第二話「法で裁けぬコミュニティ」
心地よい肉の焼ける音と、デミグラスソースの甘く香ばしい匂いが、私の意識をゆっくりと浮上させていった。
「……純玲。純玲、起きて」
肩を優しく揺すられ、私は重い瞼をそっと開けた。
視界のピントが合うと、そこには少し心配そうな顔をした雫が、私を覗き込んでいた。
「……あら、私」
「ご飯、できたよ。蓮が、ハンバーグ焼いてくれた」
「ごめんなさい……。少し目を閉じただけのつもりだったのだけれど、いつの間にか眠ってしまっていたみたいね」
私はソファから身を起こし、小さくあくびをした。
学校生活の初日、それに帰りがけのカーチェイス。新しい環境と予期せぬ戦闘行動が、私の脳に想像以上の疲労を蓄積させていたらしい。
ダイニングテーブルの方を見ると、湯気を立てるふっくらとしたハンバーグと、彩り鮮やかなサラダ、そして湯気の立つスープが並べられていた。エプロンを外した蓮が、「お疲れみたいですね」と少し得意げに笑って立っている。
「すごく美味しそう。蓮、ありがとう」
「いえいえ! 冷めないうちに食べてください。自信作ですから!」
私たちはテーブルを囲み、手を合わせて食事を始めた。
箸を入れると、ハンバーグの中から溢れんばかりの肉汁がこぼれ出し、ソースと絡み合う。一口頬張ると、肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「……ん! すごく美味しい。蓮、また腕を上げたわね」
「本当ですか? よかった! 隠し味に赤ワインを少しだけ使ってみたんですよ」
「……おいしい。蓮、すごい」
雫も、口の周りにソースを少しつけながら、幸せそうに頬を緩めている。
温かい食事を囲みながら、私たちは今日一日、学校であったことを順番に話し始めた。
「俺、今日隣の席になったヤツと、さっそく連絡先交換したんです! そいつもゲームが好きみたいで、今度一緒にやろうって」
「そう、よかったわね。でも、あんまり夜更かししてゲームばかりしていると、翌日の授業に支障が出るわよ」
「うっ……気をつけます。純玲さんたちの方はどうでした? 高校の授業」
「楽しかったけど、退屈だったわ」
私は、数学の授業での出来事を思い出しながら、小さく息を吐いた。
「先生が黒板に書いた問題の解き方を説明させられたのだけれど、あまりにも基礎的すぎたから、微積分の証明と応用技術まで合わせて解説してあげたの。そうしたら、先生が完全に黙り込んでしまって。周りの生徒たちも、なぜかすごく驚いていたわ」
「あはは……純玲さんがそれやったら、絶対に誰も反論できないですよ。先生、可哀想に」
蓮が苦笑いしながらスープをすする。
「それに、放課後は男子生徒たちに囲まれてしまったの。バイクのことや、一緒に帰ろうって誘われたのだけれど、全部断ったわ。雫との約束があったし、あんな風に群がられるのは少し疲れるもの」
「……純玲、すごくモテてた。みんな、純玲のこと『かっこいい』って言ってたよ」
「あら、雫だって可愛いって言われていたじゃない。私、ちゃんと聞いていたわよ」
「えっ……そ、そうかな……」
雫が顔を赤くしてうつむくと、蓮がまたしても鼻を押さえてそっぽを向いた。彼のわかりやすい反応に、私と雫は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
学校での他愛もない出来事。先生への不満や、クラスメイトの噂話。
これまでの血に塗れた日々では絶対に交わされることのなかった、ごく普通の学生たちの会話。
それが、私の日常になっていることが、不思議で、そしてたまらなく愛おしかった。
食事が終わり、私が食器を片付けようとすると、蓮が「俺がやりますから、純玲さんは休んでいてください」と半ば強引にシンクへと向かっていった。
時計を見ると、すっかり夜も更けている。
「……私、もう帰るね」
雫が、ソファから立ち上がり、自分の通学カバンを手に取った。
彼女は、組織が用意してくれた別のセーフハウスを拠点にしている。毎日一緒に帰ってくるけれど、夜は自分の家へと戻っていくのだ。
「ええ。気をつけて帰ってね。明日の朝、また迎えに行くわ」
「うん。……純玲、蓮、今日もありがとう。……おやすみなさい」
私が玄関まで見送ると、雫は小さく手を振って、オートロックの扉の向こうへと消えていった。
彼女の背中を見送りながら、私は静かに息を吐き出した。
明日もまた、彼女と一緒に学校に行き、蓮の作った朝ごはんを食べる。
そんな当たり前の明日が来ることを、私は心から祈っていた。
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リビングに戻ると、蓮が食器を洗い終えて、布巾で丁寧に拭き上げているところだった。
「蓮、お疲れ様。私はお風呂に入ってくるわ」
「はい、お疲れ様です。お湯、湧いてますよ」
私は自室に戻り、クローゼットから着替えを取り出して、バスルームへと向かった。
脱衣所の鏡の前に立ち、ブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンを一つ一つ外していく。
制服のシャツが肌から滑り落ちると、そこには、私の16歳の少女らしからぬ、無数の傷跡が刻まれた身体が露わになった。
右肩を貫通した銃創の痕。
左脇腹に薄く残る、散弾の跡。
そして、神宮寺のラボでメスによって切り裂かれた、腕や脚の無数の白い線。
右目には、二度と光を映すことのない、義眼がある。
これらの傷跡は、私がこれまで生き抜いてきた証であり、決して消えることのない過去の烙印だ。
そして、ブラウスを完全に脱ぎ去った時。
私の胸元に、冷たい銀色の金属がコトリと音を立ててぶら下がった。
細いシルバーチェーンの先についている、小さなロケットペンダント。
私は、そのペンダントを両手でそっと包み込み、カチャリと小さな留め金を開いた。
中には、小さく切り取られた写真が収められている。
赤いメッシュの入った黒髪。向日葵のような、底抜けに明るい笑顔。
私に温もりを教えてくれた、世界で一番大好きな人、アリスの写真だ。
そして、写真の裏側に設けられたわずかな空間には、ほんの少しだけ、白い粉のようなものが封入されている。
あの夜、冷たい裏庭の焼却炉で灰になった彼女の、遺骨の一部。
アドが火葬を終えた後、私にそっと手渡してくれたものだ。
私はそれを、自分の心臓に一番近い場所に、肌身離さず身につけている。
「……アリス」
私は、ペンダントの冷たい金属の感触を指先で確かめながら、静かに語りかけた。
「今日ね、高校の入学式だったのよ。あなたの隣で着たかったあのネイビーのスカート、結局着ていく機会はなかったけれど……制服のスカートも、なかなか風通しが良くて悪くないわね。……少し、短すぎる気もするけれど」
私は、鏡の中の自分に向かって、誰にも見せないような柔らかい笑みを浮かべた。
「授業は退屈だったわ。先生の解説が遅すぎて、つい居眠りしてしまったの。……あなたがいたら、きっと『初日から寝るなんてダメだよ!』って、笑いながら怒ってくれたんでしょうね」
ペンダントの中のアリスは、ただ優しく微笑んでいるだけだ。
彼女の声が返ってくることはない。
「帰り道に、また神宮寺の残党に追われたわ。でも、雫が的確にタイヤを撃ち抜いてくれたから、無事に帰ってこられた。……雫、すごく強くなったのよ。私がいなくても、きっと自分の身は自分で守れるくらいにね」
私は、ペンダントをぎゅっと胸に押し当てた。
心臓の鼓動が、ペンダント越しに伝わってくる。
「蓮のご飯、今日も美味しかったわ。……みんな、あなたの分まで、一生懸命に生きているわよ」
私の目から、熱い涙がポロリとこぼれ落ちた。
感覚が戻ってから、私はよく泣くようになった。悲しい時だけじゃない。嬉しい時も、こうして彼女のことを思い出す時も、心が揺さぶられると自然と涙が溢れてくるのだ。
これは、アリスが私にくれた『人間らしさ』の証。
「……会いたいな、アリス。あなたの声が聞きたい。あなたに、抱きしめてほしい……」
私は、誰にも聞こえないような小さな声で、本音をこぼした。
どれだけ時間が経っても、どれだけ日常が平和になっても、彼女を失ったぽっかりと空いた穴が塞がることはない。
でも、この痛みがあるからこそ、私は彼女を忘れないでいられる。彼女が私の中で、ずっと生き続けていると感じられる。
「……ごめんなさい、泣き言なんて、あなたが一番聞きたくないわよね」
私は、ペンダントをそっと胸元に下ろし、鏡から視線を外した。
脱衣所の冷たい床から足を踏み出し、バスルームへと入る。シャワーの栓をひねると、勢いよく吐き出されたお湯が、すぐに適温へと変わった。
シャワーヘッドから降り注ぐお湯を、頭から直接浴びる。
温かい。
水滴が髪を伝い、肩から背中、そして足元へと滑り落ちていく感覚。
感覚が戻ったこの身体は、お湯の適度な熱さと、水流が肌を叩く物理的な圧力を、正確に私の脳へと伝達してくれる。かつて感情を殺し、感覚を失っていた頃の私には、熱湯を被ろうが氷水を浴びようが、それは単なる温度変化というデータでしかなかった。
しかし今は違う。温かいお湯が肌を包み込むたびに、私は自分が確かに人間として生きているという生々しい実感と、同時に、どうしようもない孤独感を味わってしまうのだ。
石鹸を泡立て、全身を優しく撫でるように洗っていく。
私の肌には、神宮寺のラボで刻まれた無数の傷跡が残っている。メスで切り裂かれた腕や脚のライン、銃弾が貫通した右肩の痕。それらはドクターの処置によって完全に塞がっているものの、指でなぞると皮膚がわずかに引き攣るような違和感があり、鈍い痛みの記憶を呼び起こす。
その傷跡に触れるたび、あの息の詰まるような無菌室の冷たさと、絶望の淵でアリスの名前を叫び続けた記憶がフラッシュバックしそうになる。
でも、私は目を閉じ、シャワーの音に意識を集中させて、その記憶を強引にデフラグした。
この傷は、私がアリスを愛し、彼女のために足掻いた証だ。忌まわしいものではない。私が人間として戦い抜いた、誇るべき勲章なのだ。
右目の義眼は精巧な防水仕様になっているため、そのままシャワーを浴びても機能に問題はない。だが、左目だけで見る世界は、どうしても遠近感が掴みづらく、ふとした拍子にバランスを崩しそうになる。
失ったものは多い。右目も、かつての完璧な戦闘能力も、そして何より大切な人も。
「……アリス」
シャワーの水音に紛れさせて、私はもう一度彼女の名前を呼んだ。
水滴と一緒に、私の左目から溢れ出した涙が、頬を伝って排水溝へと吸い込まれていく。
彼女がいない世界で、私はこれから何十年も生きていかなければならない。
高校を卒業し、大人になり、もしかしたら誰かと恋をして、家庭を持つ日が来るのかもしれない。アドが望んでくれたような「普通の幸せ」を、形だけでも手に入れる日が来るのかもしれない。
でも、私の心の一番奥深くにある柔らかな場所は、永遠にあの地下の冷たい病室に置かれたままだ。彼女の首に手をかけ、生と死の境界線で交わした、あの涙に濡れたキスの感触と一緒に。
「私が、あなたを殺したのよ……」
その罪悪感は、どれだけ時間が経っても薄れることはない。むしろ、私がこうして『人間らしい』温かい生活を送れば送るほど、私だけがこんなに満たされていていいのかという呪いのように、私の首を真綿で締め付けてくる。
シャワーを止め、バスタオルで身体を拭く。
吸水性の高いタオルのふかふかとした肌触り。これも、アリスが私のために選んで買ってくれたものだ。「ピュアちゃんは肌が白いから、柔らかい素材のものがいいよ!」と、満面の笑みでカートに入れていた彼女の顔が、昨日のことのように思い出される。
脱衣所に戻り、用意していたシルクのパジャマに袖を通す。
ドライヤーの温風で黒髪を乾かしながら、私は再びペンダントを服の下に隠した。金属の冷たさが肌に触れるたび、アリスが私のすぐそばにいてくれるような気がして、少しだけ心が落ち着くのを感じた。
洗面所の明かりを消し、リビングに戻ると、部屋の照明は一段階落とされ、静かで穏やかな空間になっていた。
キッチンの方を見ると、蓮はすでに夕食の片付けを完全に終え、ダイニングテーブルで何やらタッパーに食材を詰める作業をしていた。
「……蓮、まだ起きていたのね」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を揺らして振り返り、少しだけ疲れたように、けれど優しく微笑んだ。
「あ、純玲さん。お風呂、お疲れ様です。明日の朝は、雫さんが少し早めに迎えに来るってメッセージがあったので、お弁当の仕込みをしておこうと思って」
「お弁当……。そう、明日からはお昼ご飯を持っていかなくちゃいけないのね」
「はい! 俺の中学校も明日からお弁当が始まるんで、二人分まとめて作っちゃいますから。純玲さん、卵焼きは甘い方がいいですか? それとも出汁巻き?」
彼のそのごく自然な問いかけに、私は小さく息を吐き出した。
殺しのターゲットの座標や、暗号化されたデータの解析ではなく、明日の卵焼きの味付けについて話し合っている。その落差が、どうしようもなく平和で、愛おしい。
「そうね……甘い方がいいわ。脳の疲労回復には糖分が必要だし、何よりあなたの作る甘い卵焼きは絶品だもの」
「わかりました! 期待しててくださいね」
蓮は嬉しそうに頷き、布巾で手を拭ってから、リビングのメイン照明を落とした。
「戸締まりとセキュリティシステムのチェックは俺がやっておきますから。純玲さんは今日は本当に疲れたでしょうし、早く休んでくださいね」
「ええ、頼んだわ。……あなたも、無理はしないでね。今日から中学生なのだから、睡眠時間をしっかり確保しないと、授業中に脳の処理能力が低下して居眠りすることになるわよ」
「あはは、純玲さんみたいに先生を論破できる自信はないので、ちゃんと寝ますよ。……おやすみなさい、純玲さん」
彼の温かい声に見送られ、私は「おやすみなさい」と短く返し、自室へと向かった。
彼が私を「純玲さん」と呼ぶことにも、すっかり慣れた。その響きが、私がただの殺し屋の『ピュア』ではなく、一人の人間としてこの世界に存在していることを、毎日確かに証明してくれている。
自室の扉を閉め、真っ暗な部屋の中でベッドに潜り込む。
最高級のエジプト綿のシーツは、相変わらず肌に吸い付くように滑らかで心地よい。
けれど、この広すぎるベッドに一人で横たわっていると、どうしても、隣に誰かがいてほしかったという叶わない願いが頭をもたげてしまう。
私は、仰向けのまま、服の上から胸元のロケットペンダントを両手でギュッと握りしめた。
窓のカーテンの隙間からは、東京の夜景の微かな光が差し込み、部屋の天井を薄暗く照らしている。
「……アリス」
静寂に包まれた暗闇の中で、私は誰にも聞こえない声で囁いた。
彼女が生きていたら、この制服姿を見てなんて言ってくれただろうか。
お弁当を一緒に食べて、放課後は寄り道をして、クレープを食べたり、映画を見に行ったりして。
そんな普通の幸せを、私は彼女と一緒に味わいたかった。彼女が望んでくれた『普通の女の子』としての時間を、彼女の隣で過ごしたかった。
「あなたが言ってくれた言葉、今でもちゃんと覚えているわ」
私は、ペンダントを握る手に、さらに力を込めた。
あの病室で、彼女が涙を流しながら私に打ち明けてくれた、あの言葉。
『私、ピュアちゃんのこと、恋愛として、好きだったのよ』
その言葉を思い出すたびに、胸の奥が甘く、そして苦しく締め付けられる。
恋愛。お付き合いをして、順序を踏む。
感情を持たないバケモノだった私には、理解できなかった概念。でも、今ならわかる。彼女が私に向けてくれたその感情が、どれほど特別で、どれほど重いものだったのか。
「私も……あなたに恋をしていたの。ずっと、あなたが好きだったのよ」
暗闇に向かって、私は誰も聞いていない告白を繰り返した。
「もっと早く、私が人間としての感情を理解していれば。あなたにたくさん『好きだ』って伝えられたのに。……あなたを抱きしめて、キスをして、普通の恋人同士みたいに、たくさんの時間を重ねられたのに」
私の左目から、再び熱い涙がこぼれ落ち、こめかみを伝って枕に染み込んでいく。
失ってから気づく想いほど、残酷なものはない。
私が彼女の首を絞めたあの瞬間、彼女は「人生で一番幸せ」だと言ってくれた。でも、私は彼女に、もっと違う形での幸せを与えたかった。彼女が生きているうちに、私のこの気持ちを言葉にして、態度で示して、彼女を安心させてあげたかった。
「……ごめんなさい、アリス」
私は、嗚咽を漏らさないように必死に唇を噛み締めた。
「あなたが残してくれたこの世界で、私は一生懸命に生きていくわ。……あなたがくれたこの『心』を、絶対に手放さない。あなたが愛してくれた早乙女純玲として、恥じないように生きていく」
ペンダントの中のアリスの遺骨が、私の心臓の鼓動に合わせて微かに揺れているような気がした。
これが、私と彼女を繋ぐ唯一の物理的な証。
彼女はもう、言葉を返してくれない。私がどれだけ泣いても、彼女の温もりが戻ってくることはない。
それでも、私は彼女に語りかけることをやめない。彼女が私の中で永遠に生き続けている限り、私は一人じゃないのだから。
「……おやすみ、アリス」
私は、涙で視界を滲ませながら、彼女に向けて最後の挨拶を告げた。
瞼を閉じると、暗闇の中に彼女の向日葵のような笑顔がはっきりと浮かんでくる。
その笑顔に優しく包み込まれるようにして、私は静かに、深い眠りへと落ちていった。
翌朝、私はいつものように設定時刻に目を覚ました。
洗面所で顔を洗い、昨夜の涙で少しだけ腫れぼったくなっている左目を確認する。冷たい水で冷やすと、腫れはすぐに引いてくれた。
制服に着替え、リビングへと向かうと、キッチンではすでに蓮がエプロン姿で忙しそうに立ち回っていた。
「おはようございます、純玲さん。朝ごはんと、お弁当できましたよ」
蓮が、ダイニングテーブルに綺麗に包まれたお弁当箱を二つ並べてくれた。
「おはよう、蓮。……お弁当、ありがとう。甘い卵焼きはちゃんと入っているかしら」
「もちろんですよ! 疲れた脳に糖分が染み渡るように、完璧な味付けにしておきましたから」
彼が胸を張って答えるのを見て、私は小さく微笑んだ。
朝食を済ませ、私たちはそれぞれの学校へと向かう準備をする。
私は地下駐車場へと降り、真新しいレッドのCBR400Rに跨った。エンジンをかけると、小気味良い排気音がコンクリートの壁に反射する。
マンションを出て、少し離れた場所にある雫のセーフハウスへと向かう。
指定された場所には、昨日と同じように少し大きめのブレザーを着た雫がちょこんと立って待っていた。
「おはよう、雫。よく眠れた?」
「うん、おはよう純玲。……昨日よりは、よく眠れた」
私がヘルメットを渡すと、雫はそれを受け取って私の後ろに跨り、腰にギュッと腕を回してきた。
春の朝の空気は少しだけひんやりとしているが、背中から伝わる彼女の体温が私を温めてくれる。
私はクラッチを繋ぎ、桜の花びらが舞う東京の公道へとバイクを走らせた。
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学校に到着し、昨日と同じように駐輪場にバイクを停めて教室へと向かう。
昨日の入学初日の騒動のせいか、すれ違う生徒たちの視線がちらちらと私に向けられているのを感じたが、私はそれを環境ノイズとして処理し、窓際の自分の席へと腰を下ろした。
午前中の授業が進んでいく。
そして、問題の国語の授業が始まった。
今日の題材は、近代文学の小説だった。登場人物たちが互いの心情をすれ違わせ、非合理的な嫉妬や葛藤を抱えながらうじうじと悩み続けるという、私にとっては極めて理解に苦しむストーリー展開だ。
教壇に立つ中年の国語教師は、教科書を片手に、その登場人物の繊細な心の動きについて、単調なトーンで延々と解説を続けている。
数学や物理のように、明確な公式と絶対的な解が存在する世界なら私の演算能力はフルに機能する。しかし、この文章から「筆者の意図」や「登場人物の複雑な感情」を読み解くという作業は、私にはどうにも退屈だった。
春の柔らかな陽射しが、窓ガラス越しに私の身体をぽかぽかと温める。
昨夜、色々なことを考えすぎて泣き疲れたせいか、心地よい疲労感がまた私の副交感神経を優位に立たせ始めた。
まぶたが重くなり、単調な教師の声が遠くの波音のように聞こえてくる。
(……少しだけ、視覚情報をシャットダウンしても問題ないわよね)
私は頬杖をついたまま、ゆっくりと目を閉じた。
そのまま、浅い微睡みの底へと意識を沈めていった。
「……早乙女。おい、早乙女純玲!」
不意に、黒板をバンバンと叩く音と共に、私の名前が呼ばれた。
私は静かに目を開け、教壇の方へと視線を向けた。
昨日、数学の教師を黙らせたことがすでに職員室で共有されているのか、国語の教師は私に対して明らかな敵意と苛立ちを込めた顔で睨みつけていた。
「私の授業で居眠りとは、随分な余裕だな。……ならば、この場面における主人公の心情を、君の言葉で説明してみなさい」
教師が、教科書の一節を指差して言った。
それは、主人公がライバルに対して抱く嫉妬心と、それゆえに取ってしまった理不尽な行動について問う問題だった。
クラスメイトたちの視線が、再び私に一斉に集まる。昨日のように、私がどんな完璧な解答を披露するのかと、期待と興味が入り混じった顔をしている。
私はゆっくりと立ち上がり、指定された文章に視線を落とした。
主人公の行動を論理的に分析する。自分の感情をコントロールできず、相手に対して不快なノイズを撒き散らしている。極めて非効率で、無駄の多い行動だ。
「……この登場人物は、自己の劣等感を処理できず、相手に対する理不尽な攻撃行動に出ています。解決策は極めてシンプルだと思うのだけれど」
私が淡々と述べると、教師は「ほう、それで?」と腕を組んで続きを促した。
私は、自分の心の中に湧き上がった素直な感想を、そのまま言葉にして出力した。
「ムカつくわね、黙らせればいいのよ」
教室の空気が、一瞬だけ完全に静止した。
教師はポカンと口を開け、何を聞かされたのか理解できていない様子だった。
「……は?」
「相手の非合理的な言動に付き合って精神を消耗するのは時間の無駄だわ。物理的、あるいは言語的に相手の機能を停止させ、環境からノイズを排除するのが最も効率的な最適解よ」
私が真顔でそう言い切った瞬間。
静まり返っていた教室が、ドッという爆笑の渦に包まれた。
「なんだそれ! 解決策が物騒すぎだろ!」
「昨日あんなにクールだったのに、脳筋かよ!」
「最高! 早乙女さん、やばい!」
クラスメイトたちが、お腹を抱えて笑っている。
昨日、数学の授業で見せた冷徹な秀才キャラとのあまりのギャップに、彼らの緊張感が完全に崩壊したらしい。
私はなぜ彼らが笑っているのか、その理由がすぐには計算できなかった。私はただ、一番正しいと思う解決策を提示しただけなのに。
「……純玲、面白い」
隣の席の雫が、口元を手で隠しながら、肩を震わせてクスクスと笑っている。
教師は顔を真っ赤にして「ふ、ふざけるな! 真面目に答えなさい!」と怒鳴っていたが、クラスの笑い声にかき消されてしまっていた。
私は小さく肩をすくめ、そのまま席に座った。
笑われるのは少し不本意だったけれど、教室中が明るい空気に包まれているのを見て、これはこれで悪くないエラー処理なのかもしれないと、私は密かに結論づけた。
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待ちに待ったお昼休みのチャイムが鳴った。
私はカバンから蓮が作ってくれたお弁当箱を取り出し、隣の席の雫と机をくっつけた。
「蓮のお弁当、楽しみね」
「うん。卵焼き、入ってるかな」
私たちが包みを開けようとした時だった。
「あのさ、早乙女さん、雨宮さん。……俺たちも、一緒に食べていいかな?」
少し遠慮がちな声がして顔を上げると、クラスの男子生徒が二人、自分たちのお弁当箱を持って私たちの机のそばに立っていた。
一人は少し背が高くスポーツをやっていそうな男子で、もう一人は眼鏡をかけた大人しそうな男子だった。
彼らの視線は、主に私と雫の顔をチラチラと盗み見ており、明らかに緊張しているのが伝わってきた。
私は少しだけ警戒し、彼らの筋肉の動きや持ち物を視覚でスキャンした。武器を持っている様子もなく、ただの一般の学生だ。
以前の私なら「邪魔よ」と一蹴していただろう。だが、私は隣の雫の方を見た。
「……雫、どうする? あなたが嫌なら断るわ」
私が小声で尋ねると、雫は少しだけ戸惑ったように目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。
「……うん。いいよ、一緒に」
彼女が了承したのなら、私が拒絶する理由はない。
「ええ、構わないわ。空いている席を使いなさい」
私が許可を出すと、男子生徒たちは「よっしゃ!」と小声で歓声を上げ、私たちの向かいの席に椅子を引き寄せて座った。
お弁当の蓋を開ける。蓮の特製の甘い卵焼きが、綺麗な黄色い色をして詰められていた。
「へえ、早乙女さんのお弁当、すげえ美味しそう! 自分で作ったの?」
「いいえ、弟が作ってくれたのよ」
「えっ、弟!? 中学生くらい? すげえな、料理できるんだ」
「ええ。彼はとても優秀なサポーター……いえ、家族だから」
私はうっかり『サポーター』と言いそうになるのを脳内で修正し、適当に話を合わせた。
そこからは、彼ら主導で他愛のない会話が続いた。
どこに住んでいるのか、休日は何をしているのか、好きな音楽やテレビ番組は何か。
もちろん、組織のことや殺しの仕事のこと、アリスのことを話すわけにはいかない。私は適当に「休日は読書をしているわ」などと無難な回答を返し、雫も「……映画とか、見る」と短い言葉で応じていた。
「朝、バイクで来てたよな。CBRだろ? めっちゃカッコよかったぜ。俺も免許取りたいんだよね」
「そう。でも、バイクは物理法則を身体でコントロールできないと、ただの走る棺桶になるわ。安易な気持ちで乗るのはお勧めしないわよ」
「うわ、また理屈っぽい! でも、そういうところもなんか良いよな」
男子生徒たちは、私の冷たい言葉すらも面白がっているようだった。
彼らとの会話には何の生産性もない。でも、お弁当の卵焼きを口に運びながら、こうして誰かとどうでもいい話をする時間は、平和で、とても人間らしいものだった。
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放課後。
帰りのホームルームが終わろうとした時、校内放送のスピーカーから私の名前が呼ばれた。
『1年A組、早乙女純玲さん。至急、校長室まで来なさい』
その放送に、クラスメイトたちが「お、バイクの件か」「怒られるぞ」とざわつき始めた。
私は鞄を肩に掛け、雫に「少し待っていて」と告げてから、一人で校長室へと向かった。
重そうな木製の扉をノックして中に入ると、そこには白髪交じりの校長と、昨日の今朝の校門で私を怒鳴りつけていたあのジャージ姿の体育教師が、腕を組んで待ち構えていた。
応接用のソファに座るよう促され、私は静かに腰を下ろした。
「早乙女君。単刀直入に言うが、君のバイク通学の件だ」
校長が、重々しい口調で切り出した。
「昨日の朝、君は規定にないことを理由に反論したそうだが、本校の生徒として相応しくない行動であることに変わりはない。……処分を検討するにあたり、君の親御さんを学校に呼びなさい」
親を呼べ。
その言葉に、私は心の中で小さく冷笑した。
私の親は、私が5歳の時に、この手で台所の包丁を使って物理的に解体した。彼らを呼び出そうにも、お墓の土の下から這い上がってきてもらうしかない。
「……親は、いません」
私が淡々と事実を告げると、校長と体育教師は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「い、いないとはどういうことだ。ならば、保護者にあたる人間がいるはずだろう」
「法定代理人としての後見人ならいますが、彼を呼べばよろしいですか?」
「ああ、構わん。すぐに連絡を取りなさい」
私はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、アドの連絡先をタップした。
コール音は数回で繋がり、アドの不機嫌そうな声が聞こえてきた。
『……なんだ、ピュア。学校はどうした』
「アド。学校の校長に呼び出されているの。バイク通学の件で、後見人を呼べと言われているわ」
『あぁ? ……チッ、めんどくせえな。わかった、今から行く。待ってろ』
通話を切り、私はスマートフォンをしまった。
それから約30分後。
校長室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。
「……待たせたな」
部屋に入ってきたのは、ヨレヨレのスーツを着崩し、無精髭を生やした男——アドだった。
彼は校長室の厳粛な空気などお構いなしに、ズカズカと歩み寄り、私の隣のソファにどっかりと腰を下ろした。
その風貌は、どう見てもまともな保護者には見えない。裏社会の人間特有の、危険で暴力的なプレッシャーが部屋の空気を一気に重くした。
「あ、あなたが、早乙女君の後見人ですか……?」
校長が、アドの威圧感に少しだけ声を震わせながら尋ねた。
「ああ。俺がこいつの保護者だ」
アドはそう言うと、懐からタバコを取り出し、あろうことか校長室の中で堂々と火をつけた。
紫煙が天井に向かって立ち上る。
日本の教育機関の長がいる部屋で喫煙するなど、極めて非常識な行動だ。
「なっ……! ここをどこだと思っている! タバコを消しなさい!」
体育教師が顔を真っ赤にして怒鳴りつけたが、アドは彼を冷たい目で一瞥しただけで、タバコを灰皿代わりの携帯吸い殻入れに軽くトントンと叩いた。
「うるせえな。こっちも忙しいんだ。さっさと本題に入れ」
アドの凄みに気圧され、校長が咳払いをして話を戻した。
「……ええと、純玲君のバイク通学の件です。本校では生徒のバイクの運転を禁止しており、彼女の行動は他の生徒への悪影響が懸念されます。よって、厳正な処分を……」
「とやかく言うな」
アドが、低い、しかし絶対的な圧を込めた声で校長の言葉を遮った。
「こいつは、法に従って免許を取り、保険にも入って、誰にも迷惑をかけずに通学してるだけだろ。何が問題なんだよ」
「し、しかし、校則が……」
「校則ねえ」
アドはタバコの煙をふぅっと吐き出し、ニヤリと口角を上げた。
「コイツはともかく、他の生徒たちは入学時に『バイクに乗らない』って誓約書を書かされてるんだろ? じゃあ、もしコイツがバイクに乗ってるのを見て、それに影響されて他の生徒がバイクに乗ったとしたら、それは誓約書を破ったその生徒自身の責任だ。悪影響を与えたとか言うなら、その誓約を破った生徒の方を処分すればいいじゃねえか」
アドの極端で、しかし論理の穴を突くような反論に、校長と体育教師は言葉を失った。
「それにだ。入学手続きの書類にバイク禁止の誓約書を入れ忘れ、コイツにサインさせねえまま入学許可証を出したのは、そっちの学校側のミスだろうが」
アドは、自分の襟元についている、メッキの剥がれた弁護士バッジを指でピンと弾いた。
「契約書が存在しねえ以上、コイツに落ち度は1ミリもねえよ。それでも無理やり処分を下すってんなら、俺は弁護士として、おたくらの不当な懲戒権の濫用を徹底的に法廷で争わせてもらうが、どうする?」
アドの言葉は、完璧なディベートだった。
裏社会で幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の交渉術の前に、事勿れ主義の学校側が勝てるはずがない。
「……っ」
校長は顔を青ざめさせ、体育教師と顔を見合わせた。
彼らの頭の中で、これ以上のトラブルを避けるという保身の計算式が導き出されたのだろう。
「……わかりました。今回は……学校側の手続きの不備もありましたので、特例として黙認することにしましょう」
校長が、苦虫を噛み潰したような顔でそう告げた。
「話が早くて助かるぜ」
アドはタバコを消し、立ち上がった。
私も彼に続いてソファから立ち上がり、校長たちに軽く一礼して部屋を出た。
廊下に出ると、アドは「まったく、面倒かけさせやがって」とぼやきながらも、私の頭をポンと軽く叩いた。
「アド。非常識な振る舞いだったけれど、あなたの論理構成は完璧だったわ。助かったわ、ありがとう」
私が素直に感謝を伝えると、アドは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「お前が表の世界で生きていくための壁になるなら、俺がいくらでも壊してやるさ。だがあんまり波風立てるな。……さあ、帰るぞ。お前の帰りを待ってるやつがいるんだろう」
私は、昇降口で待っていた雫と合流し、再びCBR400Rのエンジンをかけた。
夕暮れの空が、東京の街を美しく染め上げている。
私の高校生活2日目は、こうして慌ただしく、けれどとても人間らしく幕を下ろしたのだった。
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高校生活も3日目。
私の朝のルーティンは、すっかり定着しつつあった。
蓮が作ってくれる完璧な朝食を食べ、彼を見送ってから、地下駐車場でCBR400Rのエンジンをかける。雫との待ち合わせ場所に行き、彼女を後ろに乗せて、春の風を感じながら学校へ向かう。
血の匂いも、命のやり取りもない、穏やかで平和な朝。
教室での授業も、相変わらず私にとっては退屈なものだった。
この日も、午前中の授業中、私は春の陽気と単調な教師の声に当てられ、気づけばまたしても机でうとうとと微睡んでしまっていた。
「……早乙女。起きなさい」
教師の声でハッと目を開けると、初日の数学教師が、少しだけ呆れたような顔で私を見下ろしていた。
また怒鳴られるのかと、私は小さく息を吐いたけれど、彼の反応は初日とは少し違った。
「寝てばかりいないで、この問題を解いてみなさい」
彼は黒板を指差し、私に解答を促した。
私は立ち上がり、黒板の数式を一瞥して、すぐに完璧な解答と、その数式が意味する物理現象の応用例をスラスラと口にした。
私が答え終わると、教師は「……うむ、正解だ」と短く頷いた。
「君の理解力が優れているのはわかった。だが、授業中に寝るのは感心しない。……退屈なら、先の章の応用問題を解いてみるとか、何か自分にとって有意義な時間にしなさい」
教師はそれだけを告げると、怒ることもなく、再び授業を再開した。
どうやら、私が「そういう生徒」なのだと、学校側が諦め混じりに受け入れてくれたらしい。
私は少しだけ拍子抜けしながらも、席に座り直した。
隣の雫が、「純玲、すごいね。先生も諦めちゃった」と、クスクスと笑いながら小声で言った。
私は小さく肩をすくめた。
理解できないことを無理に強要されるより、放っておいてもらえる方が、私にとってははるかに合理的でありがたい対応だった。
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お昼休み。
昨日と同じように、私と雫が机をくっつけてお弁当を広げていると、昨日一緒にご飯を食べた男子生徒二人が、またしても私たちのもとへやってきた。
「早乙女さん、雨宮さん! 今日も一緒に食っていい?」
「ええ、構わないわよ」
私が許可を出すと、彼らは嬉しそうに席に着いた。
蓮が作ってくれた、今日は出汁巻き卵が入ったお弁当を口に運びながら、私たちはまた他愛のない会話を交わした。
昨日見たテレビ番組の話、次に流行りそうなゲームの話。
私にはよくわからない話題も多かったけれど、彼らが楽しそうに話すのを聞いているだけでも、不思議と不快ではなかった。
彼らとの会話は、私に『普通の高校生』としてのデータを少しずつ蓄積させてくれているように感じた。
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午後。
この日の午後の授業は、体育だった。
クラスの女子生徒たちは、更衣室に集まって体操服への着替えを始めていた。
私も、自分のロッカーの前でブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンを外していった。
私は、自分の身体に刻まれた傷跡について、これまで深く考えたことはなかった。
右肩の銃創、左脇腹の散弾の跡、そして腕や脚に残る無数の切り傷。これらはすべて、私が神宮寺のラボでアリスを守るために受けた、名誉ある勲章だ。
だから、着替えの際にそれを隠そうという意識も働かず、私はいつも通り、無造作にブラウスを脱ぎ捨てた。
「えっ……! 早乙女さん、その傷……!」
不意に、隣で着替えていた女子生徒の一人が、私の身体を見て悲鳴のような声を上げた。
彼女の視線は、私の右肩や脇腹の痛々しい傷跡に釘付けになっていた。
「だ、大丈夫なの!? すっごい傷だけど……事故か何かに遭ったの!?」
彼女の声に驚いて、他の女子生徒たちも一斉に私の方へと視線を向けた。
「うわっ、ほんとだ……」「痛そう……」と、更衣室がざわめき始める。
しまった、と思った。
私は、自分が『普通の女子高生』のコミュニティにいることを完全に失念していたのだ。彼女たちにとって、こんな銃創や刃物による深い傷跡は、日常とはかけ離れた異常なものに映るはずだ。
「あ、えっと……」
私は咄嗟のことに思考の演算が追いつかず、少しだけ焦って言葉を探した。
神宮寺の拷問で、とは当然言えない。
「……格闘技とか、やっていて。その時の怪我よ」
私が苦し紛れにそう答えると、周囲の女子生徒たちは「えーっ!」とさらに驚きの声を上げた。
「格闘技!? 早乙女さん、そんなことやってるの!?」
「すっごい鍛えてるんだね! その傷の凄さから、どれだけ激しい練習してるか伝わってくるよ!」
「かっこいい……! だからバイクとかにも乗れるんだね!」
彼女たちは、私の傷を『厳しい鍛錬の証』として好意的に解釈してくれたようだった。
私はホッと息を吐き出し、体操服に腕を通そうとした。
だが、その時。
「でもさ……」
女子生徒の集団の後ろの方から、ひそひそと囁き合うような声が聞こえてきた。
「あんなに可愛くて、スタイルもいいのに……あの傷、ちょっと勿体無いよね」
「うん、可哀想……。あんな傷が残るくらいなら、やめればよかったのにね」
勿体無い。
可哀想。
その言葉が私の耳に入った瞬間、私の脳内の回路がパチンとショートしたような感覚に陥った。
彼女たちに悪意はない。ただ、純粋な同情から出た言葉なのはわかっている。
けれど、私にとってこの傷は、決して「勿体無い」とか「可哀想」だなんて言われるような、無価値なものじゃない。
この傷は、私がアリスを愛し、彼女のために命を懸けた証明だ。
私が人間として戦い抜いた、誇るべき勲章なのだ。
それを、何も知らない外野の人間が、ただの『見た目の欠損』として可哀想がるなんて。
アリスが私のために流してくれた涙を、アリスが私にくれた温もりを、馬鹿にされたような気がして。
「……あなたたちに、何がわかるのよ」
私の声は、低く、冷たく、そして震えていた。
私は、着替える手を止め、声のした方へとゆっくりと振り返った。
私の瞳の奥に、かつての『殺し屋』としての冷徹な怒りが燃え上がっている。
「え……?」
私のただならぬ気配に、女子生徒たちが息を呑んで後ずさりをした。
「この傷は……私にとって、一番大切な……っ」
私の身体が、無意識のうちに動き出していた。
その言葉を放った女子生徒に向かって、私は一歩を踏み出し、その胸ぐらを掴みかかろうと手を伸ばした。
彼女の軽薄な言葉を、物理的に黙らせてやるために。
「純玲っ!!」
ガシッ! と、私の伸ばした腕が、横から強い力で掴み止められた。
ハッと我に返って横を見ると、そこには、必死の形相で私の腕を両手で押さえ込んでいる、雫の姿があった。
「ダメだよ、純玲……っ! ここは、学校だから……っ!」
雫の大きな瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。
彼女の必死な言葉と、私の腕を掴む彼女の温かい体温が、私の頭に昇っていた血を一気に冷やしていくのを感じた。
「……っ」
私は、ハッと息を呑み、自分が何をしようとしていたのかを理解した。
ただの一般人の、悪意のない女子高生に、私は本気で殺意を向けて暴力を行使しようとしていたのだ。
私が手に入れたかった『普通の日常』を、私自身の手でぶち壊そうとしていた。
「……ごめんなさい」
私は、震える手をゆっくりと下ろし、その女子生徒たちに向かって深く頭を下げた。
「急に大きな声を出して、ごめんなさい。……この傷は、私にとってすごく大切な思い出だから……可哀想って言われて、少し、感情的になってしまったの。本当に、ごめんなさい」
私が素直に謝罪すると、女子生徒たちは少しだけホッとしたような、でもまだどこか戸惑っているような顔をして、「ううん、こっちこそごめんね……」と小さな声で返してきた。
更衣室の空気は、明らかに悪くなっていた。
さっきまでの和気あいあいとした雰囲気は消え去り、みんなが私に対して少しだけ距離を置いているのがわかった。
「……ごめんね、雫。私……」
私が小声で雫に謝ると、彼女は小さく首を横に振って、私の手を優しく握り返してくれた。
「ううん。……純玲の気持ち、私にはわかるから。でも、ダメだよ。ここでは、普通の女の子でいなきゃ」
「……ええ。そうね。気をつけるわ」
私は、体操服に着替えながら、自分の心の未熟さに深くため息をついた。
感情を取り戻した代償は、大きい。
私はまだ、この『人間らしい心』を、完全にはコントロールしきれていないのだ。
更衣室での一件を境に、私の学校生活の空気は、目に見えて変わってしまった。
男子生徒たちからの人気は相変わらず健在で、休み時間になれば「早乙女さん、次の授業なんだっけ?」と話しかけてくるし、お弁当の時間も私たちに合流してくる。
だが、女子生徒たちの反応は違った。
私が教室に入っても、挨拶こそ返してくれるものの、どこかよそよそしい。私が近づくと、ひそひそと話していた内容をスッとやめたり、視線を逸らされたりすることが多くなった。
彼女たちの間で、私が「傷だらけで、いきなり怒り出す危ない子」というデータとして共有されてしまったのは明らかだった。
私は、自分が蒔いた種なのだから仕方がないと、その状況を冷徹に受け入れようとしていた。
別に、全員と仲良くする必要はない。私には雫がいるし、蓮もアドもいる。この学校での日常は、あくまで私が人間として生きるための『シミュレーション』に過ぎないのだから。
だが、そのシミュレーションは、私の予想を超えた非合理的なエラーを生み出すこととなった。
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放課後。
私が帰りの準備をしていると、クラスの女子生徒が三人、私の机の前にやってきた。
更衣室で私の傷を見て悲鳴を上げた子とは違う、クラスの中でも少し派手なグループにいる生徒たちだった。
「ねえ、早乙女さん。ちょっと顔貸してくれない?」
彼女たちの声のトーンは、明らかに友好的なものではなかった。
隣で帰り支度をしていた雫が、ピクリと肩を震わせて私を見た。彼女の目には「行っちゃダメ」という警戒の色が浮かんでいる。
「……何の用かしら」
「いいから来なさいよ。ちょっと話があるだけだから」
私が尋ねると、彼女たちは私の腕を強引に掴もうとした。
私はその手をスッと避け、小さく息を吐いた。
ここで拒絶して騒ぎを起こすのは、また『不良』としてのデータを上書きするだけだ。それに、彼女たちが何を求めているのか、純粋に興味があった。
「雫、先に行って待っていて。すぐに戻るから」
「……うん。気をつけてね」
私は雫にそう告げ、彼女たちの後について教室を出た。
連れて行かれたのは、旧校舎の裏にある、人通りの少ない薄暗いスペースだった。
彼女たちは私を壁際へと追い詰め、三人で半円状に私を取り囲んだ。そのフォーメーションは、かつて私を襲ってきた半グレたちのそれと酷似していたが、彼女たちから発せられるプレッシャーは、比較にならないほど脆弱で、どこか滑稽だった。
「……それで、話って何?」
私が静かに問いかけると、リーダー格と思われる一番背の高い女子生徒が、腕を組んで私を睨みつけた。
「あんたさ、ちょっと調子に乗ってない?」
「調子に?」
「そうよ! 入学初日からバイクで登校して、先生を言い負かしてさ。なんであんただけ特別扱いされてるわけ? バイク通学なんて校則違反でしょ!」
彼女の怒りの理由は、私の『特権的な扱い』に対する不満だった。
「それに、男子たちもあんたにばっかりデレデレしてさ。ちょっと顔が良くて頭がいいからって、いい気になってるんじゃないわよ!」
「そうそう! 更衣室でいきなりキレたりして、本当はヤンキーのくせに、猫被ってるだけでしょ!」
他の二人も、リーダーの言葉に便乗して私を責め立ててくる。
私は、彼女たちの言葉を脳内で冷徹に分析した。
バイク通学の黙認。男子からの人気。成績の良さ。
それらの要素が、彼女たちの自尊心を刺激し、『嫉妬』という非合理的な感情の暴走を引き起こしているのだ。
「……なるほど。要するに、私が気に入らないということね」
「そうよ! 気に入らねえんだよ!」
リーダー格の女子生徒が、カッとなって声を荒げた。
そして、彼女は感情に任せて、右手を振り上げ、私の頬に向かって平手打ちを放ってきた。
——遅い。
私の動体視力には、彼女の筋肉の収縮から腕の軌道まで、すべてがスローモーションのように見えていた。
私は身体を動かすまでもなく、首をほんの数ミリだけ傾け、その平手打ちを完全に回避した。
彼女の手は虚しく空を切り、勢い余ってバランスを崩しそうになる。
「なっ……! 避けんな!」
彼女は顔を真っ赤にして怒り、今度は両手で私の胸ぐらを掴もうと掴みかかってきた。
私は、右へ半歩ステップを踏み、彼女の突進をヒラリと躱す。
他の二人も「このヤロー!」と加勢して殴りかかってくるが、私は彼女たちの攻撃のベクトルを正確に読み取り、最小限の動きですべてを回避し続けた。
ブンッ! スカッ!
彼女たちの拳や平手打ちは、私の髪の毛一本すら掠ることはない。
私はただ、無表情のまま、彼女たちの無駄なエネルギー消費を観察していた。
「ハァ……ハァ……っ! ちょこまかと……逃げんじゃねえよ!」
数分後。
彼女たちは完全に息を切らし、肩で息をしながら私を睨みつけていた。
体力も、運動能力も、私とは次元が違う。これが『普通の女子高生』の限界というやつだ。
「……もう終わり? 随分と非効率な攻撃ね」
私が冷たく言い放つと、リーダー格の女子が「ふざけんな!」と再び右の拳を振り上げて突っ込んできた。
私は、小さくため息をついた。
このまま避け続けても、彼女たちの感情のエラーは収まらない。ならば、物理的な圧倒的実力差を見せつけ、彼女たちの攻撃意欲を根元からへし折るのが最も合理的な解決策だ。
「……人を殴るというのは、こうやるのよ」
私は、彼女が振り下ろしてきた右腕の内側に、滑るようにして自らの右腕を滑り込ませた。
そして。
私の右の拳が、空気を切り裂く凄まじい音と共に、彼女の顔面——正確には鼻柱のど真ん中へ向けて、爆発的な速度で突き出された。
——ビュンッ!!
「……ひっ!?」
私の拳は、彼女の鼻先からわずか数ミリの距離で、ピタリと完全に静止した。
拳から発生した強烈な風圧が、彼女の前髪を激しく吹き飛ばす。
もし私がこの拳のブレーキを外していれば、彼女の鼻骨は粉々に砕け散り、脳震盪を起こして即座に意識を刈り取られていただろう。
私は、あえてその『死の恐怖』を、彼女の網膜と脳に直接叩き込んだのだ。
「あ……あぁ……っ」
リーダー格の女子生徒は、私の寸止めされた拳を前に、完全に硬直していた。
彼女の瞳孔が極限まで拡大し、顔面から一気に血の気が引いて土気色に変わっていく。
膝がガクガクと震え、彼女は「ヒィッ……!」と情けない悲鳴を上げながら、その場に力なくへたり込んでしまった。
「……っ」
他の二人も、私の異常な速度と、そこから放たれる圧倒的な殺気——いや、ただの『威圧感』に完全に気圧され、壁に張り付いたまま声も出せない状態になっていた。
彼女たちは今、自分が本物の『バケモノ』に喧嘩を売ってしまったのだと、骨の髄まで理解したはずだ。
「……私の顔や成績が気に入らないなら、正当な努力で私を超えてみせなさい。こんな非生産的な暴力で解決しようとするなんて、時間の無駄よ」
私は、静かに拳を下ろし、冷徹な視線でへたり込む彼女を見下ろした。
「用がないなら、私は帰るわ。……これ以上、私の日常のノイズにならないでちょうだい」
私はそれだけを言い残し、踵を返して旧校舎の裏を後にした。
背後からは、彼女たちのすすり泣くような声と、過呼吸気味の荒い息遣いが聞こえていた。
少しだけ、やりすぎただろうか。
更衣室での一件で反省したはずなのに、私はまたしても『力』で相手をねじ伏せてしまった。
でも、彼女たちが私に危害を加えようとした以上、これは正当防衛の範囲内だ。それに、私は誰も傷つけていない。
私は、小さく息を吐き出しながら、駐輪場へと向かった。
そこでは、雫が心配そうな顔をして私のバイクの横で待っていた。
「……純玲。大丈夫だった?」
「ええ。少し、指導をしてあげただけよ。もう私たちに絡んでくることはないわ」
私が微笑みかけると、雫はホッとしたように表情を緩めた。
「よかった。……純玲が、また暴走しちゃわないか、心配だったから」
「……ごめんなさいね、心配かけて。私はもう、無闇に人を傷つけたりしないわ」
私は、ヘルメットを被りながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
私の暴力は、愛する者を守り、巨悪を討つためだけにある。
こんな小さな世界での諍いに、その力を使うべきではないのだと。
「さあ、帰りましょう。蓮がまた、美味しいご飯を作って待っているわ」
「うん」
私たちはバイクに跨り、夕暮れの街へと走り出した。




