超える巨漢が、完全に尊厳を失い、ガタガタと震えながら泣きじゃくっている。


「……わかったかしら?」

「は、はい……っ。ほ、本当に……申し訳ありませんでした……っ!」


 剛田は、正気の抜けたような、掠れきった声で何度も何度も謝罪を繰り返した。

 彼の目には、私に対する絶対的な恐怖が完全に刷り込まれていた。これなら、彼が他人に秘密を漏らす確率も、私に再び近づいてくる確率も、ゼロパーセントだと確信できた。


「よし、教育は完了だな」


 アドが鼻をつまみながら、呆れたようにため息をついた。


「お前ら、こいつに目隠しをしろ。この場所がバレねえように、遠回りするからこいつを家の近くに放り投げてこい」

「うん、わかった」


 雫が、用意してあった黒い布で剛田の目を覆い、後ろ手に縛ったロープを解くことなく、彼を立たせた。

 私たちは、腰が抜けてフラフラになっている剛田をバンの後部座席に押し込み、再び車を走らせた。


 数十分後、都内の住宅街の路地裏で、私たちは彼を車から蹴り出した。


「目隠しは、私たちが去ってから10分後に外しなさい。……明日から、学校ではお互い、何事もなかったように過ごしましょうね」


 私が車の窓から最後にそう告げると、剛田は地面に這いつくばったまま、「はい……っ」と震える声で返事をした。

 私たちは、彼を残してバンを走らせ、タワーマンションへと向かって帰路についた。


「……ふぅ。やれやれね」


 私は、助手席のシートに深く背中を預け、小さく息を吐き出した。


「純玲、さっきの射撃、やっぱりすごかった。……でも、ちょっと怖かったかも」


 後部座席の雫が、少しだけ引きつった笑いを浮かべながら言った。


「そう? 少しやりすぎたかしら」

「ううん。あれくらいやらないと、あいつ、本当に言いふらしてたかもしれないし。……でも、純玲があんなに綺麗に銃を扱うの、久しぶりに見た気がする」


 雫の言葉に、私は自分の両手を見下ろした。

 感覚の戻ったこの手で、私は再び銃を握り、人を脅した。

 でも、不思議と、あの時のような『人を壊すことへの恐怖』は感じなかった。

 私が撃ったのは壁のシミであり、弾の入っていない空撃ちだ。誰も傷つけていないし、命を奪っていない。

 私は、自分の大切な日常を守るための、必要最低限の『物理的な威圧』を、感情のブレーキをかけずにコントロールして出力することができたのだ。


「……そうね。私も、少しだけ自信がついたかもしれないわ」


━━━━━━━━━━━━


 アドの車に揺られ、高校前で私と雫を降ろしてもらった。学校に置きっぱなしだったバイクに乗って、自宅へと帰る。

 

「おかえりなさい、純玲さん、雫さん! 今日は少し遅かったですね」


 蓮が、エプロン姿で私たちを出迎えてくれる。


「ただいま、蓮。……ええ、少しだけ面倒ごとがあって、寄り道をしてきたの」


「えっ、またですか!? 何があったんですか!?」

「内緒よ。……それより、お腹が空いたわ。今日の夕飯は何?」

「あ、えっと、今日は生姜焼きです! すぐに出しますね!」


 蓮が慌ててキッチンへと戻っていく。

 私は、ダイニングテーブルに座り、雫と顔を見合わせてクスクスと笑い合った。


━━━━━━━━━━━━━━━



 高校生活五日目の朝。

 いつものように蓮の作った朝食を食べ、CBR400Rで雫を迎えに行き、学校の駐輪場にバイクを停める。ここまでは、すでに私の日常として完全にルーティン化されていた。


 だが、教室のドアを開けた瞬間、私に向けられる空気が昨日までとは決定的に違っていることに気がついた。


「あっ、早乙女さん! おはよう!」

「おはよう、早乙女さん! 昨日、大丈夫だった!?」


 私が席に向かう途中、昨日まで私を遠巻きに見てコソコソと噂話をしていた女子生徒たちが、次々と笑顔で話しかけてきたのだ。

 私は少しだけ戸惑いながらも、「ええ、おはよう。……大丈夫とは、何のことかしら?」と首を傾げた。


「あのね、聞いたよ! 早乙女さん、昨日の放課後、3年の剛田先輩に絡まれたんでしょ!?」


 一人の女子生徒が、目をキラキラさせながら身を乗り出してきた。


「剛田先輩って、色んな女の子に無理やり言い寄ってて、断ったら嫌がらせしてくるって有名だったの。……でも、早乙女さんが昨日、あの先輩をボコボコにして言い負かしたって噂が回ってて!」

「ボコボコ……?」


 私は、自分の記憶のデータを検索した。

 確かに彼の下顎に掌底を一発入れたけれど、それは脳震盪を起こさせるための最小限の物理的インパクトであり、決して『ボコボコ』という過剰な暴力ではないはずだ。それに、その後の地下倉庫での『教育』については、彼は口が裂けても言えないはず。


「今日、朝練の時に剛田先輩を見た先輩が言ってたんだけど、なんか人が変わったみたいに大人しくなってて、女の子にちょっかいかけるのもやめたみたいなんだって! 早乙女さん、一体何をしたの!?」

「すっごいかっこいい! 私たち、早乙女さんのこと誤解してたよ。更衣室の時も、実はすごく優しい人なんだよね!」


 女子生徒たちが、次々と私を囲んで賞賛の言葉を投げかけてくる。

 どうやら、私が剛田を撃退したという事実だけが、尾鰭がついて学校中に広まり、私の『不良で怖いヤンキー』という評価を『悪い男を成敗するクールなヒーロー』という正のベクトルへと完全に書き換えてしまったらしい。

 人間のコミュニティにおける情報の伝播速度と、主観によるデータ改ざんのプロセスは、本当に予測不能で興味深い。


「……別に、私は何も大したことはしていないわ。ただ、彼に少しばかり『論理的な説得』をしただけよ」


 私が適当に言葉を濁すと、女子たちは「またまたー!」「かっこいいー!」とさらに黄色い声を上げた。

 隣の席の雫が、机に突っ伏してクスクスと肩を震わせて笑っている。


「……純玲、すっかり学校のアイドルだね」

「不本意だわ。目立つのは好きじゃないのに」


 私は小さくため息をつきながらも、彼女たちの向けてくれる好意が、決して悪い気はしなかった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 昼休み。

 私と雫が購買部へ向かうため、賑やかな廊下を歩いていた時のことだ。


「あ……っ」


 廊下の向こう側から歩いてきた、ジャージ姿の巨漢。

 3年生の剛田だった。

 彼は私の姿を視界に捉えた瞬間、ビクッと全身を硬直させ、顔面から一気に血の気を引かせた。

 そして、私の視線から逃れるように、壁際にピタリと張り付き、「……ッス」と微かな声を漏らしながら、そそくさと横を通り抜けようとしたのだ。


「……ちょっと待ちなさい」


 私が、冷たく静かな声で呼び止めると、剛田の巨体はピタリと完全にフリーズした。


「ひぃっ……!」


 彼は、ロボットのようにギギギと首だけをこちらに向け、ガタガタと震えながら私を見た。


「先輩に対して失礼かもしれないけれど、すれ違う時の挨拶もなしなのかしら?」


 私が、少しだけ首を傾げて、わざとらしく微笑んでみせると。


「す、すみません!! お、お疲れ様ですッ!!」


 剛田は、廊下に響き渡るような大声で叫び、そのまま直角に腰を曲げて、見事なまでの体育会系のお辞儀を披露した。

 そのあまりに滑稽な姿に、周囲を歩いていた生徒たちが一斉に足を止め、ぽかんと口を開けて私たちを見つめた。


「……いいお返事ね。でも、一つだけ言っておくわ」


 私は、彼の耳元に顔を近づけ、周囲には聞こえないような小さな声で、冷徹に告げた。


「あなた、もうあんまり他の女の子たちを泣かせるような真似はしてはダメよ。……私が言わんとしていること、わかっているわね?」

「は、はいッ!! もう二度と、絶対に女の子には手出ししません!! 誓いますッ!!」


 剛田は、涙目になりながら何度も何度も頷き、そのまま脱兎のごとく廊下の奥へと逃げ去っていった。

 その後ろ姿を見送り、私は小さく息を吐いた。

 あれだけ徹底的に『教育』したのだ。彼が再び私の視界にノイズを撒き散らす確率は、限りなくゼロに近いだろう。


「……す、すごすぎるよー! 早乙女さん!!」


 不意に、背後から歓声が上がった。

 振り返ると、さっきまで教室で私を取り囲んでいた女子生徒たちが、目をキラキラさせながら私を見ていた。


「あの剛田先輩が、早乙女さんにペコペコしてる! マジでヒーローじゃん!」

「早乙女さん、一生ついていきます!!」

「ちょっと、私も早乙女さんのファンクラブ入る!!」


 彼女たちのテンションは最高潮に達し、私は完全に彼女たちの『推し』としてロックオンされてしまったようだった。


「……ファンクラブって、何よそれ」


 私が困惑して雫の方を見ると、彼女はもうお腹を抱えて笑い転げていた。

 私は、彼女たちに囲まれながら、少しだけ苦笑いを浮かべた。

 裏社会で血に塗れていた私が、表の世界の高校で、こんな風に女子高生たちからキャーキャー言われる日が来るなんて。私の計算式には、こんなバグのような未来は全く組み込まれていなかった。


 でも。

 誰かに恐れられるのではなく、誰かから憧れられ、笑顔を向けられること。

 それは、アリスが私に望んでくれた『普通の女の子』としての幸せの、一つの形なのかもしれない。


「……仕方ないわね。お昼ご飯、一緒に食べる?」


 私が少しだけ照れくさそうに提案すると、女子生徒たちは「やったー!!」と歓声を上げ、私と雫の手を引いて中庭へと駆け出していった。

 春の陽射しが、私たちを暖かく照らしていた。


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 放課後。

 私は、いつものように駐輪場でCBR400Rのエンジンをかけ、後ろに雫を乗せてマンションへと帰路についた。

 今日の夕焼けは、昨日よりも少しだけオレンジ色が濃く、空気が澄んでいるように感じられた。


「純玲、今日、すごく楽しそうだったね」


 背中から、雫の優しい声が聞こえてきた。


「そう?……まあ、悪くはないわね。あんな風に誰かと他愛のない話で笑い合うのは、私の精神衛生上、とても有益なデータ収集になったわ」

「ふふっ、また理屈っぽい。でも、純玲が笑ってくれて、私も嬉しい」


 雫が、私の腰に回した腕に、ギュッと少しだけ力を込めた。


「……ねえ、純玲」

「ん?」

「私ね、学校、楽しい。……純玲と一緒に、こうやってバイクで帰るのも、すごく好き」


 雫の言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 彼女もまた、言葉の代わりに暴力を選んでいた過去を乗り越え、こうして自分の言葉で『好き』という感情を伝えてくれるようになった。

 私たちが、少しずつ、でも確実に、人間として成長している証拠だ。


「ええ。私もよ、雫。……明日も、明後日も、ずっと一緒に楽しく通いましょうね」


 私はアクセルを少しだけ開け、春の風の中を滑るように駆け抜けていった。


 マンションの地下駐車場に到着し、エレベーターで最上階の自室へと上がる。

 玄関の扉を開けると、いつものように、美味しそうな夕飯の匂いと、蓮の明るい声が私たちを出迎えてくれた。


「おかえりなさい、純玲さん、雫さん! 今日はシチューですよ!」

「ただいま、蓮。……いい匂いね。今日の学校はどうだった?」

「聞いてくださいよ! 今日、部活の仮入部に行ってきたんですけど……」


 蓮が、エプロン姿のまま、嬉しそうに学校での出来事を話し始める。

 私たちはダイニングテーブルを囲み、温かいシチューを食べながら、今日一日あったことを順番に報告し合った。

 私が学校で『ヒーロー』扱いされていることを話すと、蓮は「やっぱりピュアさん……純玲さんはどこにいても目立つんですね!」と笑い、雫も「ファンクラブができそうだったよ」と付け加えて、リビングは賑やかな笑い声に包まれた。


 食事が終わり、蓮が食器を片付けている間、私はふと、リビングの窓から外の夜景を見つめた。

 東京の街は、無数の光でキラキラと輝いている。

 その光の一つ一つに、誰かの人生があり、誰かの日常がある。

 私たちは今、確かにその光の一部として、この街で生きているのだ。


「……純玲さん?」


 片付けを終えた蓮が、不思議そうに私に声をかけた。


「どうしたんですか? そんなに外ばっかり見て」

「ううん、何でもないわ」


 私は、窓から視線を外し、蓮と、隣に座る雫に向かって、心からの笑顔を向けた。


「ただ……今のこの時間が、すごく幸せだなって、そう思っただけよ」


 私の言葉に、蓮も雫も、少しだけ驚いたような顔をして、それから、とても優しく、温かい笑顔を返してくれた。


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 高校に入学して、初めての休日がやってきた。

 この日は、雫は自分のセーフハウスで片付けなどの用事があるらしく、別行動をとることになっていた。

 私は自室のクローゼットを開け、ハンガーに掛かった服を眺めながら、少しだけ迷っていた。


 今日、私はクラスメイトの女子生徒3人と一緒に、都内へカフェ巡りに出かける約束をしている。

 先日、私のことを「ヒーロー」だと言ってくれたあの子たちだ。放課後に「今度の土曜日、一緒に遊びに行かない?」と誘われた時、私は少し戸惑ったけれど、すぐに頷いた。

 普通の高校生として、普通に友達と遊びに出かける。それは、アリスが私に望んでくれた未来であり、私がこの世界で経験すべき大切な時間だと思えたからだ。


「……これにしようかしら」


 私が選んだのは、先日蓮と一緒にデパートへ行った時に買った、淡いパステルカラーのシースルー素材のワンピースと、白いカーディガンだった。

 動きやすさやステルス性といった戦闘用の機能は皆無の、ただ純粋に「可愛らしさ」だけを追求した服。

 着替えてリビングに出ると、掃除機をかけていた蓮がピタリと動きを止めた。


「あっ……純玲さん、今日はお出かけですか」


 彼は私の姿を上から下まで見つめ、またしても耳の先まで真っ赤に染め上げていた。


「ええ。クラスの子たちと、少し街へ出てくるわ」

「そ、そうですか! すごく、その……似合ってます。めっちゃ可愛いです」

「ありがとう。蓮も、お留守番よろしくね」


 私は彼に小さく手を振り、マンションを出た。

 待ち合わせ場所は、若者たちで賑わう渋谷の駅前だった。

 電車を乗り継いで到着すると、すでに3人のクラスメイトが私を待っていた。


「あ、早乙女さん! こっちこっち!」

「わぁ、私服すっごく可愛い! いつものクールな感じと違って、お嬢様みたい!」


 彼女たちは私の姿を見るなり、目をキラキラさせて駆け寄ってきた。


「おはよう。待たせてごめんなさいね」

「ううん、全然! さあ、行こっか! 今日は話題のお店、3軒は回る予定だからね!」


 彼女たちに手を引かれるようにして、私の初めての「女子会」がスタートした。


 1軒目に向かったのは、SNSで大人気だというパンケーキの専門店だった。

 店内は甘い香りに包まれており、運ばれてきたお皿を見て、私は思わず目を丸くした。

 三段に重ねられた分厚いパンケーキの上には、こぼれんばかりの生クリームと、色鮮やかなイチゴやベリーのフルーツが山のようにトッピングされている。


「うわぁ、すごいボリュームね」

「でしょでしょ! 早乙女さん、一緒に写真撮ろう!」


 彼女たちと一緒にスマートフォンに向かって笑顔を作り、写真を撮る。

 ナイフとフォークを使って、パンケーキを一口大に切り分け、口に運ぶ。

 ふわふわの生地と、濃厚な生クリームの甘さ。そしてフルーツの酸味が絶妙に絡み合う。


「……美味しいわ」


 私が素直に感想を漏らすと、彼女たちは「よかったー!」と嬉しそうに笑い合った。

 以前の私なら、この一皿の糖分と脂質の量を計算し、過剰摂取による血糖値の急激な上昇を危惧して、手をつけなかったかもしれない。

 でも、今は違う。みんなと一緒に「美味しいね」と言い合いながら食べるこの甘さは、私の心をとても穏やかに満たしてくれた。


 2軒目は、少し落ち着いた路地裏にある、本格的なコーヒーの焙煎所を兼ねたカフェだった。

 そこでは、産地や焙煎度合いが違うコーヒーを少しずつ飲み比べるメニューが用意されていた。


「これ、すごく酸味が強いね!」

「こっちは苦いけど、いい匂いー。早乙女さんはどれが好き?」


 彼女たちに聞かれ、私は浅煎りのエチオピア産のコーヒーが入った小さなカップを手に取った。

 フルーティーで、まるで紅茶のように華やかな香り。


「私はこれが好きかしら。……丁寧に温度管理されて抽出されているのがわかるわ。豆の個性がすごく綺麗に引き出されているもの」


 私が自然とそう答えると、彼女たちは顔を見合わせてクスクスと笑った。


「早乙女さんって、たまにすごく大人っぽいというか、専門家みたいな話し方するよね」

「うんうん! なんか頭の良さが隠しきれてないって感じ!」

「そう? 普通に感想を言ったつもりだったのだけれど」


 私は少しだけ照れくさくなり、カップに口をつけて誤魔化した。

 その後も、私たちは服屋さんを覗いたり、雑貨屋で可愛いアクセサリーを見たりしながら、街を歩いた。

 午後の日差しが傾き始めた頃、私たちはクレープ屋の前に並び、それぞれ好きなクレープを買って、近くの公園のベンチに腰を下ろした。


「あー、歩き疲れたけど楽しかった!」

「早乙女さんも、楽しんでくれた?」

「ええ、とっても。こんな風にお店を回ったり、食べ歩きをしたのは初めてだったから……すごく新鮮で、楽しかったわ」


 私が心からそう言うと、彼女たちは嬉しそうにクレープを頬張った。

 話題は、学校の先生の噂話や、クラスの男子のことなど、本当に他愛のないものばかりだった。

 私は聞き役に回ることが多かったけれど、彼女たちの屈託のない笑顔を見ているだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなるのを感じていた。


「そういえばさ、早乙女さんって、好きな人とかいるの?」


 不意に、1人の女の子が興味津々な目で私に尋ねてきた。


「えっ……好きな人?」

「そう! 入学早々、3年の剛田先輩を振ったって噂になってたし。あんなに綺麗でかっこいい早乙女さんなら、絶対に素敵な彼氏がいそう!」


 彼女たちの無邪気な質問に、私の心臓がトクンと小さく跳ねた。


 好きな人。

 その言葉が、私の頭の中に、ある日の情景を鮮明に呼び起こした。


 ——あの日。アリスと蓮と一緒に、新宿の街でジェラートを食べた日のこと。

 『蓮くんって戸籍上は20歳だけど、中身は11歳の男の子でしょ? 好きな女の子のタイプとかあるんじゃないの?』

 アリスが、悪戯っぽい笑顔で蓮をからかっていた。

 『性格は……アリスさんみたいに、明るくて、優しくて……。顔とか、スタイルは……ピュアさんみたいな人が……』

 顔を真っ赤にして答える蓮を、アリスはお腹を抱えて笑い飛ばしていた。

 『なにその超ワガママな理想設定! ピュアちゃんは中身が超絶ヤバいから、騙されちゃダメだよ!』


 あの時、私たちは確かに、普通の家族のように、あるいは仲の良い姉妹と弟のように、他愛のない恋バナをして笑い合っていたのだ。

 アリスの、あの向日葵のように明るい笑顔。

 私に「恋愛として好きだった」と、涙を流しながら打ち明けてくれた、あの時の彼女の顔。

 もう、二度と会えない。

 二度と、あんな風に一緒に笑い合うことはできないのだ。


「……っ」


 ふいに、視界がぐにゃりと歪んだ。

 胸の奥に封じ込めていたはずの、強烈な喪失感と悲しみが、一気に喉元までせり上がってきた。

 私は、手に持っていたクレープの包み紙をギュッと握りしめ、必死に涙をこらえようと下を向いた。


 でも、ダメだった。

 一度溢れ出した感情は、私の意志を無視して、ポロポロと大粒の涙となって膝の上にこぼれ落ちていった。


「えっ……早乙女さん!?」

「どうしたの!? 具合悪いの!?」


 急に私が泣き出したことに驚き、3人の女子生徒が慌てて私を覗き込んできた。


「ごめんなさい……っ、なんでもないの……」


 私は、空いている左手で必死に涙を拭おうとした。

 けれど、次から次へと溢れてくる涙は止まらず、嗚咽が漏れてしまう。


「好きな、人が……いたの。でも……もう、会えなくなっちゃって……っ」


 私は、震える声で、本当のことだけを口にした。


「今日、あなたたちと一緒に……美味しいものを食べて、たくさん笑ってたら……その人と一緒に、ジェラートを食べた時のことを思い出してしまって……っ。ごめんなさい、私、急にこんな……っ」


 私が泣きじゃくりながら謝ると、彼女たちは顔を見合わせ、それから、とても優しく私に寄り添ってくれた。

 一人の子が、カバンからハンカチを取り出して、私の頬の涙をそっと拭いてくれる。


「謝らないでよ。……そっか、大好きな人がいたんだね」

「私たち、全然知らなくて、無神経なこと聞いちゃってごめんね」

「でも……早乙女さんが、そんな風に誰かのことを想って泣けるくらい、優しい人だって知れて、なんだか嬉しいな」


 彼女たちの言葉は、とても温かかった。

 いつも完璧で、クールで、隙がないように見えていた私が、実はこんなにも情緒的で、過去の恋人のことを思って泣いてしまうような普通の女の子だった。

 その事実が、彼女たちにとっては、私との間にあった見えない壁を取り払うきっかけになったようだった。


「早乙女さん、無理して笑わなくていいんだよ。泣きたい時は、私たちと一緒にいる時でも、我慢しないで泣いていいからね」

「そうだよ。私たち、もう友達でしょ?」


 その言葉に、私はさらに涙が止まらなくなってしまった。

 友達。

 私が、彼女たちのような普通の女の子たちと、そんな風に呼び合える日が来るなんて。

 アリスが残してくれたこの世界は、本当に優しくて、温かい人たちで溢れている。


「……ありがとう。本当に、ありがとう……っ」


 私は、彼女たちの肩を借りて、しばらくの間、声を殺して泣き続けた。

 悲しみは消えない。アリスを失った心の穴は、一生塞がることはないだろう。

 でも、その穴を抱えたままでも、私はこうして新しい繋がりを作って、少しずつ前を向いて歩いていけるのだと、彼女たちの優しさが教えてくれた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 すっかり日が落ち、ネオンが灯り始めた頃、私はタワーマンションへと帰宅した。

 目を泣き腫らして帰ってきた私を見て、蓮は驚くかと思ったけれど、私が「とても楽しかったわ」と笑って報告すると、彼はそれ以上何も聞かずにホッとしたような顔をしてくれた。


「おかえりなさい、純玲さん。お風呂、沸いてますよ。……今日の夕飯は、純玲さんの好きなハンバーグを和風おろしソースにしてみたんですけど、どうですか?」


 エプロン姿の蓮が、キッチンから顔を出して嬉しそうに言った。

 彼の作ってくれるご飯は、いつだって私の一番の楽しみだ。

 でも、今日ばかりは、私のお腹にはもう1ミリの隙間も残っていなかった。


「……ごめんなさい、蓮」


 私は、申し訳なさそうに両手を合わせた。


「今日、パンケーキと、色んな種類のコーヒーと、大きなクレープまで食べてしまって……色々食べすぎたせいで、夜ご飯はもう入らないみたいなの。せっかく作ってくれたのに、本当にごめんなさい」


 私が正直に告白すると、蓮は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに吹き出すように笑った。


「あはは! 純玲さんが食べすぎで夕飯が入らないなんて、珍しいですね」

「笑わないでよ。私も自分の胃袋のキャパシティを見誤ったわ。……女の子とのおしゃべりに夢中になっていると、つい食べ進めてしまうのね」

「いいんですよ。純玲さんがお友達と楽しく過ごせたなら、俺も嬉しいです。ハンバーグは明日の朝ごはんに回すので、気にしないでください」


 蓮は、優しく笑ってコンロの火を止めた。

 彼の気遣いに、私は胸の奥がぽかぽかと温かくなるのを感じた。


「ありがとう、蓮。……明日、美味しくいただくわね」


 私は自室に戻り、クローゼットでワンピースをハンガーに掛けた。

 ブラウスを脱ぎ、胸元のロケットペンダントをそっと握りしめる。

 冷たい金属の感触の奥に、アリスの温かい笑顔が透けて見えるような気がした。


「……アリス。私、今日ね、友達ができたのよ」


 私は、誰にも聞こえない声で、ペンダントの中の彼女に語りかけた。


「一緒に美味しいものを食べて、笑って、泣いて……。あなたが望んでくれた『普通の女の子』の時間を、ちゃんと過ごせたわ」


 返事はない。

 それでも、彼女が空の上で「よかったね、ピュアちゃん!」と、あの向日葵のような笑顔で喜んでくれているのが、目に見えるようにわかった。


 私は、涙の跡が残る頬をそっと拭い、静かに目を閉じた。

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