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第三話「共感を乗り越えて」

 無慈悲にも、決戦の日はやってきた。

 私たちの準備が万端であったかと言われれば、いくら時間をかけても足りないくらいだ。けれど、時間は待ってくれない。


 私たちは、脱出後の足となるモーターホームを、モニターがクルーザーで三宅島から戻ってくる予定の、本州の寂れた港の近くの森の中に隠すように駐車した。

 そこから東京の竹芝桟橋までは、モニターが手配した地味なワンボックスカーで移動した。車内は重苦しい沈黙に包まれていた。それぞれが、これから始まる作戦の重圧を噛み締めているのだ。


 夜の竹芝桟橋は、冷たい海風と、小雨が降る生憎の天気だった。

 私たち——私、アド、クォーツ、そして蓮の4人は、目立たないように地味なコートや帽子で身を包み、一般の乗客に紛れてフェリーターミナルへと足を踏み入れた。


 蓮のハッキングは完璧だった。

 偽名のチケットで無事にゲートを通過し、顔認証システムも全く反応しなかった。

 私たちは、巨大な夜行客船『さるびあ丸』のタラップを登り、割り当てられた二等客室へと滑り込んだ。


「……とりあえず、第一関門は突破だな」


 アドが、狭い客室の中で帽子を取り、低く息を吐き出した。


「出航まであと十分。プラントの近くを通過するのは、約一時間半後だ」

「ええ。風速は秒速8メートル、北北東から。雨の影響で視界は最悪だけど、レーダーと私の演算で補正するわ」


 私は、ギターケースに偽装したスナイパーライフルをそっと床に置き、自分の震える手をコートのポケットの中に隠した。


「ピュアさん……大丈夫ですか?」


 蓮が、私の様子に気づき、心配そうに声をかけてくる。

 私は、無理に口角を上げて笑ってみせた。


「ええ。完璧よ。私の計算式に、エラーはないわ」


 ボーーーッ、という重低音の汽笛が鳴り響き、巨大な客船がゆっくりと岸壁から離れていく。

 窓の外には、雨に滲む東京の夜景が遠ざかっていく。


 出航から一時間が経過した頃、アドが短く指示を出した。


「行くぞ。ロータス、予定通り甲板へのアクセスを遮断しろ」

「了解です。……船の制御システムに侵入、甲板への電子ロックをすべて強制的に施錠します。これで、一般客も乗組員も、作戦終了まで甲板には出られません」


 蓮がキーボードを叩き終えると、私とクォーツは立ち上がった。

 ギターケースを背負い、客室を出る。

 アドと蓮は、この客室から通信で私をナビゲートし、非常時のバックアップを行う。


「ピュア、クォーツ。頼んだぞ」

「ええ。行ってくるわ」


 私たちは、誰もいない船内の通路を抜け、甲板へと通じる重い鉄の扉の前に立った。

 蓮が遠隔でロックを解除してくれているおかげで、扉はスムーズに開いた。


 外に出た瞬間、強烈な海風と雨粒が私たちの身体を打ち据えた。

 船は東京湾の暗い海を突き進んでいる。周囲には漆黒の闇が広がり、遠くに街の明かりが微かに瞬いているだけだ。

 私は甲板の端、船影に隠れるようにしてバイポッドを展開し、スナイパーライフルを構えた。

 クォーツは私のすぐ隣に伏せ、双眼鏡で周囲の警戒に当たっている。


「……ピュア、大丈夫。深呼吸して」


 風の音に負けないように、クォーツが私の耳元で囁いた。


「私が、ずっと隣にいるから。……アリスの敵、一緒に討とう」

「……ええ。ありがとう、クォーツ」


 私は、冷たいスコープに左目を押し当てた。

 インカムから、蓮の緊迫した声が聞こえてくる。


『ピュアさん、目標の海上プラントまであと3キロ。……神宮寺の姿、確認しました! プラントの最上階、ガラス張りのVIPルームらしき部屋にいます。周囲には海外のバイヤーと思われる人物が数名、護衛が十数人です』

「視認したわ」


 スコープの十字レティクルの先に、海上に浮かぶ巨大な要塞が浮かび上がる。

 そして、その最上階の明るい部屋の中。

 黒いバイザーで顔の上半分を覆い、バイヤーたちに何やら誇らしげに語りかけている男——神宮寺誠一郎の姿が、はっきりと捉えられた。


『距離2.5キロ。風速、秒速9メートルに上昇。船の揺れと弾道落下を計算し、照準の補正データを送ります』


 蓮のナビゲートに従い、私はライフルのダイヤルを微調整する。

 私の脳内でも、猛烈な速度で物理演算が実行されていた。

 船のピッチングとローリング。標的との距離。風の影響。

 すべてが完璧に合致する、ほんの一瞬のタイミング。


「……計算完了。いつでもいけるわ」


 私はトリガーガードの外側に指を置き、呼吸を整えた。

 あと数秒で、船はプラントの真横を通過する。そこが、唯一の射撃ポイントである


 私は、スコープの十字を神宮寺の頭部に固定した。

 このまま指を振り抜き、トリガーを引くだけ。そうすれば、あの男の頭蓋骨は砕け散り、私たちの復讐は終わる。アリスやタイガーの無念も、少しは晴れるはずだ。

 ……なのに。


 いざ撃鉄を落とそうとした瞬間、私の右腕が、ガタガタと小刻みに震え始めた。


『撃てないだろう? ピュア』


 不意に、脳裏にあの地下ラボでの神宮寺の嘲笑う声が蘇った。

 メスで肉を裂かれる音。銃弾が骨を砕く生々しい感触。右目を潰された時の、あの宇宙が反転するような絶対的な激痛。

 私が今、この引き金を引けば、あの男も同じように肉体が破壊される。頭蓋骨が砕け、脳髄が飛び散り、命が強制的に停止する。

 それがどれほど恐ろしく、惨たらしいことか、痛みを知ってしまった今の私には、痛いほどに理解できてしまうのだ。


 相手は、私たちからすべてを奪った張本人だ。絶対に許してはならない男だ。

 頭ではわかっている。でも、人を壊すことへの根源的な恐怖と、他者の痛みに対する過剰な共感が、私の指を硬直させていた。


「……っ、あ……」


 息が詰まる。スコープの中の神宮寺の姿が、雨と私の涙で滲んでいく。

 船の揺れに合わせて、レティクルが標的から外れそうになる。

 撃たなきゃ。私が撃たなきゃいけないのに。指が、動かない。


「……ピュア、大丈夫」


 その時、隣に伏せていたクォーツが、私の震える右手に、自分の小さな手をそっと重ねてくれた。


「ピュアなら、できるよ。……私が、ついてるから。アリスの敵、一緒に討とう」


 クォーツの体温が、雨で冷え切った私の手に伝わってくる。

 彼女の言葉は、強張っていた私の心にスッと入り込んできた。

 そうだ。私は一人じゃない。私一人でこの痛みを背負う必要なんてない。クォーツが、アドが、蓮が、そしてあのアリスが、私の背中を支えてくれている。

 神宮寺を殺すのは、私自身の復讐のためだけじゃない。アリスのような被害者を二度と生まないため。私たちの、これからの世界を守るためだ。


「……ええ。ありがとう、クォーツ」


 私は、震えを無理やり飲み込み、深く、静かに息を吐き出した。

 涙を瞬きで散らし、再び左目をスコープに押し当てる。

 クォーツの手が添えられた私の右手は、もう震えていなかった。


 船が、プラントの最も近くを通過する、その完璧な一瞬。

 風の息継ぎ。波のうねり。船のピッチング。

 すべての不確定要素がピタリと重なり合い、私の演算が『撃て』というただ一つの最適解を弾き出した。


 私は、トリガーガードの外にあった人差し指を、一気にトリガーへと通し、引き絞った。


 ——ダァァァンッ!!


 夜の海に、雷鳴のような銃声が轟いた。

 強烈な反動が私の右肩を打ち据え、鈍い痛みが走る。だが、私はスコープから目を離さなかった。


 放たれた7.62ミリ弾は、雨と海風を切り裂き、2キロ先の空中を一直線に飛翔していく。

 そして。

 スコープの向こう側。明るいVIPルームの中でバイヤーたちに語りかけていた神宮寺誠一郎の頭部が、まるで熟れた果実のように、無惨に弾け飛んだ。


 黒いバイザーごと頭蓋骨が粉砕され、赤い血飛沫と脳漿が、背後のガラス窓をべっとりと染め上げる。

 首から上を失った神宮寺の身体が、一瞬の間を置いて、糸の切れた操り人形のように床へと崩れ落ちていった。


 周囲にいたバイヤーや護衛たちがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う姿が、スコープ越しに確認できた。

 だが、誰一人として、こちら——暗い海の上を動く客船の甲板——に銃を向けてくる者はいなかった。彼らにとって、この距離からの狙撃は完全に想定外であり、反撃のしようがないのだ。


「……標的の、完全な沈黙を確認したわ」


 私は、震える唇で、インカムに向かってそう告げた。

 その瞬間、私の全身から力が抜け、冷たい甲板の床に顔を押し当てて荒い息を吐いた。

 終わった。

 アリスの仇を、私の手で討った。

 人を殺したという重い罪悪感と、成し遂げたという虚脱感が、冷たい雨と一緒に私の身体を濡らしていく。


「ピュア……すごい。本当に、すごいよ」


 クォーツが、私を抱き起こし、雨に濡れた私の顔を優しく拭ってくれた。

 彼女の目にも、涙が浮かんでいた。それは、悲しみではなく、私たちが一つの大きな壁を越えたことへの安堵の涙だった。


『ピュアさん! クォーツさん! やりましたね!!』


 インカムから、蓮の興奮した声が飛び込んでくる。


『こっちのモニターでも、プラント内部の混乱を確認しました! 完全に指揮系統が崩壊してます! 完璧な狙撃です!』

「ええ。……すぐに撤収するわ。長居は無用よ」


 私は、クォーツの助けを借りて立ち上がり、素早くスナイパーライフルを分解してギターケースに収めた。

 足元は少しふらついたが、クォーツがしっかりと私の腰を支えてくれたおかげで、転ぶことなく歩くことができた。


 私たちは、甲板への重い鉄扉を開け、再び船内の温かい通路へと戻った。

 蓮がすぐに電子ロックを復旧させ、私たちが外に出ていた痕跡を完全に消し去る。


 割り当てられた二等客室の扉を開けると、そこには、安堵の表情を浮かべたアドと、パソコンから顔を上げた蓮が待っていた。


「……戻ったわ。作戦は完了よ。神宮寺誠一郎を、物理的に排除したわ」


 私がギターケースを床に置き、静かに報告する。

 アドは、深く息を吐き出し、私の頭に大きな手を乗せて、ポンと軽く叩いた。


「よくやった、ピュア。……クォーツも、サポートご苦労だったな」


 アドのその不器用な労いの言葉に、私はただ無言で俯くことしかできなかった。

 神宮寺を殺した。これで『エデン計画』の頭は潰れた。

 でも、アリスが戻ってくるわけではない。タイガーが生き返るわけでもない。

 事態が好転したように見えても、私の心に空いた穴が塞がることはないのだと、改めて冷酷な現実を突きつけられているようだった。


「……とりあえず、第一段階はクリアだ。明日の朝、三宅島に着くまでは、お前らも少し休め」


 アドはそう言って、私とクォーツに毛布を差し出してくれた。

 私は毛布を受け取り、客室の壁に寄りかかるようにして座り込んだ。クォーツも私の隣にぴったりと寄り添い、静かに目を閉じる。


 船のエンジン音が、単調なリズムで床から伝わってくる。

 私は、アドから渡された粗末な毛布にくるまり、客室の冷たい壁に背中を預けたまま、目を閉じていた。

 隣ではクォーツが私の肩に寄りかかり、静かな寝息を立てている。蓮はパソコンの画面を暗くして机に突っ伏し、アドは腕を組んで目を閉じていたが、彼が本当に眠っているのかはわからなかった。


 神宮寺誠一郎を殺した。

 私の手で、愛するアリスとタイガーの仇を討ち、『エデン計画』の首魁を物理的に排除した。

 その事実は、私の脳内に確かなデータとして記録されている。スコープ越しに見た、弾け飛んだ黒いバイザーと頭蓋骨の映像は、今も網膜の裏側にこびりついて離れない。


 ……けれど、なぜだろう。

 私の胸の奥には、すべてが終わったという安堵感よりも、どことなく冷たくて、粘り気のある不安が渦巻いていた。


 あまりにも、あっけなかった。

 国家の中枢に潜り込み、警察組織すら裏から操り、私たち『天秤』をあそこまで完璧な罠にはめて追い詰めたあの男が。

 たった一発の銃弾で、あんなにあっさりと死ぬものなのだろうか。

 確かに私たちの作戦は、敵の意表を突く奇襲としては完璧だった。でも、あの神宮寺が、海上の要塞のガラス張りの部屋で、外からの射線を無警戒に晒すような真似をするだろうか。

 何か、見落としている気がする。

 彼が死んだことで、本当にすべてが終わったのだろうか。あの未知の薬物で支配された私兵たちや、彼に連なるダミー組織は、どう動くのか。


「……考えても、仕方ないわね」


 私は小さく息を吐き出し、思考のループを断ち切った。

 今はとにかく、脳を休ませなければならない。極限の恐怖とプレッシャーの中で引き金を引いた私の精神は、すでに限界をとうに超えていた。

 私は、クォーツの小さな体温を左半身に感じながら、目を閉じた。

 不安の靄は晴れないままだったけれど、疲労という物理的な重圧には抗えず、やがて私の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 翌朝。

 船内アナウンスの無機質な音声で目を覚ますと、客船はすでに三宅島の錆びついた桟橋へと接岸しようとしていた。


 空は厚い灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな、重苦しい空気を孕んでいる。

 私たちは身支度を整え、一般の乗客たちに紛れてタラップを降りた。

 潮の匂いと、魚の生臭さが入り混じった独特の海風が、私の頬を撫でる。


「……モニターとの合流ポイントは、ここから少し離れた裏手のマリーナだ。目立たねえように行くぞ」


 アドが帽子を深く被り直し、周囲を警戒しながら小声で指示を出す。

 私たちは頷き、観光客のふりをして港を抜け、島外れの入り江へと向かった。

 人気のない海岸沿いの道を歩くこと十数分。波避けのコンクリートブロックの向こうに、小さなマリーナが見えてきた。

 そこに停泊している数隻の船の中で、一隻だけ、明らかに異質な存在感を放っている船があった。


「うわ……あれが、モニターさんの船ですか?」


 蓮が、目を丸くして感嘆の声を漏らした。

 私も、その船を見て少しだけ言葉を失った。

 全長は15メートルを超えているだろうか。流線型の真っ白な船体に、黒いスモークガラスが張られた広いキャビン。後部には広々としたウッドデッキが備え付けられている。

 釣り用のボートなどというチャチなものではない。数億円は下らないであろう、海外製の超高級クルーザーだった。


「……個人所有の船だって聞いていたけれど、いくらなんでも豪華すぎるわね」


 私が呆れたように呟くと、クルーザーのデッキから、見覚えのある初老の男が手を振ってこちらへ降りてきた。

 モニターだ。


「皆さん、ご無事で何よりです」


 モニターは私たちの無事な姿を確認すると、深く安堵の息を吐き出した。


「お疲れ様でした。神宮寺の接待で使わされていた船だと申し上げたでしょう? 彼らが裏の会合を開くための『動く密室』として、会社の経費で買わされていたものです。私名義の登録にしてあるので、足がつく心配はありません」

「にしても、ド派手な船だな。モーターホームといい、お前らは金銭感覚が狂ってやがる」


 アドが苦笑しながら、モニターの肩を軽く叩いた。


「さあ、早く中へ。すぐに出航します」


 モニターに促され、私たちはクルーザーのキャビンへと足を踏み入れた。

 内装は、外観以上に豪奢だった。白い本革のソファが並び、マホガニー材のテーブルが中央に据えられている。ちょっとしたホテルのスイートルームのようだ。


 クォーツと蓮が奥のソファに腰を下ろす中、私はモニターの前に立ち止まった。

 私が銃を撃ったことを、彼は知っている。私のために、この船を用意して待っていてくれた彼に、ちゃんと報告しなければならないと思ったのだ。


「……モニター」


 私が声をかけると、彼は立ち止まり、優しい目で私を見下ろした。


「純玲さん。お疲れ様でしたね」

「……ええ」


 私は、自分の震える両手を、コートのポケットの中でギュッと握りしめた。


「神宮寺を、仕留めたわ。……私の手で、頭を撃ち抜いてやった」

「……そうですか」

「でもね」


 私の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。


「私……すごく、怖かったの。引き金を引く手が、震えて……。あいつの頭が弾け飛ぶのを見た時、私がまた、誰かを壊してしまったんだって……そう思ったら、苦しくて、たまらなくて……っ」


 感情を持たないバケモノだった頃には、決して感じることのなかった罪悪感と、命を奪うことへの根源的な恐怖。

 アリスのためだと言い聞かせても、人を殺したという事実は、私の心を重く、冷たく蝕んでいた。


 私が涙を流してうつむくと、モニターは静かに歩み寄り、ためらうことなく、その大きな両腕で私の身体を強く抱きしめた。


「え……」


 突然の抱擁に、私は目を見開いた。

 彼から伝わってくる、大人の男性の力強い圧力と、厚い胸板の温もり。

 皮膚感覚が戻った私の身体は、その温かさを、1ミリの誤差もなく脳へと伝達してくる。


「……本当によくやりましたね、純玲さん」


 モニターの声は、かすかに震えていた。

 彼の手が、私の背中を優しく、トントンと一定のリズムで叩いてくれる。

 それは、ただの慰めじゃない。彼がかつて失った娘を想うような、そして、私が求めていた『父親』の不器用で温かい抱擁そのものだった。


「あなたがどれほど恐ろしかったか、どれほど辛かったか……私には想像することしかできません。でも、あなたは逃げずに、立派に役目を果たした。……私は、あなたを誇りに思います」

「……っ、あ……ぁぁ……っ」


 モニターのその言葉を聞いた瞬間、私が必死に張り詰めていた心の糸が、完全にぷつりと切れた。

 私は、彼の胸に顔を押し当て、声を上げて泣きじゃくった。


 人を殺してしまった私を、彼は否定しなかった。

 怖いと泣く私を、弱いと責めなかった。

 ただ、よく頑張ったと、私の背負った罪ごと、その温かい腕で包み込んでくれたのだ。


 私が両親に求めても決して得られなかった、無条件の肯定と愛情。

 それを、血の繋がらない彼が、今こうして私に与えてくれている。

 私は、その温もりにすがりつくようにして、彼の上着をギュッと握りしめ、子どものように泣き続けた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 私が泣き止むまで、モニターはずっと背中を撫でてくれていた。

 やがてクルーザーのエンジンが始動し、私たちは三宅島の港を離れ、本州の隠し港へと向けて出航した。

 波を切り裂いて進む船の揺れは、モーターホームの悪路に比べればずっと静かで滑らかだった。


 私は洗面所で冷たい水で顔を洗い、赤く腫れた目を少しだけ冷やしてから、メインキャビンのソファへと戻った。

 そこでは、アド、モニター、蓮、そしてクォーツが、重苦しい顔をしてマホガニーのテーブルを囲んでいた。


「……少しは落ち着いたか、ピュア」


 アドが、手元のタブレットから視線を上げて私に声をかけた。


「ええ。取り乱してごめんなさい。もう大丈夫よ」


 私がクォーツの隣に腰を下ろすと、アドは短く頷き、タブレットの画面をテーブルの中央に置いた。


「さて、神宮寺の野郎の頭を吹き飛ばし、とりあえずの第一段階はクリアしたわけだが……手放しで喜べる状況じゃねえ」


 アドの言葉に、私たちは表情を引き締めた。


「神宮寺が死んだことで、奴が指揮していた『エデン計画』の中枢は間違いなく混乱に陥っているはずだ。だが、奴が作り上げたダミー組織のネットワークや、警察上層部との癒着が、これで完全に消え去るわけじゃねえ」

「ええ。組織というものは、頭をすげ替えれば再び動き出すものよ」


 私が冷静に指摘すると、アドは「その通りだ」と頷いた。


「問題は、神宮寺の死後、誰がその利権と『薬物』の製造ラインを引き継ぐかだ。奴の私兵どもは薬がなければ生きていけない。薬の製造プラントを抑えた奴が、次の王になる」


 アドの言葉に、蓮が青ざめた顔で口を開いた。


「じゃあ……俺たちが神宮寺を倒しても、アリスさんたちを苦しめているあの薬の製造は、止まらないかもしれないってことですか……?」

「その可能性は高い。むしろ、神宮寺という絶対的なストッパーが消えたことで、傘下の組織同士の抗争が激化し、薬物が裏社会に歯止めが効かない形で流出する危険性すらある」


 アドの冷酷な分析が、キャビンの空気を重く沈ませた。


 神宮寺を殺せば、すべてが終わると思っていた。

 でも現実は、そんなに単純な計算式では成り立っていない。私たちが撃ち抜いたのは、巨大なシステムの一部でしかなかったのだ。

 私の胸の中にあった『あっけなさ』への不安は、まさにこのことだった。神宮寺個人の狂気は終わっても、彼が社会にばら撒いた毒は、今もどこかで確実に進行している。


「……それに、俺たち『天秤』の現状も最悪だ」


 アドは、疲れたようにため息を吐いた。


「拠点を失い、レイやファイア、シンたちとは依然として合流の目処が立っていない。ルミナスが内通者である疑いが晴れない以上、安易な通信は命取りになる。……俺たちは今、根無し草のまま、姿の見えない敵の残党と、裏切りのリスクに怯えながら動かなきゃならねえ」

「私たちが次に取るべき行動は、何かしら」


 私が尋ねると、アドは鋭い視線を私に向けた。


「まずは、身を隠すことだ。モニターが手配してくれた本州の隠し港に船をつけ、そこから別の偽装車両で、俺の知る最後の安全地帯へ向かう。……そこで体制を立て直し、散り散りになったメンバーとの合流ポイントを探る」

「それから?」

「それから……神宮寺の残した薬物の製造プラントを、物理的に完全に破壊する。誰の手にも渡らねえように、根こそぎな」


 アドの目には、決して諦めないという強靭な意志が燃えていた。

 アリスのような被害者を、これ以上絶対に出させない。その目的のためなら、私たちはまだ立ち止まるわけにはいかないのだ。


「……わかったわ。私も、最後まで戦う」


 私は、自分の両手を膝の上で固く握りしめた。

 人を殺す恐怖は、まだ私の中にこびりついている。アリスを失った悲しみも、癒えることはない。

 でも、だからこそ、私は逃げない。

 この痛みも、温もりも、すべてを人間として背負いながら、私は私の大切な仲間たちと共に、この血に塗れた世界に決着をつける。


「私も、戦う」

「俺も、やります」


 隣のクォーツと、向かいの蓮も、力強く頷いた。

 私たちの決意は一つだった。これ以上の悲劇を防ぐため、神宮寺の負の遺産を根絶やしにする。


 だが、アドの反応は、私たちの予想を完全に裏切るものだった。


「……いや。お前ら二人は、もう大丈夫だ」


 アドは、深く息を吐き出し、私と蓮を順番に指差した。


「え……?」

「どういう、ことですか?」


 私と蓮が同時に問い返すと、アドは腕を組み、いつもの威圧的な態度を少しだけ緩めて、静かに語り始めた。


「神宮寺誠一郎という男は、国家の権力をバックにし、周到な準備と莫大な資金を持っていた。……正直な話、奴の要塞を崩し、その首を獲るためには、ピュア、お前の異常な演算能力と物理的な破壊力がどうしても必要だった」


 アドは、私の目を真っ直ぐに見据えた。


「だが、頭を失った有象無象の残党どもなら、俺たち『天秤』の残ったメンバーだけでもどうにでもなる。時間はかかるかもしれねえが、確実に一つずつ潰していける。……お前らの力は、もう必要ねえんだよ」


 その言葉は、私と蓮に対する『戦力外通告』だった。

 私は、思わず反発の声を上げた。


「待って、アド! 私はまだ戦えるわ。感覚が戻って、スナイパーとしての精度も上がった。それに、蓮のハッキング技術だって、まだ組織には必要不可欠なはずよ!」

「俺もです! 俺、ピュアさんのサポーターとして、まだやれることはたくさんあります!」


 蓮も身を乗り出して食い下がる。

 だが、アドは首を横に振った。


「ロータス。お前は元々、殺しとは無縁のただの一般人だった。妹を救うために無理をして裏の世界に足を踏み入れたが、これ以上お前を血なまぐさい抗争に巻き込むのは、俺のやり方じゃねえ」


 アドの視線が、今度は私に向けられた。


「そしてピュア。……お前は、人間としての心を取り戻した。痛みを知り、他者を壊すことに恐怖を抱くようになった。それは、人間として正しい成長だ。……だが、殺し屋としては致命的な欠陥だ」


 その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。

 エントランスで銃を向けられた時の震え。神宮寺をスコープに捉えた時の躊躇い。

 私のその『弱さ』は、アドにすべて見透かされていたのだ。


「俺たち『天秤』は、手を血で染めることでしか生きられない不器用な連中の集まりだ。だが、お前らは違う。お前らはまだ、引き返せる場所にいる」


 アドは、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。


「もちろん、組織を抜けた後も、金銭的なバックアップは約束する。戸籍の偽装も維持してやるし、生活に困ったことがあれば、いつでも俺に連絡してこい。……だが、殺しの世界からは、もう足を洗え」

「アド……」

「お前ら、実年齢は11歳と15歳だろ?」


 アドの口から出たその数字に、私たちはハッとした。

 戸籍上は20歳として登録されているが、私たちの本当の時間は、まだそんなにも短いのだ。


「お前らが背負ってきたものは、年齢に釣り合わねえくらい重くて、残酷なものだった。……だから、これからは、年相応の時間を生きてみろ」


 アドは、私と蓮に、不器用で、けれど限りなく温かい笑顔を向けた。


「学校にでも通って、友達を作って、くだらねえことで笑い合え。……普通の人の幸せってやつを、しっかり噛み締めてみろ。それが、お前らがこれから果たすべき、一番重要なタスクだ」


 アドの言葉は、私たちがこの裏社会から抜け出し、光の当たる世界へと歩み出すための、彼なりの最大の愛情とプレゼントだった。


「……っ」


 蓮の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。

 彼はずっと、妹のために自分を犠牲にし、この恐ろしい世界で必死に耐えてきた。その彼に、「もう普通に生きていい」と許しを与えてくれたアドの言葉は、どれほどの救いだっただろうか。


 私は、自分の手を見つめた。

 神宮寺を撃ち抜いたこの手。血に塗れたこの手で、私は『普通の幸せ』を掴むことができるのだろうか。

 アリスが望んでくれた、デートをして、順序を踏んで、誰かと愛し合うような未来。

 私に、そんな資格があるのだろうか。


「……アド。本当に、いいの?」


 私が震える声で尋ねると、アドは「ああ」と力強く頷いた。


「お前らが幸せに笑って生きているって知ることが、俺たちにとっても一番の救いなんだ。……アリスも、きっとそれを望んでる」


 アリスの名前が出た瞬間、私の左目からも涙がこぼれ落ちた。

 そうだ。彼女は、私が人間として生きることを望んでくれた。私が感情を取り戻したことを、誰よりも喜んでくれた。


「……ありがとう、アド」


 私は、深く、深く頭を下げた。


「……まあ、それは本心なんだがな」


 アドは、灰皿にタバコを押し付け、少しだけ自嘲気味に笑った。


「実はな、今回の残党狩りや後片付けが終わったら……俺は、『天秤』という組織自体を解散しようと思ってるんだ」

「解散……?」


 私と蓮が同時に声を上げる。

 『天秤』は、アドが法の裁けない悪を狩るために、私財と人生を投げ打って作り上げた組織だ。それを終わらせるというのか。


「ああ。神宮寺の『エデン計画』を潰せば、俺たちが設立当初に掲げていた目的の大部分は達成される。……それに、何より」


 アドは、重い溜息を吐き、視線を伏せた。


「俺は、リーダー失格だ。お前らみたいな若い連中を戦場に立たせ、アリスやタイガーを死なせてしまった。……これ以上、誰かを俺の復讐や正義に巻き込んで、命を散らすような真似はしたくねえんだ」


 彼の声には、深い悔恨と、取り返しのつかない喪失感が滲んでいた。

 アドはずっと、私たちを守る防波堤であろうとしてくれた。でも、神宮寺という巨大な悪意は、その防波堤を無惨に打ち砕き、彼に重すぎる十字架を背負わせてしまったのだ。


「だから……クォーツ」


 アドが視線を向けると、クォーツはビクッと肩を震わせた。


「お前も、ピュアたちと一緒に組織を抜けたいなら、抜けていいんだぞ」

「……」


 クォーツは、言葉を失い、うつむいたまま小さな両手をギュッと握りしめた。

 彼女にとって、『天秤』はアリスとの繋がりであり、世界との唯一の接点だった。その場所がなくなるということは、彼女にとっては世界から再び弾き出されることを意味する。


「……無理、だよ」


 やがて、クォーツが震える声で絞り出した。


「私……ずっと、殺すことしか、知らない。……学校とかも上手くできなかったし、普通の人の生活なんて、わからない。……今更、表の世界で生きていけるわけない……っ」


 彼女の悲痛な拒絶に、私は胸が締め付けられる思いだった。

 彼女は、コミュニケーションの障害と、言葉の代わりに暴力を選んでしまった過去の呪縛に、今も深く囚われている。


「馬鹿野郎」


 アドが、少しだけ乱暴な、けれど優しい声で言った。


「お前だって、まだ15歳だろうが」

「え……?」


 私は、思わずクォーツの顔をまじまじと見つめてしまった。

 15歳。

 彼女の小柄な体格と、あどけない表情から、私はてっきり彼女を10代前半の、私よりも年下の少女だと思っていた。

 同じ歳。私と同じ、15年という時間しか生きていないのに、彼女はあんなにも無表情で、正確に二丁拳銃を操り、人を殺し続けてきたのだ。


「まだ15年しか生きてねえんだ。やり直せないことなんて、何一つねえよ」


 アドが、クォーツに優しく語りかける。


「お前には、あの時みたいにいきなり殴りかからなくても、ちゃんと向き合ってくれるピュアやロータスがいるじゃねえか。……アリスが教えてくれた温もりを、今度は表の世界で、お前自身が探してみろ」

「……」


 クォーツは、アドの言葉にポロポロと涙をこぼし、それでもまだ、不安そうに首を横に振ろうとしていた。

 私は、彼女の小さな手を、私の感覚の戻った両手でしっかりと握りしめた。


「クォーツ」


 私が名前を呼ぶと、彼女は涙で濡れた大きな瞳で私を見た。


「私も、普通の世界のことなんて何も知らないわ。学校も、友達の作り方も、全部これから手探りで学習していくしかないの」


 私は、彼女に向かって、不器用だけれど、心からの笑顔を作ってみせた。


「一人で不安なら……私と一緒に、やり直しましょう? アリスがいなくても、私がずっと、あなたの隣にいるから」


 私の言葉に、クォーツは目を見開き、それから、私の胸に顔を埋めて、声を上げて泣きじゃくった。

 私は、彼女の細い背中を優しく撫でながら、心の中でアリスに語りかけた。


 (……アリス。私、少しは人間らしくなれたしら。あなたのくれた温もりを、ちゃんと誰かに分け与えられるようになったかしら)


 私たちの、血に塗れた裏社会での日々は、ここで終わりを告げようとしている。

 神宮寺の残党を狩り尽くすというタスクは残っているが、それはもう、私たちが背負うべき重荷ではない。


 これから私たちが進むのは、光の当たる、だけど正解のない、不確かな世界。

 喪失の痛みは、決して消えることはないだろう。

 それでも、私はこの戻ってきた感覚で、彼らと手を繋ぎ、一緒に歩いていくことを選んだのだ。


 私の胸の中で声を上げて泣きじゃくるクォーツの背中を撫でながら、私は静かに目を閉じていた。

 彼女の涙は、これまでの過酷な日々で張り詰めていた糸が切れ、抑え込んでいた感情がようやく決壊した証だった。アドの「普通の人の幸せを噛み締めてみろ」という言葉は、私たちにとってあまりにも眩しく、そして重いものだった。

 けれど。


(……普通の、幸せ?)


 クォーツを慰めながら、私の心の奥底で、冷たく暗い疑念の染みがじわじわと広がり始めていた。

 私は、自分が吐いた「一緒にやり直しましょう」という言葉の響きを、改めて脳内で反芻した。

 やり直す。光の当たる表の世界で、普通の人たちに混ざって、学校に通い、友達を作り、笑い合う。

 それは、アリスが私に望んでくれた未来であり、アドが私に与えようとしてくれている許しだ。

 でも、私に……そんなことを願う資格が、本当にあるのだろうか。


 ふと、私の視覚記憶のアーカイヴが、見たくもない過去の映像をフラッシュバックさせた。

 5歳のあの日。

 薄暗いキッチンの床に広がる、赤黒い血だまり。

 私がこの手で包丁を握り、自分の両親の肉を裂き、命を奪った瞬間の、あの生々しい感触。

 外界に出てからも、私は自分の目的と合理性のためだけに、躊躇なく引き金を引き、数え切れないほどの命を終わらせてきた。

 そして何より……アリス。私の最も愛した、私の太陽。彼女の細い首に手をかけ、その命の灯火を自らの手で消し去ったのは、他でもない私自身なのだ。


 私の手は、血に塗れている。

 どれだけ綺麗に洗っても、どれだけ感覚が戻って温もりを感じられるようになっても、私が奪ってきた命の重さと罪の痕跡は、決して消えることはない。

 そんな血みどろのバケモノが、普通の女の子の顔をして、のうのうと表の世界で幸せになっていいはずがない。


(それに、アド……)


 私は、隅で静かにタバコをふかしているアドの姿を、薄く開いた左目で見つめた。

 彼は、私を拾い、私の暴力を正しい方向へ導いてくれた。私が感情を取り戻すまで見守り、『天秤』という居場所を与えてくれた恩人だ。

 その彼が今、組織を解散し、自分がすべての責任と重荷を背負い込んで、私たちを逃がそうとしている。彼一人に後始末を押し付けて、私だけが安全な場所で「普通の幸せ」を享受するなんて、あまりにも虫が良すぎるんじゃないか?

 私が彼に報いる方法は、最後まで彼と共に血の泥濘を這いずり回り、戦い続けることではないのか。


「……っ」


 私の呼吸が、浅く、不規則に乱れ始めた。

 頭の中で、相反する思考が激しくぶつかり合う。

 生きたい。アリスが望んでくれたように、笑って生きたい。クォーツや蓮と一緒に、人間としての温かい時間を過ごしたい。

 でも、許されない。親を殺し、友を殺し、奪うことしかしてこなかった私に、そんな未来はふさわしくない。私は永遠に暗闇の中で、罪の報いを受け続けるべき存在なのだ。


 矛盾。葛藤。自己嫌悪。

 かつて私を狂わせた、あの処理しきれない感情の濁流が、再び私の脳内を侵食し始めた。


(違う……私は、ダメなのよ。私みたいな欠陥品が、光の当たる場所に行っちゃいけない。……誰かを不幸にするだけ。また、誰かを壊してしまうかもしれない……!)


 大量のエラーコードが、頭蓋骨の裏側にビッシリと張り付いていく。

 視界が明滅し、耳の奥で不快なノイズが鳴り響く。

 怖い。自分が許されることが、怖い。

 私はクォーツを抱きしめる手に力を込めすぎないように必死に耐えながら、目をきつく閉じ、心の底の暗闇へと沈み込んでいった。


 ——その時だった。


『……いいんだよ、純玲』


 深い、深い精神の海の底。

 エラーとノイズが渦巻く暗闇の中で、ふわりと温かい光が差し込んだ。

 それは、私が受け入れ、完全に統合したはずの『5歳の私』の声だった。

 彼女は、血だまりのキッチンの記憶の中で泣いているのではなく、どこか穏やかな顔をして、私の心の中に立っていた。


『私たちがしたことは、絶対に消えないよ。パパとママを壊しちゃったことも、たくさんの命を奪ったことも、ずっと、ずっと背負っていかなきゃいけない重たい石みたいなものだよね』


 彼女の小さな手が、私の胸の奥の痛みをそっと撫でるように触れた気がした。


『でもね。だからって、暗いところに隠れて、もう何もしないって諦めちゃうのは、違うと思うの』

(……違う?)

『うん。私たちは、今まで奪うことしかできなかった。……自分が傷つくのが怖くて、壊すことでしか自分を守れなかったから。でも、アリスお姉ちゃんたちに出会って、もらうことの温かさを知ったよね』


 5歳の純玲の言葉が、凝り固まっていた私の思考をゆっくりと解きほぐしていく。


『私たちが表の世界に行くのは、ただ自分が幸せに逃げるためじゃないよ。……私たちが奪ってしまった命への贖罪として、今度は私たちが、誰かに何かを「与える側」になれるように、一生懸命努力するためなんだよ』


 与える側になる。

 その言葉が、雷のように私の胸を打った。

 私は今まで、自分の生存確率や合理性ばかりを計算し、世界から情報をダウンロードすることしか考えていなかった。感情を取り戻してからも、アリスや蓮から優しさをもらってばかりで、私が彼らに何を与えられたというのだろう。


『アドおじちゃんが、私たちを外に出してくれるのは、私たちが「人間」としてちゃんと生きていけるって信じてくれたからだよ。その気持ちを無駄にして、ここで一緒に血まみれになって倒れるのは、恩返しじゃない。……私たちが本当にしなきゃいけない恩返しは、アドおじちゃんが作ろうとしてくれた「息のしやすい世界」で、私たちが誰かに優しくできるようになることじゃないかな』


 5歳の彼女の言葉は、理屈ではなく、純粋な魂の叫びだった。

 そうだ。過去の罪が消えないのなら、その罪を抱えたまま、私は表の世界で這いつくばってでも生きていかなければならない。

 人を殺したこの手で、誰かを傷つけるのではなく、今度は誰かを助け、温めるために。

 それが、アリスが私に遺してくれた『人間としての心』の本当の使い道なのだ。


(……でも、私にできるかしら。人間関係なんて、わからないことだらけよ。また間違えて、誰かを傷つけちゃうかもしれない。矛盾した感情に振り回されて、エラーばかり吐き出すかもしれないわ)


 私が弱音をこぼすと、5歳の彼女は、ふふっと楽しそうに笑った。


『エラーが出たっていいじゃない。答えがすぐにわからなくたって、いいんだよ』

(……え?)

『わからないことや、矛盾して苦しいこと。……そういう不確定なエラーって、機械だった頃の私たちにはただの「バグ」だったけど、人間になった今の私たちには、これから自分がどうやって生きていくかを考えるための「種」なんだよ』


 不確定なエラーは、確定させなくとも、良い方向に導くための種。

 その解に辿り着いた瞬間、私の脳内を埋め尽くしていたノイズが、嘘のようにスッと消え去っていった。

 完璧な計算式なんて、最初からこの世界には存在しないのだ。

 人間はみんな、迷って、間違えて、矛盾を抱えながら、それでも手探りで前を向いて歩いている。アリスもそうだった。蓮も、アドも、モニターも。

 私も、それでいい。

 わからないことは、これから時間をかけて、彼らと一緒に探していけばいいのだ。


「……そうね。あなたの言う通りだわ」


 私は、心の中で5歳の私に微笑みかけ、ゆっくりと目を開けた。

 視界は涙で少し滲んでいたけれど、目の前の景色はとてもクリアに見えた。

 私の胸の中で泣き疲れて顔を上げたクォーツ。

 心配そうに私を見つめる蓮。

 そして、静かにタバコをふかすアド。


「……ピュアさん? 大丈夫ですか?」


 蓮が、私の表情の変化に気づき、おずおずと声をかけてきた。


「ええ。問題ないわ」


 私は、クォーツの背中から手を離し、姿勢を正してアドの方を真っ直ぐに見据えた。

 私の声には、もう先ほどまでの迷いも、機械的な冷たさもなかった。ただの一人の不器用な人間としての、確かな体温が宿っていた。


「アド。私は、あなたの提案を受け入れるわ」


 私がはっきりと告げると、アドは少しだけ驚いたように目を丸くし、それから、深く息を吐き出して口角を上げた。


「私はずっと、自分が犯した罪の重さに怯えていた。親を殺し、アリスの命を奪った私が、普通の幸せなんてものを求めていいはずがないって、そう思っていたの」


 私は、自分の両手を見つめた。

 感覚の戻ったこの手は、血の温かさも、誰かの手の冷たさも、すべてを等しく感じ取る。


「でも、逃げないことにしたわ。……私が奪ってしまったものへの贖罪は、暗闇に引きこもって自分を罰することじゃない。アド、あなたが私を信じて外へ送り出してくれるなら、私はその光の当たる場所で、今度は私が誰かに何かを『与える側』になれるように、一生懸命生きてみる」

「……ピュア」

「もちろん、普通の学校に通うとか、友達を作るとか、私には未知のデータだらけで、きっと毎日エラーばかり吐き出すと思うわ。矛盾して、悩んで、立ち止まることもたくさんあるでしょうね」


 私は、隣に座るクォーツと、目の前の蓮に向かって、小さく微笑んだ。


「でも、それでいいって思えたの。わからないことや、割り切れない想いは、無理に答えを出さなくていい。……その不確定なエラーの種を、どうやって良い方向に育てていくか考えること自体が、人間として生きていくってことなんでしょう?」


 私の言葉を聞いて、蓮は再び目頭を押さえ、何度も何度も力強く頷いた。

 クォーツも、涙で濡れた顔に微かな笑顔を浮かべ、私の服の袖をギュッと握りしめてくれた。


「……はっ。まったく、どいつもこいつも、俺より立派なこと言い出しやがって」


 アドは、照れ隠しのように頭をガシガシと掻き、灰皿にタバコを押し付けた。

 その瞳は、どこか眩しいものを見るように細められていた。


「わかった。お前らがその覚悟を決めたなら、俺は何も言うことはねえ。お前らの新しい戸籍と、生活の基盤は、俺とモニターで完璧に整えてやる。モニターはまだちょっとしばらく力を貸してくれ。……だから、それまでは俺の言うことを聞いて、大人しくしてろよ」

「ええ。私たちの未来の準備、よろしく頼むわね、アド」


 モニターは肩をすくめながらため息をついた。

 私が素直に頷くと、船の空気が、これまで感じたことのないような穏やかで温かいものに変わっていた。

 アリスがいない喪失感は、決して消えることはない。

 神宮寺の残党がどう動くか、不安はまだ残っている。

 それでも、私はもう一人じゃない。

 この不器用で、傷だらけで、それでも前を向こうとする仲間たちと一緒に、私は私の人生を、人間として、もう一度最初から歩み始めるのだ。

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