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第四話「管理者の悔恨」

 モニターの操縦するクルーザーは、本州の隠し港へ向けて、灰色の海を滑るように進んでいた。

 キャビンの中では、これまでの極度な疲労と安堵からか、アドが深い寝息を立てて眠りこけている。彼がこんなに無防備な姿を晒すのは珍しいことだったけれど、今は少しでも休ませてあげたかった。


 私たちはアドを起こさないように、そっとキャビンを抜け出し、後部のウッドデッキへと出ていた。

 冷たい潮風が頬を撫でるけれど、感覚の戻った今の私には、それがとても心地よかった。


「純玲さん、クォーツさん、ロータス君。どうせ到着までまだ時間がありますし、暇でしょう? 楽しいですよ、これ」


 操舵室から顔を出したモニターが、私たちに釣り竿を三本差し出してきた。

 彼が趣味で使っていた道具らしい。リールや仕掛けがすでにセットされている。


「釣り……ですか? 俺、やったことないんですけど」

「私も、ない」

「大丈夫です、餌の付け方や落とし方は教えますから。海の上での息抜きには最適ですよ」


 モニターの優しい提案に、私たちは顔を見合わせて頷き、三人並んでデッキの手すりから海へと糸を垂らすことになった。

 これからの生活のことや、自分たちが普通の日常に戻れるのかという不安から少しでも気を紛らわせるには、ちょうどいい気分転換だった。


 ……けれど、現実は私の予想を遥かに超えて、理不尽な結果を叩き出していた。


「あ、また引いた! すごい、今度はちょっと大きいかも!」


 隣で蓮が嬉しそうに声を上げ、リールを巻き上げる。水しぶきと共に、銀色に光る魚が甲板に跳ねた。


「わぁ……蓮、すごい。……あ、私にも来た」


 クォーツも、小さな手で器用に竿を操り、立て続けに二匹目の魚を釣り上げた。彼女はバケツの中で跳ねる魚を見て、少しだけ口角を上げて楽しそうにしている。

 二人は、モニターから教わった通りの見よう見まねで、次々と魚を釣り上げていた。


 対して、私は。


「……どうして釣れないのよ」


 私は、ピクリとも動かない自分の竿の先端を睨みつけ、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 私のバケツの中は、見事なまでに空っぽだ。ただの一匹も釣れていない。


「おかしいわ。モニターに聞いた魚の回遊層タナの深さ、海流の速度、そして疑似餌の動きを一番本物の小魚に近づけるためのロッドの振り方……すべて物理的に完璧に計算して実行しているはずなのに。どうして私の針にだけ食いつかないの?」

「あはは、ピュアさん、魚は計算式通りには動いてくれませんよ。もっとこう、適当に糸を揺らすというか……」

「適当なんてダメよ! 生物学的な習性に基づいた最適なアプローチがあるはずでしょう! もう一度、水温と潮流のデータを……」


 私がムキになって海面を睨みつけながら理屈をこねていると、蓮が耐えきれなくなったように吹き出した。


「ぷっ……あははははっ! ピュアさん、必死すぎますって!」

「……ふふっ。ピュア、お魚に嫌われてる」

「なっ……! 笑わないでよ! 次は絶対に釣ってみせるから!」


 私が少し声を荒げて怒ると、蓮もクォーツもさらにお腹を抱えて笑い出した。

 今まで、戦闘でも情報処理でも完璧を貫き、どんな時も冷静に最適解を導き出してきた私が、たかが魚釣りにこれほどまでに翻弄され、ムキになっている。

 その珍しい姿が、彼らにはたまらなく面白かったのだろう。


「もう……本当に、腹が立つわね」


 私はぷいっと顔を背けながらも、自分自身の口元が緩んでしまっていることに気がついていた。

 計算通りにいかないこと。自分の思い通りにならないこと。

 昔の私なら、それを不快な「エラー」として即座に切り捨てていただろう。でも今は、こうして彼らに笑われながら、どうすれば釣れるのかと試行錯誤しているこの時間が、たまらなく愛おしくて、楽しかった。

 感情を殺していた頃には絶対に味わえなかった、普通の人間らしい、温かい時間。


 ずっとこんな時間が続けばいいのに。

 そう思っていた、その時だった。


「……皆さん、すぐに糸を上げてください。船を出します」


 操舵室から、モニターが血相を変えてデッキに飛び出してきた。

 彼の声は、先ほどまでの穏やかなものとは打って変わり、極限の緊張を孕んでいた。


「モニター? どうしたの、急に」


 私が竿を置きながら尋ねると、モニターは双眼鏡を手に、船の遥か後方の水平線を睨みつけていた。


「……水平線上に、船影があります。最初は偶然同じ航路を進んでいるだけかと思いましたが……先ほどから、ずっとこちらの速度に合わせて、付かず離れずの距離を保ってついてきているんです」

「え……?」


 蓮が顔を青ざめさせ、クォーツも釣れた魚の入ったバケツから手を離した。

 私の胸の奥に、冷たい嫌な気配がスッと広がっていく。


「レーダーには映っていませんでした。おそらく、小型で高速な偽装船です。一般の漁船やクルーザーが、こんな天候の悪い海域で、あんな不自然な航行をするはずがありません」


 モニターの言葉に、私はキャビンで眠っているアドの姿を思い浮かべた。

 神宮寺は死んだ。だが、彼が作り上げた『エデン計画』の残党や、私たちをテロリストとして追う同業者の組織「八咫烏」など、私たちを狙う敵はまだ無数に存在している。

 神宮寺の頭を潰したからといって、私たちの安全が保障されたわけでは決してなかったのだ。


「……少し荒っぽい操縦になりますが、早めに移動します。しっかり捕まっていてください」


 モニターが操舵室へと駆け戻り、クルーザーのエンジンがけたたましい轟音を上げた。

 船体が大きく跳ね、先ほどまでの穏やかな航行が嘘のように、波を激しく叩き割りながら猛スピードで加速し始める。


「ピュアさん、中に入りましょう!」


 蓮が私の腕を引き、クォーツと共にキャビンへと滑り込む。

 さっきまでの、温かくて楽しかった日常の空気は、一瞬にして吹き飛んでしまった。

 

 ドォンッ!!


 クルーザーの船底が激しく波に打ち付けられ、キャビンの中が大きく揺れた。

 その暴力的な振動とエンジンの咆哮に、ソファで仮眠を取っていたアドが弾かれたように飛び起きた。


「……なんだ!? 敵か!?」


 アドは一瞬で状況を把握し、腰のホルスターに手をやりながら立ち上がった。


「アドさん! 後ろから不審な船が追ってきています!」


 蓮が叫ぶと同時に、操舵室からモニターが顔を出した。

 彼の手には双眼鏡が握られており、その表情には深い焦燥が浮かんでいた。


「……やはり、偶然ではありません。こちらの加速に合わせて、向こうも明らかに速度を上げて追従してきています。レーダーに映らないよう、小型で高出力のエンジンを積んだ偽装船のようです」

「チッ……! 神宮寺の残党か、それとも『八咫烏』の連中か。どこで足がついたんだ……」


 アドは忌々しげに舌打ちをし、窓の外の暗い海を睨みつけた。


「海の上で逃げ回るのは下策だ。障害物が何もないからな、向こうが重火器でも積んでいれば一発で沈められる。……だが、港に着いたとしても、待ち伏せされている可能性が高いな」


 アドの言葉に、私の背筋にも冷たいものが走った。

 敵が私たちを追跡しているということは、私たちの目的地である隠し港の座標もすでに割れていると考えるべきだ。港に着いた瞬間、完全武装の私兵たちに包囲される危険性がある。


「港を突破できたとしても、その後の移動手段がモーターホームでは……あの巨体じゃ、逃げ回るのは物理的に不可能よ。格好の的になるわ」


 私が冷静に、しかし絶望的な計算結果を口にすると、キャビンの空気はさらに重く沈み込んだ。

 海でも陸でも、逃げ場がない。

 私たちの圧倒的な戦力不足と機動力のなさが、ここに来て致命的なエラーとなって立ち塞がった。


「……あの、アドさん、ピュアさん」


 重い沈黙を破ったのは、蓮だった。

 彼は少しだけ震える声で、しかし確かな希望を込めて口を開いた。


「俺……念のためと思って、モーターホームのお腹のガレージに、ピュアさんのポルシェを積んでおいたんです」

「……え?」


 私とアドは、同時に目を丸くして蓮を見た。

 あの漆黒のポルシェ。私が外界で初めて自分の意志で選び、アリスが買ってくれた、最高峰の機動力を持つスポーツカー。


「アリスさんたちを運ぶための医療機器の電源を確保する時に、少しでも容量を空けようか迷ったんですけど……いざという時の脱出艇になるってアドさんが言ってたのを思い出して。……あのポルシェなら、陸地でも敵を振り切って逃げられるんじゃないかと思って」


 蓮の言葉を聞き、アドの顔にパッと獰猛な笑みが広がった。


「でかしたぞ、ロータス! さすが俺たちのサポーターだ、最高のアシストだぜ!」


 アドは蓮の肩をバンバンと力強く叩き、歓喜の声を上げた。


「ポルシェの加速と機動力があれば、大抵の包囲網は突破できるだろう。……港からモーターホームを隠してある場所までが勝負だ。そこまで何としても辿り着き、ポルシェに乗り換えて機動力を確保する。それが最優先事項だ!」

「でも、アド」


 私は、すぐさま一つの物理的な問題を指摘した。


「私のポルシェは『2+2』と呼ばれる構造よ。運転席と助手席、それに荷物置き程度の非常に狭い後部座席が二つしかないわ。私たちは今、五人いる。どうやって全員乗るつもり?」


 私の問いに、アドは少しだけ言葉を詰まらせた。

 確かに、大人五人があの狭いスポーツカーに乗り込むのは、物理的に極めて困難だ。


「……私は、この船に残ります」


 操舵室から、モニターが静かに告げた。


「私が船の自動操縦を解除し、マニュアルで敵船に突っ込むようなフェイントをかけます。その隙に、皆さんは港へ接岸し、陸路へ逃げてください。……私は囮になります」

「ダメよ!」


 私は、思わず声を荒げていた。

 自分でも驚くほどの、強い感情の出力。


「誰も犠牲にしないって、そう決めたでしょう! あなたを置いていくなんて、絶対に許さないわ!」


 私の言葉に、モニターは少しだけ悲しそうに、けれど優しく微笑んだ。


「純玲さん……」

「ピュアの言う通りだ、おっさん」


 アドも、強い口調でモニターの提案を却下した。


「俺の辞書に『見捨てる』って言葉はもうねえ。五人全員で生き残るんだよ。……ポルシェの定員オーバーくらい、気合でどうにかする」


 アドは、キャビンの隅にいたクォーツに視線を向けた。


「クォーツ。お前、かなり小柄だな」

「……うん」

「助手席に俺かモニターが座って、その膝の上にお前が乗る。後部座席に残り二人を押し込めば、なんとか五人乗れるはずだ」


 アドの無茶苦茶な提案に、私は思わず呆れたようにため息をついた。


「シートベルトも着用できないし、重量バランスが崩れてコーナリング性能が著しく低下するわ。……でも、背に腹は代えられないわね。それでいくしかないわ」

「よし、決まりだ! モニター、船を港へ全速力で突っ込ませろ! 着岸と同時に全員で走るぞ!」

「了解しました!」


 モニターが操舵輪を強く握りしめ、クルーザーのエンジンが限界まで唸りを上げる。

 窓の外では、雨足がさらに強くなり、灰色の海が私たちを飲み込もうと荒れ狂っていた。

 雨と風が吹き荒れるクルーザーの後部デッキで、私は潮水に濡れるのも構わず、M24 SWSスナイパーライフルを構えていた。


「ピュアさん! 無理ですよ、こんな揺れじゃ!」


 キャビンから顔を出した蓮が、大声で叫ぶ。

 確かに、全速力で波を叩き割りながら進むクルーザーの上は、狙撃環境としては最悪どころの騒ぎではなかった。上下左右にデタラメに暴れる足場、吹き付ける強烈な海風、視界を遮る雨粒。

 遠くの水平線上には、私たちを追尾してくる黒い偽装船のシルエットが豆粒のように見えている。


「無理じゃないわ! 波のピッチングの周期と、風速の変動をリアルタイムで演算して、弾道のブレを予測すれば……!」


 私はスコープのレティクルを敵船に合わせ、息を止めて引き金を引いた。


 ——ダァァンッ!!


 放たれた銃弾は、敵船の遥か右上の虚空を虚しく切り裂き、海にポチャリと落ちた。


「……っ、風のベクトルが急に変わったのよ!」

「いや、ピュアさん、絶対無理ですって! 波の高さ3メートル超えてますよ!?」

「私の計算式に不可能はないわ! もう一発!」


 私はムキになってボルトを引き、次弾を装填して再びトリガーを引いた。

 だが、今度は船が大きく波に乗り上げたせいで、銃口が跳ね上がり、弾丸は明後日の方向へと飛んでいった。


「ああっ、もう! なによこの不規則な振動は! エンジンの回転数と波の波長が干渉して、計算式がぐちゃぐちゃじゃないの!」


 私はライフルを抱えたまま、甲板で地団駄を踏んだ。釣りのこともあってか、かなり苛立っていることに自分でも驚いた。

 感情を持たない機械だった頃なら、こんな無駄な弾薬の消費は絶対にやらなかっただろう。苛立つなんて感情の昂りはもっとあり得なかった。でも今の私は、自分の演算能力が自然の暴力に負けていることが、悔しくて悔しくてたまらなかった。


「ピュア、貸して」


 横からひょっこりと顔を出したクォーツが、私からライフルを受け取ろうとする。


「クォーツ? あなた、スナイパーライフルなんて撃てるの?」

「……うん。適当に撃てば、当たるかも」


 彼女はライフルの構え方もそこそこに、スコープすらまともに覗かず、ポンッと軽い感じで引き金を引いた。

 ——ダァンッ!

 弾丸は敵船のかなり近くの海面を跳ねたが、もちろん当たるわけがない。


「ほら、やっぱり無理じゃない! 適当に撃って当たるわけないでしょ!」

「……惜しかった」

「惜しくないわよ! 全然見当違いの方向だったわ!」


 私たちが甲板でギャーギャーと騒いでいると、操舵室からモニターの呆れたような声がスピーカー越しに聞こえてきた。


『お嬢さん方、弾の無駄遣いはおやめください。……それに、どうやら向こうから近づいてきてくれるようですよ』


 モニターの言葉にハッとして水平線を見ると、追跡してきていた偽装船が、私たちのクルーザーが港に近づいて速度を緩めたのを見て、一気に距離を詰めてきているのがわかった。


「……バカね。あんな直線的に近づいてきたら、的が大きくなるだけじゃない」


 私はクォーツからライフルを取り返し、再びバイポッドを立てて構えた。

 今度は距離が近い。船の揺れを加味しても、十分に狙える範囲だ。


「……今よ!」


 私は、敵船の舳先が波を割って持ち上がった瞬間、その船底付近にある機関部——エンジンルームの熱源を狙ってトリガーを引き絞った。


 ——ダァァァンッ!!


 今度の銃弾は、見事に敵船の機関部を覆う外装を貫き、内部のエンジンブロックに直撃した。

 ボフッ! という間の抜けた破裂音が聞こえたかと思うと、敵船の後部からモクモクと黒い煙が上がり始めた。


「よしっ! 命中よ!」

「やりましたね、ピュアさん!」


 蓮がキャビンから身を乗り出して拍手喝采する。

 煙を上げた敵船は徐々に速度を落とし、やがて完全に海の上で停止してしまった。甲板の上で、黒服の男たちが慌てふためいて右往左往しているのがスコープ越しに見える。


「ふふっ、ざまあみなさい。海の上で漂流でもしていればいいわ」


 私は満足げに鼻を鳴らし、ライフルをギターケースにしまった。

 神宮寺の優秀な私兵かと思ったが、どうやら船の操縦に関しては素人同然の有象無象だったらしい。少しだけ張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。


「……油断するなよ、お前ら」


 キャビンの入り口で、アドが自動拳銃のチャンバーを確認しながら、険しい顔で外へ出てきた。


「海上の追手はポンコツだったが、港には確実に待ち伏せがいる。……ほら、お出迎えだぜ」


 アドが顎でしゃくった先。

 私たちのクルーザーが接岸しようとしている寂れた漁港の岸壁には、すでに十数人の黒服の男たちが、ずらりと横一列に並んで待ち構えていた。

 彼らの手には、鉄パイプや拳銃、サブマシンガンなどが物騒に握られている。


「うわぁ……いかにも『待ち伏せしてます』って感じですね……」


 蓮が顔を引き攣らせる。

 確かに、隠れる気すらゼロの、マフィア映画の三下エキストラのような分かりやすい陣形だ。神宮寺の洗練された強化兵とは明らかに質が違う。


「……神宮寺がいなくなるだけで、こうも粗雑な復讐を仕掛けるなんて。大層な薬を作っていた割には人間の方がついていけてないわね。統制が全く取れていないわ」


 私が冷静に分析すると、アドはニヤリと笑った。


「数は多いが、烏合の衆だ。モニター、強引に接岸しろ! 着岸と同時に蹴散らす!」

『了解しました! 皆さん、衝撃に備えて!』


 モニターの操るクルーザーは、減速することなく岸壁へと突っ込み、最後に強引に舵を切って船体を横付けにした。

 ガァァンッ!! と船体が岸壁の古タイヤに激しくぶつかる。


「あの方の仇だ!!!ぶっ殺せェッ!!」


 岸壁のチンピラどもが、一斉に奇声を上げて銃を構えようとした。

 だが、彼らがトリガーを引くよりも早く、私たちの反撃が開始された。


「クォーツ! 行くぞ!」

「……うん」


 アドとクォーツが、接岸の衝撃を利用してデッキから岸壁へと軽やかに飛び移った。

 アドは両手の大型拳銃を構え、まるでダンスを踊るような滑らかな動きで、敵の武器を持つ手を的確に撃ち抜いていく。

 バンッ! バンッ!

「ぎゃあっ!?」

「俺の腕がァッ!」


 クォーツも無表情のまま、二丁拳銃から流れるような連射を浴びせる。彼女は私の教えを守っているのか、急所は避け、敵の膝や肩関節だけをピンポイントで粉砕していた。


「な、なんだこいつら!? 強えぇっ!」

「ひぃぃっ! 話が違うじゃねえか!」


 さっきまでの威勢はどこへやら、チンピラどもは次々と悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。

 さらに、操舵室から飛び出してきたモニターが、カーディガンの袖をまくり上げながら敵陣のど真ん中へと突っ込んでいく。


「下がっていなさい、もうあなた方に人は殺させない」


 モニターは、信じられないほどの素早い身のこなしで敵の懐に飛び込み、CQC(近接格闘)の技術で次々と敵を関節技で投げ飛ばし、気絶させていく。

 その流れるような制圧劇は、普段の温厚な初老の男からは想像もつかないほどスタイリッシュだった。


「も、モニターさん、強っ……!」


 甲板に残された蓮が、目を丸くして感嘆の声を上げる。

 私も、彼の見事な体術には少しだけ感心してしまった。


「ぼさっとしてる暇はないわよ、蓮。私たちも援護するわ」

「は、はいっ!」


 蓮は腰からグロック19を抜き、岸壁へと飛び降りた。

 彼は、逃げ遅れてアドたちの死角から銃を構えようとしていた男たちに向け、震える手で引き金を引いた。


 ダァンッ! ダァンッ!


「痛ってぇ!! 俺の足ィッ!!」


 蓮の放った弾丸は、見事に敵の太ももを貫き、その場に崩れ落ちさせた。

 彼は人を殺すことができない。だから、ひたすらに相手の機動力を奪うための「足撃ち」に特化していた。


「……私も、行かなきゃ」


 私は、ギターケースを甲板に置いたまま、コートのポケットの中で自分の手を強く握りしめた。

 人を撃つのが怖い。相手が痛みで悶え苦しむ姿を見るのが、恐ろしい。

 でも、ここで私が立ち止まれば、アドたちが背中を撃たれるかもしれない。


「……ピュア、動けるなら、これを使え」


 不意に、岸壁からアドが私に向かって、予備の拳銃を放り投げてよこした。

 私はそれを見事にキャッチし、アドを見た。


「お前はもう、無理に急所を狙う必要はねえ。ロータスと同じように、足止めだけしてくれれば十分だ!」


 アドの言葉に、私の心がスッと軽くなるのを感じた。

 そうだ。殺さなくてもいい。相手から武器を取り上げ、動けなくするだけでいいのだ。

 それなら、私にもできる。


「……ええ、わかったわ」


 私は拳銃のセーフティを外し、岸壁へと飛び降りた。

 足の裏から伝わるアスファルトの感触。感覚が戻った恩恵で、私の体幹バランスは完璧に機能している。

 私は、隠れようとしていた敵の一人の足元に向かって、躊躇いなくトリガーを引いた。


 パシュッ!


「ぐわぁっ!」

 男が足を撃たれて転倒し、持っていた鉄パイプを落とす。

 痛みに悶える姿に、胸の奥がチクリと痛んだが、私はすぐに視線を外し、次のターゲットへと銃口を向けた。


「これなら……私にもできるわ」


 私は、かつての冷徹な殺人機械としてではなく、仲間を守るための一人の人間として、初めて自分の意志で『殺さないための引き金』を引き続けた。


 ものの数分で、港にいた数十人のチンピラどもは、全員が床に転がって呻き声を上げるだけの状態になっていた。

 死者はゼロ。私たちも無傷だ。


「よし、片付いたな! 全員、走れ! モーターホームを隠してある場所まで一気に行くぞ!」


 アドの号令で、私たちは港を抜け、すぐそばの鬱蒼とした森の中へと駆け込んだ。

 雨でぬかるんだ斜面を登り、木々をかき分けて進む。

 息が切れるが、誰も足を止めることはなかった。


「見えました! あの奥です!」


 蓮が指差した先、巨大な杉の木の裏側に、偽装ネットに覆われた巨大なモーターホームの姿が確認できた。


「よくやった、ロータス。……さて、ここからが本番だ」


 アドがモーターホームの側面に備え付けられた隠しパネルを開き、暗証番号を打ち込む。

 ウィーン、という重低音と共に、モーターホームの腹部——セントラルガレージのハッチがゆっくりと開き始めた。

 中には、私の漆黒のポルシェが、いつでも飛び出せる状態で静かに鎮座している。


「さあ、乗り換えるわよ」


 私がポルシェの運転席のドアを開けると、アドも助手席のドアに手をかけた。

 続いて、後部座席——というか、もはや座席と呼ぶにはあまりにもお粗末な、荷物置き場のようなスペースに、モニターと蓮が身体を折り畳むようにして潜り込む。


「ちょっと! 狭っ! モニターさん、膝が俺の脇腹に刺さってます!」

「す、すみませんロータス君。私の足の長さではこれが限界でして……ぐふっ」


 後部座席で二人の大人の男が、まるでパズルゲームのピースのように無理やり押し込まれ、悲鳴を上げている。

 そして、助手席。


「さあクォーツ、俺の膝の上に乗れ」

「……うん」


 アドが助手席にドカッと腰を下ろし、その上にクォーツがちょこんと座る。

 クォーツは小柄とはいえ、一人の人間だ。アドの巨体と相まって、助手席のスペースは完全に飽和状態になっていた。クォーツの頭が天井にぶつかりそうになっている。


「……狭い」

「我慢しろ。俺だって息苦しいんだよ!」


 アドが文句を言いながら、なんとかドアを閉める。

 車内は、大の大人三人と、それなりに身長のある私、そしてクォーツという五人の人間で、文字通りぎゅうぎゅう詰めになっていた。

 ポルシェの洗練された車内空間が、ただの満員電車と化している。


「おいピュア! なんでお前、もっと実用的なセダンとかSUVを買わなかったんだよ! こんな窮屈な車で逃げ回れるか!」


 アドが、クォーツの頭越しに文句を喚き散らす。


「私がこの車を買った時は、まさか大の男たちがこんな風に無理やり乗り込む事態になるなんて、計算式に入っていなかったのよ。それに、この車の機動力と加速性能は、逃走用としては最高峰だわ」


 私は、冷徹に反論しながらエンジンをかけた。

 ズォォォンッ! という水平対向6気筒エンジンの咆哮が、森の中に響き渡る。


「文句を言っている暇があったら、舌を噛まないように気をつけることね。行くわよ!」


 私はアクセルを深く踏み込んだ。

 泥だらけの林道を、漆黒のポルシェが凄まじい加速で駆け抜けていく。

 サスペンションが硬いため、悪路の振動がダイレクトに車内に伝わり、後部座席からは「ひぃぃっ!」「ぐはっ!」という蓮とモニターの情けない声が絶え間なく聞こえてくる。


「スピード落とせバカ! クォーツの頭がフロントガラスにぶつかるだろうが!」

「アドがクォーツをしっかり押さえていればいいだけの話よ。私に運転の指示をしないでちょうだい!」


 ギャーギャーと騒ぎながらも、私たちはなんとか林道を抜け、舗装された県道へと出た。

 そこから一気に加速し、高速道路のインターチェンジを目指す。

 ポルシェの圧倒的な馬力が、重い車体をものともせずにスピードメーターの針を跳ね上げていく。


「よし、このまま高速に乗れば……って、おい、後ろ!」


 アドがバックミラーを見て叫んだ。

 私もルームミラーを確認する。

 私たちの車の後ろに、赤色灯を回し、サイレンを鳴らしながら猛スピードで追従してくる白いバイクの姿があった。

 白バイだ。


「……警察? スピード違反かしら」

「こんなタイミングで捕まってたまるか! 振り切れ、ピュア!」

「無理よ。これ以上加速すれば、後部座席の二人が遠心力でぺしゃんこに潰れるわ」


 私が冷静に計算結果を伝えると、アドは「クソッ!」と舌打ちをした。


「仕方ねえ。……クォーツ、ちょっとどけ!」


 アドはクォーツを無理やり助手席と自分の間に押し込み、パワーウィンドウのスイッチを押して窓を全開にした。

 凄まじい風切り音が車内に吹き込む中、アドは窓から顔と上半身を半分身を乗り出した。


「おいコラァッ!!」


 アドが、後方の白バイに向かって、腹の底から怒鳴り声を上げた。


「警視庁の神谷ってやつに繋げ!! 『天秤』って言や分かるから、早くしろ!!」


 その怒号は、サイレンの音をかき消すほどのすさまじい声量だった。

 白バイの隊員は、突然高級スポーツカーの窓から巨漢の男が身を乗り出して叫び始めたことに驚いたのか、一瞬だけバイクをふらつかせた。

 そして、ヘルメットのインカムでどこかへ通信を入れ始めたようだった。


 数秒間、白バイは一定の距離を保ったまま追随してきていたが……やがて、赤色灯がスッと消え、サイレンの音も鳴り止んだ。

 そして、白バイはゆっくりと速度を落とし、Uターンして反対方向へと走り去っていった。


「……はぁ。危ねえところだった」


 アドが窓を閉め、ドカッと助手席に座り直す。

 クォーツが「……アド、重い」と小さく文句を言っている。


「上層部とのパイプ、まだちゃんと生きていたのね」


 私が感心して言うと、アドは得意げに鼻を鳴らした。


「当然だ。俺が築き上げたネットワークを舐めるなよ。神宮寺の野郎が死んで混乱してる今、警察もどっちにつくべきか慎重になってるはずだ。俺たちの名を出せば、下っ端の警官は手出しできねえ」

「さすがですね、アドさん。でも、次からはもう少しスマートにお願いします……俺、本当に吐きそうです……」


 後部座席で、蓮が青ざめた顔で窓ガラスにもたれかかっている。

 モニターも「私も……少し、胃が……」と苦しげに呻いていた。


 「文句を言うな! 生きて帰れただけでも御の字だろ!」


 アドの豪快な笑い声が、狭い車内に響き渡る。

 私は、ルームミラー越しに彼らの様子を見ながら、小さく息を吐いて微笑んだ。


「さあ、ここからが本番よ。本州の高速道路網に入るわ」


 私はアクセルをさらに踏み込み、ポルシェを高速道路の入り口へと向けた。

 ETCレーンが視界に入る。

 通常のドライバーなら、バーの手前で時速20キロ以下に減速する場面だ。だが、私の演算回路は、ETCの通信速度とバーの開閉速度を完全に計算し切っていた。


「ちょっと待てピュア! 減速しろ! バーにぶつかるぞ!!」


 アドが血相を変えて叫ぶ。

 だが私は、ブレーキに一切足を乗せることなく、時速120キロを維持したままETCレーンへと突っ込んだ。


 ピピッ。

 無機質な電子音と共に、バーがギリギリのタイミングで跳ね上がる。

 ポルシェの低い車体は、バーの下を弾丸のように潜り抜け、そのまま本線へと合流した。


「……うおぉぉっ!!」


 後部座席で、蓮とモニターが同時に悲鳴を上げた。

 アドは、助手席のグリップを白くなるほど強く握りしめ、大きく息を吐き出していた。


「……お前、マジでイカれてるな。ETCゲートって、こんな爆速でも開くのかよ……」

「ETCの無線通信規格(DSRC)の処理速度は約ミリ秒よ。車の速度が時速150キロを超えなければ、論理的にはバーの開閉は間に合うわ。スリルを味わうのも、たまには良い気分転換になるでしょ?」


 私が涼しい顔で答えると、アドは「俺の寿命が縮むわ!」と悪態をついた。


 深夜の高速道路を、漆黒のポルシェは獲物を狙う黒豹のように、一般車両の間を縫うようにして爆速で駆け抜けていく。

 感覚が戻った私の身体は、路面の微細な凹凸やタイヤのグリップ力を正確に感じ取り、車と完全に一体化していた。


 だが、その快適なドライブは、長くは続かなかった。


「……ピュアさん。後ろから、不審な車両が複数、急接近してきています」


 後部座席で、モニターが小さな声で報告してきた。

 ルームミラーを確認すると、ヘッドライトを消した真っ黒なセダンやSUVが、私たちのポルシェを追うようにして、次々と後方の車線を埋め尽くし始めていた。


「途中のインターチェンジから乗ってきたのね。……神宮寺の私兵というよりは、さっきの港にいたような、他の組織のチンピラどもかしら」

「チッ、どいつもこいつも、俺たちの首を獲って名を上げようって腹か。鬱陶しいハエどもめ」


 アドが窓を開けようとした、その時だった。


「……私が、やる」


 助手席でアドの膝の上に座っていたクォーツが、スッと二丁のハンドガンを抜いた。


「おい、クォーツ! お前、どうするつもりだ!?」

「……ちょっと、どいて」


 クォーツは、なんとアドの顔の上に自分のお尻を乗せるような形で、狭い助手席の窓枠に足をかけ、上半身を完全に車外へと乗り出したのだ。


「ぐふっ!? お、おいバカ! 息が……ッ! お前の尻で前が見えねえ!!」


 アドがくぐもった声で喚き散らすが、クォーツは完全に無視して、夜の高速道路の暴風の中、後方から迫る追跡車両に銃口を向けた。


 パンッ! パンッ! パンッ!!


 クォーツの放った銃弾は、時速150キロで走る車の上からでも、寸分の狂いもなく追跡車両のタイヤを撃ち抜いていく。


「うわぁぁっ!?」

「タイヤが!!」


 バーストしたタイヤに足元をすくわれ、黒いセダンやSUVが次々とスピンし、ガードレールに激突したり、後続車と玉突き事故を起こしたりして、派手な火花を散らしながら後方へと消えていった。


「……1台、2台……よし、次」


 クォーツは無表情のまま、次々と現れる敵車両のタイヤを冷静にパンクさせていく。

 彼女の射撃精度は、まさに芸術的だった。


「お、おいクォーツ! もういいだろ! 早く戻れ! 俺の首が折れる!!」

「……あと、3台」

「アドさん、我慢してください! クォーツさん、頑張れー!」


 後部座席の蓮が、無責任に声援を送る。

 結局、クォーツが10台近い追跡車両をすべて撃破するまで、アドは彼女のお尻の下で身悶え続ける羽目になった。


「……ふぅ。終わった」


 クォーツが満足げに車内に戻ってくると、アドは「ゼェ……ハァ……」と息も絶え絶えになって助手席に沈み込んでいた。


「お前ら……俺を、ただのクッションか何かだと思ってねえか……?」

「アド、柔らかくて座り心地よかったよ」

「褒めてねえ!!」


 車内が、久しぶりに明るい笑い声に包まれた。


 それから数時間。

 追手が来る気配はなく、私たちは距離にして300キロ近くを走破していた。

 空は白み始め、夜明けの光が高速道路を照らし始めている。


「……さすがに、もう追ってこないわね。一度、サービスエリアで休憩しましょう」


 私は、ポルシェを大型のサービスエリアへと滑り込ませ、端の目立たない駐車スペースに車を停めた。

 エンジンを切ると、車内に「ふぅぅぅっ」という、全員の安堵の深呼吸が響き渡った。


「やっと……やっと足が伸ばせる……!」


 蓮が、後部座席の狭い空間から這い出すようにして外へ飛び出した。

 モニターも「腰が……固まってしまいました」と苦笑いしながら、ゆっくりと車を降りる。

 アドもクォーツを退かせて、大きな身体を窮屈そうに伸ばしながら外へ出た。


 早朝のサービスエリアには、長距離トラックの運転手や、旅行客の姿がちらほらと見えた。

 彼らは、二人乗りの狭いスポーツカーから、大の大人三人と少女二人が、まるで手品のようにぞろぞろと降りてくる光景を見て、目を丸くして面白そうに眺めていた。


「……なんだか、見世物になっているみたいね」


 私が苦笑すると、アドは「気にするな」と大きく背伸びをした。


「生きてりゃ、こんな滑稽なこともあるさ。……とりあえず、腹ごしらえでもするか。ロータス、何か適当に買ってこい」

「ええっ、俺ですか!? 俺、今足がプルプルしてて……」

「文句を言うな。サポーターの仕事だろ」


 アドの容赦ない指示に、蓮は「はいはい」と渋々サービスエリアの売店へと向かっていった。

 私は、その背中を見送りながら、大きく伸びをした。

 冷たい朝の空気が、徹夜のドライブで疲れた頭をすっきりとさせてくれる。


「……それにしても」


 アドが、自販機で買ったホットコーヒーをすすりながら、少しだけ呆れたように息を吐いた。


「神宮寺の野郎を殺しても、残党どもがもっと計画的に、組織立って襲ってくるかと思ってたが……蓋を開けてみりゃ、ただの烏合の衆だったな」

「ええ。薬物で恐怖を麻痺させている分、思考能力も低下しているみたいね。本能のままに突っ込んでくるだけの、ただの暴徒と化しているわ」


 私が分析すると、アドは「まあ、こっちとしてはありがてえ話だがな」と肩をすくめた。


「薬漬けにされた連中は、思ったよりおつむが弱いらしい。これなら、俺たち『天秤』の残ったメンバーだけでも、少し時間はかかるが確実に処理していけるだろうよ。……お前らが心配するようなことじゃねえ」


 アドの言葉に、私は少しだけホッとした。

 神宮寺の残した負の遺産は、確かに巨大だ。でも、アドたちならきっと、被害を最小限に食い止めてくれるはずだ。


 程なくして、両手いっぱいにホットドッグや肉まん、温かいお茶を抱えた蓮が戻ってきた。


「お待たせしました! 色々買ってきましたよ!」

「おう、ご苦労」


 アドが肉まんを受け取り、豪快にかぶりつく。

 私も、蓮から手渡されたホットコーヒーとサンドイッチを受け取った。


「ありがとう、蓮。……でも」


 私は、サンドイッチの包みを開けながら、少しだけ不安そうに呟いた。


「これだけ派手に追手が来るってことは、私や蓮も、すぐには表の世界の『普通の生活』には溶け込めなさそうね」


 学校に通う。友達を作る。

 そんな普通の幸せを願ってみたけれど、現実問題として、いつどこで神宮寺の残党や、他の殺し屋組織に狙われるかわからない状況では、周りの人間を巻き込むリスクが高すぎる。


「そうですね……。俺も、妹のところへすぐに行けるかと思ってたんですけど……まだ少し、時間がかかりそうです」


 蓮も、ホットドッグを見つめながら寂しそうに肩を落とした。

 そんな私たちを見て、アドはコーヒーをグイッと飲み干し、口の周りを拭った。


「……何言ってやがる。そんなチンピラどもの脅威くらいで、お前らの人生を立ち止まらせてたまるかよ」


 アドは、真剣な顔で私たちを見据えた。


「俺が言っただろ。お前らの新しい戸籍と生活基盤は、俺とモニターで完璧に整えてやるって。……追手が来るなら、来ればいい。自分の身を守るため、大切な仲間を守るための行動なら、俺がこれまで通り、法律の壁から守ってやる」


 アドの言葉は、裏社会の元締めとしての、絶対的な自信と頼もしさに満ちていた。


「組織は抜けても、お前らが俺たちの仲間であることに変わりはねえ。道を間違えねえ限りは、俺がずっと、お前らの背中を守ってやるから安心しろ」

「アド……」


 私は、彼のその真っ直ぐな言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 彼は本当に、お節介で、不器用で、どこまでも優しい人だ。


 アドは、私が港での戦闘の際に彼から借りていた、予備の拳銃を私に差し出した。


「ほら、これを持っとけ」

「……いいの?」

「ああ。護身用だ」


 アドは、銃のグリップを私に向け、あの時——私が施設を脱走し、初めて彼に出会い、『ピュア』という名前を与えられた時と全く同じように、鋭い視線で私を射抜いた。


「こいつはお前と、クォーツや蓮、仲間を守るためのものだ。……それ以外には使うなよ。できるか?」


 その言葉を聞いて、私は思わず小さく笑ってしまった。


「……ふふっ。アドったら、あの時と同じセリフね」

「あ?」

「でも、安心して」


 私は、彼の目を見つめ返し、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って、その銃を受け取った。


「私はもう、変わったのよ。あの時みたいに、あなたに銃を向けて殺そうとするような真似は、二度としないわ」


 私がそう言うと、アドは少しだけ目を見張り、それから、ふっ、と優しく笑った。


「……違えねえ。お前はもう、ただの冷たい機械じゃないからな」

「ええ。ありがとう、アド。……この銃は、私のお守りとして大切にするわ」


 私は、受け取った銃をコートのポケットにしまい、サンドイッチを一口かじった。

 冷たい朝の空気の中で食べる、少し冷めたサンドイッチ。

 でも、それがとても美味しく感じられた。


「よし、食ったら出発だ! 目指すは俺のセーフハウスだ。これからのことをゆっくり話し合おうぜ!」


 アドの号令で、私たちは再びポルシェへと乗り込んだ。

 ぎゅうぎゅう詰めの車内。文句を言い合う声。

 でも、その狭くて騒がしい空間こそが、今の私にとって一番安心できる、大切な『居場所』だった。


 車がサービスエリアを出発し、朝日が昇るハイウェイを走り出す。

 私の心は、不安よりも、これからの未来への小さな希望で満たされていた。

 アリスがいない喪失感は、まだ胸の奥で痛んでいる。

 でも、彼女が命を懸けて守ってくれたこの温かい世界で、私は、仲間たちと一緒に生きていく。


 それが、私が人間として見つけた、たった一つの『最適解』なのだから。

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