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第一話「日の当たる世界に降り立つ」

 季節は移り変わって、2017年4月。

 タワーマンションの最上階にあるリビングの窓からは、春の柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。

 眼下に見える東京の街並みは、ほんのりと薄紅色に染まっている。公園や街路樹に咲き誇る桜の花びらが、春の風に乗って舞い散る様子は、この高さからでも十分に美しかった。


 私がこのマンションに住み始めてから、もう1年以上の月日が流れていた。

 アリスが私のために、少し強引に、けれど満面の笑みで買ってくれたこの場所は、今では私にとって何よりも大切な、本当の意味での『家』になっていた。

 彼女が選んでくれた黒いレザーソファも、大理石のダイニングテーブルも、あの時のまま配置されている。ここにいると、今でもアリスが「ピュアちゃん!」と明るい声を上げて、ひょっこりと顔を出してくれそうな気がしてしまう。

 彼女がいない寂しさは、完全に消えることはない。でも、その寂しさを抱えながら生きていくことこそが、彼女が私に遺してくれた『人間としての心』なのだと、今の私にはよくわかっていた。


「……よし」


 私は、姿見鏡の前に立ち、小さく息を吐き出した。

 鏡に映っているのは、黒いレザージャケットでも、無機質なスウェットでもない。真新しい、紺色のブレザーに身を包んだ私の姿だった。

 白いブラウスの首元には赤いリボンが結ばれ、下にはグレーのチェック柄のプリーツスカートを穿いている。足元は指定のハイソックスと、まだ革の硬いローファーだ。

 そう、高校の制服である。


 あの日、アドが私たちに告げた「普通の人の幸せを噛み締めてみろ」という言葉。

 私たちはその不器用な優しさに甘え、『天秤』という裏社会の組織から完全に足を洗った。

 アドとモニターが各方面に手を回し、私たちの戸籍を綺麗に整えてくれたおかげで、私と蓮は偽りの20歳という年齢から、本来の年齢の戸籍へと戻ることができた。

 私は16歳。蓮は12歳。

 そして、アドの提案で、私たちは法的に本当の姉弟として戸籍を共にすることになった。私が長女の『早乙女純玲』で、彼が弟の『早乙女蓮』。一緒に危機を乗り越え、同じ食卓を囲んできた彼は、私にとって間違いなくかけがえのない家族だったから、その提案を断る理由はどこにもなかった。


 組織を抜けてからの数ヶ月間、私たちはまさに死に物狂いで勉強に明け暮れた。

 同年代の子供たちが当たり前のように受けてきた義務教育のカリキュラムを、短期間で頭に叩き込む必要があったからだ。

 私の場合、物理や数学といった論理的な科目は、一度教科書を読めば完全に理解できたので全く問題はなかった。けれど、国語の心情を読み解く問題や、歴史の年号暗記などは、明確な計算式が存在しないため、思わぬ苦戦を強いられた。

 それでも、蓮と一緒に夜遅くまでテーブルに向かい、時にはアドやモニターが様子を見に来て差し入れを置いていってくれる温かい環境の中で、私は少しずつ『普通の学生』としての知識を身につけていった。


 その結果、私は他の人より1年遅れではあるものの、都内の進学校の入学試験を見事に突破し、今日、晴れて高校1年生としての初日を迎えることになったのだ。

 蓮もまた、編入試験に合格し、今日から中学生としての生活をスタートさせる。


「でも……」


 私は鏡の前で、自分の脚の露出具合をじっと見つめていた。

 スカートの裾が、ちょうど膝の位置にある。歩くたびにプリーツが揺れ、太ももの大部分が空気に晒されていた。

 これまで機能性や防御力を重視したパンツスタイルばかりだった私にとって、この無防備な服装は、どうにも落ち着かない。風通しが良いのは認めるけれど、こんな状態で外を歩けば、いざという時の動きに制限がかかってしまうのではないかと、余計な心配をしてしまう。


「いくらなんでも、短すぎないかしら」


 私はスカートの裾を少しだけ下に引っ張ってみたが、布地の面積が物理的に増えるわけでもなく、すぐに元の位置に戻ってしまった。

 これが見栄えを重視した『制服』というものなのだろうけれど、どうにも不安が拭えない。

 私は首を傾げながら、リビングへと向かった。


 リビングには、すでに朝食の美味しそうな匂いが漂っていた。

 キッチンでは、蓮がエプロン姿でフライパンを振るっている。彼は相変わらず、毎朝私が起きる前に起きて、完璧なタイミングで朝食を用意してくれる。

 彼が着ているのは、真新しい黒い学ランだ。少しだけ背が伸びた彼には、その制服がとてもよく似合っていた。


「おはよう、蓮。朝からご苦労様」


 私が声をかけると、蓮は火を止めてこちらを振り返った。


「あ、おはようございます、純玲さん。朝ごはんはフレンチトーストにしましたよ。お祝いの日ですからね」


 蓮は、私に向かってにっこりと笑った。

 戸籍を共にしてから、彼は私を「ピュアさん」ではなく、「純玲さん」と本名で呼ぶようになっていた。最初は照れくさそうにしていたけれど、今ではすっかりその呼び方が板についている。私としても、彼に名前で呼ばれるのは、本当に家族になったような気がして、とても心地よかった。


「ありがとう。……ねえ、蓮」


 私は、少しだけ躊躇いながら、自分のスカートの裾をつまんで彼に見せた。


「この制服なんだけれど……ちょっと、スカートが短すぎないかしら? 学校の規則ではこれが標準の丈らしいのだけれど、これでは関節の可動域は確保できても、防御力が皆無じゃない。風が吹いたら気になって仕方ないわ」


 私が真面目な顔で相談を持ちかけると、蓮はフライパンを持ったまま、私の全身を上から下へと見つめた。

 そして。

 彼の視線が、私の太もものあたりでピタリと止まった。


「……えっ?」


 蓮の顔が、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていく。

 彼の目が限界まで見開かれ、口がパクパクと金魚のように開閉している。


「れ、蓮? どうしたの?」


 私が不思議に思って顔を覗き込もうとした瞬間。

 ツゥーッと、彼の一筋の赤い線が、鼻の穴から流れ落ちた。


「ちょっと、血が出てるわよ!?」

「ひゃああっ!?」


 蓮は慌ててエプロンの端で自分の鼻を押さえ、フライパンを危うく落としそうになりながら後ずさりをした。


「だ、大丈夫です! な、なんでもないです! ちょっとのぼせただけで……!」

「のぼせたって、まだ朝よ? どこか具合でも悪いの?」

「違いますっ! その……純玲さんが、あまりにも……」


 蓮は、真っ赤な顔をして鼻を押さえたまま、私の姿をチラチラと盗み見ては、さらに顔を赤くしていた。


「よ、よく似合ってます! すごく可愛いですし、全然おかしくないです! だから、そのままの丈で完璧だと思います!」

「……そう? あなたがそういうなら、このままで行くけれど」


 私は少しだけ疑わしい目を向けたが、彼がこれほどまでに強烈な反応を示しているということは、視覚的なエラーは発生していないのだろう。

 相変わらず、彼の反応はわかりやすくて面白い。

 私は、自分の口元が自然と緩んでいるのを感じながら、ダイニングテーブルの席に着いた。


「さあ、早く食べましょう。遅刻して目立つのは避けたいわ」

「は、はいっ! 今すぐお皿に出します!」


 蓮が慌ててフレンチトーストを盛り付け、温かい紅茶と一緒にテーブルに並べてくれた。

 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。一口食べると、卵とミルクの優しい味が口の中に広がった。

 私が感覚を失っていた時も、彼が作ってくれる料理の『味』が、私と世界を繋ぐ大切な温もりだった。今でも、その味は私の心を一番落ち着かせてくれる。


 食事を終え、二人で歯を磨いて玄関に向かう。

 私のスマートフォンが短く振動した。画面を見ると、クォーツからのメッセージが届いていた。


『下に着いた。待ってる』


 短く、要点だけを伝える彼女らしいメッセージだ。

 実は、クォーツも私と同じ高校に進学することになっていた。彼女の学力は未知数だったが、私が家庭教師として徹底的に論理的な思考プロセスを教え込んだ結果、なんとか合格ラインに滑り込むことができたのだ。

 彼女もまた、16歳。私と同じように、これからは普通の女の子として、光の当たる場所で生きていく。


「クォーツが下で待っているみたい。行きましょうか」

「はいっ。俺も、中学の入学式、緊張しますけど……頑張ってきます」


 蓮が、真新しい指定の通学カバンを背負い、気合を入れるように小さく拳を握った。

 その横顔は、私が初めて出会った時のような怯えた少年のものではなく、しっかりと前を向く、頼もしい弟の顔だった。

 彼が休みの日に、こっそりと妹のお見舞いに行っていることを、私は知っている。妹の病状も随分と良くなり、あと少しで退院できるそうだ。彼がこれほどまでに頑張れるのは、その希望があるからに違いない。


 私たちは、靴を履き、玄関の扉の前に立った。

 ドアノブに手をかける。

 この扉の向こうには、血の匂いも、銃声も、薬物の恐怖もない。

 あるのは、私たちがこれから手探りで歩いていく、ありふれた、けれど何よりも尊い『日常』だ。


 私は、振り返ってリビングを一度だけ見渡した。

 アリスが残してくれた、この温かい場所。

 彼女の分まで、私はこの世界を思い切り楽しんで、たくさん笑って生きていく。


「……行ってきます」


 私は、誰にともなく小さな声で呟き、扉を開けた。

 春の爽やかな風が、私の頬を優しく撫でた。


 タワーマンションの静かで高速なエレベーターに乗り、一階のエントランスホールへと降り立つ。

 オートロックのガラス扉の向こう側には、すでに春の陽射しがたっぷりと降り注いでいた。そして、大理石の柱のそばに、見慣れた小柄な人影がぽつんと立って私たちを待っているのが見えた。


「おはよう、雫」


 私が声をかけると、彼女はパッと顔を上げ、少しだけ恥ずかしそうに微笑みながら駆け寄ってきた。

 『天秤』という組織から足を洗い、表の世界で生きていくと決めた時から、彼女はもう『クォーツ』というコードネームを名乗るのをやめた。彼女の本当の名前は、(しずく)。今では、私たちはお互いのことを本名で呼び合っている。


「おはよう、純玲。……それに、蓮も」

「おはようございます、雫さん。……朝早くからすみません」


 雫は、私と同じ紺色のブレザーに、グレーのチェック柄のスカートを身にまとっていた。

 元々、フランス人形のように色白で整った顔立ちをしている彼女だ。少し大きめのブレザーに包まれた小柄な身体と、綺麗に切り揃えられたロングの髪が相まって、その制服姿は驚くほど可憐で、まるで雑誌のモデルか何かのように目を惹いた。


「どうかな……。こういう服、着たことないから……変じゃない?」


 雫が、少し不安そうに自分のスカートの裾を摘んで首を傾げる。


「変なわけないわ。すごく似合っているわよ。……私よりずっと、この制服を着こなしている気がするわ」

「ほんと? よかった……。純玲も、すごく綺麗。モデルさんみたい」


 私たちがお互いの姿を褒め合っていると、ふと、隣で沈黙している蓮の様子がおかしいことに気がついた。

 彼は、指定の通学カバンを両手で抱え込んだまま、完全にフリーズして雫を見つめている。彼の目は再び限界まで見開かれ、口元はだらしなく半開きになっていた。


「……蓮? どうしたの?」


 私が怪訝に思って覗き込もうとした、その瞬間だった。


「……すごく、似合ってます、雫さん……」


 彼が呆然と呟いた直後、その鼻の穴から、ツツーッと、先ほど私の部屋で見たのと同じ鮮やかな赤い液体が流れ落ちた。


「ちょっと、蓮、また鼻血が出てるわよ。 どれだけ血圧が上がりやすいのよ」

「ひゃあっ!? す、すみません! 違うんです、雫さんの破壊力が……俺の許容量をオーバーしてて……っ!」


 蓮は慌ててカバンから箱ティッシュを取り出し、鼻を乱暴に押さえた。

 雫はキョトンと目を丸くし、「……蓮、大丈夫? どこか悪いの?」と、本気で心配そうに彼を覗き込んでいる。その無自覚な上目遣いが、さらに蓮のライフを削っていることにも気づかずに。


「だ、大丈夫です! ちょっと春の陽気でのぼせただけで……! 俺、中学の入学式、貧血で倒れるかもしれません……」

「情けないわね。そんな調子じゃ、中学校で女の子に話しかけられただけで失血死するわよ」


 私がため息混じりに呆れると、蓮は「そんなことないです!」と真っ赤な顔で抗議してきた。

 相変わらずの滑稽な反応だ。彼のこのわかりやすい生態を観察するのは、私の密かな日課であり、楽しみの一つになっていた。


「それじゃあ、蓮。気をつけて行きなさいよ。帰りも遅くならないようにね」

「はいっ! 純玲さんたちも、気をつけて。……いってらっしゃい!」


 鼻にティッシュを詰めたままの蓮に見送られ、私たちは彼と別れた。

 中学校へ歩いて向かう彼の背中を見送った後、私と雫はマンションの地下駐車場へと歩みを進めた。


 薄暗い地下駐車場の一角、私の専用スペースには、一台のバイクが静かに鎮座している。

 私がかつて愛用していた、あのイタリア製のモンスターマシン『ドゥカティ・1299パニガーレs』——ではない。


 あの真紅のパニガーレは、今も大切にガレージの奥で磨き上げられ、オブジェのように保管されている。

 問題は、私の『年齢』だった。

 組織にいた頃は、アドが偽造してくれた『20歳』の戸籍があったから、大型二輪の免許を堂々と所持し、あの化け物みたいなパワーのバイクを乗り回すことができた。

 けれど、表の世界に戻り、本来の『16歳』の戸籍に修正したことで、私は法的に大型二輪免許を取得することができなくなってしまったのだ。現在の法律では、16歳で取得できるのは排気量400cc以下の『普通自動二輪免許』に限られている。


「……いくら私の演算能力や筋力が優れていても、国家の法律という物理的なバグだけはどうにもならないわね」


 私は、目の前にある新しい愛車——『ホンダ・CBR400R』のシートを撫でながら、小さくぼやいた。

 パニガーレに乗れないのは不本意だが、バイクの爽快感が忘れられず、新しく調達したバイクだ。パニガーレに似た流線型のフルカウルで、カラーリングも同じ鮮やかなグランプリレッドを選んでいる。

 排気量が違うとはいえ、日本の複雑な道路事情において、これ以上の機動力を発揮できる乗り物はそう多くない。パニガーレに乗るのは、私が18歳になって合法的に大型免許を取り直すまでの我慢だ。


「純玲。……本当に、これで学校に行くの?」


 雫が、バイクの車体を少しだけ呆れたように見つめて言った。


「入学初日からバイクで通学なんて……なんだか、不良みたいだよ」

「不良? 私はただ、最も効率的な移動手段を選択しているだけよ。満員電車で他人に押し潰されながら通学するなんて、私の性に合わないもの」


 私は肩をすくめ、ミラーにかけていたフルフェイスのヘルメットを彼女に手渡した。


「ほら、これを被って。髪が乱れないように気をつけてね」

「……うん」


 雫は渋々といった様子でヘルメットを受け取り、頭にすっぽりと被った。

 私も自分のヘルメットを被り、CBR400Rのシートに跨る。キーを回すと、直列2気筒エンジンの小気味良いエキゾーストノートが地下駐車場に響き渡った。パニガーレの暴力的な咆哮に比べれば随分と大人しい音だが、それでも十分に力強い鼓動だ。


「しっかりつかまっていてね」

「うんっ……」


 雫が私の後ろに跨り、私のウエストにギュッと小さな腕を回してきた。

 感覚が戻った私の身体には、彼女の温かい体温と、少しだけ緊張している心臓の鼓動が、背中越しにはっきりと伝わってくる。

 私は小さく口角を上げ、ギアを一速に入れてクラッチを繋いだ。


 地下駐車場を抜け、春の陽光が降り注ぐ東京の公道へと滑り出す。

 四月の風は生温かく、桜の花びらがアスファルトの上を舞っていた。

 かつて、私はこの道を、血と硝煙の匂いを纏い、誰かの命を奪うため、あるいは仲間を救うための焦燥感に駆られながら、狂ったような速度で駆け抜けていた。

 けれど今、私が走っているのは、ただ『学校へ行く』という、ごく当たり前の日常のルートだ。


 信号待ちで止まるたびに、隣に並んだ車の運転手や歩行者が、制服姿で赤いスポーツバイクに二人乗りしている私たちを、驚いたような顔で見てくる。

 視線を集めるのは少し鬱陶しいけれど、それすらも、今の私にとっては新鮮で悪くない刺激だった。


「純玲、風が気持ちいいね」


 背中から、ヘルメット越しの雫のくぐもった声が聞こえてきた。


「ええ。最高のツーリング日和ね」


 私は青信号に合わせて滑らかに加速し、朝の通勤ラッシュで混雑し始めた道路を、縫うようにして走り抜けていった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 都内の閑静な住宅街にある、真新しい校舎が見えてきた。

 私たちが通うことになる、進学校だ。

 校門の付近には、真新しい制服を着た新入生たちや、部活動の勧誘のビラを配る先輩たちが大勢集まっており、春特有の賑やかで少し浮き足立った空気が漂っていた。


 私は速度を落とし、ドドドッというエンジン音を響かせながら、校門の脇にある駐輪スペースへとバイクを乗り入れた。

 当然ながら、周囲の生徒たちの視線が一斉にこちらに突き刺さる。

 「えっ、バイク?」「制服で乗ってるぞ……」「すげえ、カッコいい」といったざわめきが波のように広がっていく。


 私がエンジンを切り、スタンドを立ててヘルメットを脱いだ瞬間だった。


「こらぁっ!! そこの二人!! 何をやっている!!」


 校門の奥から、怒声と共に一人の大人が猛烈な勢いでこちらへ走ってきた。

 竹刀こそ持っていないが、ジャージ姿でいかにも厳格そうな、昭和の体育教師を絵に描いたような中年男性だ。顔を真っ赤にして、私たちのバイクの前に立ちはだかる。


「入学初日からバイクで通学とは何事だ!! お前ら、新入生だな!? 名前とクラスを言いなさい!!」

「……おはようございます。早乙女純玲と、雨宮雫です。クラスは確か、1年A組だったかしら」


 私は乱れた前髪を軽く手で払いながら、極めて冷静に、そして丁寧に挨拶を返した。

 教師は、私が悪びれる様子もなく堂々と答えたことに面食らったのか、一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに再び顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。


「挨拶などどうでもいい! 高校生がバイクに乗るなど、不良のやることだ! 今すぐキーを渡しなさい! 親を呼び出して停学処分にしてやる!!」


 そのヒステリックな怒声に、雫が私の背後に隠れるようにして少しだけ身を縮めた。

 私は、小さくため息を吐き出した。

 どうやら表の世界の教育機関というものは、論理よりも感情的な威圧を優先するシステムらしい。


「先生。少し落ち着いていただけますか?」


 私は、ヘルメットをバイクのミラーに引っ掛け、教師の目を真っ直ぐに見据えた。


「不良のやることだとおっしゃいますが、私は16歳ですし、公安委員会が交付した普通自動二輪免許を正式に取得しています。自賠責保険にも任意保険にも加入済みです。道路交通法に則って公道を走行して通学することに、法的な問題は一切存在しないはずですが?」

「なっ……ほ、法律の話をしているんじゃない! 学校の規則だ! 本校では、生徒のバイクの免許取得および運転を一切禁止しているんだ!」

「校則、ですか」


 私は、鞄の中からスマートフォンの画面を開くこともなく、自分の脳内に完璧にインプットされている情報を引き出した。


「入学手続きの際に配布された書類一式、および学校案内の冊子にはすべて目を通しました。ですが、そこには『自転車通学は許可制』という記載はありましたが、『自動二輪車による通学を禁止する』という明文規定はどこにも存在しませんでしたよ」

「えっ……?」

「さらに言えば、入学に際して『バイクの免許を取得しない、運転しない』といった誓約書にサインした覚えもありません。……ルールとして明文化されていない以上、個人の合法的な移動手段を、学校側が事後法的に制限し、ましてや停学処分を下すなど、法治国家において到底認められる裁量権の範囲ではありませんよね?」


 私が立て板に水のように、一切の淀みなく論破していくと、教師の顔色は赤から青、そして白へと目まぐるしく変化していった。

 彼は口をパクパクとさせ、「そ、それは……」と反論の糸口を探しているようだったが、事実として校則の抜け穴を突かれているため、何も言い返すことができない。


「それに、学校教育法第11条に基づく懲戒権の行使には、教育上必要な合理的な理由が求められます。私が安全運転で通学したことが、学校の秩序を乱したという具体的な因果関係を証明できますか?」

「あ、う……」

「もしこれ以上、根拠のない言いがかりで私の鍵を没収しようとするなら、強要罪、あるいは窃盗未遂として警察に相談させていただきますが、よろしいですか?」


 完全に息の根を止める最後の一撃。

 教師は、ぐうの音も出なくなり、完全にフリーズしてしまった。周囲で見物していた生徒たちからは、「すげえ……」「論破したぞ……」というどよめきが漏れ聞こえてくる。


「……純玲。ちょっと、大人げないよ」


 私の背後で、雫が呆れたように私の袖を引っ張った。


「大人はどっちよ。論理的な反論ができないなら、最初から頭ごなしに怒鳴るべきじゃないわ」


 私は小さく肩をすくめ、呆然と立ち尽くす教師を横目に、鞄を持って歩き出した。

 雫も「先生、ごめんなさい」と小さく頭を下げてから、慌てて私の後を追ってくる。


「……ねえ、純玲。これから毎日、あんな風に先生とバトルするの?」

「まさか。あれだけ伝えたら、もう何も言われないでしょう。明日には禁止規則が明示されるでしょうけど、入学時に説明されていないのだから、私たちが従う義理は無いわ」

「……ちょっとだけ高校生活が不安になった」


 雫が、呆れたような笑いをこぼした。


「ええ。でも、登校くらい、一番好きな方法で来たかったのよ」


 私は、春の風が吹き抜ける校庭を歩きながら、校舎を見上げた。

 窓ガラスが朝日に反射してキラキラと輝いている。

 これから始まるのは、血の匂いも、命のやり取りもない、ただの普通の高校生活だ。

 理不尽な教師に怒られたり、小テストの点数で一喜一憂したり、お昼ご飯のメニューで迷ったりする、ありふれた日々。


 それが、私にとってはどれほど特別で、愛おしい時間になるか。


「さあ、行きましょうか、雫。私たちの、初めての授業よ」

「うん」


 私たちは、並んで校舎のエントランスへと足を踏み入れた。

 新しい教室、新しい机。

 過去の呪縛はもうない。私の前には、真っ白なノートのように、何でも書き込める新しい日常が待っているのだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━


 教室に入り、自分の席を確認する。

 窓際の、後ろから二番目の席。隣には、少しだけ緊張した面持ちの雫が座っていた。

 真新しい黒板、まだ誰も座ったことのない硬い木の椅子、そして、教室に漂うどこかぎこちない空気。

 これが、『普通の学校』という空間なのだ。


 ホームルームが始まり、担任の教師が自己紹介を行った。

 その後、体育館での入学式を終え、教室に戻ると、進学校ということもあってか、初日からさっそく授業が開始された。


 最初の授業は、数学だった。

 黒板の前に立った初老の教師が、チョークの音を響かせながら、二次関数とグラフの基礎について解説を始める。

 私は、配られた真新しい教科書をパラパラとめくり、最初の数ページを視覚データとして脳にスキャンした。


「……」


 私は、小さく息を吐き出し、頬杖をついた。

 退屈だ。

 本当に、驚くほど退屈だった。


 教科書の記述を読めば、その数式が意味する物理的挙動は十秒で完璧に理解できる。

 それなのに、黒板の前の教師は、誰もが理解できるであろうその基礎的な概念を、まるで難解な暗号を解き明かすかのように、ゆっくりと、何度も言葉を反芻しながら、数十分の時間をかけて解説しているのだ。

 さらに、時折生徒をランダムに指名し、「この公式の意味は?」などと、教科書を読めばすぐに答えられるような無駄な質問を投げかけ、授業の進行を意図的に遅延させている。


 これが、一般の教育システムというものなのか。

 個人の理解度や演算速度を完全に無視し、最も処理能力の低い個体にペースを合わせる、極めて非効率的な集団学習のプロトコル。

 施設にいた頃、私が独学で大学レベルの物理学や情報工学の専門書を読み漁っていたスピードに比べれば、この授業はまるで、亀の歩みのように遅く感じられた。


(……眠い)


 窓から差し込む春の柔らかな日差しが、私の身体をぽかぽかと温める。

 昨夜、蓮が作ってくれた完璧な栄養バランスの朝食と、バイクで風を切った心地よい疲労感が相まって、私の副交感神経が優位に働き始めた。

 私は、頬杖をついたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 教師の単調な声が、遠くの子守唄のように聞こえてくる。


「……早乙女。おい、早乙女純玲!」


 不意に、チョークが黒板を叩く鋭い音と共に、私の名前が呼ばれた。

 私は静かに目を開け、黒板の方へと視線を向けた。

 先ほどまで単調な解説を続けていた教師が、露骨に不快そうな顔をして私を睨みつけている。

 入学初日の、しかも最初の授業で居眠りをしている生徒など、彼にとっては許しがたい『エラー』なのだろう。


「随分と余裕そうだが、私の授業は退屈かね?」


 教師が、皮肉めいた声で教室中に響くように言った。

 クラスメイトたちの視線が一斉に私に集まる。隣の雫が、心配そうに私の服の袖を少しだけ引っ張った。


「ええ、少し」


 私が素直に、何の悪気もなく答えると、教室が水を打ったように静まり返った。

 教師の顔が、怒りでピクリと引き攣る。


「……そうか。ならば、この問題の解き方を、皆の前で説明してもらおうか」


 教師は、黒板に書かれていた基礎的な二次関数の問題の横に、明らかに高校1年生の最初の授業で扱うレベルを超えた、複雑な応用問題を書き殴った。

 おそらく、後の方の章で扱うはずの、微積分を用いた証明問題だ。私に恥をかかせて、教師としての威厳を保とうというのだろう。


「黒板の前に出てきなさい」

「いえ、ここで口頭で説明するだけで十分だと思います」


 私は席から立ち上がり、黒板の数式を一度だけ一瞥した。

 そして、一切の淀みなく、その問題の完璧な解答と、導出プロセスを言葉にし始めた。


「まず、与えられた関数 f(x)$を x について微分し、導関数 f'(x)を求めます。極値を持つ条件から f'(x) = 0 となる xの値を算出し、その前後での符号の変化から極大値と極小値を判定します。……答えは、極大値が x = aの時 y = b、極小値が x = c の時 y = d です」


 私が淡々と正解を告げると、教師は目を見開いたまま、持っていたチョークを取り落としそうになった。


「な……正解だ。だが、今の説明だけでは……」

「もちろん、それだけではこの数式の本質的な美しさは伝わりませんよね」


 私は小さく微笑み、さらに言葉を続けた。


「今私が使用した微分の概念は、17世紀にニュートンとライプニッツが確立したものです。この数式は単なるグラフの形状を示すだけでなく、現実世界における物体の運動——例えば、放物線を描いて飛ぶ物体の最高到達点や、空気抵抗を考慮した落下速度の変化を正確に予測するために不可欠な道具です」

「……」

「さらに応用すれば、この極値の計算は、経済学における利益の最大化や、工学における構造物の強度設計、ひいてはAIの機械学習における損失関数の最小化プロセスの根幹技術にも直結しています。……先生が今黒板に書かれた数式は、現代のデジタル社会を支える最も重要なアルゴリズムの一つだと言えますね」


 私が一息に説明を終えると、教室は完全に沈黙に包まれた。

 教師は、口をパクパクと開閉させるだけで、一言も言葉を発することができなかった。

 生徒たちからは、「……マジかよ」「すげえ……」「何言ってるか全然わかんなかったけど、ヤバい……」という、感嘆と畏怖の混じったざわめきが漏れ聞こえてくる。


「……以上です。座ってもよろしいですか?」

「あ、あぁ……よかろう」


 教師が力なく頷くのを確認し、私は席に座った。

 隣の雫が、「ピュア、やりすぎ」と小声で呆れながらも、どこか誇らしげに笑ってくれた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 その日の放課後。

 私が席を立とうとすると、私の机の周りは、あっという間にクラスメイト——特に男子生徒たちによって人だかりができていた。


「おい、早乙女さん! さっきの数学のやつ、マジですげえな! 天才じゃん!」

「ていうか、朝バイクで来てたの見たぜ! 赤いスポーツバイク、めっちゃカッコよかった!」

「なあ、早乙女さん、帰りに一緒に駅前まで行かない? 美味しいクレープ屋があるんだけど!」

「バイクの後ろ、乗せて欲しい!」


 次から次へと飛んでくる、称賛と誘いの言葉。

 彼らの視線は、私の顔やスタイル、そして朝のバイク通学という非日常的な要素に対する、純粋な好奇心と好意で満ちていた。

 以前の私なら、この騒がしい群がりを『不要なノイズ』として一蹴し、冷たい視線で物理的に排除していただろう。


 でも、今の私は違う。

 彼らが向けてくれる好意は、アリスや蓮が私にくれたものと同じ、人間としての温かい感情の出力なのだ。無下にあしらうのは、私がせっかく手に入れた人間らしさを否定することになる。


「ありがとう。でも、ごめんなさい」


 私は、彼ら一人一人にしっかりと目を向け、丁寧な言葉で断りを入れた。


「クレープの誘いは魅力的だけれど、今日は先約があるの。一緒に帰る約束をしている人がいるから」


 私は、隣でカバンを整理している雫の方を見た。


「それに、バイクの後ろに乗りたいという提案も遠慮しておくわ。ちゃんと訓練してないと、振り落とされるわよ」

「そ、そっか……」

「……俺たち、完全に出遅れたな……」


 私の明確な、しかし棘のない拒絶の言葉に、男子生徒たちは次々と肩を落とし、見事に撃沈していった。

 彼らが去った後、雫が「……モテモテだね」と、クスクスと笑いながらカバンを持ち上げた。


「私はただ、事実を伝えただけよ。それに、クラスメートとの時間も大事にしたいけど、一番大切なのは、あなたたちと一緒に過ごす時間だもの」

「……うん」


 雫は嬉しそうに微笑み、私の隣に並んで歩き出した。


 教室を出て、春の夕暮れが差し込む廊下を歩く。

 窓の外からは、運動部の活気ある声や、吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。

 これが、私の手に入れた『普通の日常』。

 血の匂いも、命のやり取りもない、穏やかで退屈で、けれど限りなく愛おしい日々。


「さあ、帰りましょうか、雫。蓮が、今日の夕食はハンバーグにするって言っていたわ」

「うん。楽しみ」


 私たちは、並んで昇降口へと向かった。


 駐輪場に停めてあったCBR400Rのエンジンをかけると、小気味良い二気筒の排気音が夕暮れの空気に溶けていった。

 私はヘルメットのシールドを下ろし、後ろに跨った雫が私の腰にしっかりと腕を回したのを確認してから、ゆっくりとクラッチを繋いだ。


 学校を出て、茜色に染まり始めた東京の街を走り抜ける。

 春の夕暮れは少しだけ肌寒いが、制服のブラウス越しに感じる風は心地よかった。満員電車の息苦しさとは無縁の、この自由な疾走感。自分の操作一つで景色が後ろへと飛んでいく感覚は、やはり私にとって何よりの気分転換になる。

 信号待ちで止まるたび、隣に並んだ車の窓ガラスに、赤いバイクに二人乗りしている私たちの姿が映る。普通の高校生としての日常。にしてはあまりにも非日常の光景だが、かつての私には想像もできなかった、穏やかな放課後の風景だ。


 だが、その平穏な空気は、しばらくして微かな違和感によって破られることになった。


「……」


 私は、ヘルメットの中でわずかに視線を動かし、左のサイドミラーを確認した。

 三つ前の交差点を曲がったあたりから、一台の黒いセダンが、私たちのバイクと一定の距離を保ちながら付かず離れずで追随してきている。

 一般車両なら、車線変更や信号のタイミングで自然と距離が開いたり縮まったりするものだ。しかし、そのセダンの運転手は、前の車を盾にしながら絶妙なブラインドスポットを維持し、意図的に私たちの軌跡をトレースしている。


「……雫。後ろの黒いセダン、気づいてる?」


 私がインカム越しに小声で尋ねると、背中に密着している雫から「……うん」と短い返事が返ってきた。


「素人じゃないね。車間距離の取り方が、完全に追跡のそれだ」

「ええ。また神宮寺の残党かしら。しぶといわね」


 私は小さくため息をついた。

 アドたちと協力して神宮寺誠一郎を討ち、『エデン計画』の主要な施設を物理的に粉砕してから、もう随分と経つ。組織の頭を潰したことで、薬物で支配されていた私兵たちの大部分は統制を失い、自滅するか警察に捕まるかして消え去った。

 それでも、まだ完全に根絶やしにできたわけではない。神宮寺の遺産や復讐を目論む残党が、いまだに月一回くらいのペースで、こうして私たちの日常を脅かそうと湧いてくるのだ。


「……どうする? ピュア」

「街中でドンパチやるわけにはいかないわ。一般人を巻き込むし、私たちも目立ちすぎるもの」


 私はアクセルを少しだけ開け、車の流れを縫うようにして車線変更を繰り返した。

 セダンもまた、周囲の車を強引にすり抜けながらしっかりと食らいついてくる。どうやら、ただの尾行ではなく、隙あらばこちらを車体ごと撥ね飛ばそうとしているらしい。


「迎撃するわ。少し遠回りになるけれど、湾岸エリアの大きな橋へ向かうわよ。あそこなら人目も少ないし、処理も簡単だわ」

「……わかった。準備しておく」


 私はギアを落とし、幹線道路から海沿いのバイパスへとルートを変更した。

 交通量が減り、周囲の建物が工業用の倉庫やコンテナヤードへと変わっていく。オレンジ色に輝いていた太陽はすでに水平線の向こうへ沈みかけ、空は深い群青色に染まり始めていた。


 前方に、海を跨ぐ長大な橋が見えてきた。

 夕方のラッシュを過ぎた時間帯で、橋の上には私たちのバイクと、後ろを追ってくる黒いセダン以外、走っている車両はいない。


「……雫、行くわよ。タイミングを合わせるから、右の後輪を狙って」

「……うん、任せて」


 私は橋の中央付近に差し掛かったところで、スロットルを大きく開け、一気に時速100キロ近くまで加速した。

 後ろのセダンも、ここが勝負所と踏んだのか、エンジンを唸らせて猛烈な勢いで距離を詰めてくる。

 ミラーに映るセダンのフロントグリルが、みるみるうちに大きくなっていく。


「……今よ!」


 私が叫んだ瞬間、背後の雫が流れるような動作で上半身を反転させた。

 彼女の手には、いつの間にかサプレッサーを装着した黒塗りのハンドガンが握られていた。

 時速100キロで走行するバイクの上。強烈な横風が吹く橋の上という最悪の射撃環境。だが、クォーツと呼ばれた彼女の射撃精度は、環境のノイズなどに影響されるほど柔なものではない。


 パシュッ!


 風の音にかき消されるような、くぐもった銃声。

 放たれた一発の弾丸は、迫り来るセダンの右前輪のタイヤを、寸分の狂いもなく撃ち抜いた。


「うぉぉっ!?」


 運転手の驚愕の声が聞こえた気がした。

 バーストしたタイヤがゴムの破片を撒き散らし、セダンは一瞬にしてコントロールを失った。激しく蛇行しながら、車体は右へ左へと大きく振れ、やがてタイヤがアスファルトと摩擦して激しい白煙を上げる。

 そのまま、セダンは橋の歩道部分へと乗り上げ、重厚な鉄の欄干を突き破った。


 ガシャァァァンッ!!


 凄まじい金属の破砕音が響き渡る。

 セダンは空中に放り出され、そのまま真っ逆さまに暗い海面へと落下していった。

 数秒後、ドドォォォンッ! という巨大な水柱が上がり、車体はあっという間に冷たい海の中へと沈んでいった。


「……命中。処理完了」


 雫が銃を素早く鞄の中にしまい込み、再び私の腰に腕を回した。


「ナイスサポートよ、雫」


 私は速度を緩めることなく、橋を渡りきった。

 バックミラーには、欄干の壊れた橋と、静けさを取り戻した海面だけが映っている。車に乗っていた人間がどうなったかはわからない。だが、あの高さから海に叩きつけられた程度では死なないだろう。


「まったく、せっかくの入学初日なのに、寄り道させられちゃったわね」

「……うん。でも、ちょっとスッキリしたかも」


 雫が背中でクスクスと笑う。

 私も、ヘルメットの中で小さく息を吐いて微笑んだ。

 普通の女子高生なら、車に追跡され、銃を撃ち、車を海に落とすなんて大事件にパニックを起こすだろう。でも、私たちにとっては、これもまた『日常』の一部に過ぎない。

 命を狙われるのは不快だが、こうして隣に頼れる仲間がいて、自分たちの力で脅威を排除できるという事実は、私に奇妙な安心感を与えてくれた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 すっかり日が落ちた頃、私たちはタワーマンションの地下駐車場に到着した。

 バイクを所定の位置に停め、ヘルメットを脱いでエレベーターに乗り込む。

 最上階で降り、玄関の扉を開けると、白と黒で統一された静かなリビングが私たちを出迎えてくれた。


「ただいま」

「……ただいま」


 誰もいない部屋に向かって、習慣のように言葉をこぼす。

 私はブレザーを脱いでソファに掛け、すぐにスマートフォンの暗号化アプリを立ち上げた。


「ご飯の前に、アドに連絡しておかないとね」


 コール音は数回で途切れ、アドの少し掠れた声が聞こえてきた。


『……おう、ピュアか。入学式はどうだった? ちゃんと友達はできそうか?』


 裏社会の元締めらしからぬ、まるで保護者のような呑気な第一声に、私は思わず苦笑した。


「友達づくりはこれからよ。それより、帰り道に少し厄介なゴミを散らかしてしまったの」

『ゴミ? ……ああ、また神宮寺の残党か』


 アドの声が、一瞬で仕事のトーンへと切り替わる。


「ええ。湾岸の大きな橋の上で、しつこく追ってきたセダンを雫に撃ってもらったわ。車ごと海にダイブしていったから、引き上げられるまでに少し時間がかかると思うけれど……警察の処理と、監視カメラの映像の差し替えをお願いできるかしら」

『わかった。シンの部隊と連携して、事故として処理させるように根回ししておく。お前らは怪我はないんだろうな?』

「もちろんよ。私たちの制服を汚すほど、優秀な追手じゃなかったわ」

『……ったく。お前ら、高校生になった初日からドンパチやりやがって。だがまあ、楽しそうで何よりだ』


 アドが電話の向こうで、深くため息をつく音が聞こえた。


「向こうから寄ってきたんだから仕方ないじゃない。私たちだって、平和に帰りたかったのよ」

『はいはい、わかったよ。お前らが無事ならそれでいい。……俺たちも警戒レベルは下げてねえ。何かあったらすぐに連絡しろよ』

「ええ、ありがとう。頼りにしてるわ」


 通話を切り、私はスマートフォンをテーブルに置いた。

 アドがいる限り、私たちが法的なトラブルに巻き込まれる心配はない。彼は本当に、私たちにとって最も頼りになる後見人だ。


「……お腹、すいたね」


 ソファに座っていた雫が、お腹をさすりながらぽつりと呟いた。


「そうね。今日は色々とカロリーを消費したわ。……蓮の帰りが遅いわね」


 時計を見ると、すでに中学生の帰宅時間を少し過ぎていた。

 彼も今日が新しい学校の初日だ。部活の見学でもしているのか、それとも新しい友達と話し込んでいるのか。


 ——ガチャリ。


 その時、玄関の扉が開く音がした。


「ただいま帰りました……っ」


 少しだけ疲れたような、でもどこか弾んだ声と共に、蓮がリビングに姿を現した。

 真新しい黒の学ランは少し着崩れていて、カバンを肩にだらんと下げている。


「おかえりなさい、蓮。遅かったわね」

「あ、すみません! クラスのみんなと少し話してたら、楽しくなっちゃって……」


 蓮は照れくさそうに頭を掻きながら、靴を脱いで上がってきた。

 彼が同年代の友達と笑い合っている姿を想像すると、私の心も自然と温かくなる。彼が妹のためだけでなく、自分自身の人生を楽しめるようになっていることが、何よりも嬉しかった。


「中学校はどうだった? ちゃんと自己紹介はできたの?」

「はい! 最初は緊張しましたけど、隣の席のヤツが気さくに話しかけてくれて。……あ、それより!」


 蓮は、疲れているはずなのに、カバンを置くやいなや、急いでエプロンを引っ張り出して首にかけた。


「お腹すきましたよね? 今日の夕飯は、約束通り俺の特製ハンバーグですから! すぐに作りますから、座って待っててください!」


 彼はそう言うと、手を洗ってキッチンに立ち、手際よく冷蔵庫から食材を取り出し始めた。

 玉ねぎをみじん切りにする軽快な包丁の音。ひき肉をこねるリズミカルな音。

 フライパンに火が入り、ジュージューという音と共に、お肉の焼ける香ばしい匂いがリビングいっぱいに広がっていく。


「……いい匂い」


 雫が、目を輝かせてキッチンの様子を眺めている。


「ええ。彼の料理の腕は、日を追うごとに洗練されていくわね。火加減も、香辛料のバランスも、私の味覚データを完全に掌握しているわ」


 私が少しだけ理屈っぽく褒めると、キッチンから蓮が「ピュアさん、またそういう言い方するー!」と笑いながら抗議してきた。


「ピュアさんじゃないわ。純玲よ」

「あ、そうでした。純玲さん、ですね」


 彼がエプロン姿で振り返り、少しだけ照れくさそうに笑う。

 その笑顔を見て、私はソファに深く背中を預けた。

 外の世界には、まだ私たちの命を狙う敵がいる。過去の罪が消えることもない。

 でも、ここには、私が守りたいと願い、私を大切に想ってくれる家族がいる。

 温かいご飯の匂いと、他愛のない会話。


 アリス。

 あなたが残してくれたこの世界は、今日もとても優しくて、温かいわ。

 私は、キッチンでハンバーグを焼く蓮と、それを楽しみに待つ雫の姿を見つめながら、静かに、そして幸せな気持ちで目を閉じた。

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