第一話「あなたが残してくれたもの」
私は、動かなくなったアリスの身体にすがりつき、ただひたすらに涙を流し続けていた。
時間の概念は完全に消失していた。どれほど大声を上げて泣き叫んだのか、喉は乾燥しきり、声はすでに掠れきって空気の漏れるような音しか出なくなっていた。
感覚のない両手で、彼女の服をギュッと握りしめる。彼女の胸の奥から聞こえていたはずの心音は、もうどこにも存在しない。私が自らの手で、彼女の未来を、彼女がこれから紡ぐはずだったすべての時間を、物理的に断ち切ってしまったのだ。
ピーッ、という心電図のフラットな電子音だけが、無機質な病室に冷たく響き続けていた。
その時。
背後の扉が、静かに開く音がした。
「……アリスさん、イチゴと桃、どっちがいいか迷ったんですけど、両方買ってきましたよ。あと、クォーツさんが言ってたゼリーも……」
少し弾んだような、日常の温かさをまとった蓮の声が、病室の空気に触れてピタリと止まった。
振り返らなくてもわかる。買い出しから戻ってきた蓮とクォーツが、部屋の異常な光景——鳴り響く心電図のアラート、アリスの首に残る私の指の赤い痕、そして彼女の遺体の上で泣き崩れている私の姿を、その目に焼き付けてしまったのだ。
「……え?」
蓮の口から、間の抜けた、理解を拒絶するような声が漏れた。
ガサリ、と彼の手から買い物袋が滑り落ち、中に入っていたフルーツやゼリーが床に無惨に転がる。
「ピュア……さん……? アリス、さん……?」
蓮は、震える足で一歩、また一歩とベッドに近づいてきた。
彼の脳は、目の前の現実を処理しきれず、パニックを起こしているのがありありとわかった。私がアリスの首を絞めたという事実と、アリスが死んでいるという事実が、彼の論理回路の中で結びつかないのだ。
「どうして……心電図が……。先生! ドクター!! 誰か……っ!」
蓮がパニックに陥り、病室を飛び出して助けを呼ぼうと踵を返そうとした、その瞬間だった。
「……待って、蓮」
クォーツが、静かに、けれど確かな力で彼の腕を掴んだ。
彼女の大きな瞳からは、すでに大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。彼女は、部屋に入ってきた瞬間から、この状況が何を意味しているのかを完全に理解していたのだ。
「クォーツさん……っ!? 何言ってるんですか、アリスさんが……ピュアさんが……っ!」
「……アリスが、頼んだの」
クォーツは、しゃくり上げるのを必死に堪えながら、震える声で告げた。
「アリスが……ピュアの手で、終わらせてほしいって。……自分が、薬のバケモノになる前に……ピュアに、殺してほしいって……」
「な……っ」
蓮は、雷に打たれたように完全に硬直した。
彼の瞳孔が極限まで見開き、クォーツと、そして私を交互に見つめる。
「ウソだろ……。ピュアさんが……アリスさんを……殺した……?」
「……私が、アリスと約束したの。……私と、アドに……アリスが、泣いて、お願いしたから……っ」
クォーツはついに耐えきれなくなり、その場に崩れ落ちて両手で顔を覆った。
蓮は、フラフラと後ずさり、壁に背中を打ち付けた。彼にとって、アリスは恩人であり、この組織における太陽だった。そして私にとっても、彼女がどれほど大切な存在であるか、彼は誰よりも知っていたはずだ。
その私が、自らの手で彼女の命を絶った。その残酷すぎる矛盾と悲劇の質量に、11歳の少年の精神は耐えきれるはずがなかった。
「あ、あぁ……っ、アリスさん……っ、ピュアさん……っ」
蓮は床にへたり込み、頭を抱えて声を上げて泣き始めた。
私は、彼らにかける言葉を何1つ持っていなかった。私はただ、動かなくなったアリスの傍らで、自分の犯した罪の重さと、取り返しのつかない喪失感に身を委ねるだけだった。
しばらくして、蓮は泣きはらした顔を上げ、震える足で立ち上がった。
「……俺、アドさんたちを……呼んできます」
彼はそれだけを絞り出すように言うと、足を引きずるようにして病室を飛び出していった。
残された私とクォーツは、ただアリスの静かな寝顔の傍らで、互いの嗚咽だけを共有し続けていた。
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程なくして、アドとモニター、そしてドクターが病室へと駆け込んできた。
ドクターは無言でベッドに近づき、アリスの首筋に指を当て、瞳孔を確認し、そして静かに首を横に振った。
死亡確認。
その物理的な宣告が下された瞬間、部屋の空気はさらに重く、冷たい絶望へと沈み込んだ。
アドは、何も言わなかった。
彼は咥えていた葉巻を強く噛み締め、ギリッと奥歯を鳴らした。その目は血走り、深い怒りと悲しみがドス黒く渦巻いていたが、私を責める言葉は1つも口にしなかった。アリスの覚悟を、そして私の背負った地獄を、彼は誰よりも理解していたからだ。
モニターは、静かに目を閉じ、胸の前で両手を組んで祈るような姿勢をとっていた。彼もまた、幼い娘を失った過去の記憶を、この残酷な現実に重ね合わせているのだろう。
「……ドクター。火葬の準備を」
アドが、ひどく掠れた声で指示を出した。
裏社会に生きる私たちに、表立った葬儀をあげる権利はない。タイガーの時と同じように、私たちの手で、ひっそりと彼女を灰に還すしかなかった。
療養所の裏手には、古い焼却炉が残されていた。
シンたちのクリーニング班がいない今、遺体の処理は私たち自身で行わなければならない。
アドとモニターが、アリスの身体を丁寧に白いシーツで包み、ストレッチャーに乗せて裏庭へと運んだ。
私は車椅子に座り、ロータスに押されながらその後を追った。ただでさえふらつく足取りが、さらに掴めなくなっていたからだ。
夜の冷たい山風が吹く中、錆びついた焼却炉の扉が開かれた。
アリスの身体が、静かにその冷たい鉄の奥へと納められる。
クォーツが、アリスの胸の上に、彼女が好きだったカラフルなキャンディをいくつかそっと置いた。それが、私たちにできるせめてもの手向けだった。
「……火を入れるぞ」
アドがスイッチを押し、重厚な金属の扉がガシャンと音を立てて閉ざされた。
ゴォォォォッという低い燃焼音が響き、煙突から黒い煙が夜空へと昇っていく。
私は、焼却炉の小さなガラス窓の奥で、オレンジ色の炎がアリスの身体を包み込んでいくのを、ただ無表情で見つめていた。
彼女の肉体が、物理的にこの世界から消滅し、ただの炭素と灰に変わっていく。
熱いのだろうか。
私の皮膚感覚は完全に死滅しているため、焼却炉から放たれる圧倒的な熱量すら、私には1ミリも伝わってこない。
私と世界を隔てるこの絶対的な温度の喪失が、アリスを失ったという事実をさらに空虚で残酷なものにしていた。
私は、炎の中で燃え尽きていく彼女の姿を、ただ左目の視覚データとして脳に刻み込み続けた。
涙はもう、枯れ果てて出なかった。
心の中にあった『好き』という温かい感情は、彼女の死と共に完全に凍りつき、ただ重く冷たい石の塊となって胸の奥に沈黙していた。
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火葬が終わり、私たちは無言のまま療養所の建物へと戻った。
私は、ロータスに車椅子を押されて、自分に割り当てられた空き部屋へと運ばれた。
ロータスが「何か必要なものがあれば呼んでください」と力なく告げて去った後、私は薄暗い部屋のベッドの傍らで、ただ一人、虚空を見つめていた。
コンコン、と。
控えめなノックの音がして、扉が開いた。
現れたのは、アドだった。彼は私の前に歩み寄ると、無言で一つの白い封筒を差し出した。
「……アリスが、お前らに残したもんだ。俺が預かってた」
その言葉に、私は視線を上げた。
感覚のない手で、不器用にその封筒を受け取る。
「……一人にしてちょうだい」
「……ああ」
アドはそれ以上何も言わず、静かに部屋を出て行った。
私は、手の中の封筒を見つめた。
表には何も書かれていない。私はペーパーナイフを使うこともなく、不器用な指先で封を破り、中から便箋を取り出した。
そこに書かれていたのは、アリスらしい、少し丸みを帯びた不揃いな文字だった。薬の禁断症状による震えを必死に抑えながら、彼女が最期の力を振り絞って書いたのだろう。インクが所々掠れ、文字の軌跡が乱れている。
『ピュアちゃん、クォーツちゃんへ。そして、みんなへ』
私は、息を止め、その文字を一つ一つ目でなぞっていった。
『これを読んでいるということは、私はもう、みんなのそばにはいないんだね。
急にこんなことになって、本当にごめんなさい。みんなには、最後まで笑っていてほしかったのに、私が一番最初にリタイアしちゃうなんて、本当にカッコ悪いよね』
彼女の明るくおどけた声が、脳内で自動的に再生される。
『でもね、私、少しも後悔してないんだ。
ピュアちゃん。私ね、ピュアちゃんのことが大好きだったよ。
お付き合いしたかったな。一緒に色んなところに出かけて、いっぱいお話しして、普通の恋人同士みたいに、手を繋いで歩きたかった。
死ぬ前に、ちゃんと伝えられたかな? ピュアちゃんは理屈っぽいから、私の気持ち、ちゃんと計算式に組み込んでくれたか心配だよ』
その文章を読んだ瞬間、枯れ果てていたはずの左目から、再び熱い涙がポロリとこぼれ落ち、便箋に小さな染みを作った。
伝わっていた。あなたの気持ちは、私にちゃんと届いていた。
私も、あなたに恋をしていた。もっと早く、あなたにその気持ちを伝えていれば。
遅すぎる後悔が、私の胸を再びギリギリと締め付ける。
『私のものは、全部ピュアちゃんとクォーツちゃんで分けてもらって。
服とか、アクセサリーとか、使えるものがあったら使ってね。
もしアドや蓮くんが欲しいってものがあったら、それもあげて。
みんなで、私のことを少しでも覚えてくれていたら、すごく嬉しいな』
彼女は、最期の最期まで、残される私たちのことを気遣っていた。
自分が忘れられることを恐れながらも、私たちが彼女の遺品を見ることで少しでも温かい気持ちになれるようにと、優しさを残してくれた。
そして、便箋の最後の数行。
『ピュアちゃんに、こんな残酷なこと頼んで、本当にごめん。
私の我儘で、ピュアちゃんに一生消えない傷をつけちゃったこと、許してほしいなんて言わない。
でも、私は本当に幸せに逝けたから。
ピュアちゃんの手で終われたこと、ピュアちゃんが私を好きだって言ってくれたこと。
この想いは、絶対に忘れないで』
「……っ、あ……」
私は、便箋を両手で強く胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
彼女は、幸せに逝けたと言ってくれた。
私が彼女の命を絶ったことを、彼女は最高の愛の証明として受け入れてくれたのだ。
だが、その言葉が私を救うことはなかった。
彼女がどれほど幸せだったと言ってくれても、私が彼女を失ったという絶対的な物理的事実は、何1つ覆らない。
私の世界は、彼女という太陽を失い、再び深い闇の中へと沈んでしまった。
痛覚も、皮膚感覚も、愛する人の温もりも、すべてが失われた私の身体。
手の中の便箋の紙の質感すらわからない。
私は、ただ冷たい部屋の中で、アリスの残した言葉の重みと、取り返しのつかない喪失感に身を委ねていた。
希望など、どこにもない。
私の前には、ただ残酷で冷たい現実だけが、無機質に横たわっているだけだった。
どれほどの時間、意識を手放していたのだろうか。
涙はとうの昔に枯れ果て、私の脳は過剰なエラー処理に耐えきれず、強制的にシャットダウンを引き起こしていた。
次に目を覚ました時、窓の外はすでに白み始めており、冷たい朝の光がカーテンの隙間から部屋の中に差し込んでいた。
ここは、療養所の2階にあてがわれた空き部屋だ。
天井を見つめながら、私は昨夜の出来事——アリスを自らの手で殺めたこと、そして彼女の遺書を読んだことを、冷酷なまでに鮮明なデータとして再確認した。
胸の奥にある重く冷たい石のような塊は、一晩眠ったからといって消え去るものではない。むしろ、アリスがこの世界にもう存在しないという物理的な現実が、朝の光とともに私の精神をより深く、暗い絶望の底へと縛り付けていた。
私が上体を起こそうと視線を下ろした時。
私の左腕の中に、小さな重みがあることに気がついた。
クォーツだった。
彼女は、いつの間に部屋に入ってきたのか、私の腕の中で身体を丸め、服の裾をギュッと握りしめたまま、静かな寝息を立てていた。彼女の目元は赤く腫れ上がり、頬にはまだ涙の跡がこびりついている。
アリスを失った喪失感に、彼女もまた一人で耐えきれなかったのだろう。
かつてアリスが彼女に与えていた安心感を求めて、アリスから「心を預ける」と約束された私の元へと、無意識に縋り付いてきたのだ。彼女にとって、私はアリスの代わりにはなれない。だが、同じ絶望を共有する唯一の依り代として、私の隣を選んでくれた。
「……クォーツ」
私は、彼女を起こさないように微かな声で呟き、右手をゆっくりと持ち上げた。
アリスがいつも彼女にしていたように、その頭を優しく撫でてあげようと思った。私の手には何の感覚もない。ただ視覚情報として、私の手が彼女の髪に触れ、撫でる動作を行っていることを確認するだけの、虚しい自己満足のタスクだ。
私の白い指先が、クォーツの柔らかな髪に触れる。
——その瞬間だった。
「……え?」
私の脳の体性感覚野に、微弱な、しかし確かな電気信号が到達した。
細く、滑らかな髪の毛の感触。
彼女の頭皮から伝わってくる、微かな人間の体温。
私の指先が、確かにそれを『感じ取った』のだ。
私は息を呑み、手の動きを止めた。
幻覚か。あるいは神経の誤作動によるゴーストペインのようなものか。
私は検証のために、指先を彼女の髪から頬へと滑らせた。
柔らかい皮膚の弾力。そして、涙の跡のわずかな湿り気。
間違いない。ゼロだったはずの私の触覚パラメーターが、明確な数値を脳へと出力している。
「……感覚が」
私は震える手で、自分のもう片方の腕に触れてみた。
包帯のざらついた布の質感。その下にある皮膚の温度。
痛覚はまだ鈍い。だが、完全に死滅していたはずの皮膚感覚が、確かに戻ってきている。
私は恐る恐る、クォーツを起こさないようにベッドの端へと身を滑らせた。
両足を床に下ろす。
足の裏に、古い木造の床板の冷たさと、硬さが伝わってきた。
視覚情報に頼らずとも、床がどこにあり、どれほどの圧力をかければ身体を支えられるのか、脳が瞬時に無意識の演算を行う。
私は、ベッドの柵から手を離し、立ち上がった。
ふらつくことはない。重心が完璧に足の裏のセンサーとリンクし、私の姿勢制御プログラムが正常に稼働している。
一歩、前に踏み出す。
体重の移動、足の裏の摩擦。すべてが、かつてのように自然に処理される。
私は、普通に歩けるようになっていた。
「どういうこと……」
私は自分の両手を見つめながら、脳内で超高速のシミュレーションを開始した。
神宮寺の拷問によって、末梢神経から中枢神経に至る知覚回路が物理的に焼き切れたと推測していた。
だが、それは誤りだったのだ。
もし神経細胞が物理的に破壊されていたのなら、いかなる自然治癒力をもってしても、これほどの短期間で機能が回復することはあり得ない。
ならば、答えは一つ。
私の感覚喪失は、物理的な断裂ではなく、脳のソフトウェア的な『自己防衛機能の暴走』——極度の解離性感覚麻痺だったということだ。
無限の苦痛と恐怖から精神を守るため、私の脳は痛覚だけでなく触覚を含むすべての入力ゲートを強制的にシャットダウン(遮断)していた。
それが、なぜ今になって再起動したのか。
……アリスだ。
私がアリスの命を自らの手で絶ったこと。彼女の死という、私の精神を根底から粉砕するほどの絶対的な悲しみと喪失感。そして、彼女の遺書を読み、彼女の愛を完全に受容したこと。
その巨大な感情の津波が、私の脳に強固にかけられていた防衛のロックを、内側から暴力的に押し流し、ショートしていた神経伝達物質の回路を強制的に再接続させたのだ。
「……私の脳は、彼女の死という最大のショック療法によって、リブートされたのね」
極めて理にかなった、しかしあまりにも残酷な論理的帰結だった。
私は、自分が人間として機能するために、アリスの命という代償を支払ったのだ。
私は、眠るクォーツに毛布をかけ直し、静かに部屋の扉を開けた。
階段を下り、1階へと向かう。
足の裏から伝わる階段の木材の軋む感覚が、私が確かにこの物理空間に存在していることを証明していた。
1階の広いリビングルーム兼通信室では、アドとロータス、そしてモニターの3人が、すでに作業を開始していた。
テーブルの上にはパソコンが並べられ、彼らは画面を睨みながら低い声で言葉を交わしている。徹夜で解析を続けていたのか、テーブルには空のコーヒーカップがいくつも転がっていた。
「……おはよう」
私が声をかけると、3人は同時に作業の手を止め、こちらを振り返った。
「ピュアさん……」
ロータスが、私の姿を見て目を丸くした。
無理もない。昨日まで、私は車椅子に座り、彼らの手を借りて歩くこともあった状態だったのだ。それが今、誰の支えもなく、一人で階段を下りて彼らの前に立っている。
「おい、ピュア。お前、その足……」
アドが咥えていたタバコを灰皿に落とし、驚愕の声を上げた。
モニターも信じられないものを見るように、立ち上がって私を見つめている。
「皮膚の感覚が戻ったわ」
私は、淡々と事実だけを報告した。
「神宮寺の薬物や拷問による神経の遮断は、物理的な破壊ではなく、心因性の解離によるソフトウェアのバグだったみたい。私の脳は、極限のストレスから身を守るために全感覚をシャットダウンしていたけれど……昨夜、そのロックが解除されたわ」
「感覚が、戻った……? じゃあ、もう普通に歩けるし、手も動かせるんですか?」
ロータスが、震える声で尋ねてきた。
「ええ。痛覚はまだ完全には戻っていないけれど、触覚や温度覚は正常に機能している。視覚情報に頼らずとも、私は以前のように自分の肉体を完璧に制御できるわ」
私が自分の手を握ったり開いたりして見せると、ロータスはポロポロと涙をこぼし、安堵の表情を浮かべた。
「よかった……! 本当に、よかった……っ」
「おいおい、奇跡ってのは裏社会にはねえって言ったばかりだが……人間の身体ってのは、本当にわからねえもんだな」
アドが深く息を吐き出し、少しだけ口角を上げた。
「ですが、なぜ急に感覚が戻ったんでしょうか。昨日までは、あんなに……」
モニターが、不思議そうに首を傾げた。
私は、自分の胸の奥にある重い塊を自覚しながら、静かに答えた。
「私の脳に致命的なショックが与えられたからよ。アリスの死という過大な感情データの入力が、私の防衛本能の壁を物理的に破壊し、システムを強制的に再構築した。極めて論理的な生体反応だわ」
私のその冷徹な自己分析を聞いて、部屋の空気が少しだけ重くなった。
アリスの死を「データ」として語る私の言葉は、彼らにはひどく冷たく響いたのかもしれない。だが、私にとってはそれが事実だった。
「……違いますよ、ピュアさん」
涙を拭ったロータスが、私を真っ直ぐに見つめて、静かに首を横に振った。
「システムとか、ショックとか、そういう理屈じゃないです」
「どういうこと?」
「きっと……アリスさんが、ピュアさんのために、力をくれたんですよ」
ロータスの言葉に、私の論理回路が一瞬だけフリーズした。
死者が生者に力を与える。それは非科学的であり、物理法則を完全に無視したオカルトの概念だ。
「アリスさんは、ピュアさんに自分を殺させるなんて残酷なことをお願いしたこと、忘れられなかったんだと思います。だから……自分が死んだ後、ピュアさんが少しでも戦えるように、少しでも温もりを感じられるようにって……アリスさんの想いが、ピュアさんの身体を治してくれたんです」
ロータスは、涙声になりながらも、必死に自分の言葉を紡いだ。
「アリスさんが、ピュアさんに残していってくれたんですよ。……ピュアさんが、もう一人で苦しまないように」
非合理的だ。
死んだ人間の意思が、生きている人間の神経細胞を再接続させるなど、医学的にあり得ない。
私は即座にその言葉を否定しようとした。
だが。
(……アリスが、残してくれた)
その言葉が、私の心に奇妙なほどすんなりと落ちていくのを感じた。
私がアリスを愛し、彼女の死を深く悲しんだからこそ、私の心は限界を超え、感覚を取り戻すことができた。
私の感情のトリガーは、間違いなくアリスだ。
私が彼女を想う気持ちが、私の壊れたシステムを修復したのだとすれば。
この足の裏から伝わる床の冷たさも、クォーツの髪の柔らかさも、すべてはアリスが私に与えてくれた『贈り物』だという解釈は、決して間違いではない。
「……そうね」
私は、自分の手を見つめ、静かに頷いた。
「この感覚は、アリスが私を人間の世界に繋ぎ止めてくれた証拠だわ。彼女が私に、まだ戦えるという物理的な証明を残してくれた」
私の言葉に、ロータスは小さく笑い、アドも静かに目を閉じた。
希望に満ちた奇跡などではない。これは、アリスという尊い命の喪失の上に成り立った、残酷な結果だ。
だが、私はこの身体で、彼女の想いを背負って生きていかなければならない。
「アド。ロータス。モニター」
私は顔を上げ、3人を冷徹な、しかし確かな意志を持った左目で見据えた。
「私の機動力と近接戦闘の機能は、完全に復旧したと思う。これで、神宮寺の要塞を物理的に粉砕するための演算に、一切の妥協は必要なくなった」
「……ああ。お前が完全な状態で前線に立つなら、作戦の成功確率は跳ね上がる」
アドが、テーブルの上の資料をまとめながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「アリスが残してくれたこの世界との繋がりを、無駄にはしない」
どれくらい泣き続けていたのか、わからない。
いつの間にか私は、アリスが書き残した三枚の便箋を胸に抱きしめたまま、眠りに落ちていたようだった。
目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む白々とした朝の光が、埃っぽい空き部屋を薄暗く照らしていた。
顔は涙と乾いた塩分でひどく突っ張り、泣き腫らした左目は重く熱を持っていた。右目のソケットを覆う眼帯の下には、もう流す涙すら残っていないような、ただ虚ろな空洞の感覚だけがある。
私は、重い身体を少しだけ動かそうとした。
その時、私の右腕の中に、微かな重みがあることに気がついた。
視線を下ろすと、私の腕にすがりつくようにして、クォーツが小さく丸まって眠っていた。
彼女の白い頬には涙の跡がこびりつき、まつ毛は濡れて束になっていた。
彼女もまた、アリスを失った悲しみと喪失感に苛まれ、一人でいることに耐えきれず、夜の間に私の部屋へとやってきたのだろう。
アリスという絶対的な太陽を失った私たちは、凍えそうな闇の中で、互いの存在にすがりつくことしかできなかったのだ。
私は、静かな寝息を立てるクォーツの寝顔を見つめながら、彼女がどれほど心細かったのかを想った。
アリスがしてくれていたように、彼女を安心させてあげたい。私が彼女の心を預かる人になると、そう約束したのだから。
私は、感覚のない左手をゆっくりと持ち上げ、クォーツの頭へとそっと伸ばした。
彼女の髪に触れ、優しく撫でてあげるつもりだった。
ただの視覚情報としての動作。触れている実感など得られないはずの、空虚な慰め。
——だが。
私の指先が、彼女の髪に触れた、その瞬間だった。
「……え?」
私の喉から、微かな声が漏れた。
指の腹に、細く、柔らかい髪の毛の感触が伝わってきたのだ。
サラサラとした髪の質感。そして、彼女の頭皮から伝わってくる、微かな人間の体温。
私は、ハッとして自分の左手を見つめた。
もう一度、クォーツの頭を撫でてみる。
間違いない。触れている。温かい。
神宮寺の研究所で、あの地獄のような拷問の末に完全に死滅したはずの私の皮膚感覚が、確かな『触覚』として私の脳にフィードバックされている。
「うそ……」
私は、震える手で自分の顔に触れてみた。
乾いた涙の跡。眼帯のざらついた布の感触。
シーツを握りしめれば、布地の織り目が指先に伝わってくる。
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
私は、クォーツを起こさないように、恐る恐るベッドから足を下ろした。
裸足のまま、冷たいフローリングの床に足の裏をつける。
……冷たい。そして、硬い。木目のわずかな凹凸までが、足の裏からしっかりと伝わってくる。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
視覚情報に頼って無理やりバランスを取る必要はなかった。足の裏の圧覚が、私の身体を支えるための重心を正確に脳に伝えてくれる。
私は、ごく自然に、一歩、また一歩と床を踏みしめて歩き出した。
ふらつくこともなく、転倒の恐怖もない。私が15年間、当たり前のように行ってきた『普通に歩く』という動作が、完全に私の身体に戻ってきていた。
「感覚が……戻ってる……」
私は、信じられない思いで自分の両手を見つめた。
だが、その事実に喜ぶよりも先に、どうしようもないほどの虚無感が私の胸を締め付けた。
感覚が戻った。でも、それが何だというのだろう。
私が一番触れたかった人、私が一番その温もりを感じたかった人は、もうこの世界にはいないのだ。
アリスが死んで、灰になってから、私の身体が元に戻るなんて。これほど残酷で、意味のない偶然があるだろうか。
私は、クォーツを起こさないようにそっと部屋の扉を開け、廊下に出た。
冷たい空気が肌を撫でる。その感覚すらも今はただ痛ましく、私の心をえぐった。
階段を降り、1階へと向かう。一段一段、階段を踏みしめるたびに、自分の足でしっかりと歩けているという実感が湧いてくる。
1階の広間を抜け、アドや蓮たちが作業をしている部屋の扉の前に立った。
ノブを握る。金属の冷たさが手のひらに伝わる。
私は、ゆっくりと扉を開けた。
「……ピュアさん?」
部屋の中では、乱雑に積まれた資料とPCの光に照らされながら、蓮とアド、そしてモニターの3人が、徹夜で情報の洗い出しを続けていた。
蓮が、入り口に立つ私の姿に気づき、疲労で真っ赤に充血した目をこすりながら立ち上がった。
「どうしたんですか? クォーツさんは……」
「クォーツは私の部屋で寝ているわ」
私は、自分の足でしっかりと歩き、彼らのいるテーブルのそばまで進み出た。
アドが、私の歩き方を見て、訝しげに眉をひそめた。
「おい、ピュア。お前……」
「ええ」
私は、自分の両手を彼らの前に差し出した。
「感覚が、戻ったみたい。足の裏の感覚もあるわ。……もう、普通に歩ける」
その報告に、部屋の空気が一瞬だけ止まった。
蓮が目を丸くし、モニターも驚きの表情で私を見つめた。
「本当ですか……!? 痛覚も、皮膚の感覚も、全部戻ったんですか!?」
蓮が、信じられないというように私の前に駆け寄り、私の手を恐る恐る握った。
彼の手の温もりが、少し汗ばんだ手のひらの感触が、私の肌に直接伝わってくる。
「……ええ。あなたの手の温度、ちゃんとわかるわ。少し、手が冷たいわね」
「ピュアさん……っ!」
蓮の目から、またしても大粒の涙が溢れ出した。
彼は私の手を握ったまま、ボロボロと泣き始めた。
「よかった……本当によかった……! 一生、感覚が戻らないかもしれないって、俺……ずっと怖かったんです……っ」
「泣かないで、蓮。あなたが泣くと、私もどうしていいかわからなくなるわ」
私は、感覚の戻った右手で、彼の涙で濡れた頬をそっと拭った。
彼の涙の温かさが、指先に伝わってくる。それは、私が外界で初めて触れた、生きている人間の生々しい温度だった。
「……奇跡ですね。あんな絶望的な神経の損傷から、一晩で回復するなんて」
モニターが、信じられないものを見るように呟いた。
アドは、咥えていたタバコに火をつけることも忘れ、ただ私の姿をじっと見つめていた。
「……奇跡、ですかね」
蓮が、涙を拭いながら、少しだけ腫れた目で私を見上げた。
「俺、思うんです。これって、きっとアリスさんが……ピュアさんのために、力をくれたんですよ」
「アリスが……?」
「はい。アリスさんが、ピュアさんがこれからも戦えるように、そして……俺たちの温もりを、ちゃんと感じられるようにって。最後の力を振り絞って、ピュアさんに感覚を返してくれたんだと思います」
蓮の言葉は、科学的な根拠など何一つない、ただの非合理的な願いのようなものだった。
以前の私なら、「死者が生者に物理的な影響を及ぼすなどあり得ない」と、冷たく一蹴していただろう。
だが、今の私は、自分の身体に起きたこの現象を、自分なりに論理的に解釈しようとしていた。
「……人間の脳は、極限のストレスにさらされると、自己防衛のために感覚を強制的にシャットダウンすることがある。転換性障害、あるいは心因性の感覚脱失ね」
私は、静かに言葉を紡いだ。
「神宮寺の拷問で、私の精神は崩壊寸前まで追い詰められ、脳がこれ以上の苦痛を拒絶して感覚回路を遮断した。……でも、昨日」
私の胸の奥が、ギリッと痛む。
「昨日、私は……アリスの死という、拷問以上の、最も受け入れたくない最大のストレスを経験したわ。私が自分の手で彼女の命を絶ったという事実が、私の脳に限界を超えた衝撃を与えた」
「ピュアさん……」
「おそらく、その強烈な精神的ショックがトリガーとなって、シャットダウンされていた神経回路が強制的に再起動されたのよ。恐怖や痛みから逃げるための遮断が、アリスを失ったという絶対的な絶望によって、強引に打ち破られたの」
それが、私の身体に起きたことの、最も妥当な医学的、論理的な解釈だった。
私の感覚は、奇跡で戻ったわけではない。アリスの死という、あまりにも重く残酷な代償を支払った結果として、私の脳が無理やり目を覚まさせられただけなのだ。
「……でもね」
私は、自分の手のひらをじっと見つめた。
アリスが死んでしまった後に、感覚が戻るなんて。こんなに残酷な皮肉はない。
彼女を抱きしめた時の温もりは、もう二度と感じることはできない。彼女が最後に私を抱きしめてくれた時のあの強さも、私の肌には記憶されていない。
それでも。
「……蓮の言う通りかもしれないわ」
私は、悲しい事実を受け入れながらも、小さく微笑んだ。
「これがただの物理的な現象だとしても……私は、アリスが遺してくれたものだと、そう思いたい。彼女が私に、『痛みから逃げずに、ちゃんとこの世界を生きて』って、そう言ってくれているような気がするの」
アリスが、私に戦うための力を返してくれた。
そう思わなければ、この喪失感に押し潰されて、私は本当に立っていられなくなりそうだったから。
「……ピュア」
アドが、低く静かな声で私を呼んだ。
「感覚が戻ったってことは、銃のトリガーも、ナイフの柄も、以前と同じように握れるってことだな」
「ええ。近接戦闘のパフォーマンスも、元の状態に戻せると思うわ。リハビリは必要ない」
私は、アドを真っ直ぐに見据えた。
私の感覚が戻ったことで、事態が好転したわけではない。アリスは死に、私たちは依然として神宮寺の巨大な包囲網の中にいる。
ただ、私が彼を殺すための『機能』が、完全な状態で戻ってきたというだけだ。
「……そうか」
アドは、短く頷き、デスクの上の灰皿に視線を落とした。
「なら、お前のその感覚は、神宮寺の野郎を八つ裂きにするためだけに使え。アリスが命と引き換えにお前に残してくれた力だ。絶対に無駄にするな」
「言われるまでもないわ」
私は、自分の両手を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
痛い。この痛みが、私が生きている証拠であり、私が背負った罪の重さだ。
アリスをこの手で殺した感触を、私は一生忘れない。その痛みを抱えたまま、私は最強の殺し屋として、神宮寺誠一郎のすべてを破壊し尽くす。
「神宮寺の動向は掴めたの?」
私が尋ねると、蓮とモニターの顔が険しくなった。
「……それが、まだです」
蓮が悔しそうに首を振る。
「ダミー会社のネットワークも、関連施設の監視カメラも、すべて物理的に切断されているみたいです。奴らは完全に情報の海から姿を消して、地下に潜っています。……あの大規模な取引のプレゼンテーションに向けて、どこかで確実に準備を進めているはずなんですが……」
「焦ってはいけません、ロータス君」
モニターが、彼の肩に手を置いて落ち着かせた。
「神宮寺は必ず動きます。あの規模の薬物を動かすには、必ず物理的な流通ルートが必要になる。私たちが網を張っていれば、必ずどこかでほころびが出るはずです」
私は、彼らの言葉に静かに頷いた。
待つしかない。今は、彼らが尻尾を出すのを、息を潜めて待つしかないのだ。
「……私は、少し外の空気を吸ってくるわ」
私はそう言い残し、部屋を出た。
療養所の玄関の重い扉を開けると、ひんやりとした朝の山の空気が、私の肌を撫でた。
肌寒い。その感覚が、私を現実に繋ぎ止めてくれる。
私は、空を見上げた。
どんよりとした薄曇りの空。太陽は、雲に遮られて見えない。
アリス。私の太陽。
あなたがいない世界は、こんなにも寒くて、冷たいのね。
私は、コートのポケットの中で、自分の拳をきつく、きつく握りしめた。
肺の奥まで吸い込んだ山中の空気は、刃物のように冷たかった。
木々の間を吹き抜ける風が、私の頬を刺し、髪を揺らす。療養所の周囲を囲む深い森は、どんよりとした灰色の雲の下で、まるで世界から切り離された牢獄のように静まり返っていた。
私は、コートのポケットに両手を入れたまま、足元の砂利を軽く蹴ってみた。
靴底越しに伝わってくる、石の硬さと、地面の感触。
昨日まで、私にとって世界はただの映像の羅列でしかなかった。いくら自分の足で歩こうとも、そこに地面があるという確かな実感は得られなかった。
けれど今は違う。風の冷たさも、土の匂いも、足の裏の圧力も、すべてが私の脳に直接届いている。
感覚が戻った。
それは本来なら、涙を流して喜ぶべきことなのだろう。蓮がそうしてくれたように。
でも、私の心はどこまでも沈み込んでいた。
感覚が戻ったからといって、アリスが生き返るわけじゃない。
私が彼女の首を絞めた時の、あの指に食い込むような恐ろしい感触。彼女の頬の冷たさ。最後に唇を重ねた時の、微かな震え。
それらの大切な、そして残酷な記憶は、私の手には一切残っていないのだ。私の感覚は、彼女が完全に灰になってしまってから、まるで私を嘲笑うかのように戻ってきた。
なんて意地悪なんだろう。神様なんて信じていないけれど、もしいるのだとしたら、本当に性格が悪いと思う。
「……ピュアさん」
背後から、遠慮がちな声が聞こえた。
振り返ると、重厚な玄関の扉を開けて、蓮とモニターが外に出てきたところだった。
蓮の手には車のキーが握られており、モニターの肩には大きめのボストンバッグが下げられている。二人はこれから、山を降りて買い出しに向かうのだろう。
「蓮。それにモニターも」
私が声をかけると、蓮はホッとしたような、でもまだどこか心配そうな顔をして近づいてきた。
「外、寒くないですか? 感覚が戻ったばかりなんだから、あまり無理して身体を冷やしちゃダメですよ。コート、ちゃんと前を閉めてください」
蓮は、私のコートの襟元を見て、少しだけ小言をこぼした。
以前の私なら「体温調節くらい自分でできる」と冷たく突き放していただろう。でも、今は彼のそのお節介が、少しだけくすぐったくて、ありがたかった。
「大丈夫よ。この冷たさが、私が生きているって教えてくれているみたいだから」
「……そうですか。でも、何かあったらすぐに言ってくださいね」
蓮はまだ心配そうだったが、モニターが彼の肩をポンと叩いた。
「あまり過保護になりすぎるのもよくありませんよ、ロータス君。彼女は自分の身体の声に、誰よりも耳を澄ませているはずですから」
「それはわかってるんですけど……」
モニターは私に向き直り、穏やかに微笑んだ。
「これからの長期戦に備えて、食料や医療品、それから通信機器の予備バッテリーなどを調達してきます。神宮寺の連中に見つからないよう、複数のダミーのルートを使って分散して買い集めるつもりです」
「そう。気をつけてね。敵はどこに網を張っているかわからないわ。少しでも怪しいと思ったら、物資は諦めてすぐに引き返して」
「ええ、肝に銘じておきます」
モニターは深く頷き、蓮に顎で合図を送った。
「ピュアさん、俺たち、すぐ戻りますから。何か食べたいものとか、欲しいものありますか?」
蓮が、車のドアに手をかけながら私に尋ねた。
欲しいもの。
私の頭に真っ先に浮かんだのは、アリスが嬉しそうに食べていた甘いケーキや、彼女が好んでいたカラフルなキャンディだった。
でも、それを買ってきても、もう彼女と一緒に食べることはできない。
その事実が、私の胸をギリッと締め付けた。
「……いいえ。特にないわ。二人が無事に帰ってきてくれれば、それでいいのよ」
私が静かに答えると、蓮は少しだけ寂しそうに目を伏せたけれど、すぐに顔を上げて力強く頷いた。
「はい。必ず、無事に戻ります。……行こう、モニターさん」
「ええ」
蓮が運転席に乗り込み、モニターが助手席に収まる。
エンジンが低く唸りを上げ、偽装されたバンがゆっくりと動き出した。
私は、砂利道を下っていく黒い車体を、見えなくなるまでじっと見送った。
彼らが無事に帰ってくる保証なんて、どこにもない。ここは戦場のすぐ隣なのだ。仲間を見送るという行為が、これほどまでに胸をざわつかせるものだとは知らなかった。
車の排気音が遠くの山々に吸い込まれて消えると、再び絶対的な静寂が私を包み込んだ。
私は深く息を吐き出し、冷たい風から逃れるようにして、建物の重い扉を開けた。
療養所の中は、外よりも少しだけ空気が淀んでいるように感じられた。
古い木造の床が、私の体重を受け止めて微かに軋む。
一歩一歩踏みしめるたびに、足の裏から伝わる床の硬さが、私を現実に縛り付けている。
私は、1階の廊下を歩き、先ほどまでアドたちが集まっていた通信室へと向かった。
アリスがいない今、私たちがやるべきことは、神宮寺の尻尾を掴むことだけだ。彼らが残したデータや、これからの作戦について、少しでも思考を巡らせておきたかった。
扉のノブに手をかけ、ゆっくりと部屋の中へと入る。
「……あれ」
部屋の中には、徹夜で指揮を執っていたアドの姿はなかった。
彼が座っていた簡易ベッドはもぬけの殻で、毛布が乱雑に畳まれている。おそらく、別の部屋のシャワーを使いに行ったか、あるいは少しでも深い眠りにつくために別の空き部屋へ移動したのだろう。
部屋の空気は、数人の大人が一晩中詰め込んでいたせいか、コーヒーの匂いとタバコの煙の匂いが混ざり合って、ひどく淀んでいた。
代わりに、部屋の隅のデスクで、一人静かに作業をしている人影があった。
ドクターだ。
彼は白衣の袖をまくり上げ、手元のタブレットと、机の上に広げられたいくつかのカルテを睨みつけていた。
アリスが亡くなった後も、彼は彼女の血液データや、あの未知の薬物の成分解析を続けているようだった。彼の目の下にも、蓮たちと同じように濃い疲労の影が落ちている。
私が部屋に入ってきたことに気づくと、ドクターはタブレットから目を離し、小さく息を吐いた。
「……なんだ、ピュアか。外に出てたんじゃなかったのか」
「少し空気を吸ってきただけよ。アドは?」
「あいつなら、さっきフラフラになりながら別の部屋に寝に行った。さすがのバケモノも、三日三晩の徹夜には勝てなかったらしい」
ドクターは、机の上のマグカップを手に取り、冷めきったコーヒーを一口飲んで渋い顔をした。
「お前も、少しは休め。感覚が戻ったばかりで、身体のあちこちが悲鳴を上げてるはずだ。無理して動けば、せっかく繋がった神経がまたショートするぞ」
「心配しないで。自分の身体の限界は、私が一番よくわかっているわ」
私は、部屋の中央にある長机のそばまで歩み寄った。
机の上には、蓮やモニターが使っていたノートPCや、書き込みがされた地図、そして乱雑に置かれたマグカップや資料が散らばっていた。
彼らがどれだけ必死に、神宮寺の影を追っていたかがわかる。
私は、机の端を指でそっと撫でた。
木の質感が、指先に伝わってくる。
本当に、全部戻ってきたんだ。
私は、自分の手を見つめながら、ふと、机の上に置かれていたものに視線を留めた。
それは、蓮が座っていたノートPCのすぐ横に置かれていた、一つのマグカップだった。
何の変哲もない、白い陶器のコップ。
中には、彼が徹夜の作業中に飲んでいたであろうコーヒーが、ほんの少しだけ底に残っている。彼がさっきまで口をつけ、その手に握りしめていたものだ。
「……」
私は、そのコップをじっと見つめた。
コップの縁についた微かな水滴。持ち手の部分に残る、彼が触れていた痕跡。
私の頭の中で、何か冷たい、けれどとても静かな思考が回り始めていた。
アリスの死。私の感覚の回復。蓮の涙。神宮寺の実験。
私の視線は、コップに固定されたまま、動かなかった。
自分でも、なぜそこから目を離せないのかわからないように、ただじっと、その白い陶器の表面を見つめ続けていた。
部屋の中には、ドクターがタブレットを操作する微かな電子音だけが響いている。
私は、コップからゆっくりと視線を外し、部屋の隅にいるドクターの方へと顔を向けた。
「……ねえ、ドクター」
私の声は、ひどく静かで、どんな感情も混ざっていない、ただの平坦な音だった。




