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第二話「最後の戦いへ」

 ドクターとの会話を終えた私は、静かに部屋を後にした。

 木造の古い廊下を歩きながら、私は自分の手のひらをそっと見つめた。

 足の裏から伝わる床の冷たさも、廊下を吹き抜ける隙間風の肌寒さも、今の私にははっきりと感じ取れる。けれど、胸の奥にぽっかりと空いた巨大な穴から吹き込んでくる喪失感の風は、それよりもずっと冷たくて、私の心を凍えさせそうだった。


 アリスがいない。

 私に温もりを教えてくれた太陽は、もうこの世界には存在しない。

 私がこの手で、彼女の命を終わらせたのだ。その事実は、私の感覚が戻った今、より一層生々しい罪悪感となって私を苛み続けている。

 アリスのいない世界で、私は一体何のために戦えばいいのだろう。

 彼女を助け出すために、私はすべてを懸けて神宮寺を追っていた。彼女が笑ってくれる未来を取り戻すためだけに、私は自分の身体がどうなろうと構わないと思っていたのだ。

 それなのに、守るべき一番大切な人を失ってしまった今、神宮寺を地の果てまで追い詰める意味が、どこにあるというのだろう。復讐を果たしたところで、アリスが帰ってくるわけではない。ただ虚しさが残るだけだ。


 それに、私は……怖いのだ。

 事務所のエントランスで襲撃者たちに銃を向けられた時、私は反撃できなかった。

 相手を壊すことの痛みを、私は神宮寺のラボで嫌というほど知ってしまった。弾丸が肉を裂き、骨を砕く激痛。命が尽きる時の絶対的な絶望。

 感情を持たないバケモノだった頃は、ただの作業でしかなかった。けれど、人間としての心を取り戻してしまった今の私に、再び誰かの命を奪うことができるのだろうか。

 私に、人を殺す資格なんてあるのだろうか。


 私は足を止め、薄暗い廊下の窓から、灰色の空を見上げた。

 分厚い雲に覆われた空は、今の私の心の中そのものだった。

 迷い。葛藤。恐怖。

 人間らしさを手に入れた代償は、あまりにも重くて、苦しい。


 でも。

 私は、冷たい窓ガラスに額を押し当て、ゆっくりと目を閉じた。

 目を閉じれば、アリスの最期の笑顔が浮かんでくる。

 『私今、人生で一番幸せ』

 そう言って、私を抱きしめてくれた彼女の虚空の温かさが、嘘のように胸の中に蘇ってくる。


 アリスは、私に呪いをかけたわけじゃない。

 彼女は、ただ真っ直ぐに私を愛してくれた。そして、薬のバケモノになる前に、人間として終わることを望んだ。

 あの時、彼女を薬物漬けにして、あんな残酷な選択を強いたのは誰だ。

 神宮寺誠一郎だ。


 私の伯父であり、私を実験動物として扱い、アリスから尊厳を奪った男。

 もし、私がここで立ち止まってしまえば、どうなるか。

 神宮寺は、あの地下の製薬工場で、アリスに打ったのと同じ薬を使って、何百、何千という人間を洗脳し、自分のための兵隊を量産し続けるだろう。

 痛みも恐怖も奪われ、ただ薬を求めて喉を掻きむしるだけの奴隷。

 アリスが味わったあの地獄の苦しみを、これからの未来で、数え切れないほどの人たちが味わうことになるのだ。


 ……それは、絶対に許せない。


 私は、静かに目を開けた。

 アリスを取り戻すことはできない。でも、アリスのような悲しい被害者を二度と生まないようにすることはできる。

 アドが言っていた『天秤』の存在意義。

 法で裁けない巨悪を狩り、少しでも息のしやすい世界を作る。

 それが、不器用で傷ついた私たちが集まった、この組織の本当の役割なのだ。


 私は、誰かを傷つけることが怖くなった。それは事実だ。

 けれど、ここで私が引き金を引くことをためらえば、神宮寺の狂気は野放しになり、もっと多くの人が血の涙を流すことになる。

 私が背負うべきは、人を殺すという罪の重さだ。

 感情のない機械としてではなく、痛みを知り、命の重さを知った一人の人間として、私はその罪を背負って神宮寺を殺さなければならない。

 それが、私がこれからの人生を生きていくための、明確なタスクであり、アリスに報いるための唯一の道なのだ。


 廊下で一人葛藤していた私の頭の中は、今、冷たい水をかぶったように驚くほどクリアになっていた。

 迷いは消えた。

 私は、顔を上げ、再び部屋の方へと歩みを進めた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 部屋に戻ってしばらくすると、廊下の奥から重い足音が近づいてきた。

 扉が開き、仮眠をとっていたアドが、目をこすりながら入ってきた。数時間の睡眠では到底取り戻せない疲労が顔に張り付いているが、その目つきだけは相変わらず鋭かった。


「……ピュアか。ロータスとモニターはどうした」

「買い出しに行ったわ。しばらくは戻らないはずよ」


 アドは小さく舌打ちをして、デスクの上の灰皿を手元に引き寄せた。


「あの二人は、働きすぎだ。まあ、今は全員が限界を超えて動かなきゃならねえ状況だがな」


 アドはタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。紫煙が天井に向かってゆっくりと立ち上っていく。

 私は、彼の正面に立ち、真っ直ぐに彼を見据えた。


「アド。私も、神宮寺の強襲作戦の準備に入るわ」

「……あ?」


 アドが、怪訝な顔をして私を見返した。


「そして、私も前線で作戦に参加する。私の感覚は戻ったわ。右目は見えないけれど、身体を動かすことに支障はない。銃の扱いも、実践で補正できる」


 私がはっきりと告げると、アドはタバコを咥えたまま、少しの間沈黙した。

 彼の視線が、私の全身の包帯と、右目の眼帯をなぞるように動く。


「……お前、感覚が戻ったってことは、撃たれりゃ痛いし、切られりゃ血が出るってことだぞ。トラウマは…それに、アリスのことがあったばっかりだ。無理して強がってるなら、今すぐやめとけ」


 アドの言葉には、私を戦力としてではなく、一人の不器用な子供として心配してくれている響きがあった。

 でも、私はゆっくりと首を横に振った。


「強がってなんかないわ。怖いことも、悲しいことも、全部わかってる。……でも、だからこそ、私は行かなくちゃいけないの。神宮寺の計画を止めるのは、私の意志よ」


 私の真っ直ぐな瞳を見て、アドは短く息を吐き出した。


「……そうか。お前がそこまで言うなら、これ以上は止めねえ。お前の力が必要なのは、誰よりも俺が一番わかってるからな」


 アドは灰皿にタバコを押し付け、表情を引き締めた。


「だが、ピュア。状況は最悪だ。俺たちが神宮寺に突っ込むってことは、事実上、国家を相手に戦争を仕掛けるのと同じだ。生きて帰れる保証なんて、どこにもねえぞ」

「ええ。だからこそ、作戦を始める前に、一つ確認しておきたいことがあるの」


 私は、部屋の窓から見える暗い森を見つめながら、静かに口を開いた。


「アド。私たち『天秤』はこれまで、法で裁けない悪を殺す代わりに、警察や司法の上層部に守られてきたわよね。私たちの活動が黙認されてきたのは、彼らにとっても都合が良かったからだわ」

「ああ。世の中にゃ、警察のメンツや法律の壁のせいで手が出せねえクズが山ほどいる。俺たちはその掃除屋として、暗黙の了解のもとで動いてきた」


 アドも頷く。


「でも、今回は違う」


 私はアドに向き直り、真剣な声で告げた。


「神宮寺誠一郎は、与党の幹部であり、国家の中枢にいる人間よ。彼が自分の『エデン計画』のために警察のトップや防衛省にまで手を回しているなら、今、私たちを管理している上層部はどう動くのかしら」

「……」

「私たちは、国家に守られて殺しをしてきた。でも、今はその状況にない可能性が高い。作戦を決行する前に、天秤を管理する上層部にコンタクトを取って、神宮寺を殺すことに対する彼らの見解を、はっきりと聞いておいた方がいいと思うの」


 私の提案に、アドは驚いたように目を見開いた。


「上層部に、俺たちから探りを入れるだと?」

「ええ。私たちが神宮寺を討った時、警察は私たちを見逃してくれるのか。それとも、彼らも完全に神宮寺の側について、私たちをテロリストとして全力で潰しに来るのか。……それを、知っておきたいの」


 アドは腕を組み、深く考え込むように目を閉じた。


「ピュア、お前の言うことは最もだが……もし上層部が完全に神宮寺に寝返っていた場合、こちらからコンタクトを取れば、俺たちの動きが敵に筒抜けになるリスクがあるぞ。藪蛇になるかもしれねえ」

「わかっているわ」


 私は、自分の言葉が持つ危険性を理解した上で、それでも引かずに続けた。


「神宮寺がすでに手を回している可能性は、すごく高いと思う。もしかしたら、もう誰も私たちを助けてくれないかもしれない。でも……それを『知って』行動するのと、『知らずに』行動するのとでは、心の持ち様も、作戦の立て方も、全く変わってくるでしょう?」


 もし、世界中が私たちの敵になっているのなら、私たちは逃げ道を用意し、誰からの支援も期待しない完全な孤立戦を覚悟しなければならない。

 逆に、もし上層部の中にまだ神宮寺の暴走を危惧し、私たちを裏で支援してくれる人間が一人でも残っているなら、その糸を戦略に組み込むことができる。


「私たちは、もう誰にも騙されたくない。不確定な希望にすがるんじゃなくて、一番冷酷な現実をちゃんと知った上で、覚悟を決めて戦いたいのよ」


 私が人間としての弱さと強さを交えてそう伝えると、アドはしばらくの間、じっと私の顔を見つめていた。

 やがて、彼はふっと短く笑い、大きな手で自分の顔を覆った。


「……お前、本当に人間らしくなったな。昔の『ピュア』なら、上層部の意向なんて計算式から完全に切り捨てて、単独で突っ込む算段を立ててただろうぜ」

「ええ。でも、今は私一人で戦っているわけじゃないから」


 私が素直に頷くと、アドは表情を引き締め、デスクの上の専用の通信端末を手に取った。


「わかった。お前の言う通りだ。退路が絶たれているかどうか、俺たちの立ち位置をはっきりさせておく必要がある」


 アドは端末のボタンを操作し、何重にも暗号化された回線を開いた。


「俺が直接、上層部とのパイプ役になっている人間にコンタクトを取ってみる。……だが、期待はするなよ。最悪の返答が来ることも覚悟しておけ」

「ええ。どんな答えでも受け止めるわ」


 アドが端末を耳に当てる。

 アドが手にした専用の通信端末から、微かに無機質な呼び出し音が漏れ聞こえていた。

 何重にも暗号化された回線を経由し、国家の中枢に潜む『天秤』の管理層へと繋ぐための細い糸。

 私は少し離れた場所から、アドの険しい横顔をじっと見つめていた。彼の額には薄っすらと汗が滲んでおり、咥えたまま火をつけていない葉巻の端を、苛立たしげに噛み締めている。

 もし、この電話の先にある答えが私たちの予想する最悪のシナリオ――すなわち、上層部がすでに神宮寺の側に寝返っており、私たちが完全に社会から孤立したテロリストとして処理されるというものだったなら。

 その時は、私たちだけでこの巨大な悪意に立ち向かうための、孤独で泥臭い作戦を一から練り直さなければならない。


 部屋の中には、ただ重苦しい沈黙と、アドの端末から鳴り続ける電子音だけが響いていた。


 その時だった。

 背後の廊下から、パタパタという小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。

 ゆっくりと通信室の扉が開き、そこからひょっこりと顔を出したのは、目をこすりながら少し眠たそうにしているクォーツだった。


「……ピュア」


 彼女は、部屋の中に私の姿を見つけると、少しだけホッとしたような顔をして、小走りで私のそばへと寄ってきた。

 私が起きて部屋を出てしまったため、一人で目を覚まし、心細くなって探しに来たのだろう。


「クォーツ。一人にしてごめんね。ちゃんと眠れた?」


 私は、できるだけ優しい声になるように心がけながら、彼女に語りかけた。

 昔の私なら、睡眠という生理現象の完了を確認するだけの無機質な問いかけになっていただろう。でも今は、彼女が一人で目覚めた時にどれほどの不安を感じるか、痛いほどにわかる気がしたのだ。


「……うん」


 クォーツは小さく頷き、私の服の袖をそっと摘んだ。


「起きた時、誰もいなくて……少し、寂しかったけど。でも、大丈夫。……ピュアの顔を見て、安心した」


 彼女の大きな瞳が、私を真っ直ぐに見上げていた。

 その目には、アリスを失った悲しみの奥に、私という存在にすがり、信じようとしてくれている純粋な気持ちがはっきりと映っていた。

 私は、ごく自然な動作で手を伸ばし、彼女の頭をそっと撫でた。


「……あっ」


 私の手のひらに、彼女の細くて柔らかい髪の感触が、はっきりと伝わってきた。

 先ほど自室で確認したばかりの、蘇った触覚。

 冷たい、熱い、柔らかい、硬い。それらの情報が、私の指先から脳へと直接流れ込んでくる。

 私は、クォーツの頭の丸みや、髪の毛の隙間から伝わってくる微かな体温を、愛おしむようにゆっくりと撫で続けた。


「……ピュア?」


 私が言葉もなく髪を撫で続けていると、クォーツが不思議そうに首を傾げた。


「クォーツ、聞いて。……私の感覚、戻ったみたいなの」

「え……?」

「痛いのも、冷たいのも、全部わかるようになったわ。今、こうしてあなたの頭を撫でている感触も、あなたの温かさも、ちゃんと私の手に伝わってきているのよ」


 私がそう告げると、クォーツは驚いたように目を丸くし、それから、両手で私の右手をギュッと握りしめた。


「ほんと……? わかるの?」

「ええ。あなたの手のひらが、少し汗ばんでいることもわかるわ」


 私が微笑んで答えると、クォーツの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。

 アリスが命と引き換えに私に残してくれた力が、こうして私の身体を元の状態へと戻してくれた。その事実が、彼女にとってもどれほどの救いになったのか、握りしめられた手から伝わる震えで十分に理解できた。


「よかった……っ。本当に、よかった……」

「泣かないで。私はもう大丈夫よ」


 私は、空いている左手で彼女の涙を拭った。


「クォーツ。私ね、もう迷わないことにしたの」


 私は、彼女の目を見つめ、静かに、けれど確かな決意を込めて言葉を紡いだ。


「アリスがいない世界で、私たちが戦う意味なんてあるのかって、さっきまですごく悩んでいたわ。でも、違うのよね。……神宮寺をこのまま野放しにしておけば、アリスのように薬物で心を壊され、利用される被害者が、これからもたくさん生み出されてしまう」

「……」

「法で裁けない悪を狩り、少しでも息のしやすい世界を作る。それが、アリスが愛した『天秤』という組織の存在意義だわ。……アリスのような悲しい被害者を二度と出さないために、私は作戦に戻る。神宮寺誠一郎を、私たちの手で確実に倒すのよ」


 私の言葉を聞いて、クォーツは涙を拭い、ギュッと強く唇を噛み締めた。

 彼女の中にも、アリスを失った悲しみに浸り続けたいという甘えがあったはずだ。だが、私の覚悟を聞いて、彼女もまた、自分の中の悲しみを戦うための力へと変換しようとしているのがわかった。


「……うん。私も、戦う」


 クォーツは、力強く頷いた。


「アリスの仇、絶対に討つ。……ピュアと一緒に、神宮寺を、終わらせる」


 私たちは、互いの手を取り合い、静かに決意を共有した。

 悲しみに足を取られている暇はない。私たちが立ち止まれば、神宮寺の計画はさらに進み、取り返しのつかない事態を引き起こす。

 感覚が戻った今、私には戦うための身体がある。そして、隣には共に戦ってくれる仲間がいるのだから。


 その時。


「……ああ、わかった。引き続き、頼むぜ」


 部屋の奥から、アドの少しだけ安堵したような声が響いた。

 彼は通信端末をデスクに置き、深く息を吐き出して、咥えていた葉巻にようやく火をつけた。

 紫煙が部屋の空気に溶けていくのを横目に、私とクォーツはアドの方へと向き直った。


「通信は終わったのね、アド。上層部の見解はどうだったの」


 私が尋ねると、アドは私たちの方を見て、ふっ、と短く笑った。

 その顔には、先ほどまでの張り詰めた緊張感はなく、どこか憑き物が落ちたような、清々しい表情が浮かんでいた。


「事態は、お前が心配していたよりも、ずっと良い方向に向かっているかもしれん」

「良い方向?」


 私が首を傾げると、アドは椅子に深く腰掛け、ゆっくりと話し始めた。


「俺が連絡を入れた時、向こうの最初の第一声が何だったと思う? 『生きていて安心した』だ。どうやら、俺たちの事務所が襲撃された情報は、すでに上層部の耳にも入っていたらしい」

「……やはり、神宮寺の手が回っていたのね」

「ああ、お前の予想通りだ。神宮寺の野郎は、警察上層部や法務省のパイプを使って、『天秤』を危険なテロリスト集団として公式に認定し、組織ごと一斉に摘発しようと裏で手を回そうとしていやがった」


 アドの言葉に、私の背筋がスッと冷たくなった。

 もしその工作が完了していれば、私たちは神宮寺の私兵だけでなく、この国の警察組織全体から追われる身となっていたのだ。


「じゃあ、上層部は神宮寺の要求を呑んだの?」

「いや、逆だ」


 アドは、ニヤリと口角を上げた。


「向こうのジジイどもは、俺が『神宮寺を殺すことについて、警察は俺たちを見逃してくれるのか』って探りを入れた途端、鼻で笑ってこう言いやがったんだよ」


 アドは、上層部の人物の口調を真似るように、少しだけ声を低くして語った。


「『何のためにこんな危ない橋を渡って、お前らのような組織を飼っていると思っているんだ。神宮寺のような、法を無視して暴走するクズを野放しにしないためだろうが』ってな」

「……っ!」


 その言葉を聞いて、私は思わず目を見開いた。

 上層部は、神宮寺の圧力に屈していなかったのだ。むしろ、神宮寺が国家の裏側で『エデン計画』という薬物兵士の量産を企てていることを危険視しており、私たち『天秤』を使って彼を排除することを望んでいるというのか。


「神宮寺がどれだけ権力を持っていようと、あいつのやっていることは明らかに一線を越えている。上層部の中にも、あいつのやり方を快く思っていない連中は山ほどいるってことだ。……俺たちのバックは、まだ完全には腐っちゃいなかったらしい」


 アドは、深くタバコの煙を吸い込み、満足げに天井へと吐き出した。


 だが、私の心の中には、まだ疑念が残っていた。

 裏社会の人間関係は、常に裏切りと打算で成り立っている。彼らが「見逃す」と言ったからといって、それを額面通りに受け取っていいのだろうか。

 私たちが神宮寺と相打ちになることを望んでいるのかもしれないし、土壇場で梯子を外される可能性だって十分にあり得る。


「……アド。彼らのその言葉、本当に鵜呑みにしていいの? 私たちを利用するだけ利用して、都合が悪くなったら切り捨てるつもりの甘言かもしれないわ」


 私が率直な不安を口にすると、アドは私を見て、静かに、けれど絶対的な自信を持った声で答えた。


「心配すんな、ピュア。俺はこれまで、数え切れないほどの嘘つきや詐欺師と法廷で、あるいは裏社会で対峙してきた。……言葉の裏にある思惑や、相手の本心を読むことにかけては、俺は誰にも負けねえ。あいつらの言葉に、俺たちを裏切るような色はなかった。俺が保証する」


 アドのその力強い断言に、私の胸の奥にあった冷たい不安の塊が、スッと溶けていくのを感じた。

 彼がそこまで言うのなら、信じてみよう。

 私たちには、国家という巨大な盾が、まだギリギリのところで背中を守ってくれている。

 それは、私たちがこれから神宮寺の要塞に乗り込むにあたって、これ以上ないほど心強い事実だった。


「わかったわ。あなたがそう言うなら、背後の憂いは消えたということね」


 私は、小さく息を吐き出し、気持ちを切り替えた。

 事態が最悪の方向へ転がることは免れた。だが、だからといって私たちが有利になったわけではない。


「でも、状況自体はまだ何も変わっていないわ。神宮寺の足取りは依然として掴めていないし、彼の関連施設もすべて物理的に沈黙したまま。……私たちはまだ、彼を追い詰めるための情報収集と準備の段階から、一歩も進んでいないのよ」


 私の言葉に、アドも表情を引き締め、灰皿にタバコを押し付けた。


「ああ、わかってる。敵の尻尾を掴むまでは、俺たちはただ息を潜めて刃を研ぐしかねえ。ロータスとモニターが戻り次第、再び情報の洗い出しに全力を注ぐ。お前とクォーツは、いつでも動けるように装備のメンテナンスとコンディションの維持に努めろ」


 私はクォーツと顔を見合わせ、静かに頷き合った。


━━━━━━━━━━━━━━


 刺客は来ないものの、神宮寺の足取りは全く掴めないまま、重苦しい二週間が過ぎた。

 アドとモニター、そして蓮は、交代で睡眠を取りながら、神宮寺のダミー会社のネットワークや、過去の資金の流れ、果ては政治家としての不審な動きまで、ありとあらゆる情報を洗い出し続けていた。

 だが、神宮寺誠一郎という男は、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、物理的な痕跡も情報的な痕跡も、完璧に消し去っていた。


 その間、私とクォーツは、モーターホームのセントラルガレージに設営された簡易的な武器庫と訓練スペースで、ひたすら装備の点検と身体のキャリブレーションに明け暮れていた。


「……ピュア、右が甘い」


 クォーツの鋭い声と共に、彼女の放った模擬ナイフの刃先が、私の右脇腹をかすめた。

 私は反射的に身体を捻り、左手で彼女の手首を制圧しようとしたが、感覚の戻った身体は、まだ私の脳の演算速度に完全には追いついていなかった。

 痛みを感じる。皮膚を擦る空気の抵抗を感じる。

 それは、私の動きに微妙な躊躇いを生ませ、コンマ数秒のタイムラグを引き起こしていた。


「……ごめんなさい、クォーツ。少し、痛覚のフィードバックに意識を持っていかれすぎているみたい」

「ピュアは、考えすぎ。もっと、身体に任せて」


 クォーツはナイフを下ろし、少しだけ心配そうに私を見た。

 彼女の言う通りだ。私は今まで、すべてを物理法則と論理で計算し、機械のように身体を動かしてきた。でも、感覚が戻り、人間としての『痛み』や『恐怖』を再認識した今、私の脳は、無意識のうちに身体を守ろうとストッパーをかけてしまう。

 このエラーを修正しなければ、神宮寺の私兵たちとの近接戦闘で、私は確実に後れを取ることになる。


「ええ、わかってるわ。もう一度お願い」


 私は深く息を吐き出し、構えを直した。

 何度も何度も、彼女と模擬戦を繰り返す。

 汗が滲み、筋肉が悲鳴を上げる。その疲労感すらも、今の私にとっては『生きている証』として、決して不快なものではなかった。


 訓練を終え、シャワーを浴びて自室のベッドに横たわると、やはりアリスのことが頭を過る。

 彼女の向日葵のような笑顔。私を抱きしめてくれた時の、あの温かさ。

 私が彼女の首を絞め、最後に交わしたキスの感触。

 それらの記憶が、静かな夜の闇の中で鮮明に蘇り、私の胸をギリギリと締め付ける。


「……アリス」


 私は、感覚の戻った両手で自分の顔を覆い、声を殺して泣いた。

 泣いても彼女は帰ってこない。それはわかっている。でも、この悲しみを無理に抑え込もうとすれば、私はまた心が壊れてしまう。

 だから私は、夜の孤独な時間だけは、感情の赴くままに涙を流すことを自分に許していた。


 そんな涙に濡れた夜を何度か過ごしたある日。

 私は、ふと、あることに気がついた。


 私は、アリスを失った悲しみに暮れ、彼女の復讐を果たすことばかり考えていた。

 でも、私と同じように、大切な『家族』への想いを抱え、そのために必死に戦っている人間が、この療養所の中にいるじゃないか。


 蓮だ。

 彼は、血の繋がらない妹の命を救うために闇金に手を出した。

 そして、アドの計らいで妹の安全と治療が保証された代償として、彼は私に監視され、この裏社会に身を投じることになったのだ。


(……私、彼の家族への愛を、無下にしたままだったんじゃないかしら)


 私は彼を『所有物』や『便利な手足』と呼び、私の生活のペースを乱さないことだけを強要してきた。

 彼が私のために料理を作り、ハッキングに徹夜し、果ては私の盾となって銃弾の雨に立たされた時も。私は、彼がどれほどの覚悟で、どんな想いを抱えて妹のために戦っているのか、ちゃんと向き合おうとしたことがあっただろうか。


 血が繋がっていないからといって、その思いが軽いわけじゃない。

 彼が妹を大切に想う気持ちは、私がアリスを愛した気持ちと、何ら変わりはないはずだ。

 私は、アリスを失ったことで、その『誰かを大切に想う気持ち』の尊さと、失うことの恐ろしさを痛いほど学んだ。

 それなら、私は、彼のその想いを、もっと尊重しなければならないのではないか。


 私はベッドから起き上がり、蓮たちのいる部屋へと向かった。


 部屋では、アドが仮眠を取り、モニターがコーヒーを淹れに行っているタイミングだった。

 蓮は一人、モニターの青白い光に照らされながら、キーボードを叩き続けていた。

 彼の目の下の隈はさらに濃くなり、頬はこけ、明らかに疲労の限界を超えている。それでも、彼は画面から目を離さず、神宮寺の影を追い続けていた。


「……蓮」


 私が静かに声をかけると、彼はビクッと肩を震わせ、振り返った。


「ピ、ピュアさん。どうしたんですか? こんな夜中に。また身体のどこかが痛むんですか?」

「違うわ。少し、話がしたくて来たの」


 私は、彼が座るデスクの隣に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

 蓮は少し驚いたような顔をして、作業の手を止めた。


「話、ですか?」

「ええ。あなたの、妹のことよ」


 私がその単語を口にした瞬間、蓮の表情がハッとこわばった。


「妹さんが、アドの手配で病院で治療を受けていることは知っているわ。でも……私、あなたが妹さんをどんな風に大切に想っているのか、ちゃんと聞いたことがなかったと思って」


 私は、彼の目を見つめ、静かに、けれど真剣に尋ねた。


「教えてくれないかしら。あなたにとって、妹への愛って、どんなものなの?」


 蓮は、私の問いに戸惑うように視線を泳がせた。

 私が急に、こんな人間らしい、感情に踏み込むような質問をしたからだろう。

 でも、彼は私の真剣な眼差しから何かを感じ取ったのか、小さく息を吐き出し、ゆっくりと口を開いた。


「……愛とか、そんな大層なものなのかは、俺にはよくわかりません」


 蓮は、自分の両手をじっと見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「俺は、物心ついた時から孤児院にいて、親の顔も知らない。……自分が何のために生きてるのか、誰かに必要とされてるのか、ずっとわからなかったんです」

「……ええ」

「でも、あいつが……妹が、施設に来て。毎日隅っこで泣いてるあいつを見てたら、放っておけなくて。……俺が、この子を守らなきゃって、そう思ったんです」


 蓮の声には、妹への深い慈しみと、確かな決意が込められていた。


「俺がご飯を分けてあげたり、絵本を読んであげたりすると、あいつ、すごく嬉しそうに笑ってくれるんです。……その笑顔を見てると、俺、自分が生きててもいいんだって、そう思えた。……あいつの笑顔が、俺の生きる意味になったんです」


 その言葉は、私の胸の奥に、スッと静かに落ちてきた。

 それは、私がアリスの笑顔に救われ、彼女を守りたいと願った気持ちと、完全に同じだった。

 自分が生きていてもいいのだと、そう思わせてくれる存在。

 彼にとっての妹は、私にとってのアリスと同じ、暗闇を照らす太陽だったのだ。


「……そう。あなたの気持ち、よくわかったわ」


 私は、静かに頷いた。


「だからこそ、あなたは自分の命を懸けて、闇金に手を出してまで彼女を救おうとしたのね。……そして、今は私のサポーターとして、こんな危険な世界に身を置いている」


 私は、彼の疲労しきった顔を見つめ、一つの問いを投げかけた。


「……ねえ、蓮。妹さんに、会いたい?」

「えっ……」


 蓮は、私の予期せぬ質問に、目を丸くして固まった。

 彼は、アドからこの組織に身を置く条件として、妹との接触を禁じられている。組織の機密を守るためであり、妹を危険に巻き込まないための絶対的なルールだ。

 だからこそ、彼は今まで一度も「会いたい」と口にしたことはなかった。


「あ、会いたいって……それは……」

「素直に答えてちょうだい。私は、あなたの心からの言葉が聞きたいの」


 私が真っ直ぐに見据えると、蓮はギュッと唇を噛み締め、それから、ポロリと一粒の涙をこぼした。


「……会いたいです。……あいつが、ちゃんと元気になってるか、泣いてないか……自分の目で、確かめたい。……会って、頭を撫でてやりたいです……っ」


 彼の目から、とめどなく涙が溢れ出した。

 本当はずっと、寂しくて、不安で、会いたくて仕方がなかったのだ。

 11歳の彼が、たった一人でこの裏社会のプレッシャーに耐えながら、どれほど孤独な夜を過ごしてきたか。

 私は、その痛みが自分のことのように理解できた。


「……そうよね」


 私は、感覚の戻った手を伸ばし、彼の涙で濡れた頬をそっと拭った。

 彼の涙の温かさが、私の指先にしっかりと伝わってくる。


「私はアリスを失って、もう二度と彼女に会うことはできない。でも、あなたの妹さんは、今もどこかの病院で生きているのよ。……会えないなんて、そんな悲しいこと、あってはならないわ」


 私は、静かに立ち上がった。

 私の中で、神宮寺を倒すという目的に、もう一つの明確な理由が加わっていた。

 アリスのためだけじゃない。

 私の大切な仲間である彼が、胸を張って妹の元へ帰れるようにするためにも、私はこの戦いを終わらせなければならないのだ。


「ピュアさん……」

「アドには内緒よ。でも、すべての決着がついたら、私が責任を持って、あなたを妹さんのところへ連れて行ってあげる。だから、それまで一緒に頑張りましょう」


 私が微笑みかけると、蓮は目を大きく見開き、それから、子どものように声を上げて泣きじゃくった。

 彼は何度も「ありがとうございます」と繰り返し、机に突っ伏した。

 私は、彼が泣き止むまで、その背中を優しく撫で続けていた。


 蓮が涙を拭い、再びモニターの前に向き直った後も、私はしばらく彼の隣の椅子に座っていた。

 画面には、相変わらず無数の文字の羅列が滝のように流れている。彼が休むことなく途方もない情報の海を泳いでくれているのは、伝わってくる熱気でわかった。


 夜が深まり、窓の外の暗闇がさらに濃くなる。

 私がコーヒーのおかわりを淹れようと立ち上がった、その時だった。


「……ピュアさん」


 蓮の声が、微かに震えていた。

 振り返ると、彼の指はキーボードの上でピタリと止まり、血走った両目がモニターの一点を食い入るように見つめている。


「どうしたの? 何か見つかった?」


 私が急いで彼に近づくと、隣のデスクで仮眠を取ろうとしていたモニターも、弾かれたように立ち上がって画面を覗き込んだ。


「これ……神宮寺のダミー会社のサーバーから、外部のネットワークへ大容量のデータ通信が行われています」


 蓮の言葉に、私は思わず息を呑んだ。

 この二週間、神宮寺の組織は一切の通信を遮断し、完全に情報の海から姿を消していたはずだ。それなのに、なぜ今になって急に動きを見せたのか。


「……海外のサーバーとの暗号化通信です。送信先は、中東やヨーロッパの複数のダミーアドレス。……間違いない、これは大規模な取引の準備だ」


 モニターが、画面のログを追いながら険しい声で言った。

 私は、以前アドが話していた情報を思い出した。神宮寺は、来月行われる国際的な秘密会議の場で、各国のバイヤーや軍事関係者にあの薬の『完成品』をプレゼンテーションする予定だと。


「なるほど……。いくら自分たちを完全にオフラインの環境に隠そうとしても、海外のバイヤーと取引をするためには、どうしても外の世界と繋がって、招待状やデータのやり取りをしなきゃいけないのね」


 私が呟くと、蓮が「はい」と強く頷いた。


「完全なスタンドアローンじゃ、商売は成立しません。神宮寺は、この取引のためにほんの一瞬だけ、強固なファイアウォールの内側から外の世界へ門を開けたんです。……俺は、ずっとこのわずかな隙を待ってました」


 蓮の指が、再び凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。

 彼は、神宮寺が開けたその通信の糸を逆探知し、発信元の物理的な座標を割り出そうとしているのだ。

 画面上のプログレスバーがじわじわと進んでいく。部屋の中には、私たちの息遣いとタイピングの音だけが響いていた。


「……アドさんを、呼んできます」


 モニターが足早に部屋を出て行き、程なくして、目をこすりながら不機嫌そうな顔をしたアドを連れて戻ってきた。


「なんだ、こんな夜中に。見つかったのか」


 アドがデスクの前に立つとほぼ同時に、蓮のパソコンから「ピーッ」という電子音が鳴った。


「出ました……! 発信元の座標、特定しました」


 蓮が画面に地図を表示させる。

 赤いピンが立った場所を見て、アドは咥えかけていたタバコをポロリと落としそうになった。

 私も、その場所を確認して言葉を失った。


「……東京湾の、ど真ん中?」

「はい。表向きは数年前に運用を停止した、海洋掘削用の巨大なプラント施設です。陸地からは完全に切り離された、海上に浮かぶ人工の島ですね」


 蓮が、衛星写真をモニターに映し出す。

 黒い海の上に浮かぶ、巨大な要塞のような鉄の塊。周囲には船着き場とヘリポートが確認できるが、それ以外に陸続きの道は一切ない。

 都心の地下に潜っているとばかり思っていたが、神宮寺は誰も寄り付かない海の上の廃棄施設を、自分の新たな王国として作り変えていたのだ。


「なるほどな。海の上なら、誰の目にも触れずに怪しげな薬の製造も、私兵の訓練もやり放題ってわけだ」


 アドが、忌々しげに舌打ちをした。


「しかも、海外のバイヤーを船やヘリで直接招き入れるには、これ以上ないほど都合がいい。警察の管轄も曖昧になるような場所だ」


 敵の居場所がわかった。

 本来なら、これでようやく反撃に出られると喜ぶべきところかもしれない。でも、モニターに映し出されたその巨大な海上プラントの姿は、私たちに絶望的なまでの戦力差を突きつけていた。


「蓮。このプラントの内部構造や、敵の数はわかる?」

「……通信ログから推測するしかありませんが、おそらく、前回の比じゃないです。数百人規模の武装した私兵が駐留していてもおかしくありません。それに、海上という地形上、周囲には一切の死角がありません。船で近づけば、数キロ手前からレーダーで捕捉されて、蜂の巣にされます」


 蓮の報告は、極めて残酷な現実だった。

 逃げ場のない海上の要塞。数百人の薬物漬けの死兵。

 今の私たちの戦力は、アド、クォーツ、モニター、そして私だけだ。こんな場所に正面から突っ込めば、一歩も施設の中に入ることすらできずに海の藻屑になるだろう。


「……」


 部屋に、重苦しい沈黙が降りた。

 せっかく敵の尻尾を掴んだのに、相手の城があまりにも強固すぎて、手出しができない。


「……アドさん。夜陰に紛れて、海中から少人数で潜入するルートなら、あるいは……」


 モニターが静かに提案しようとした、その時だった。


「強襲も、潜入も、絶対にやらねえ」


 アドが、低く、しかしこれまでにないほど強固な意志を込めた声で、モニターの言葉を叩き斬った。


「アド……?」

「少数での潜入なんて自殺行為だ。前回、ピュアが拉致され、アリスとタイガーを失った。……俺は、もう二度と、絶対に誰一人として失わせねえ。あんな思いはもうたくさんだ」


 アドは、デスクを強く拳で叩いた。

 彼の目には、リーダーとしての冷徹な計算ではなく、仲間をこれ以上傷つけたくないという、切実な痛みが宿っていた。


「今回、俺たちが最優先するのは『メンバーの絶対の安全』だ。神宮寺の首を獲るためだとしても、お前らが捕まったり死んだりするリスクが1パーセントでも存在する作戦は、すべて却下する」

「でも、アド。それじゃあ、どうやって神宮寺を倒すの?」


 私が尋ねると、アドは大きく息を吸い込み、地図の画面を指差した。


「奴らの懐には飛び込まない。……遠距離からの、完全なアウトレンジ暗殺だ」


 アドは、プラントの周辺海域を通る航路のデータを画面に呼び出した。


「東京湾には、夜間でも一般の大型客船や貨物船が航行しているルートがある。このプラントから約2キロ離れた海域を、定期運行している大型の旅客船が通るんだ」

「旅客船……?」

「俺たちは、一般の乗客としてその船に乗り込む。船がプラントの最も近くを通過するほんの数分間……神宮寺がバイヤーたちに施設を案内するために表のデッキや大きな窓の前に姿を現すタイミングを狙って、ピュア、お前が船の甲板から狙撃する」


 その作戦を聞いて、私は息を呑んだ。

 動いている船の上から、海風の吹く夜の海を越え、2キロ先の標的を撃ち抜く。

 それは、射撃の技術というより、ほとんど奇跡に近い確率を要求される狙撃だ。


「……動く足場から、それだけの距離を……。いくらピュアさんでも、難しすぎませんか?」


 蓮が不安そうに声を上げる。

 だが、アドは首を横に振った。


「難しいことは百も承知だ。だがな、この作戦の最大のメリットは、『絶対にこちらが反撃を受けない』ことだ。一般人が大勢乗っている旅客船に向かって、神宮寺の私兵どもが重火器で反撃してくることはできねえ。国家をバックにしている奴らだからこそ、民間人を巻き込むような大事件は起こせないんだ」


 アドは私を真っ直ぐに見つめた。


「ピュア。撃つチャンスは一発、良くて二発だ。もし外しても、深追いは絶対にしない。そのまま船に乗って安全な場所まで離脱する。神宮寺を殺せなくてもいい、お前らが無事に帰ってくることが絶対条件だ」


 神宮寺を逃すことになっても、仲間の命を優先する。

 アドのその決断は、裏社会の殺し屋としてはあまりにも甘いのかもしれない。でも、アリスとタイガーを失った私たちにとって、それは何よりも重く、温かい言葉だった。


「……」


 私は、自分の右手を見つめた。

 感覚が戻ったこの手は、コップの冷たさも、風の冷たさも、すべてを感じ取ることができる。

 それは同時に、私が引き金を引いた時、銃の反動や、相手の命を奪うという『生々しい感触』を、二度と誤魔化すことができないということでもあった。


 正直、怖い。

 人を撃つことが、人が痛がって壊れていくのを見ることが、今の私には本当に恐ろしい。エントランスで襲撃者に銃を向けられた時、私は震えて動けなくなってしまった。

 でも。

 私がここで引き金を引かなければ、アリスのような悲しい被害者が、あの冷たい要塞の中でこれからも生み出され続ける。神宮寺という悪魔が、平然と息をし続ける。


「……やるわ」


 私は、震える手を強く握りしめ、顔を上げてアドを見た。


「距離が何キロあろうと、足場が揺れていようと関係ない。私が、必ずあいつを撃ち抜いてみせる」


 私の声は、少しだけ震えていたかもしれない。

 冷徹な機械としてではなく、恐怖を抱えた一人の人間として、私はその重い引き金を引く覚悟を決めた。


「……頼んだぞ、ピュア」


 アドは、私の震えに気づかないふりをして、深く頷いてくれた。

 アドの提示した暗殺計画は、極めてリスキーな狙撃技術を要求される一方で、私たちの安全を最優先に確保するための極めて合理的なアプローチだった。

 だが、作戦を実行に移すためには、越えなければならない物理的・情報的なハードルがいくつも存在した。


「問題は、どうやってその旅客船に乗り込むかよ」


 私は、モニターに映し出された東京湾の航路図を見つめながら指摘した。


「神宮寺は国家の中枢にいる。警察のネットワークはもちろん、交通機関の乗船名簿や監視カメラの顔認証システムも、すでに彼の監視下にあると考えるべきだわ。私たちが表立ってチケットを買えば、船に乗り込む前に確実に包囲される」

「ああ、その通りだ。だからこそ、お前の出番だ、ロータス」


 アドが視線を向けると、ロータスは力強く頷いた。


「任せてください。フェリー会社の予約システムにバックドアを仕掛け、ダミーの個人情報でチケットを発券します。監視カメラの顔認証も、俺たちが通過する時間帯だけ映像をループさせるスクリプトを組みますから、足取りが残ることは絶対にありません」


 かつては私の前でオドオドしていた少年が、今や組織の情報戦を一人で担い、これほどまでに頼もしい発言をしている。

 私は、彼のその成長に、胸の奥で静かな誇らしさを感じていた。


「よし。乗船の手配はロータスに任せる。……次は、狙撃後の脱出ルートだ」


 アドは地図をスクロールさせ、東京湾から南へと続く航路の先、伊豆諸島の島々を指差した。


「俺たちが乗り込むのは、東京の竹芝桟橋を出発し、三宅島や八丈島へ向かう夜行の大型客船だ。出航して約一時間半後、船が神宮寺のプラントの数キロ手前を通過する。そこでピュアが狙撃を行い、その後は一般客に紛れて船内に潜伏する。……そして、翌朝、最初の寄港地である三宅島で下船する」

「でも、アドさん。三宅島で降りた後、どうやって東京へ戻るんですか? 定期船や飛行機を使えば、結局足がついてしまいますよ」


 ロータスの疑問に、アドも少しだけ考え込むように顎に手を当てた。

 その時。


「……脱出用の船でしたら、私が手配できます」


 部屋の隅で黙って地図を見ていたモニターが、静かに名乗りを上げた。


「あなたが、船を?」

「はい。実は私、昔から海釣りが趣味でして。小型船舶の免許も持っているんです。神宮寺の組織で働いていた頃は、政治家や裏社会の人間を接待するために、私が操縦するクルーザーをよく使わされていました」


 モニターは少しだけ自嘲気味に笑ったが、その目は真剣だった。


「その時に使っていた、神宮寺の監視の目から外れた私名義のクルーザーが、今も静岡県のマリーナに係留してあります。……私が先回りして三宅島へ向かい、その船で待機していましょう。皆さんが島に着き次第、すぐにその船に乗せて、追手の届かない本州の別の港へと逃がします」


 その提案は、作戦の最後のピースを完璧に埋めるものだった。


「……素晴らしいわ、モニター。あなたのその経歴が、私たちの生存確率を飛躍的に高めてくれる」


 私が素直に称賛すると、モニターは「純玲さんたちの命を守れるなら、私の過去の汚れ仕事も無駄ではなかったということです」と、深く頭を下げた。

 これで、作戦の骨組みは完成した。

 あとは、私自身の問題だ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 翌日から、私は山奥の療養所の周辺で、狂ったように狙撃の訓練に明け暮れた。

 モーターホームの武器庫に保管されていたM24 SWSスナイパーライフルと大量の弾薬を持ち出し、人目のつかない深い森の中へと入る。


 標的は、数キロ先の山の斜面にいる野鳥や、風で揺れる木の葉。

 動く船の上から、夜の海風を読み、2キロ先の人間を撃ち抜く。

 私がこれまで経験したことのない、極限の難易度を誇る射撃だ。


「……ふぅ……」


 私は冷たく湿った地面にうつ伏せになり、バイポッドを立ててライフルを構え、スコープを覗き込んだ。

 秋の冷たい風が私の頬を撫でる。

 感覚が戻った私の身体は、風の冷たさも、土の匂いも、銃の金属の硬さも、すべてをリアルに感じ取っている。

 そして、トリガーにかけた人差し指の腹には、金属の冷たい感触と、引き金を引くためのわずかな反発力が、しっかりと伝わってくる。


 以前のように「視覚でターゲティングして、無感覚のまま一気に引き切る」という荒業に頼る必要はもうない。

 私は、自分の皮膚感覚と筋肉の動きを完璧に同期させ、風を読み、重力を計算し、ゆっくりと、ゆっくりとトリガーを絞っていく。


 ——ダァァンッ!!


 轟音と共に放たれた7.62ミリ弾が、はるか先の枯れ枝を正確に吹き飛ばす。

 と同時に、銃の強烈な反動が、私の右肩をドンッと力強く打ち据えた。


「……っ」


 痛い。

 神宮寺のラボで撃ち込まれた、右肩の銃創。傷口自体はドクターの処置で塞がっているものの、強力なリコイルが直接筋肉や骨に響き、鈍い痛みが走る。

 でも、痛み自体は耐えられないものではなかった。施設にいた頃から、物理的な痛みを脳内で処理して無視する術は、私の身体に染み付いている。この程度の衝撃なら、顔をしかめることもなく次弾の装填動作に移ることができるはずだ。


 しかし。

 その肩の痛みが脳に伝達された瞬間、私の視界に、強烈なノイズが走った。


『さあ、感情を殺せ!! 機械に戻れ!! そうすれば、すべてが楽になる!!』


 暗い無菌室。白く冷たい手術台。

 私を見下ろす、バイザー越しの神宮寺の冷酷な笑み。

 肉を切り裂かれ、骨を砕かれ、右目から生温かい血が流れ落ちていく、あの絶対的な絶望の記憶。


「はっ……ぁ、あ……っ」


 私はスコープから目を離し、ライフルを握る手をガタガタと震わせた。

 痛みを無視することはできる。だが、その痛覚そのものが『トリガー』となって、私をあの拷問のトラウマへと強制的に引きずり戻してしまうのだ。

 鼻腔に、血と排泄物と消毒液の混ざった不快な匂いが蘇る。

 呼吸が浅くなり、過呼吸気味に肩が上下する。私は地面に額を押し当て、必死に過去のフラッシュバックを振り払おうとした。


「大丈夫……ここは森の中よ。私はもう、あそこにはいない……。神宮寺のラボじゃないわ……っ」


 自分に言い聞かせるように呟いても、指先の震えは一向に収まらなかった。

 私は、まるで呪いのようにこびりつく恐怖と格闘しながら、力なく身体を丸めた。


「……ピュア」


 落ち葉を踏む微かな足音がして、すぐ傍から声が降ってきた。

 弾かれたように顔を上げると、そこには両手で小さなマグカップを持ったクォーツが立っていた。彼女は、私の震える姿を見て、悲しそうに少しだけ眉を下げている。


「クォーツ……」

「……ココア、淹れたの。蓮が、甘くしてくれた」


 クォーツは私の隣にしゃがみ込み、湯気の立つマグカップをそっと差し出してくれた。

 私はライフルから手を離し、両手でそのカップを受け取った。陶器越しに伝わってくる温かさが、凍りつきそうになっていた私の手のひらをじんわりと解きほぐしていく。


「……ありがとう。ちょうど、糖分が欲しかったところよ」


 私は無理に口角を上げてみせたが、その笑顔がどれほど引き攣っていたか、彼女にはお見通しだっただろう。

 一口飲むと、過剰なまでに甘いチョコレートの味が、荒れ狂っていた脳の神経を少しだけ落ち着かせてくれた。


 クォーツは、私の隣にちょこんと腰を下ろし、体操座りをして自分の膝に顎を乗せた。

 森の中は静かで、時折吹く風が木々を揺らす音だけが聞こえている。


「……ピュア、手が、震えてる」


 クォーツのガラス細工のような声が、静寂に溶け込むように響いた。

 誤魔化すことはできなかった。マグカップを持つ私の指先は、小刻みに揺れ続けている。


「……ええ。情けないわね」


 私は、自分の手を見つめたまま、ぽつりとこぼした。


「肩の傷に銃の反動が響くたびに、神宮寺のラボでの記憶がフラッシュバックしてしまうの。……痛いのは平気よ。痛みそのものは、ただの物理的な信号だもの。でも、その痛みが、あの男にすべてを奪われ、心を壊されそうになった恐怖を連れてくるのよ」


 私は、マグカップの温もりにすがりつくように、言葉を紡いだ。


「的を撃つのは簡単だわ。風を読んで、重力を計算して、指を動かせばいいだけだもの。……でもね、クォーツ」


 私は、傍らに置かれたスナイパーライフルを見下ろした。

 冷たく黒光りする銃身が、私に重い現実を突きつけている気がした。


「事務所のエントランスで、襲撃者に銃を向けられた時……私は、全く動けなくなってしまった。相手の顔を見た瞬間、私が引き金を引けば、この人もあの時の私と同じように、骨が砕けて、肉が裂けて、地獄のような痛みを味わうんだって……そう想像してしまって、怖くてたまらなくなったのよ」


 感情を持たなかった頃の私には、そんな想像力は微塵もなかった。

 敵は単なる排除すべきオブジェクトであり、彼らが痛みを感じようが死の恐怖に怯えようが、私の計算式には何の影響も及ぼさなかった。

 だが、自分が極限の痛みを味わい、人間としての感情を取り戻してしまった今の私は、他者の痛みにまで共感してしまうという、殺し屋として最も致命的なバグ。


「……私、自分が怖いの」


 私の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ、ココアの水面に小さな波紋を作った。


「作戦の当日。動く船の上から、神宮寺をスコープに捉えた時。……私が、本当に引き金を引けるのか。またあの時みたいに、恐怖と痛みの記憶に縛られて、指が動かなくなってしまったらどうしようって……そればかりが頭をよぎるのよ」


 もし私が撃ち損じれば、神宮寺は生き延びる。そして、私たちの数少ないチャンスは永遠に失われ、アリスの無念を晴らすことも、これ以上の被害者を止めることもできなくなる。

 その重圧が、私の華奢な肩に重くのしかかっていた。


 クォーツは、私の吐露を黙って聞いていた。

 彼女は、自分のポーチからいつものようにカラフルな包み紙のキャンディを取り出すと、それを不器用な手つきで剥き、私の方へと差し出した。


「……ピュアは、優しいから」


 彼女の言葉は、たどたどしく、けれどとても真っ直ぐだった。


「痛みを知って、人の気持ちがわかるようになったから……怖いんだと思う。……それは、ピュアが、ちゃんと人間になったってことだよ」

「……クォーツ」

「でもね」


 クォーツは、私の目を見つめ、静かに、けれど強い意志を込めて言った。


「神宮寺は、悪いやつ。……アリスを、壊した。……アリスの笑顔を、奪った」


 彼女の大きな瞳の奥に、仄暗い、けれど揺るぎない怒りの炎が灯っているのが見えた。


「アリスみたいな人が、これ以上増えるのは、絶対に嫌。……だから、撃たなきゃいけないの。アリスのために。私たちの、大切な世界を守るために」


 クォーツは、差し出していたキャンディを、私の口元へと寄せてきた。

 私は少し口を開け、その甘い塊を受け取った。ストロベリーの香工料の味が、口いっぱいに広がる。


「……ピュアが、怖いなら」


 クォーツは、私の隣にさらに身を寄せ、私の震える右手を自分の小さな両手でしっかりと包み込んだ。


「私が、一緒にいる。……作戦の時も、私があなたを隣で守る。ずっとピュアの隣にいるから」

「……」

「ピュアの手が震えそうになったら……私が、一緒に引き金を引く。だから、一人だなんて思わないで。……ピュアの背中は、私が支えるから」


 彼女の言葉は、どんな論理的な解決策よりも、私の胸の奥に深く、確かに響いた。

 私は一人じゃない。

 この恐怖も、引き金を引く罪悪感も、私一人で背負う必要なんてないのだ。彼女が、アドが、蓮が、モニターが。みんなで一緒に背負ってくれる。

 アリスを想うこの気持ちが、私たちを繋いでいるのだから。


「……ありがとう、クォーツ」


 私は、彼女に包まれた自分の右手を見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。

 手の震えは、完全に止まっていた。

 過去のトラウマが消え去ったわけではない。人を撃つ恐怖がなくなったわけでもない。

 けれど、それを乗り越えるための『理由』を、彼女が私に思い出させてくれた。


「私、絶対に撃ち抜いてみせるわ。……アリスのために、そして、あなたたちと生きていく未来のために」


 私が決意を込めて告げると、クォーツは少しだけホッとしたように微笑み、何度も頷いた。


「うん。……ピュアなら、絶対にできる」


 私たちは、冷たい風の吹く森の中で、肩を寄せ合いながらしばらくの間、無言で夕暮れの空を見つめていた。

 ココアの温かさと、キャンディの甘さ。そして、隣にいる仲間の存在。

 それらが、私のすり減った精神を少しずつデフラグし、次なる戦いへの演算を整えてくれているのがわかった。


 だが、決行の日は無情にも刻一刻と迫っている。

 神宮寺誠一郎という巨大な悪意。彼が海上のプラントで何を企み、どんな防衛網を敷いているのか、全貌は未だに掴みきれていない。

 私たちの作戦は、細い糸を渡るようなギリギリの賭けだ。

 もし一発でも外せば、すべてが終わる。

 その重苦しいプレッシャーは、夕闇が深まるにつれて、森の空気と共に私たちを冷たく包み込んでいくようだった。

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