第六話「愛してる」
「……蓮。モニター」
私は、二人を真っ直ぐに見つめた。
彼らがどれほど私のことを気遣い、支えてくれようとしているか。その真っ直ぐな想いを聞いてしまった以上、私も自分の心にある本当の言葉を、ちゃんと伝えなければならないと思った。
「今まで……あなたたちのことを、ただの便利な手足だとか、監視するだけの環境の一部だなんて言って、モノみたいな扱いをして……本当に、ごめんなさい」
私が頭を下げて謝罪すると、蓮とモニターは信じられないものを見るように目を見開いた。
「ピ、ピュアさん!? 頭を上げてください! 俺、そんな風に気にしたことなんて一度もありませんから!」
「そうです。純玲さんが謝るようなことは何一つありません。私たちは、自らの意志であなたをお守りすると決めたのですから」
二人が慌てて私を止めようとするけれど、私はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。これは私自身の問題よ。私はずっと、誰かを信じることが怖くて、自分を守るためにあなたたちを突き放していた。……でも、もう違うから」
私は、二人に向かって、心からの不器用な笑顔を作った。
「あなたたちは、私にとってかけがえのない、大切な仲間だと思ってる。……これからも、どうか私を頼りにさせて」
私の言葉を聞いて、蓮の目から再びぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼は袖で乱暴に涙を拭いながら、何度も力強く頷いた。
モニターも、目元を少しだけ赤くして、静かに、しかし深く頭を下げた。
「はいっ! 俺、ピュアさんのために、絶対に神宮寺の尻尾を掴んでみせます!」
「ええ。私たちの全力を尽くして、あなたとアリスさんをお守りします」
私たちは、確かな絆で結ばれたことを確認し合った。
もう、私は孤独なバケモノじゃない。私の背中を預けられる、こんなにも温かい家族がいるのだ。
その時、少し開いたままになっていた部屋の扉の隙間から、ひょっこりと小さな顔が覗いた。
「……ピュア」
クォーツだった。彼女は扉をそっと押し開け、私に向かって小さく手招きをした。
「アリスが……呼んでる。ピュアと、話したいって」
「アリスが? わかったわ。今行く」
私は蓮とモニターに軽く頷き、クォーツと共に部屋を後にした。
廊下を歩きながら、クォーツが少しだけ私の歩幅に合わせてくれていることに気がついた。以前のような張り詰めた敵意はもうどこにもない。私たちは、同じ傷を抱え、同じ人を大切に想う仲間として、確かに心を通わせ始めていた。
アリスの眠る病室の扉を開けると、彼女はベッドの上で上体を起こし、窓の外の茜色の空をぼんやりと眺めていた。
私とクォーツが入ってきたことに気がつくと、彼女はいつものように、柔らかくて優しい笑顔を向けてくれた。
「ピュアちゃん、クォーツちゃん。ごめんね、起こしちゃったかな」
「ううん。私たちもさっき目が覚めたところよ。気分はどう? どこか痛むところはない?」
私がベッドの傍らに近づいて尋ねると、アリスは「ううん、大丈夫だよ。すごくぐっすり眠れたし、気分もいいよ」と笑って答えた。
その顔色はまだ青白いけれど、声には確かな張りが戻っているようだった。
「クォーツちゃん、ずっとそばにいてくれてありがとうね」
アリスがクォーツの頭を優しく撫でると、クォーツは嬉しそうに目を細めた。
そして、アリスは少しだけ真面目な顔になり、クォーツに優しく語りかけた。
「ごめんね、クォーツちゃん。ちょっとだけ、ピュアちゃんと2人にしてくれるかな? ……少し、内緒話がしたくて」
その言葉に、クォーツは一瞬だけ私を見たけれど、すぐにこくりと頷いた。
「……うん。わかった。外で、待ってる」
クォーツは静かに部屋を出て行き、パタンと扉が閉まる音が響いた。
部屋には、私とアリスの2人だけが残された。
医療機器の規則正しい電子音が、静かな空間に微かに鳴り響いている。
「……ふふっ」
アリスが、唐突に小さく笑い声を漏らした。
私が不思議に思って首を傾げると、彼女は私を見つめて、悪戯っぽく微笑んだ。
「いつの間に、あんなにクォーツちゃんと仲良くなったの?」
「え?」
「だって、前はピュアちゃんが私に近づくたびに、クォーツちゃんが威嚇のオーラを出してたじゃない? ピュアちゃんも、クォーツちゃんのことちょっと苦手そうにしてたし。……それが、さっきの2人を見てたら、なんだかすごく自然に一緒にいて。……私、すごく嬉しかったな」
アリスの言葉に、私は少しだけ照れくさくなった。
私が神宮寺のラボに捕らえられている間、そして私が目を覚ましてからの短い期間に、私とクォーツの間にあった壁は完全に崩れ去っていたのだ。
「……あなたが神宮寺に攫われた後、少しだけ彼女と話す機会があったのよ」
私は、海浜公園へクォーツと一緒に行った時のことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
「クォーツは、私に嫉妬していたの。大好きなあなたが、急に現れた私ばかり構うようになったから、取られちゃうんじゃないかって怖かったのね。……でも、私も同じだった。あなたがクォーツに優しくしているのを見て、私だけを見てほしいって、心のどこかで思っていたのよ」
私が素直に自分の不器用な感情を告白すると、アリスは驚いたように目を丸くし、それから本当に嬉しそうに声を上げて笑った。
「あはは! なーんだ、二人とも同じことでヤキモチ焼いてたんだね! ……そっか、似た者同士だから、あんなに反発し合ってたのかもね」
「本当にそうね。……私たち、言葉で気持ちを伝えるのがすごく苦手だから。でも、お互いにアリスのことが大好きだってわかったら、なんだかすごく安心したのよ。彼女は、私にとって初めてできた『妹』みたいな存在になったわ」
私がそう言うと、アリスは優しく目を細め、私の手をそっと握ってくれた。
「……ありがとう、ピュアちゃん。クォーツちゃんのこと、これからもよろしくね」
「ええ、もちろんよ」
私たちはしばらくの間、クォーツのことや、映画を見ながら食べたオムライスのことなど、他愛のない話題で小さく笑い合った。
アリスの笑顔を見ていると、このまま何事もなく、平和な日常が続いていくような錯覚に陥りそうになる。
けれど、私の心の中には、ずっと引っかかっている一つの疑問があった。
「……ねえ、アリス」
私は、彼女との会話が少し途切れたタイミングを見計らって、静かに切り出した。
「私と2人きりにしたってことは……何か、他にもっと重要な話があるんじゃないの?」
私の言葉に、アリスの肩がビクッと微かに震えた。
彼女は、私から視線を外し、自分の膝の上に置かれた白いシーツをじっと見つめた。
その顔から、先ほどまでの明るい笑顔がスッと消え去り、代わりに、どうしようもないほどの深い悲しみと、諦めのような色が浮かび上がってきた。
「……やっぱり、ピュアちゃんには敵わないな。何でもお見通しだね」
アリスは、無理に笑おうとしているような、引き攣った声で呟いた。
「……ピュアちゃんがね、急に『料理しよう』とか、『映画見よう』とか、突拍子もない楽しいことをしようって言い出したでしょ?」
「……ええ」
「私、最初はすごく嬉しかったの。ピュアちゃんがそんな人間らしいことを提案してくれるなんて思わなかったし、みんなで笑い合えた時間が、本当に宝物みたいに幸せだった」
アリスは、シーツを握りしめる手にギュッと力を込めた。
彼女の手の甲に、青白い血管が浮き出ている。
「でもね……ピュアちゃんらしくないなって、心のどこかで引っかかってたの。いつもなら『効率が悪い』とか『非合理的だ』って言うはずなのに、あんなに急いで、まるで……」
アリスの声が、震え始めた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、涙でいっぱいに潤んだ瞳で私を見つめた。
「まるで……残された時間が、もう全然ないみたいに、焦ってるように見えたの」
「アリス……」
「だから……何となく、気づいちゃったんだ」
アリスの目から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
彼女は、必死に声を振り絞り、残酷な真実を口にした。
「私……もう、先がないんでしょ?」
その言葉が部屋に響いた瞬間、私の呼吸がピタリと止まった。
隠し通せるはずがないと、頭のどこかではわかっていた。彼女は鋭い勘を持っているし、自分の身体の異変に誰よりも気づいているはずだ。
それでも、彼女の口から直接その絶望的な言葉を聞かされると、私の心臓がギリッと激しく締め付けられるように痛んだ。
「……ドクターから、何か聞いたの?」
「ううん、何も聞いてない。でも、自分の身体だもん、わかるよ」
アリスは、力なく首を横に振った。
「薬が切れるたびに、頭の中が真っ白になって、自分が自分じゃなくなっていくのがわかるの。それに……内臓が、お腹の奥が、ずっと焼け焦げるみたいに痛いんだ。……私、もう長くないんだよね?」
彼女の真っ直ぐな問いかけに、私は嘘をつくことができなかった。
ここで「そんなことない」と誤魔化すのは、彼女の覚悟を侮辱することになる。私は、小さく、けれど重く、一度だけ頷いた。
「……ドクターは、もって1ヶ月だと、そう言っていたわ」
私の言葉を聞いて、アリスは一瞬だけ息を呑み、それから、ふぅっと長く息を吐き出した。
まるで、ずっと抱えていた死刑宣告をようやく受け入れたような、そんな悲しい安堵の表情だった。
「……そっか。1ヶ月……か」
アリスは、ポツリと呟き、天井を仰ぎ見た。
「短いなぁ……。もっと、ピュアちゃんたちと一緒にいたかったな。……もっと、色んな映画を見て、美味しいもの食べて、一緒に笑っていたかったのに……」
彼女の目から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。
「私ね、死にたくないよ……っ」
アリスが、両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。
「怖いよ……自分がどうなっちゃうのかわからないのも怖いし、みんなと会えなくなるのが、本当に怖い……っ。でも……薬が切れて、みんなに迷惑をかけて、醜いバケモノみたいになって死んでいくのは、もっと嫌だ……っ!」
彼女の口から零れ落ちるのは、生きたいという強烈な渇望と、自分が壊れていくことへの恐怖が入り混じった、どうしようもない矛盾だった。
彼女の心は、ぐちゃぐちゃの泥濘の中で、必死にもがいているのだ。
「ピュアちゃん……私、どうしたらいいの……っ? 死にたいのに、生きたいの……っ。みんなと一緒にいたいのに、自分が怖いの……っ!」
私は、泣きじゃくるアリスの背中に腕を回し、彼女の細い身体をそっと抱きしめた。
私の腕には、彼女の温もりも、涙の熱さも伝わってこない。けれど、彼女が私の胸の中で震えていることだけは、確かにわかった。
「アリス、あなたは何も悪くないわ。怖いと思うのも、生きたいと願うのも、当然のことよ」
私は、彼女の背中を優しく撫でながら、静かに、けれど絶対に揺るがない決意を込めて言った。
「私は、あなたを死なせたりしない。絶対に、させないわ」
「ピュア、ちゃん……」
「あと1ヶ月あるのよ。私たちの演算能力と行動力があれば、神宮寺の研究所を突き止めて、あなたを治す完全な治療法を見つけこともできる……かもしれない」
私は、彼女の身体を少しだけ離し、彼女の涙に濡れた目を真っ直ぐに見つめた。
「だから、あなたはただ『生きたい』って、それだけを願っていればいいの。醜い姿を見せてもいい。薬に負けそうになってもいい。私が、私たちが、何度でもあなたを人間の世界に引き戻してあげるから」
私の言葉に、アリスは目を見開き、それから、私の胸に顔を埋めて、さらに激しく声を上げて泣いた。
私は、彼女が泣き疲れるまで、ずっとその背中を撫で続けていた。
私の腕の中で泣きじゃくっていたアリスの震えが、やがて少しずつ穏やかなものへと変わっていった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、手の甲でゴシゴシと拭った。
「……ごめんね、ピュアちゃん。私の我儘に付き合わせちゃって」
アリスは、まだ少し鼻声だったけれど、さっきまでの絶望に満ちた表情ではなく、どこか憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をしていた。
「我儘なんかじゃないわ。あなたが泣きたい時は、いつでも私が隣にいるから」
「ふふっ、ありがとう。……ピュアちゃんがそう言ってくれると、本当に心強いな」
アリスは、ベッドのシーツをギュッと握り直し、小さく深呼吸をした。
彼女の瞳には、まだ恐怖の欠片が残っている。けれど、それに押し潰されないように、必死に前を向こうとする強さが宿っていた。
「ねえ、ピュアちゃん」
「何かしら」
「私……クォーツちゃんとも、少しだけ2人でお話ししたいな」
その言葉に、私は静かに頷いた。
クォーツは、アリスのことを誰よりも慕っている。私が来る前、クォーツは一人でアリスの看病をし、彼女が薬の禁断症状で発狂する姿を一番近くで受け止めてきたのだ。
アリスにとって、私に伝えたい言葉と、クォーツに伝えたい言葉は、きっと別々のものなのだろう。
「わかったわ。彼女を呼んでくる」
「うん。ごめんね、ピュアちゃん」
「謝らないの。待っていてね」
私はベッドから立ち上がり、アリスに小さく微笑みかけてから、病室の扉を開けた。
廊下には、壁に背中を預けてうつむいているクォーツの姿があった。彼女は私が扉を開けた音に気づくと、ハッと顔を上げた。その大きな瞳は不安に揺れている。
「クォーツ。アリスが、あなたと2人で話したいそうよ」
私が告げると、クォーツは一瞬だけ躊躇うように視線を泳がせたが、すぐに小さく頷いた。
「……うん。行ってくる」
クォーツは私とすれ違う時、私の服の袖をそっと軽く握り、そして静かに病室の中へと入っていった。
パタン、と扉が閉まる。
私は、その閉ざされた扉をしばらくの間、じっと見つめていた。
病室の中では、今頃アリスがクォーツにどんな言葉をかけているのだろうか。
私にしたように、自分の命が長くないことに気づいていると打ち明けているのだろうか。それとも、クォーツを悲ませないために、別の優しい嘘をついているのだろうか。
「……っ」
私は、誰もいなくなった冷たい廊下で、ギュッと唇を噛み締めた。
先ほどアリスの前で見せていた気丈な態度は、彼女を安心させるための必死の虚勢だった。
私の中で、どうしようもない絶望感と無力感が、どす黒い泥水のように溢れ出してくるのを止められなかった。
私はふらつく足取りで廊下を歩き、アドたちがいる部屋の扉を開けた。
部屋の中では、アドがデスクに広げた資料と睨み合い、蓮とモニターがPCの光に照らされながら、無言でキーボードを叩き続けている。
私が部屋に入ってきたことに気づくと、3人は同時に作業の手を止め、こちらを振り返った。
「ピュアさん? アリスさんは……」
蓮が、私の顔を見て言葉を失った。
きっと今の私は、ひどく惨めで、今にも壊れてしまいそうな顔をしているのだろう。
「……どうした、ピュア。何かあったのか」
アドが、咥えていた葉巻を灰皿に置き、静かに尋ねてきた。
私は、部屋の中央まで歩み寄り、そのまま力なくその場に立ち尽くした。
「アリスが……気づいていたわ」
「気づいていた?」
「自分がもう、長くないことに。……薬が切れるたびに自分が壊れていく恐怖と、私たちと一緒にいたいっていう気持ちの間で、ぐちゃぐちゃになって泣いていたわ」
私の言葉に、通信室の空気が一瞬にして重く、冷たいものに変わった。
蓮が両手で顔を覆い、モニターが辛そうに目を伏せる。アドも、深い皺を刻んで無言のまま天井を仰ぎ見た。
「私……彼女に言ったの。あと1ヶ月あれば、神宮寺の研究所を突き止めて、あなたを治す方法が見つかるかもしれないって。だから、絶対に生きたいって願っていてって……」
私の声が、情けないほどに震え始める。
言葉にするたびに、自分のついた嘘の残酷さが心臓を抉っていく。
「でも……わかってるの。ドクターの話を聞いた限り、そんなの、奇跡でも起きない限り不可能だって……。内臓がボロボロになって、脳が萎縮している状態から、どうやって彼女を元に戻せるっていうのよ……っ」
ポロポロと、私の目から涙がこぼれ落ちた。
感情を殺していた頃には出せなかった、純粋な悲しみと絶望の涙。
「私、どうすればいいの……っ? あんなに優しくて、誰よりも笑っているのが似合うアリスが、どうしてあんなに苦しまなきゃいけないの……っ! 彼女を助けたいのに、私には何もできない……っ!」
私は、両手で顔を覆い、その場に膝から崩れ落ちた。
床に座り込み、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
私がどれだけ強くなろうと、どれだけ神宮寺を憎もうと、アリスの身体を蝕む毒を消し去ることはできない。私の無力さが、ただひたすらに悔しくて、悲しかった。
「ピュアさん……っ」
蓮が、震える声で私の名前を呼んだ。
だが、彼もまた、私にかける言葉を見つけられず、ただ唇を噛み締めて涙を流すことしかできなかった。
モニターも、静かに立ち上がり、私の傍らで悲痛な顔をして立ち尽くしている。
私たちは全員、アリスという少女の命が、指の隙間からこぼれ落ちていくのを、ただ見ていることしかできないのだ。
どれくらい泣いていただろうか。
部屋には、私の嗚咽と、蓮のすすり泣く声だけが響いていた。
「……そうか」
不意に、アドの低く、重い声が降ってきた。
彼はデスクからゆっくりと立ち上がり、泣き崩れる私の前まで歩み寄ってきた。
「覚悟は、しとけよ」
その言葉は、あまりにも冷酷で、現実を容赦なく突きつけるものだった。
私はハッとして顔を上げ、涙でぼやけた視界でアドを見上げた。
「俺たちがどんなに足掻こうが、命のタイムリミットってのは無慈悲に迫ってくる。奇跡なんてものは、裏社会で生きる俺たちには一番縁遠い言葉だ」
アドの言葉は厳しいが、その瞳の奥には、私と同じようにアリスを失うことへの深い悲しみと、行き場のない怒りが渦巻いているのがわかった。
「……でもな、ピュア」
アドは、大きな手で私の頭にポンと触れた。
「一番辛いのは、アリスだ」
「……」
「あいつは、死の恐怖と戦いながら、それでもお前たちの前で笑おうとしてるんだろ。……お前がそんな風に辛い顔をして泣き崩れることが、本当にあいつのためになるのか、よく考えて行動しろ」
アドの言葉が、私の胸に重く、真っ直ぐに突き刺さった。
そうだ。アリスは、自分が足手纏いになっていることを誰よりも気に病んでいる。
私がこうして彼女の死を前提にして泣いていると知ったら、彼女はどれほど心を痛めるだろうか。彼女が欲しいのは、同情の涙なんかじゃない。
残された時間がどれだけ短かろうと、彼女と一緒に笑い、彼女の生きる希望を支え続けること。それこそが、今の私にできる唯一の、そして最も大切なことなのだ。
「……っ」
私は、乱暴に袖で涙を拭い、床に手をついてゆっくりと立ち上がった。
アドの言う通りだ。私がここで泣いて立ち止まっている暇はない。
「……わかったわ、アド。あなたの言う通りね」
私は、赤く腫れた目でアドを真っ直ぐに見据えた。
蓮とモニターも、私の顔を見て少しだけ安心したように息を吐き出し、再びPCへと向き直った。
それからしばらくして。
部屋の扉が、ゆっくりと開かれた。
「……ピュア」
現れたのは、クォーツだった。
彼女の大きな瞳は真っ赤に腫れ上がり、鼻の頭も赤くなっている。病室でアリスとどんな話をしたのかはわからないが、彼女もまた、アリスの前で必死に涙を堪え、部屋を出てから声を殺して泣いていたのだろう。
「クォーツ。アリスは落ち着いた?」
「うん。……笑ってた。私に、いっぱいお話してくれた」
クォーツは、ぽつりぽつりと呟きながら、部屋の中を見回した。
そして、デスクの奥にいるアドに視線を定めた。
「……アド。アリスが、呼んでる」
「俺をか?」
「うん。今度は、アドと話したいって。……1人だけで、来てほしいって」
クォーツの言葉に、アドは微かに眉をひそめた。
私やクォーツとは違い、組織のリーダーであるアドを1人で呼ぶということは、ただの思い出話や慰め合いではないはずだ。
アリスは、自分の命のタイムリミットを悟った上で、アドに何か重要な頼み事、あるいは『覚悟』を伝えるつもりなのだ。
「……わかった。すぐに行く」
アドはデスクの上の資料をまとめ、ジャケットを羽織った。
彼は私たちを一瞥することなく、重い足取りで通信室を出て、アリスの眠る病室へと向かっていった。
アドの足音が遠ざかり、部屋には再び重苦しい静寂が降りた。
部屋に残されたのは、私とクォーツ、そしてデスクに向かったままの蓮とモニターの4人だけだった。
アリスの命のタイムリミットという残酷な事実が、部屋の空気を鉛のように重くしている。奇跡は起きない。ドクターの宣告通り、彼女の身体は確実に終わりへと向かっているのだ。その冷厳な物理的現実を前に、私たちはただ立ち尽くすことしかできない。
クォーツは部屋の入り口付近で、うつむいたまま小さな肩を震わせていた。アリスと何を話したのかは聞かない。ただ、彼女もまた、逃れられない別れの足音をはっきりと聞き取ってしまったのだろう。
私はゆっくりと歩み寄り、彼女の細い腕にそっと触れた。
「クォーツ。こっちへ来て座りましょう」
私は彼女を促し、部屋の端に置かれた古びた革張りのソファへと一緒に腰を下ろした。
ソファが沈み込む感覚も、隣に座る彼女の体温も、今の私には一切受信されない。だが、視界に映る彼女の小さな身体が私に寄り添うように丸まっているのを見て、私は少しだけ安心感を覚えていた。
「……アリスは、泣いていなかった?」
私が静かに尋ねると、クォーツはコクリと小さく頷いた。
「うん。……笑ってた。私のこと、いい子だねって、頭撫でてくれた……」
クォーツの言葉の端々に、押し殺したような嗚咽が混じる。
アリスは、自分の命が長くないことを受け入れた上で、残される私たちのために笑って見せているのだ。その強さと優しさが、どうしようもなく残酷で、私の胸をギリギリと締め付ける。私たちは、彼女の命を繋ぐための具体的な解決策を何一つ見つけられていない。ただ、彼女が静かに消えていくのを待つしかないという絶望が、この部屋を支配している。
私は、自分の膝の上に置かれた感覚のない手を動かし、クォーツの小さな手をそっと包み込んだ。
「クォーツ」
私が名前を呼ぶと、彼女は涙で濡れた大きな瞳を私に向けた。
「私ね、あなたがアリスを大好きなのと同じくらい、あなたのことも大好きよ」
私は、何の論理的な装飾もせず、ただ心の中にある感情だけを言葉にして伝えた。
クォーツは少し驚いたように目を見開き、私を見つめ返した。
「私は、ずっと一人で生きるのが正しいと思っていた。でも、外界に出て、あなたたちに出会って、誰かを大切に想うことの温かさを知ったわ。あなたが不器用にお菓子を差し出してくれた時、あなたがアリスを守るために必死に戦っていた時、私はあなたのその純粋な心が、とても愛おしいと思ったの」
「ピュア……」
「アリスは、私たちにとっての太陽よ。彼女の代わりになんて、誰にもなれない。もちろん、私にもね。でも……」
私は、彼女の目を真っ直ぐに見据え、言葉を紡いだ。
「あなたが寂しい時、怖い時、私はいつでもあなたの隣にいるわ。アリスのようにうまく笑ってあげることはできないかもしれないけれど、あなたが心を預けてくれるような、そういう人になりたいと思っているの」
これは、ただの慰めではない。私自身の偽りのない覚悟だった。
これから先、私たちがどれだけ絶望的な状況に追い込まれようとも、私はこの小さな妹のような存在を絶対に手放さない。
私の言葉を聞いて、クォーツの目から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
だが、その涙は先ほどまでの絶望だけの色ではなかった。彼女は、私の手を両手でギュッと強く握り返してくれた。
「……私も。私も、ピュアが……大好き。最初は、怖かったけど……今は、ピュアがいてくれて、本当によかったって、思う」
クォーツは、しゃくり上げながらも、懸命に言葉を絞り出した。
「ピュアは、強くて、冷たいふりをしてるけど……本当は、すごく優しい。……私、ピュアのこと、信じてる。心を、預ける……から」
彼女の不器用で、けれど真っ直ぐな言葉が、私の心の一番奥深くにすとんと落ちてきた。
私たちは、言葉を交わすのが苦手な欠陥品同士だ。でも、だからこそ、余計なノイズを排して、こうして互いの本質を正確にダウンロードし合うことができる。
私は、彼女の頭にそっと手を乗せ、優しく撫でた。
「……ピュアさんは、本当に変わられましたね」
不意に、少し離れた場所から穏やかな声が響いた。
顔を上げると、デスクに向かっていたモニターが、作業の手を止めて私たちの方を優しく見つめていた。
「変わったかしら。私はただ、自分の内側にある気持ちを素直に伝えているだけよ」
私が返すと、モニターはふわりと微笑んで首を横に振った。
「施設であなたを監視していた十年間。私は、あなたが感情を表に出すのを一度も見たことがありませんでした。いつも無表情で、淡々と本を読み、まるで精密な機械のように振る舞っていた。……でも、今のあなたは違います」
モニターの瞳には、かつての私を思い出すような懐かしさと、今の私を見る温かい親愛の情が入り混じっていた。
「誰かを想い、涙を流し、そして誰かのために言葉を尽くす。……あなたが今、そうやってクォーツさんに向けているような、心からの優しい笑顔は……施設での十年間を含めても、初めて見たかもしれません」
「笑顔……」
私は、自分の顔に触れようとして、やめた。
自分が今、どんな表情をしているのか、鏡を見なくてもわかった。私は今、クォーツと心が通じ合ったことで、自然と口角が上がり、穏やかな笑みを浮かべているのだ。
「あなたのその人間らしい姿を見ることができて、私は本当に嬉しい。……あなたが外界に出て、素晴らしい仲間たちに出会えたことが、何よりの救いですよ」
モニターの言葉には、まるで自分の娘の成長を喜ぶ父親のような、深い愛情が込められていた。彼の言葉に、私は少しだけ照れくさくなり、視線を逸らした。
その時だった。
私の視界の端で、モニターの隣の席に座っている蓮が、PCの画面から目を離し、じっとこちらを見つめているのに気がついた。
彼は、キーボードに手を置いたまま、私とクォーツ、そしてモニターのやり取りを、どこか羨ましそうな、少し拗ねたような眼差しで見つめていたのだ。
まるで、自分だけがその温かい輪の中から外れてしまったかのような、11歳の少年らしい分かりやすい嫉妬の表情。
その不満げな顔が、あまりにも彼の年齢相応で滑稽だったので、私は思わず小さく吹き出してしまった。
「……な、なんですか、ピュアさん。俺の顔に何かついてますか?」
私が彼を見て笑ったことに気づき、蓮が慌てて顔を背けながら不機嫌そうに尋ねてくる。
「いいえ。あなたがとてもわかりやすい顔をしているなと思っただけよ」
「わかりやすいって……俺、ちゃんと解析作業やってますよ! 手は止まってません!」
「そういうことじゃないわ」
私はソファからゆっくりと立ち上がり、彼の方へと歩み寄った。
蓮は、私が近づいてくるのにビクッと肩を震わせ、オドオドと視線を泳がせている。
私は彼のデスクの前に立ち、その少し癖のある黒髪の頭を、感覚のない手でポンと軽く叩いた。
「もちろん、蓮のことも大好きよ」
私が、一切の照れも隠し立てもなく、真っ直ぐにそう告げた瞬間。
蓮の動きが、完全にフリーズした。
「……え?」
彼の脳が、私の発した言葉の処理に追いついていないのが、その間抜けな表情から見て取れた。
「あなたが私を助けようと必死になってくれること、私のために美味しいご飯を作ってくれること。そのすべてが、私にとってはかけがえのないものよ。だから、そんなに拗ねたような顔でこちらを見なくても、あなたの居場所はちゃんと私の隣にあるわ」
私がダメ押しのように微笑みながら言うと、蓮の顔が、首の根元から耳の先まで、一瞬にして爆発したように真っ赤に染め上がった。
「なっ……!? きゅ、急になんですか!!」
蓮は椅子からガタッと立ち上がり、両手で真っ赤になった顔を覆い隠した。
「だ、大好きって……あの、ピュアさん、そういう言葉は、もっとこう……! 俺、別に拗ねてたわけじゃなくて、ただちょっと、クォーツさんと仲良さそうだなって見てただけで……っ!」
パニックに陥った彼は、言葉の原型を留めないほどにしどろもどろになりながら、後ずさりをした。
「もう、俺、ちょっと頭冷やしてきます!!」
彼はついに耐えきれなくなったのか、真っ赤な顔のまま、バタバタと大きな足音を立てて部屋を飛び出していった。
パタンッ! と扉が閉まる音が響く。
「……ふふっ」
残された部屋の中で、私が小さく笑い声を漏らすと、ソファに座っていたクォーツもクスクスと笑い、モニターも「本当に、賑やかなサポーターですね」と目尻を下げて笑った。
蓮が真っ赤な顔をして部屋を飛び出していった後、少しの静寂を挟んで、部屋の扉が再び開かれた。
戻ってきたのは、アリスの病室へ向かっていたアドだった。
彼の足取りは、いつもの威圧的な力強さを欠き、どこか重く引きずるようなものだった。
デスクの前に戻ったアドは、椅子に座ることもなく、ただ深く、長く息を吐き出した。その表情には、疲労とは違う、もっと根源的で重い感情の澱が張り付いているように見えた。
「……アド」
私が静かに声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
「アリスと、何を話したの」
「……」
アドは無言のまま、ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。紫煙が部屋の天井へと吸い込まれていく。彼はその煙の行方をしばらく見つめた後、私とクォーツを交互に見据えた。
「……お前らは、しばらくアリスのそばにいてやれ」
アドの声は、ひどく掠れていた。
「神宮寺のネットワークの解析や、施設への強襲計画の立案……組織の仕事は、俺とロータスとモニターの3人で回す。お前らは、作戦の準備から外れていい」
「それは……」
「アリスがどれだけ強がっていても、あいつの命は確実に削られている。俺たちがパソコンと睨み合っている間にも、あいつの時間は砂時計みたいに落ちていってるんだ。……だから、お前らはあいつと一緒にいてやれ。1秒でも長く、な」
その言葉の裏にある意味を、私は正確に読み取っていた。
アリスがアドに何を頼んだのか、どんな覚悟を語ったのか。私はそれを聞かないことにした。彼女が私やクォーツではなく、アドという組織のリーダーを1人で呼んだ理由は、そこに私たちの感情を介入させないための、彼女なりの配慮だったはずだからだ。
私がここで根掘り葉掘り聞き出すことは、彼女の決意を無下にすることになる。
「……わかったわ。アド、あなたのその配慮に感謝するわ」
私が頷くと、隣でクォーツも小さく頷いた。
アドは「ああ」と短く返し、再びモニターの前に座り直した。その背中は、何も聞いてくれるなと語っているようだった。
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それから、私たちはアドの言葉通り、アリスの病室で長い時間を過ごした。
私とクォーツは、簡易ベッドを持ち込み、アリスのベッドのすぐ隣で一緒に眠った。
昼間は、ロータスが作ってくれた食事を3人で囲み、古いプロジェクターで何本もの映画を見た。アクション、コメディ、ホラー、恋愛映画。ジャンルを問わず、アリスが見たいと言ったものを次から次へと再生した。
映画の感想を言い合い、時にはクォーツが買ってきたお菓子を広げて、他愛のないおしゃべりに花を咲かせた。
けれど、そんな穏やかな時間の中にあっても、残酷な現実は確実に進行していた。
アリスの余命宣告から、2週間。
ドクターが「もって1ヶ月」と言ったその時間の、半分が過ぎ去った頃。
アリスの身体は、私の目に見えて衰弱していった。
頬はさらにこけ、手首は痛ましいほどに細くなった。映画を見て笑う声も、日を追うごとに力強さを失い、少し話しただけでも息を切らすようになっていた。
薬の禁断症状が起きる間隔も短くなり、ドクターが代替薬を投与する回数が増えていく。薬の毒性が彼女の内臓を破壊していることは明らかだったが、それを打たなければ彼女は痛みに発狂してしまう。私たちは、彼女が緩やかに壊れていくのを、ただ黙って見守ることしかできなかった。
希望など、どこにもない。
神宮寺の研究所を突き止めたところで、すでにボロボロになった彼女の身体を元に戻す魔法の薬など存在しないのだと、私の論理回路は冷酷な答えを弾き出し続けていた。
そんなある日の午後。
クォーツとロータスが、療養所の備品や食料の買い出しのために、車で山を降りていった。
アドとモニターは別の部屋で通信機器の調整を行っており、病室には私とアリスの2人きりになった。
秋の冷たい日差しが、窓越しにアリスのベッドを照らしている。
私は丸椅子に座り、眠っている彼女の顔を静かに見つめていた。
皮膚感覚がないため、彼女の呼吸の熱を感じることはできない。ただ、胸が微かに上下する視覚データだけが、彼女が生きているという証明だった。
「……ピュアちゃん」
不意に、微睡んでいたアリスがゆっくりと目を開け、私を呼んだ。
「起きていたのね。どこか痛む? ドクターを呼ぼうか」
「ううん、大丈夫。薬、まだ効いてるから」
アリスは、力なく首を横に振り、少しだけ上体を起こそうとした。私が手を貸して背中にクッションを当てると、彼女は「ありがとう」と微笑んだ。
「ロータスくんたち、お買い物に行っちゃったんだね」
「ええ。あなたに食べさせたいフルーツがあるからって、クォーツが意気込んでいたわ。しばらくは帰ってこないはずよ」
「そっか……」
アリスは、窓の外の景色を少しだけ眩しそうに見つめ、それから、私の方へ向き直った。
その瞳は、いつもの明るい彼女のものとは少し違う、どこか真剣で、恥じらうような色を帯びていた。
「……ねえ、ピュアちゃん」
「何かしら」
「私……ちょっと、気持ち悪いこと言っていい?」
その唐突な切り出しに、私は少しだけ目を瞬かせた。
「気持ち悪いこと? 具体的にどういう内容かはわからないけれど、あなたが言うことで私が気持ち悪いなんて思うことは、多分ないわ。もちろん、構わないわよ」
私が真っ直ぐに答えると、アリスは少しだけ困ったように笑い、シーツの上で自分の両手をギュッと組み合わせた。
「あのね。……私、ピュアちゃんのこと、好きだったんだ」
アリスの口からこぼれた言葉。
私は、静かに頷いた。
「ええ。私もあなたのことが大好きよ。アリスは私に人間の心を教えてくれた、大切な仲間だもの」
「ううん、違うの」
アリスは、ゆっくりと首を横に振った。
彼女の白い頬が、ほんのりと朱色に染まっていく。
「そういう、友情とか、家族みたいな『好き』じゃないの。……私、ピュアちゃんのこと、恋愛として、好きだったのよ」
——恋愛。
その単語が入力された瞬間、私の脳内の処理システムがほんの一瞬だけフリーズした。
恋愛。生殖を目的とした生物学的な惹かれ合い、あるいは特定の個体に対する排他的な愛情表現。知識としては図書館の本で読んで知っている。だが、それを私自身に向けられたのは初めてのことだった。
「恋愛……として?」
「うん」
アリスは、恥ずかしそうに視線を落としながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私ね、ピュアちゃんに初めて会った時……一目惚れしたんだ」
「一目惚れ……」
「そう。事務所にアドが連れてきた時、本当にお人形さんみたいに綺麗で……冷たい目をしてるのに、どこか寂しそうで。私、この子のこと絶対に放っておけないって思ったの」
アリスの声は、弱々しいけれど、とても優しくて甘い響きを持っていた。
「最初は、ただの可愛い後輩だって思おうとしてたんだよ。でも……ピュアちゃんが、少しずつ私に心を開いてくれて。不器用なのに、一生懸命に私を頼ってくれて、私の隣で笑ってくれるようになって……それが、すごく嬉しかった」
アリスは、私の顔を見つめ、涙ぐんだ瞳でふわりと微笑んだ。
「あの地下クラブで、私が敵に囲まれた時……ピュアちゃん、私のためにボロボロになって助けに来てくれたでしょ。神宮寺のラボでも、私を守るために銃を捨てて、あんなひどい目に遭って……。強くて、頭がいいのに、私のために泣いてくれるピュアちゃんを見てたら……私、どんどんピュアちゃんのことが好きになっちゃったんだ」
「アリス……」
「女の子同士なのに、気持ち悪いよね。……ごめんね、変なこと言って」
アリスは、自分の気持ちを打ち明けたことで、どこかホッとしたような、でも拒絶されるのを怖がるような顔をして、うつむいた。
私は、自分の胸の奥で、今まで感じたことのない温かく、そして激しい感情が渦を巻いているのを感じていた。
気持ち悪い?
そんなはずがない。
彼女が私を、そんな風に特別な存在として見てくれていたこと。私という欠陥品を、恋愛対象という最も人間らしい感情のベクトルで愛してくれていたこと。
それが、私の心をどれほど満たしてくれているか。
「……気持ち悪くなんか、ないわ」
私は身を乗り出し、感覚のない両手で彼女の震える手をそっと包み込んだ。
「恋愛とか……そういう概念は、私にはまだよくわからない。私の計算式には入っていない未知のデータだわ。……でも、あなたが私をそんな風に想ってくれていたというその気持ちを聞いて……私、心から嬉しいと思ったわ」
私が嘘偽りのない本心を伝えると、アリスはハッと顔を上げ、その大きな瞳からポロポロと涙をこぼした。
「ほんと……? 嫌いにならない……?」
「嫌いになるわけないでしょう。私は、あなたにもらった感情で生きているのよ。あなたが私を愛してくれた事実は、私にとって何よりも尊い宝物だわ」
アリスは「よかった……っ」と声を漏らし、涙を流しながらも、幸せそうに笑った。
私たちは、しばらくの間、見つめ合いながらお互いの存在を確かめ合っていた。
「……ねえ、ピュアちゃん」
不意に、アリスが涙で濡れた顔のまま、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私ね、本当は……ピュアちゃんのこと、抱いてみたかったなあ」
「……え?」
抱く。
その言葉の物理的な意味を、私の脳が瞬時に演算した。
恋愛感情に基づく、肉体的な接触。性行為。
彼女がそれを望んでいる。私という個体との深い融合を求めている。
「……わかったわ」
私は、一切の躊躇いもなく頷き、着ていたジャケットのジッパーに手をかけた。
「アリスのためなら、私は何でもするわ。私の肉体をどう扱っても構わない。感覚はないけれど、あなたがそれを望むなら……」
「ちょ、ちょっと待って!!」
私が服を脱ごうとした瞬間、アリスが慌てて私の手を両手で押さえ込んだ。
「ち、違うの! ストップ、ストップ!!」
「? あなたが抱きたいと言ったのではないの?」
「言ったけど! 言ったけどさぁ! そういう風に、業務連絡みたいに頼んで脱いでもらうのは嫌なの!」
アリスは顔を真っ赤にして、涙目になりながら私を制止した。
「そういうのはさ……ちゃんとお付き合いして、デートして、雰囲気作って、順序踏んでからがいいの! 私、これでも結構ロマンチストなんだからね!」
「順序……デートをしてから、肉体的な接触に移行するのね。わかったわ、ならまずは……」
私が真面目に今後のスケジュールを再計算しようとすると、アリスの表情が、スッと翳った。
彼女は、私の手を握っていた自分の手をゆっくりと離し、寂しそうに微笑んだ。
「……でも、それも……叶わないんだよねえ」
その言葉が、病室の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「……」
私は、何も言えなかった。
デートをする。順序を踏む。
そんな当たり前の恋人たちの手順を踏むための『時間』が、彼女にはもう残されていない。
彼女の身体は、私の目の前で今も確実に死へと向かっている。あと2週間。あるいは、もっと短いかもしれない。
恋愛という未知の概念をどう処理していいか分からない私には、彼女のその絶望を前にして、かけるべき最適な言葉が見つからなかった。
静寂が、私たちの間に降り下りた。
窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らす音が微かに聞こえる。
アリスは、自分の膝の上に視線を落とし、何かを深く、重く考えているようだった。
やがて。
彼女は、顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、先ほどまでの恥じらいや悲しみは消え去り、どこか澄み切った、絶対的な決意の光が宿っていた。
「……ピュアちゃん」
「何かしら」
アリスは、深く息を吸い込み、そして、静かに、残酷な願いを口にした。
「せめて……ピュアちゃんの手で、私を殺してくれない?」
——。
私の脳の演算回路が、完全に停止した。
心臓が、氷の塊になったように冷たく重くなる。
「……何を、言っているの?」
「私ね、もう限界なんだと思う」
アリスは、震える声で、自らの絶望を吐露し始めた。
「薬が切れるたびに、自分が自分でなくなっていくのがわかるの。……クォーツちゃんが泣いて止めてくれてるのに、それを振り払って薬に縋り付いて……。みんなの足手纏いになって、醜い姿を晒して……」
「アリス、あなたは足手纏いなんかじゃ……」
「お願い、聞いて」
アリスは私の言葉を遮り、私の手を取り、自分の頬に押し当てた。
「私、神宮寺の薬に負けて、心が全部壊れて、バケモノみたいになって死んでいくのが……本当に、本当に怖い。……私の中の『ピュアちゃんを好きだ』って気持ちまで、薬のせいでわからなくなっちゃうのが、嫌なの」
彼女の目から、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。
「だから……私が、まだ『私』でいられるうちに。ピュアちゃんを大好きなままの私でいられるうちに……ピュアちゃんの手で、終わらせてほしいの」
「……っ」
「誰かに殺されるくらいなら……薬に殺されるくらいなら、私は、私が一番愛している人に、壊してほしい。……これが、私の最後の我儘」
アリスの願いは、私に対する究極の愛情表現であり、同時に、私に最高の絶望と罪悪感を背負わせる、残酷すぎる依頼だった。
私が、アリスを殺す。
彼女の心臓を、この手で停止させる。
そんなこと。そんなこと、計算式に入れたくもない。
「……できないわ」
私は、感覚のない手を震わせながら、首を横に振った。
「私が、あなたを殺すなんて……そんなこと、できるわけないじゃない……っ! 私はあなたを生かすために、ここまで……っ!」
「……性格の悪い女で、ごめんね」
アリスは、私の拒絶を予想していたかのように、悲しげに、けれどどこか自嘲するような笑みを浮かべた。
彼女の大きな瞳が、涙で潤みながらも私を真っ直ぐに射抜いている。
「せめて……私が好きだったあなたに、私を殺したという呪いを背負って、ずっと忘れずに生きて欲しいから」
その言葉は、私の胸の奥深くに、鋭利な氷の刃となって突き刺さった。
「私が死んだ後も、ピュアちゃんの中の特別な場所で、ずっと私のことを覚えていてほしい。……他の誰でもない、ピュアちゃん自身の手で私の命を終わらせることで、私という存在を、ピュアちゃんの魂に永遠に刻み込みたいの」
アリスの口から紡がれるのは、私に向けられた純度100パーセントの愛情であり、同時に、恐ろしいほどの執着とエゴイズムだった。
私に十字架を背負わせ、その重みで私を縛り付けようとしている。あんなに優しくて、誰かのために自己犠牲を厭わなかった彼女が、最期の最期で、私に対してこれほどまでに残酷な呪いをかけようとしているのだ。
「ピュアちゃんが大好きなのに……ピュアちゃんの気持ちを何も考えてない、最低なお願いだけど」
アリスは、ポロポロと涙を流しながら、私の手を自分の頬に押し当てた。
「でも……それだけが、死にゆく私の、最後の希望なの。……お願い、ピュアちゃん。私を、薬のバケモノにさせないで。あなたを愛している人間のまま、終わらせて……っ」
「……っ」
私は、息を呑み、言葉を失った。
アリスの願いは、私に選択の余地を与えなかった。彼女がどれほど薬の恐怖に怯え、自分が自分でなくなっていくことに絶望しているか、私は嫌というほど見せつけられてきた。
彼女の尊厳を守るためには、彼女が完全に壊れてしまう前に、誰かがその命を終わらせるしかない。それは、論理的に考えても極めて妥当な帰結だ。
だが、それがなぜ私でなければならないのか。
「……でも、アドやクォーツの気持ちは?」
私は、震える声で必死に反論を試みた。それは、私自身がこの残酷な役割から逃げ出すための、見苦しい言い訳でしかなかった。
「あの二人が、あなたを失うことをどれだけ恐れているか、あなたも知っているでしょう? 私があなたを殺すなんて言ったら、二人が……クォーツが、許すはずがないわ。あの子は、あなたのために……っ」
「ピュアちゃんに殺してもらいたいということは、もう話した」
「……え?」
アリスの静かな言葉に、私の思考が完全に停止した。
「アドにも、クォーツちゃんにも、もう伝えてあるの。……私が、ピュアちゃんの手で終わりを迎えたいって」
「嘘……」
「納得もしてくれた。……辛い思いをさせてごめんねって、たくさん泣いて、でも、最後は私の我儘を聞き入れてくれたよ」
アリスの言葉を聞いて、私の脳裏に、数時間前の光景が鮮明にフラッシュバックした。
クォーツが、アリスに呼ばれて2人きりで話した後、目を真っ赤に腫らして部屋から出てきた姿。
アドが1人で病室に呼ばれ、その後、通信室に戻ってきた時の、あの重く沈み込んだ顔。
そして、アドが私に向けた、あの冷酷なまでの宣告。
『覚悟は、しとけよ』
『一番辛いのは、アリスだ。お前が辛い顔することがアイツのためになるのか、よく考えて行動しろ』
——ああ、そういうことだったのか。
アドの言葉は、アリスの死期が近いことに対する覚悟だけを意味していたのではなかった。
私が、彼女の命を終わらせるという『役割』を担うことに対する、組織のリーダーとしての重い忠告だったのだ。
クォーツが私に「心を預ける」と言ってくれたのも、これから私が背負うことになる途方もない罪悪感と悲しみを、彼女なりに一緒に背負おうとしてくれたからに他ならない。
すべては、私の知らないところで、すでに決定づけられていたのだ。
誰も私を止めてくれない。誰もこの役割を代わってくれない。
「……どうして」
私の目から、とめどなく涙が溢れ出した。
「どうして、私なのよ……っ。私は、あなたを生かすために感情を取り戻したのに。あなたと一緒に生きるために、この感覚を失ってまで戦おうとしたのに……っ!」
「ピュアちゃん……」
「私に、あなたを殺させるの……? 私に、大好きな人を壊させるの……っ!? そんなの、あんまりじゃない……っ! 酷すぎるわ……っ!!」
私は、感覚のない両手で顔を覆い、子どものように泣き叫んだ。
感情を持たない機械だった頃なら、仲間の命を絶つことは、ただの物理的な処理に過ぎなかっただろう。苦痛に歪む有機体を機能停止させる、合理的なタスク。あの頃の私だったら、それがどんなに楽だったことか。アリスと初めて出会ったあの日なら、寧ろ私が殺したいとまで願ったはずなのに。
だが、今の私には、それができない。
感情を知ってしまった私にとって、アリスの命をこの手で奪うことは、自分自身の魂を刃物で切り刻むことよりも恐ろしく、絶望的なことなのだ。
「……ごめんね、ピュアちゃん。本当に、ごめんね」
アリスは、泣き崩れる私の頭を、震える手で優しく撫でてくれた。
「でも、ピュアちゃんしかいないの。私を、薬の恐怖から解放して、永遠にピュアちゃんの中に閉じ込めてくれる人は……あなたしか、いないの」
彼女の言葉は、残酷なまでの優しさに満ちていた。
彼女は、自分がバケモノに成り果てる前に、最も愛する人の手で死ぬことを選んだ。それが彼女にとっての唯一の救いであり、残された最後の尊厳なのだ。
私がこれを拒否すれば、彼女は遠からず薬の禁断症状に狂い、醜くのたうち回りながら、あるいは自ら喉を掻き切って死ぬことになる。
どちらの結末も、絶対的な『死』という終着点に向かっていることに変わりはない。
ならば、彼女の最後の我儘を叶え、私がその罪を一生背負い続けることこそが、彼女に対する最大の愛情なのだと、私の論理回路が冷酷な最適解を弾き出した。
「……」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、アリスを見つめた。
彼女の青白い顔は、どこまでも穏やかで、ただ私の決断を静かに待っている。
私は、震える息を長く吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ベッドのシーツに膝をつき、アリスの身体の上に覆い被さるようにして、ゆっくりとまたがった。
私の体重が彼女にかかっているはずだが、私にはその感覚が全くない。
視覚情報だけが、私がアリスの細い身体を押し留めているという事実を伝えてくる。
私は、感覚のない両手を持ち上げ、震える指先を、アリスの白い首元へとゆっくりと伸ばした。
「……アリス」
「うん」
「本当に……これで、いいのね」
「ありがとう、ピュアちゃん。……私、すごく幸せだよ」
アリスは、私の手が自分の首に触れるのを避けることなく、むしろそれを受け入れるように目を細め、静かに微笑んだ。
私の指先が、彼女の細い首筋に添えられる。
脈打つ頸動脈の鼓動。彼女の肌の温もり。
それらが、私の手には1ミリも伝わってこない。
私が彼女の命を絶つために加えるべき力の量すら、視覚で筋肉の収縮を確認しながら、推測で調整するしかないのだ。
「……愛してるわ、アリス」
私は、ポロポロと涙をこぼしながら、彼女の首を囲む自分の手に、ゆっくりと力を込め始めた。
視界に映る私の白い指が、アリスの細い首筋に沈み込んでいく。
その瞬間だった。
私の脳裏に、彼女と過ごした日々の記憶が、まるで走馬灯のように鮮明な映像としてフラッシュバックし始めたのだ。
霞ヶ関の事務所で、初めて出会った日。彼女は私を警戒するどころか、満面の笑みで私を抱き上げ、くるくると振り回した。私を恐れる人間しかいなかった世界で、彼女だけが私に無条件の好意を向けてくれた。
銀座のブティックで服を選んでくれた時の、誇らしげな顔。
ドレスコードを気にするフレンチレストランを鼻で笑い、もっと美味しいお店に連れて行ってあげると言って、本当に頬が落ちるような料理をご馳走してくれた夜。
私のために、ディーラーで躊躇いもなく札束を切り、漆黒のポルシェを買ってくれた時の得意げなウインク。
そして、つい先ほど。形が崩れて少し焦げたオムライスとハンバーグを囲んで、くだらないアクション映画を見ながら、お腹を抱えて笑い合った、あの温かい時間。
私の世界は、アリスという太陽の光に照らされて、初めて鮮やかな色彩を持ったのだ。
『そういうのはさ……ちゃんとお付き合いして、デートして、雰囲気作って、順序踏んでからがいいの!』
先ほど、彼女が顔を真っ赤にして照れながら言った言葉が、耳の奥でこだまする。
お付き合いをして、順序を踏む。
もし、この絶望的な現実がなくて、私たちに当たり前の明日が許されていたなら。
私たちは、どんな未来を描けたのだろうか。
二人で手を繋いで、休日の街を歩く。私が買ったネイビーのスカートを着て、彼女の隣に並ぶ。
水族館の青い光の中で、泳ぐ魚たちを眺めながら他愛のない会話をする。
カフェで向かい合い、彼女の甘いケーキを一口分けてもらう。
夕暮れの海辺で、肩を寄せ合い、波の音を聞きながら、初めてのキスをする。
そんな、ありふれた、けれど私にとっては奇跡のように眩しい恋人同士の時間が、間違いなく私たちを待っていたはずだったのだ。
これから先、何十年も、彼女の隣で笑って、彼女の温もりをもらって生きていくはずだった。
——でも、その未来は、もう絶対にやってこない。
私たちが重ねるはずだった時間は、神宮寺の薬物によって完全に断ち切られ、今、この病室のベッドの上で、永遠に失われようとしている。
「……っ」
私の指先が、ガクガクと激しく震え出した。
視界が涙で完全に歪み、アリスの顔が滲んで見えなくなる。
私が今、手に力を込めれば、彼女の呼吸は止まる。彼女の心臓は動きを止め、あの向日葵のような笑顔は二度と見られなくなる。私が、彼女の未来を完全に消去するのだ。
「……やっぱり、できないわ」
私は、嗚咽を漏らしながら、アリスの首からパッと手を離した。
無理だ。私にはできない。
いくら彼女が望んだとしても、私が私自身の手で、一番愛している人の命を終わらせるなんて。そんな恐ろしいエラーを、私の心が処理できるはずがなかった。
私はベッドの端に泣き崩れ、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アリス……っ! できない、私には無理よ……っ。あなたを殺すなんて、そんなこと……!」
「ピュアちゃん……」
泣きじゃくる私の頭に、アリスの震える手がそっと触れた。
彼女は、私の顔を覆っていた手を優しく退け、自分の両手で私の手を包み込んだ。
そして、涙で濡れた瞳で私を見つめ、静かに口を開いた。
「……あの時を、思い出して」
「あの、時……?」
「私たちが、初めて会った日。ピュアちゃんが私の部屋で、私に銃を向けた時のこと」
アリスの言葉に、私は息を呑んだ。
事務所で出会ったその日。私は、彼女の屈託のない笑顔と、私を無条件で肯定してくれるその存在から目が離せなくなった。
そして、感情というものを知らなかった私は、彼女の笑顔を永遠に自分だけのものにするため、彼女を殺してホルマリン漬けにしてしまおうと、本気で銃のグリップに手をかけたのだ。
壊してしまえば、彼女は永遠に私だけのものになる。私の中にある最も強い自己表現、他者を思い通りに支配する唯一の手段だった。
「あの時の、あなたの願いが……叶うんだよ」
アリスは、悲しげに、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。
「私が死ねば、私は永遠にピュアちゃんのものになる。誰にも奪われない、ピュアちゃんだけのものに」
「違うわ……っ!」
私は、首を激しく横に振った。
「あの時の私は、ただのバケモノだったのよ! あなたを愛する方法がわからなくて、壊すことでしか手に入れられないと思っていた欠陥品だった! ……でも、あなたが私を変えたんでしょう!?」
私の目から、とめどなく涙が溢れ出す。
「あなたが私に、殺す以外の方法で望みを叶える強さを教えてくれたじゃない! 人間としての心を教えてくれたじゃない! ……私はもう、あなたを壊してホルマリン漬けにしたいだなんて、あんなバケモノみたいな願いは持っていないわ……っ!」
私が必死に訴えると、アリスは私の手を握る手に、微かに力を込めた。
「うん。わかってる。ピュアちゃんが、本当に優しい女の子になったこと、私が一番よくわかってるよ」
アリスは、ポロポロと涙を流しながら、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「じゃあ……あの時のあなたの気持ちを、思い出して」
「アリス……」
「あの時、ピュアちゃんは、私を独り占めしたくて、私を永遠にそばに置いておきたくて、私を壊そうとした。……その『好き』っていう気持ちの強さは、本物だったよね?」
アリスの言葉が、静かな病室に響く。
彼女の瞳には、死への恐怖と、薬物への絶望、そして、私に対する狂気じみたほどの深い愛情が入り混じっていた。
「私は、あなただけのものになるの」
アリスは、熱に浮かされたような声で囁いた。
「ピュアちゃんの手で終わらせてくれれば、私は薬のバケモノなんかにならない。ピュアちゃんを愛したアリスのまま、終わることができる。……私は、ピュアちゃんの中で一生生き続ける。あなただけを想って死んでいく、あなただけのお人形になるの」
あなただけのお人形。
その言葉は、呪いのように、そして甘い毒のように、私の胸の奥深くに侵食してきた。
彼女は、自分が自分でなくなっていく恐怖から逃れるために、私に殺されることを至上の幸福として受け入れようとしているのだ。
彼女の尊厳を守り、彼女の魂を私の内側に永遠に閉じ込める。
それが、今の私たちに残された、唯一の結ばれる方法。
「……っ」
私は、激しい葛藤に引き裂かれそうになっていた。
愛しているからこそ、殺したくない。
愛しているからこそ、彼女の願いを叶え、彼女の尊厳を守らなければならない。
論理と感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、私の思考回路は完全にショート寸前だった。
その時。
アリスの身体が、ビクンと大きく跳ねた。
「ゴホッ……! ゲホッ、ァ……っ」
アリスが、突然激しく咳き込み始めた。
彼女の表情が苦痛に歪み、シーツを握る手に異常な力がこもる。
私の左目が、彼女の身体に起きている異変を冷酷にスキャンした。
顔色から急速に血の気が引き、土気色へと変わっていく。
額に玉の汗が浮かび、呼吸が浅く、ヒューヒューと引き攣った音を立て始めている。
そして、彼女の瞳孔が。先ほどまで私を優しく見つめていた瞳孔が、照明の光に逆らって、再び異常なサイズへと散大し始めていた。
薬の限界が、来ているのだ。
映画を見て笑い合い、私に気持ちを打ち明け、感情を大きく揺さぶったことで、彼女の体内の代替薬は完全に枯渇しようとしている。
このまま数分もすれば、彼女は再びあの発狂状態に陥る。自分の喉を掻きむしり、理性を失って薬を求め、醜く床を這いずり回るバケモノへと成り果ててしまう。
「あ、ァァ……っ、ピュア、ちゃん……っ」
アリスが、痙攣し始めた手で、私の服の袖を必死に掴んだ。
彼女の目が、恐怖に見開かれている。自分が壊れていくことへの、絶対的な恐怖。
「おねがい……っ。はやく……はやく、して……っ! 私が、私でなくなっちゃう前に……っ!!」
彼女の悲痛な叫びが、私の鼓膜を劈いた。
もう、時間がない。
私がここで葛藤し、決断を先延ばしにすれば、彼女は本当に薬の奴隷として、尊厳のすべてを剥ぎ取られてしまう。
アリスの美しさを、アリスの優しさを、永遠に守るためには、今ここで、私が行動を起こすしかないのだ。
『一番辛いのは、アリスだ』
『お前が辛い顔することがアイツのためになるのか、よく考えて行動しろ』
アドの言葉が、脳裏に蘇る。
私が殺すことをためらい、泣いて手を離すことは、私自身の罪悪感から逃げるための身勝手な自己保身でしかない。
一番恐ろしくて、一番苦しんでいるのは、死の淵に立っているアリス自身なのだ。
彼女が私を信じ、私に命を預けてくれたのなら。私は、彼女のその想いに応えなければならない。
彼女の絶望を、私がすべて背負う。
「……わかったわ、アリス」
私は、涙を流すのをやめはしなかったが、顔を上げ、彼女を真っ直ぐに見据えた。
私の視界は涙で滲んでいたが、アリスの顔だけは、決して見失わないようにしっかりと網膜に焼き付けた。
「私が、あなたを永遠に私のものにするわ。……あなたは、私の中でずっと生き続けるのよ」
私は、再びベッドにまたがり、アリスの細い首に両手を添えた。
彼女の脈打つ頸動脈。呼吸のたびに震える喉仏。
私にはその感触はわからない。だが、視覚情報と、私の心の中にある彼女への愛が、私の手に確かな力を与えていた。
アリスは、私の手が首にかかったのを見ると、苦痛に歪んでいた顔を少しだけ緩め、安堵したように目を閉じた。
彼女の口の動きが、音にはならなかったけれど、最後に「ありがとう」と紡いだのがわかった。
私は、彼女の美しい顔を見つめたまま、ゆっくりと、そして確実に、両手に力を込めていった。私の指先が、アリスの細い首筋に沈み込んでいく。
力を込める。彼女の気道を塞ぎ、脳への血流を絶つための、確実で無慈悲な圧力。
私の手には彼女の肌の温かさも、脈打つ命の鼓動も伝わってこない。視覚だけが、私の白い指が彼女の首を締め上げているという残酷な事実を、エラーの一つも吐かずに脳へと送り届けている。
「……大好きよ、アリス」
私は、ポロポロと涙をこぼしながら、震える声で囁いた。
彼女の苦痛を少しでも和らげるために、私ができることは、ただ愛の言葉を伝え続けることだけだった。
「大好き。……ずっと、大好きよ」
私の言葉を聞いて、アリスは苦しいはずなのに、抵抗しようとはしなかった。
彼女の目は静かに閉じられ、ただ私の手から伝わる死の宣告を、愛おしい贈り物であるかのように受け入れていた。
薬物の禁断症状による狂気は、私の手がもたらす窒息によって強制的に押さえ込まれている。彼女は今、バケモノではなく、私を愛してくれた『アリス』のまま、終わろうとしているのだ。
だが、命を絶たれるという生物学的な本能は、どうあがいても肉体に反応を引き起こす。
アリスの顔色が白から紫へと変わり始め、彼女の胸が酸素を求めて微かに波打つ。
私は、彼女が苦しむ姿を見るのが耐えられなくて、目を逸らしたくなった。けれど、彼女が最期まで私を見ていてほしいと願ったなら、私は絶対にこの光景から逃げてはいけない。
「大好きよ……アリス、大好き……っ」
私が涙声で何度も何度も囁き続けていると、不意に、私の背中に微かな重みを感じた。
視界の端で、アリスの力無い両腕が、ゆっくりと持ち上がり、私の背中へと回されたのが見えた。
彼女は、私の身体を抱きしめようとしていた。
苦しいはずの息の中で、彼女は残された最後の力を振り絞り、私を自分の方へと引き寄せようとしているのだ。
その細く震える腕の動きを見て、私はハッと息を呑んだ。
彼女は、私を求めている。
死の淵にあってもなお、私という存在を欲し、私に触れたいと願っている。
『私ね、本当は……ピュアちゃんのこと、抱いてみたかったなあ』
先ほど、彼女が恥ずかしそうに、けれど本心から口にした言葉が、私の心に蘇った。
彼女は私と恋人同士になりたかった。順序を踏んで、お互いに愛し合いたかった。
その未来は神宮寺の薬物によって永遠に奪われてしまったけれど、今、この瞬間だけは。
私にできるのは、彼女の最期の願いを叶えること。彼女が望んだ私の身体を、私のすべてを、彼女に捧げることだけだ。
私は、首を絞める手の力は緩めないまま、自分の顔をゆっくりとアリスの顔へと近づけた。
涙で濡れた私の頬が、彼女の冷えゆく頬に触れる。
そして、私は震える唇を、アリスの青ざめた唇へとそっと重ねた。
これが、キス。
恋愛感情というものを理解していなかった私が、生まれて初めて誰かと交わす、愛情の証明。
唇に触れる感覚は私にはわからない。けれど、私の心が、私の魂が、彼女と完全に一つに溶け合っていくような、強烈で切ない熱を感じていた。
私の唇が重なった瞬間、アリスは苦しげに閉じていた目を、わずかに見開いた。
彼女の大きな瞳に、至近距離にいる私の泣き顔が映る。
その瞳の奥には、もう薬の恐怖も、死の絶望もなかった。ただ、溢れんばかりの純粋な愛と、喜びだけが満ちていた。
アリスの唇が、私の唇の下で微かに動いた。
声にはならないほどのかすれた、小さな小さな囁き。
でも、私にはそれがどんな言葉なのか、はっきりとわかった。
「……私今、人生で、一番……幸せ」
その言葉が紡がれた直後。
私の背中に回されていたアリスの腕に、ギュッと強い力が込められた。
彼女は、最期の命の炎を燃やし尽くすようにして、私を強く、強く抱き寄せた。
私という存在を、自分の魂に永遠に刻み込むように。決して離さないと誓うように。
そして。
その強い抱擁を最期の証として、アリスの身体から、フッと力が抜け落ちた。
私を抱きしめていた腕の力が緩み、彼女の胸の動きが、完全に停止した。
見開かれていた瞳から光が失われ、焦点がゆっくりと虚空へと溶けていく。
終わったのだ。
彼女の心臓は動きを止め、彼女を縛り付けていた薬の苦しみも、すべてが消え去った。
私が、私の手で、大好きなアリスの命を絶った。
「…………」
アリスの生命活動が停止した後も、私は動くことができなかった。
彼女の首に手をかけたまま、彼女の唇に自分の唇を重ねたまま。
ただ、大粒の涙をポロポロとこぼし続け、彼女の冷たくなっていく顔を至近距離で見つめていた。
静かだった。
病室には、もうアリスの苦しげな呼吸音は聞こえない。医療機器の心電図が、ピーッという無機質なフラットラインの音を鳴らし始めている。
その音が、彼女がこの世界から完全にいなくなってしまったという残酷な事実を、私の脳に突きつけてくる。
私の涙が、アリスの頬に落ちて、彼女の顔を濡らしていく。
離れたくなかった。
このまま、ずっと彼女と口づけを交わしたまま、時が止まってしまえばいいと本気で願った。
彼女が死んでしまったという現実を認めたくなくて、私はただ、動かなくなった彼女の身体にすがりついていた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
永遠にも思える静寂の中。
——ボトッ。
私の背中から滑り落ちたアリスの腕が、力なくベッドのシーツの上へと落下した。
その鈍い音が、私の止まっていた時間を強制的に動かした。
私は、ゆっくりと上体を起こした。
唇が離れ、私の視界に、ベッドに横たわるアリスの全容が映し出された。
彼女の顔は、とても穏やかだった。痛みや恐怖に歪んでいた先ほどまでの姿は嘘のように消え去り、まるで幸せな夢を見ているかのような、安らかな寝顔だった。
私が彼女の尊厳を守り、彼女をバケモノになる前に救済したという証拠。
けれど、その安らかな顔の向こうで、彼女はもう二度と目を覚ますことはない。二度と「ピュアちゃん」と私の名前を呼んで笑ってくれることはない。
私は、自分の両手を見下ろした。
アリスの首を絞めた手。
この手が、彼女の未来をすべて奪った。
「……あ、あぁ……」
私の胸の奥底から、どうしようもない喪失感と、これまで言語化できなかった感情の正体が、マグマのようにドロドロと溢れ出してきた。
私は、アリスのことが大好きだった。
私に温もりを教えてくれた恩人として。私を支えてくれる大切な仲間として。
そう思っていた。そうやって、自分の感情に理屈をつけて、安全な場所に分類していた。
でも、違う。
彼女が私にキスを求め、私が彼女に唇を重ねた時。
私の心がどれほど激しく揺さぶられ、彼女と一つになりたいと強烈に渇望したか。
彼女が「恋愛として好きだった」と言ってくれた時、私の心がどれほど歓喜に打ち震えたか。
私は、ただの仲間として彼女を見ていたわけじゃなかった。
私も、彼女に触れたかった。彼女と手を繋いで歩きたかった。
彼女とデートをして、彼女の甘いケーキを一口もらって、彼女の隣でずっと一緒に生きていきたかった。
私は、アリスに恋をしていたのだ。
彼女と同じように、私も彼女を恋愛的な意味で「好き」だったのだ。
それに気づいたのは、私が自らの手で、彼女の命を完全に終わらせた後だった。
「……なんで」
私の口から、掠れた、情けない声が漏れた。
「私も、アリスが大好きだったのに……どうして、今気づいちゃったのよ……っ」
失ってから気づく、自分の本当の気持ち。
もっと早く気づいていれば。彼女が生きているうちに、私も「好きだ」と、恋愛としてあなたを愛していると、ちゃんと伝えてあげられたのに。
そうすれば、彼女はもっと幸せな気持ちで、この世界を去ることができたかもしれないのに。
私は自分の鈍感さと、自分の感情から逃げ続けていた臆病さを、これほど呪ったことはなかった。
「アリス……ごめん、なさい……っ。私も、好きだった……ずっと、あなたに恋をしてたの……っ!」
私は、動かなくなったアリスの身体に再びすがりつき、顔を埋めて大声を上げて泣いた。
私の涙は、彼女の服を濡らし、彼女の冷たくなっていく肌に染み込んでいく。
「置いていかないで……っ! 私を一人にしないでよぉ……っ!! アリスッ……アリスゥゥゥッ!!」
私の絶叫が、無機質な病室の壁に空しく反響する。
彼女はもう、何も答えてくれない。
私がどれだけ愛を叫ぼうと、どれだけ後悔の涙を流そうと、彼女は永遠に私の中の『綺麗な思い出』として閉じ込められてしまったのだ。
痛覚も皮膚感覚も失った私の身体で、唯一残された心の痛みが、私のすべてをズタズタに切り裂いていく。
私は、愛する人を自らの手で殺したという十字架の重さに押し潰されながら、ただひたすらに、声を枯らして泣き続けることしかできなかった。




