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第五話「せめて最後は」

 アドの言葉は、裏社会に生きる者としての矜持と、仲間を想う熱い怒りに満ちていた。

 その純度100パーセントの感情の出力は、私の胸の奥にも力強い共鳴をもたらしている。私が神宮寺誠一郎という男を物理的に粉砕したいと願う渇望と、アドの怒りのベクトルは完全に一致していた。

 だが、私の脳内に構築された冷徹な論理回路は、彼の言葉を「精神論としては最適解だが、物理的現実としては著しく破綻している」と、即座にエラー判定を下さざるを得なかった。


「……アド。あなたの言葉は最もだし、私の感情も完全に同意しているわ。でも、計算式が全く成り立っていない」


 私は、大理石の床を見つめたまま、冷ややかな、しかし焦燥を隠しきれない声で事実を提示した。


「神宮寺は国家権力を盾にし、未知の薬物で強化された恐怖を知らない兵士を数十、あるいは数百という単位で量産している。それに対して、今の私たちの手駒を客観的に計算してみて」

「……」

「前衛で最大の物理的破壊力を誇っていたアリスは、薬物に縛られ戦線離脱。タイガーは死亡。レイやファイア、シンといった主戦力は、神宮寺の包囲網を避けるために各地へ分散し、合流の目処は立っていない。……今ここにいるのは、情報の統括ができるロータス、二丁拳銃のクォーツ、指揮官であるあなた、そして……皮膚感覚と痛覚を失い、近接戦闘ができなくなった私だけよ」


 私の言葉に、エントランスホールは重苦しい静寂に包まれた。

 クォーツが悔しそうに俯き、ロータスが唇を強く噛み締める。

 アドもまた、ポケットの中で拳を握りしめ、沈黙するしかなかった。


「どんなに完璧なハッキングで敵のシステムを掌握し、どんなに高度な戦術を組み上げようと、最終的に盤面を制圧するのは『物理的火力』よ。今の私たちには、神宮寺の要塞を正面から叩き潰すための戦力が、絶対的に足りていないわ」


 それは、どう足掻いても覆せない物理法則だった。

 今の私たちの戦力で神宮寺の研究所を強襲しても、途中で弾幕に圧し潰され、全滅する確率が99パーセントを超えている。残りの1パーセントの奇跡にアリスの命を懸けるなど、合理的な思考を持つ者なら絶対に選択しない。


 深い無力感が、私たち全員を覆い尽くそうとした、その時だった。


「……ならば、私も戦いましょう」


 静かな、しかし確かな覚悟を持った低い声が、エントランスに響いた。

 声の主は、私たちをこの療養所に招き入れてくれた、あの監視役の男だった。

 彼はヨレたカーディガンのポケットから手を出し、背筋をピンと伸ばして私たちの前に進み出た。


「あんたが……?」


 アドが、訝しげに眉をひそめた。


「気持ちはありがてえし、匿ってくれたことには心から感謝してる。だがな、あんたはただの児童施設の監視役だった公務員だろ。相手は最新鋭の銃火器を持った、痛覚のない薬物中毒の化け物どもだ。素人が首を突っ込んでどうにかなる戦場じゃねえんだよ」

「素人、ではありません」


 アドの正論を、監視役の男は静かに、しかし力強く否定した。


「私が純玲さんの監視役に選ばれたのは、単なる公務員だからではありません。……私は元々、自衛隊の特殊作戦群に所属していた人間です」


 その言葉に、私は残された左目をわずかに見開いた。

 自衛隊の、特殊作戦群。国家の防衛を担う組織の中でも、対テロ戦闘や非正規戦に特化した、肉体と技術の極限を追求する戦闘のプロフェッショナル部隊。


「神宮寺誠一郎は、純玲さんが5歳の時にご両親を殺害した際、その異常な身体能力とリミッターを外した際の危険性を正確にデータとして把握していました。だからこそ、純玲さんを隔離施設に収監するにあたり、万が一彼女が暴走した場合に『物理的に制圧できる人材』を必要としたのです」

「……なるほど」


 私の脳内で、過去の施設での記憶の断片が次々と繋がり、新たな解を弾き出した。

 施設にいた監視役の大人たちは、皆一様に無口で、感情を表に出さなかった。だが、彼らの歩幅、重心のブレのなさ、常に私の死角に入らないように立ち回る視線の動かし方。

 当時の私は『環境の一部』としか認識していなかったが、今思えば、彼らの動きには軍事訓練を受けた者特有の、無駄のない洗練されたプロトコルが完全に組み込まれていた。


「神宮寺は、国家の裏ルートを使い、自衛隊や警察の特殊部隊から選りすぐりの人間を引き抜き、純玲さんの監視役として配置していました。私もその一人だったというわけです」


 男は、自分の両手を開き、手のひらの分厚いタコを私たちに見せた。


「現場からは長く離れていましたが、この療養所に左遷されてからも、いつ何が起きても対応できるように、毎日の鍛錬は欠かしていません。射撃技術も、CQC(近接格闘)の技術も、まだ現役の連中には衰えていないつもりです」


 男の言葉には、自らの肉体に刻み込まれた技術に対する確かな自負があった。

 アドが、その体格と立ち振る舞いを改めてスキャンするように見つめ直す。確かに、カーディガンの下にある筋肉は厚く、年齢を感じさせない引き締まった獣のようなプレッシャーを放っていた。


「……あんたがタダモノじゃねえってことはわかった。だが、なぜそこまでして俺たちに協力する?」


 アドが、鋭い視線で男の真意を問いただした。


「あんたはすでに神宮寺の計画から外された、使い捨ての駒だと言ったな。ここで俺たちを匿うだけでも十分なリスクだ。それなのに、自ら銃を持って神宮寺とドンパチやれば、国家に対する明確な反逆になる。最悪、命はないぞ。なぜそこまでする義理がある」


 アドの問いは極めて合理的だった。

 彼が私に1000万円という贖罪の金を渡し、安全な場所を提供してくれただけでも、彼が抱えていた罪悪感に対する清算としては十分すぎるほどだ。自らの命を盤上に投げ出す理由は、どこにも存在しない。


 だが、監視役の男は、一切の躊躇いなく、静かに、そして熱を帯びた声で答えた。


「神宮寺の駒として、ただこの山奥で使い殺されるくらいなら……あの悪魔に、一矢報いてやりたいからです」


 男の瞳の奥に、神宮寺誠一郎という巨悪に対する確かな憎悪の炎が揺らめいた。


「私は、純玲さんが施設でどれほど孤独に、そして静かに生きていたかを知っています。あんな小さな子供の人生を実験材料として奪い、さらにアリスさんという大切な仲間までをも薬物で壊そうとしている。……あんな外道を、国家権力だからといって見過ごすことは、私の人間としての誇りが許しません」


 男は、私の方へと向き直り、深く、丁寧にお辞儀をした。


「それに……私は、純玲さんが外界で手に入れた『仲間』を、全力で守りたいのです。あなたが初めて私を頼ってくれた。その期待に、今度こそ、私は私の持てるすべての力で応えたい」


 その真っ直ぐな言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 彼は、私を実験動物としてではなく、一人の人間として愛し、見守ってくれていた。その親愛の情は、私が施設を出てからも1ミリも変わらず、むしろこうして再び交差したことで、より強固な物理的支援となって私の前に現れたのだ。


「……あんたの覚悟は本物らしいな」


 アドが、小さく息を吐き出し、険しい表情を少しだけ緩めた。

 だが、彼は組織のリーダーとして、最後に一つだけ、残酷な確認を行わなければならなかった。


「だがな、おっさん。あんた、家族はいいのか?」

「……家族、ですか」

「ああ。神宮寺に弓を引くってことは、あんた自身がテロリストの汚名を着るだけじゃ済まねえ。国家の裏ネットワークを使えば、あんたの親族や家族まで、合法的な事故に見せかけて完全に消し去ることなんて造作もねえんだ。俺たちのような裏社会で生きる人間とは違う。表の世界に守るべき家族がいるなら、あんたをこの戦いに巻き込むわけにはいかねえ」


 アドの言葉は、かつて彼自身が経験した『権力による家族の抹殺』という最悪のエラーを前提とした、絶対的なリスク管理だった。


 私は、監視役の男の顔を見た。

 彼が施設を出る私に渡した手紙には、『私には、娘がいました。あなたと同じ、五歳になる年に、重い病気でこの世を去りました』と書かれていた。

 娘はすでに亡くなっている。だが、妻は? 他の親族は?


 男は、悲しげに目を伏せ、自嘲するように小さく笑った。


「……心配には及びません。私には、守るべき家族など、もうどこにもいないのですから」

「何?」

「手紙に書いた通り、私の一人娘は、純玲さんが施設に来られる直前に病死しました。……そして、妻も、もう私の元にはいません」


 男の言葉に、私は微かに眉をひそめた。


「妻は、私の仕事の内容を一切知りませんでした。神宮寺の命令で、私は山奥の隔離施設に何ヶ月も軟禁状態で泊まり込み、純玲さんの監視任務に就かなければならなかった。家に帰ることもできず、娘を失った悲しみを共に分かち合うこともできなかった私に、妻は愛想を尽かしました」


 男の声は、どこまでも平坦で、乾いていた。


「『あなたは家庭よりも、名前の言えない仕事の方が大事なのね』と。……彼女が離婚届を置いて家を出て行ったのは、純玲さんが施設に来てから3年目の冬のことでした。私は、任務の守秘義務のために、引き止めることすらできなかった」


 その事実を聞いた瞬間、私の脳内の演算回路が、強烈なエラーコードを吐き出した。

 私の監視。

 私が、彼を山奥の施設に縛り付けていた。

 私が両親を殺し、あの施設に隔離され、危険な実験動物として彼らに管理されていたからこそ。彼は家庭を顧みる時間を奪われ、妻を失ったのだ。

 私の存在が、彼から家族という帰るべき場所を物理的に奪い去っていた。


「……私のせいね」


 私は、感覚のない両手を力なく下ろしたまま、ぽつりと呟いた。


「私が施設にいたから、あなたが家庭に戻れなかった。あなたの人生を壊したのは、神宮寺だけじゃない。……私という存在そのものが、あなたからすべてを奪ったバグだったのよ」

「違います、純玲さん!」


 監視役の男は、私の自己否定の計算式を、強い語気で即座に否定した。


「妻が離れていったのは、私の不甲斐なさが原因です。純玲さんに責任など1ミリもありません。……むしろ、娘を失い、妻を失った空っぽの私に、生きる意味を与えてくれたのは、他でもない純玲さんだったのです」

「私が……生きる意味?」

「ええ。あの施設で、あなたが静かに本を読み、少しずつ知識を吸収していく姿を見守ることが、私の唯一の救いでした。私があなたを監視していたのではない。私が、あなたという存在に生かされていたのです」


 男の真っ直ぐな言葉に、私の論理回路は完全に沈黙した。

 私の存在が誰かを傷つけたという物理的な事実を、彼は『救い』という全く逆のベクトルで再定義してくれたのだ。

 人間の感情というものは、これほどまでに非合理的で、そして温かいものなのか。


「……なるほどな。あんたの覚悟の根源は、よくわかった」


 アドが、ゆっくりと息を吐き出しながら、監視役の男に向かって1歩踏み出した。

 そして、その大きな右手を、男の前に差し出した。


「あんたはもう、失うもののない無敵の男だ。そして、純玲を守りたいというその意志は、俺たち『天秤』の理念と完全に一致している。……神宮寺の野郎に一矢報いるため、俺たちの組織に力を貸してくれねえか」


 アドの言葉は、裏社会の殺し屋組織への正式な勧誘だった。

 元自衛隊の特殊作戦群であり、神宮寺の計画の初期段階を内側から知る男。彼が味方につくことは、絶対的に不足していた私たちの物理的戦力と戦術的知見を大幅に底上げする、最高のアップデートとなる。


「……喜んで。私の命、すべてあなた方にお預けします」


 監視役の男は、アドの右手を力強く握り返した。

 男たちの間に、確かな信頼のリンクが構築された瞬間だった。


「よし、交渉成立だ。……だが、あんたを組織に迎えるにあたって、1つ問題がある」


 アドは手を離し、頭をガシガシと掻きながら呆れたような顔をした。


「俺たちは裏の組織だ。本名で呼び合うのはリスクが高すぎるから、必ずコードネームを使うのがルールなんだが……最近、そのルールが形骸化してきててな」

「形骸化、ですか?」

「ああ。アリスの奴がロータスのことを普通に『蓮くん』って呼んだり、ピュアでさえ時折『蓮』って本名で呼んだりしやがる。もう隠蔽もクソもねえ状態だが、一応ケジメとして、あんたにも何か名前をつけてやらなきゃならねえ」


 アドのぼやきに、私は小さく肩をすくめた。

 確かに、私は感情を取り戻して以降、彼をロータスという記号ではなく、蓮という一人の人間として認識するようになり、無意識に本名で呼ぶ頻度が増えていた。それは私の感情のバグが引き起こしたセキュリティ上のエラーだが、今更修正する気も起きなかった。


「……コードネーム、ですか」


 監視役の男は、少しだけ思案するように顎に手を当てた。


「そうですね……それならば、『モニター』というのはいかがでしょうか」

「モニター?」


 私が首を傾げると、男は私を見て、静かに微笑んだ。


「はい。私は10年間、監視カメラのモニター越しに、純玲さんの成長をずっと見守ってきました。……そしてこれからも、あなたから目を離さず、あなたの身を守るための監視者モニターであり続けたい。そういう意味を込めて」


 モニター。監視する者。

 それはかつて、私を隔離施設に縛り付けていた冷酷なシステムの名前だった。だが、今、彼が自ら名乗るその言葉には、私を外界の悪意から保護し、見守り続けるという絶対的な親愛の情が込められていた。


「……合理的で、良い名前ね。機能と名称が完全に一致しているわ」


 私が評価を下すと、アドも「悪くねえな」と頷いた。


「よし。今日からあんたは俺たちの仲間、『モニター』だ。よろしく頼むぜ」

「はい、アドさん。ピュアさんも、改めてよろしくお願いします」


 モニターが深く頭を下げた、その時だった。


「……アドさん、ピュアさん! アリスさんのセッティング、終わりました!」


 建物の奥から、ロータスが小走りでエントランスホールへと戻ってきた。

 彼の額には汗が滲み、シャツの袖はまくられている。アリスを医療用ベッドに移し、専属医の指示に従って生命維持のための各種機器の配線を済ませてきたのだろう。


「アリスの容態はどうだ?」

「ドクターが代替薬の投与ラインを調整し、バイタルは安定しています。今は深い眠りについていて、クォーツさんが傍についています。……あ、あなたは」


 ロータスとモニターは、私が施設を出てから出会った人間と、施設にいた頃の人間という、決して交わるはずのなかった2つのタイムラインの存在だ。


「彼は今日から私たちの新しい戦力よ。コードネームは『モニター』。元自衛隊の特殊部隊員で、私の施設の監視役だった男だわ」


 私が簡潔に紹介すると、ロータスは「元特殊部隊……!」と目を丸くし、慌てて深くお辞儀をした。


「初めまして! 俺、ロータスって言います! ピュアさんの専属サポーターをやらせてもらってます!」

「ロータス君ですね。こちらこそ、純玲さんを支えていただき、本当にありがとうございます」


 モニターも丁寧にお辞儀を返す。

 私のために動いてくれる2人のサポーターが、こうして物理的にリンクを果たした。これで私たちの手駒は、情報戦のロータスと、物理戦闘のモニターという極めて強力な布陣へと強化されたことになる。


「挨拶はそこまでだ。時間は有限だぞ」


 アドがパンッと手を叩き、場の空気を引き締めた。


「モニターという国家側の内部事情を知る味方がついたことは、これ以上ないアドバンテージだ。神宮寺の野郎が国家権力をどう動かし、どこに罠を張っているのか、俺たちには見えない情報網をこいつは持っているはずだ」


 アドは視線をロータスとモニターに向けた。


「ロータス、モニター。お前らは今すぐ、外のモーターホームに入れ。あそこのコンソールと通信設備を使って、現在の神宮寺の動向と、『エデン計画』の次なるフェーズの座標を徹底的に洗い出せ。モニターの知識とロータスのハッキングを統合すれば、必ず奴の尻尾が掴めるはずだ」

「了解しました! すぐにシステムを立ち上げます!」

「承知いたしました。私の知る限りの自衛隊内部の暗号プロトコルと、神宮寺のダミー会社のリストを提供します」


 ロータスとモニターが、弾かれたように玄関へと向かい、外のモーターホームへと走り出していった。

 彼らの背中を見送り、エントランスに残されたのは私とアドだけになった。


「……ピュア」


 アドが、タバコを咥えたまま、静かに私に声をかけた。


「お前はどうする。お前の演算能力があれば、あいつらの情報解析の速度はさらに上がるはずだが」

「不要よ。情報処理のタスクは彼ら2人で十分に機能するわ。私が介入すれば、かえってロータスの直感的なハッキングのアルゴリズムにノイズを生む可能性がある」


 私は、感覚のない両手をコートのポケットにしまい込み、視線を建物の奥——アリスの眠る病室の方向へと向けた。


「私は、アリスの病室へ行くわ。彼女のバイタルデータを、私のこの目で直接確認しておきたいの」

「……そうか。無理はすんなよ」


 アドはそれ以上何も言わず、玄関の戸締まりを確認するために歩いていった。


 私は、1人、静寂に包まれた療養所の廊下を歩き出した。

 足の裏の感覚がないため、視界の揺れを脳内で補正しながら、1歩1歩、慎重に踏み出していく。

 木製の床が微かに軋む音だけが、私の鼓膜を打っていた。


 廊下の突き当たり。

 そこが、専属医がアリスの治療室としてセッティングした部屋だった。

 私は扉の前に立ち、ゆっくりとノブを回して中へと入った。


「……ピュア」


 部屋の隅の椅子に座っていたクォーツが、私の姿に気づいて小さく声を上げた。

 彼女の目の前には、白いシーツに包まれ、静かな寝息を立てるアリスが横たわっていた。

 部屋の中には、心電図のモニターの規則正しい電子音と、点滴の機械が液を送り出す微かな駆動音だけが響いている。ドクターは別の部屋で薬品の調合を行っているのか、姿は見えなかった。


「アリスの容態はどう?」


 私が小声で尋ねると、クォーツは立ち上がり、ベッドの傍らを私に譲ってくれた。


「……落ち着いてる。お医者さんが、新しいお薬を入れてくれたから……今は、痛くないみたい」


 クォーツの言葉に、私は深く息を吐き出し、アリスのベッドの横に用意された丸椅子に腰を下ろした。


 ベッドの上の彼女の顔色は、六本木の地下ラボで見た時のような死人のような蒼白さからは脱し、微かに血の気が戻っていた。

 だが、その首筋には、彼女自身が苦痛に耐えかねて掻きむしった痛々しい赤い傷跡が、ガーゼで覆われている。

 腕には何本もの管が繋がり、彼女の命を無理やりこの世界に繋ぎ止めている。

 これが、私に太陽のような笑顔を向け、人間としての温もりを教えてくれた少女の、現在の物理的現実だ。


「……」


 私は、コートのポケットから感覚のない左手を取り出し、シーツの上に投げ出されているアリスの右手に、そっと触れた。


 冷たいのか、温かいのか。

 柔らかいのか、硬いのか。

 私には、何もわからない。私の脳は、彼女の皮膚から発せられるすべての情報を、完全に受信拒否している。

 視覚データとしては、私の白い指先が、彼女の細い指に重なっているという事実だけが存在していた。


「……ピュア」


 背後から、クォーツの心配そうな声が聞こえた。

 彼女は、私が神宮寺の拷問によって皮膚感覚を喪失したことを知っている。だからこそ、私が何も感じない手でアリスに触れている姿が、ひどく残酷で、悲しいものに見えたのだろう。


「大丈夫よ、クォーツ」


 私は、アリスの手を見つめたまま、静かに答えた。


「確かに、私の物理的なセンサーは完全に壊れてしまったわ。アリスが熱を出しても、私の手でその温度を測ってあげることはもう二度とできない」


 私は、感覚のない指先を、微かに動かした。

 アリスの指の隙間に、自分の指を滑り込ませる。


「でも……不思議ね。温度はわからないのに、私の胸の奥の、この『心』という非合理的なエンジンは……彼女に触れているという視覚情報だけで、こんなにも熱く、激しく燃え上がっているの」


 私の左目から、1粒の涙がポロリとこぼれ落ち、アリスのシーツに小さな染みを作った。

 痛覚も触覚も失った私に残された、唯一の温もり。

 それは、彼女を愛おしいと思う、この感情そのものだった。


「私が彼女の温度を感じられないのなら、私が彼女を包み込む炎になればいいだけよ。……神宮寺誠一郎の野望をすべて灰燼に帰し、彼女を縛り付ける薬物の呪縛を物理的に焼き尽くすための、絶対に消えない炎にね」


 私の冷徹で、しかし純度100パーセントの愛と殺意に満ちた言葉を聞いて、クォーツは無言のまま、私の肩にそっと自分の小さな手を乗せてくれた。

 クォーツの手の温もりが私の肩から伝わってくることはない。けれど、彼女がそこにいて、私と同じようにアリスを大切に想ってくれているという事実だけで、冷え切っていた私の心は確かに救われていた。

 しばらくの間、私たちは言葉を交わすことなく、ただ静かな呼吸音と医療機器の電子音だけが響く部屋で、眠るアリスを見守っていた。


 ガチャリ、と。

 背後の扉が開く音がして、私たちは同時に振り返った。

 医療用のタブレットと数種類のカルテを手にしたドクターが、重い足取りで部屋に入ってきた。その顔には、隠しきれない疲労と、何より深く沈み込んだような暗い影が落ちている。

 ドクターは私たちを一瞥すると、小さくため息をつき、アリスのベッドの傍に設置されたモニター群へと向かった。


「……ドクター。アリスの様子は、どうかしら」


 私が静かに尋ねると、彼はモニターの数値を一つ一つ確認しながら、しばらくの間、無言のまま画面を操作し続けていた。

 以前の私なら、彼が沈黙している間にモニターの数値を視覚で読み取り、自らの頭の中で彼女のバイタルデータを計算していただろう。だが、今の私はそんなことはしなかった。ただ、ドクターが口を開くのを、鼓動を早めながら待っていた。


「……ピュア。それに、クォーツのお嬢ちゃんも」


 やがて、ドクターはタブレットを脇のテーブルに置き、私たちに向き直った。

 その目は、これまで見たどんな時よりも真剣で、そして残酷な事実を口にする前の、医者としての覚悟に満ちていた。


「心の準備をして、聞いてくれ」


 その一言で、部屋の空気が一気に冷たくなった気がした。

 クォーツがビクッと肩を震わせ、私の服の袖をギュッと強く握りしめる。


「俺は、お前たちがここに着いてからずっと、アリスの血液データと内臓の数値を解析し続けていた。神宮寺の野郎が使ったあの薬物の成分と、アリス自身が無理やりリミッターを外したことによる反動……その二つが、彼女の身体にどれほどのダメージを与えたかをな」

「……ダメージは、深刻なの?」

「ああ。深刻なんて言葉じゃ生ぬるい」


 ドクターは、苦しげに顔を歪めた。


「彼女の内臓は、今も進行形で壊死を続けている。肝臓も腎臓も、すでに不可逆なレベルでボロボロだ。自分の身体の毒素を分解することもできず、ただ薬物によって無理やり生かされているだけの状態なんだ」

「……っ!」


 不可逆。元には戻らない。

 その言葉の重さが、私の胸に重くのしかかる。


「それだけじゃない。一番の問題は、脳だ」


 ドクターの言葉に、私は息を呑んだ。


「極限のストレスと薬物の過負荷によって、彼女の脳は急速に萎縮し始めている。今の穏やかな眠りも、ただ脳が限界を迎えて機能をシャットダウンしているにすぎない。目を覚ませば、またあの薬物への渇望と、全身が砕けるような幻痛が彼女を襲うだろう。……だが、それを抑えるための代替薬を投与し続ければ、今度は内臓が完全に機能停止する」


 それは、どう足掻いても逃れられない、完全な詰み(チェックメイト)を意味していた。


「治す方法は……ないの?」


 私は、自分の声が情けないほど震えていることに気づいた。

 かつてのように「生存確率を上げるための変数は何か」と理詰めで問い詰めることはできなかった。ただ、一人の無力な少女として、すがるように奇跡を求めていた。


「今の彼女を救うには、大規模な臓器移植と、脳の萎縮を食い止めるための最高度の医療設備が必要だ。国家レベルの最新技術を総動員して、ようやく数パーセントの希望が見えるかどうか……そんなレベルだ」


 ドクターは、力なく首を振った。


「だが、今の俺たちには、そんな設備も、大病院に彼女を運び込むツテもねえ。神宮寺に追われている今の状況じゃ、表の病院に連れて行けば一瞬で網に掛かる。俺が持っている限られた機材と薬じゃ……進行を遅らせることすら、もう限界なんだよ」

「……そんな」


 クォーツが、掠れた声で呟き、両手で顔を覆った。


「ドクター……教えて。アリスには、あとどれくらいの時間が残されているの」


 私の問いに、ドクターは痛ましそうに目を閉じ、静かに、残酷な事実を口にした。


「……もって、1ヶ月だ」


 1ヶ月。

 その言葉が、耳の奥で何度も反響した。

 三十日。たったの、それだけ。

 私に温もりを教え、笑うことの楽しさを教えてくれた彼女が、この世界からいなくなってしまうまでの時間。


「いやぁぁぁっ……!」


 クォーツが、その場に崩れ落ち、悲痛な泣き声を上げた。

 彼女は床に突っ伏し、床を小さな拳で何度も何度も叩きながら、子どものように泣きじゃくった。大好きな人を理不尽に奪われる絶望に、彼女の心は完全に打ち砕かれていた。


 私は、車椅子に座ったまま、呆然とアリスの寝顔を見つめていた。

 私の頭の中は真っ白だった。

 計算も、分析も、何も浮かばない。

 ただ、胸の奥が張り裂けそうに痛くて、息をするのすら苦しかった。


 アリスが死ぬ。

 その事実を受け入れることが、どうしてもできなかった。

 私が感情を取り戻し、人間として生きることを選んだのは、彼女がいたからだ。彼女がいない世界で、私はどうやって息をしていけばいいのだろう。

 私の感覚のない左手が、無意識に震えていた。熱も圧力も感じないこの手が、今はひどくもどかしく、忌々しかった。もし感覚があれば、彼女の手を握りしめて、私の命を少しでも分けてあげられたかもしれないのに。


「……すまねえ」


 ドクターは、深く頭を下げ、足早に治療室を出て行った。

 医者として、助けられない命を前にした無力感と罪悪感に、彼自身も耐えられなかったのだろう。


 部屋には、クォーツの泣き声と、無機質な医療機器の音だけが残された。

 私は、涙でぼやける左目で、静かに眠るアリスの顔を見つめ続けた。

 痛々しい傷跡。青白い肌。

 でも、彼女の寝顔は、どこか優しくて、今にも目を覚まして「ピュアちゃん!」と笑いかけてくれそうだった。


(……泣いている場合じゃないわ)


 私は、ギュッと唇を噛み締め、こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。

 私がここで泣き崩れてしまえば、アリスが目を覚ました時、彼女はきっと自分を責めるだろう。

 『ごめんね、私のせいで悲しい思いをさせて』と、またあの無理をした笑顔で謝るに違いない。

 そんな顔、もう二度と見たくない。

 彼女には、いつだって向日葵のように笑っていてほしいのだ。


 私は、車椅子からゆっくりと身を乗り出し、床で泣き伏しているクォーツの小さな背中に、そっと手を置いた。


「……クォーツ」


 私の声は、まだ少し震えていたけれど、それでも、はっきりと彼女に届くように言葉を紡いだ。


「泣かないで、とは言わないわ。悲しいのは、私も同じだから」


 クォーツが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私を見た。


「でもね、クォーツ。アリスに残された時間が、あと1ヶ月しかないのなら。……その大切な時間を、私たちがただ泣いて、暗い顔をして過ごすのは、絶対に嫌よ」

「ピュア……」

「アリスは、自分が足手纏いになっているって、ずっと気にしてる。私たちが悲しそうな顔をしていたら、彼女は残りの1ヶ月、ずっと罪悪感を抱えたまま過ごすことになっちゃうわ」


 私は、かつて使っていたような「生存確率」や「合理的な判断」といった言葉を使わなかった。

 ただ、私の心から湧き上がる、純粋な願いだけを口にした。


「私は、アリスに笑っていてほしい。……私たちと一緒にいて、楽しかったって、そう思ってほしいの」

「……でも、どうすれば……」

「堂々と外に出ることはできないし、遠くへ遊びに行くこともできないわ。でも、この療養所の中で、私たちにできることはまだたくさんあるはずよ」


 私は、アリスの寝顔を見つめながら、これからやりたいことを思い描いた。


「例えば……蓮に教えてもらって、みんなで一緒に料理を作ってみるとか」

「……料理?」

「そう。私はこの間、オムライスを作ったのよ。蓮は美味しいって言ってくれたわ。アリスにも、私たちが作ったご飯を食べてもらいたい。……それに、アリスが好きそうな映画を、蓮のパソコンで一緒に見るのもいいわね。ポップコーンや、あなたの好きなお菓子をたくさん並べて」


 私の言葉を聞いて、クォーツの大きな瞳から、ぽろりとまた一粒の涙がこぼれ落ちた。

 でも、その涙は先ほどまでの絶望だけの色ではなかった。


「……今まで、私たちは殺しの仕事ばかりで、普通の女の子みたいに遊んだり、他愛のないおしゃべりをしたことがなかった。……だから、残りの時間は、そういう当たり前のことを、アリスと一緒にたくさんやりたいの」


 私は、クォーツの手をそっと握った。


「アリスが目を覚ました時、私たちが笑顔で『おはよう』って言えるように。……彼女の世界が、少しでも温かくて、優しいもので満たされるように。一緒に、手伝ってくれる?」


 私の問いかけに、クォーツは鼻をすすり、それから、両手で乱暴に涙を拭った。


「……うん」


 クォーツは、赤く腫れた目で私を真っ直ぐに見つめ、力強く頷いた。


「私……アリスに、いっぱいお菓子あげる。……一緒に、映画も見る。……アリスが、寂しくないように、ずっとそばにいる」

「ええ。そうしましょう」


 私は、小さく、けれど心からの笑顔を浮かべた。

 神宮寺への復讐も、エデン計画の粉砕も、もちろん忘れたわけではない。アドと蓮が、必ず奴の尻尾を掴み出し、私に戦う舞台を用意してくれるはずだ。

 でも、今は。

 今、私が一番優先すべきなのは、アリスとの残されたこの愛おしい時間を、1秒たりとも無駄にしないこと。


━━━━━━━━━━━━━━━━


 無機質な医療機器の電子音が、静かに部屋の空気を刻んでいる。

 私は、ベッドの脇に置かれた丸椅子に座り、眠り続けるアリスの顔をじっと見つめていた。クォーツは私の隣で、アリスの手を自分の小さな両手で包み込むようにして握りしめている。


「……ん、ぅ……」


 どれくらいの時間が経過しただろうか。

 微かな呻き声と共に、アリスの長いまつ毛が震え、ゆっくりと重い瞼が開かれた。

 濁っていた瞳孔は正常なサイズに戻っており、すぐに焦点が私たちの顔を結んだ。


「アリス」

「……ピュア、ちゃん……? クォーツちゃんも……」


 アリスは、掠れた声で私たちの名前を呼び、ゆっくりと上体を起こそうとした。クォーツが慌てて立ち上がり、背中にクッションを当てて彼女の身体を支える。

 アリスの顔色は相変わらず青白く、首筋の痛々しい傷跡が、彼女の受けた苦しみの深さを物語っていた。


「……私、また……眠ってたんだね」


 アリスは、自嘲するように小さく笑い、自分の腕に繋がれた点滴の管を見つめた。


「ごめんね、二人とも。……アドや蓮くんたちは、神宮寺の情報を探ってくれてるんでしょ? 私がこんな身体で、ずっと足手纏いになってて……本当に、ごめん……っ」


 彼女の目から、またしても辛い自責の涙がこぼれ落ちそうになる。

 私は、感覚のない左手を伸ばし、彼女の頬をそっと拭う真似をした。


「アリス。組織のことは、一旦すべて忘れなさい」

「……え?」


 私がきっぱりと告げると、アリスは驚いたように目を丸くした。


「アドや蓮たちが、寝る間も惜しんで敵の情報を探ってくれているわ。私たちが今ここで焦って暗い顔をしていても、事態がすぐに良くなるわけじゃないでしょう?」


 私は、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。


「だから……私たちと一緒に、楽しいことをしましょう」

「楽しい、こと……?」

「ええ。あなたが心から笑えるような、最高に人間らしいことよ」


 私の提案に、アリスは戸惑うように視線を泳がせた。


「でも、ピュアちゃん……そんなこと、してられないよ。みんなが死に物狂いで戦おうとしてるのに、私たちが遊んでる場合じゃ……」

「アリス」


 私は、彼女の言葉を遮り、私なりの精一杯の気持ちを込めて言った。


「あなたが暗い顔をしてベッドに引きこもっていたら、私たちまで悲しくなってしまうわ」

「……」

「私たちが戦うのは、ただ敵を倒すためじゃない。あなたがまた、あの向日葵みたいに笑える世界を取り戻すためよ。それなのに、あなたが泣いてばかりいたら、何のために頑張ってるのかわからなくなってしまうわ」


 私が本心を打ち明けると、隣にいたクォーツも小さく頷き、アリスの服の袖をギュッと握った。


「……アリス、笑って」


 クォーツのガラス細工のような声が、静かな部屋に響いた。


「アリスが悲しいと、私も、悲しい。……だから、一緒に、楽しいこと、しよう? アリスの笑顔が、見たいの」


 クォーツの不器用で純粋な願い。

 それを受けたアリスの大きな瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

 だが、その涙は先ほどまでの絶望の色とは違い、どこか温かい光を帯びていた。


「……ほんとに、いいの? 私なんかが、笑ってて……」

「当然よ。あなたが楽しい顔をしている方が、私たちにとっても一番の特効薬になるんだから」


 私が断言すると、アリスは涙を拭い、ふわりと、いつもの優しい笑顔を咲かせた。


「……うん。わかった。私も、ピュアちゃんたちと、一緒に笑いたい」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 私たちは、車椅子に乗せたアリスを連れて、療養所の広大な厨房へとやってきた。

 かつて多くの入所者の食事を作っていたであろうその場所は、モニターの几帳面な管理によって清潔に保たれており、巨大な冷蔵庫には彼が調達してくれた豊富な食材がストックされていた。


「それで、楽しいことって何をするの?」

 アリスが車椅子の上で首を傾げる。


「料理よ」


 私が答えると、アリスとクォーツは同時に目を丸くした。


「蓮が私に料理をよく作ってくれたの。その時、誰かが自分のために作ってくれたものを食べるって、すごく心が温かくなることなんだって知ったわ。だから、今日は私たちが、あなたのためのご飯を作るわ」

「ピュアちゃんが、料理……!?」

「ええ。蓮が作ってくれた時の手順は、ちゃんとこの目で見て覚えてる。手順通りにやれば、きっと美味しくできるはずよ」


 私は自信満々にエプロンを身につけ、クォーツも無言で袖をまくり上げた。

 だが、現実は私の記憶通りにいとも簡単にいくわけではなかった。


「ピュア、これ、どうやって切るの?」

「待ちなさい、クォーツ。包丁の刃の角度は、繊維に対して斜めに入れるのよ。貸しなさい」


 私は感覚のない右手で包丁を握り、視覚情報だけを頼りにキャベツを切り始めた。

 トトトトトトッ!! という、異常な速度の千切り音が厨房に響き渡る。


「わぁ……! ピュアちゃん、早すぎ! しかも全部同じ太さ!」

「目で見て筋肉の動きを合わせているだけよ。でも、指を切っても痛くないから、手元から目を離せないのは少し疲れるわね」


 切る作業は完璧だった。問題は、味付けの段階だった。

 私はスマートフォンのレシピサイトを開き、画面を睨みつけた。


「……『塩、少々』。少々って、具体的に何グラムのこと? こんな曖昧な書き方じゃ、味が決まらないじゃない」

「ピュアちゃん、そこは適当でいいんだよ! 指でパパッと!」

「適当なんてダメよ。ちゃんと分量を決めないと、美味しいものは作れないわ」


 私は包丁を置き、「少し待っていなさい」と言い残して厨房を出た。

 向かった先は、モーターホームだ。そこでは、ロータスがマルチモニターに囲まれ、アドとモニターと共に神宮寺のネットワークの解析作業に没頭していた。


「蓮」

「はいっ!? ピュアさん、どうしました? 敵の襲撃ですか!?」


 私が声をかけると、蓮は血走った目で椅子から飛び上がった。


「『塩少々』って、具体的に何グラムのことなの?」

「……はい?」


 蓮がぽかんと口を開け、隣で資料を読んでいたアドがズッコケそうになる。


「えっと……親指と人差し指でつまんだ量で、大体0.5グラムくらいですけど……ピュアさん、もしかして料理してるんですか!?」

「ええ。アリスと一緒に楽しむためよ。0.5グラムね、わかったわ」


 私は彼の驚きを無視して厨房へと戻った。

 しかし、料理という慣れない作業は、私に次々と疑問を投げかけてきた。


「蓮。『玉ねぎがきつね色になるまで炒める』って、何分くらい炒めればいいの? 火加減は?」

「えっ、ええと、中火で10分くらい……焦げないように混ぜながら……」


「蓮。ハンバーグの空気を抜く時、どれくらいの強さで手に叩きつければいいの?」

「ピュアさん、俺、今ファイアウォールと格闘中で……! 適当にペチペチやってくれれば大丈夫ですから!」


 何度もモーターホームに顔を出す私に、ついにアドが雷を落とした。


「おいピュア! こいつの頭を料理のレシピでパンクさせる気か! お前らで適当にやれ!」

「アリスの笑顔のためよ。妥協はできないの」

「理屈こねてねえでハンバーグこねろ!」


 アドに怒られ、私は仕方なく厨房へと戻った。

 そこでは、車椅子のアリスがボウルを抱え、クォーツが泡立て器でクリームを一生懸命にかき混ぜている光景があった。二人は顔に小麦粉をつけながら、声を上げて笑い合っていた。


「あはは! クォーツちゃん、勢いよすぎ! 飛んでる飛んでる!」

「……アリスも、鼻に粉、ついてる」

「えっ、嘘!?」


 その光景を見て、私の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 不格好で、手際が悪くて、失敗ばかり。でも、これこそが私が取り戻したかった『人間らしい時間』なのだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 数時間後。

 療養所の広間にある、古いプロジェクターが設置された部屋に、私たちは集まった。

 テーブルの上には、私たちが苦労して作った料理が所狭しと並べられている。


 形は少し崩れているが、私が火加減を厳密に管理したオムライス。

 表面に少し焦げ目がついたハンバーグ。

 そして、クォーツがフルーツで綺麗に飾り付けたデザートのケーキ。


「わぁ……! すごく豪華! ピュアちゃん、クォーツちゃん、本当にありがとう!」


 アリスが、目を輝かせて拍手をした。

 私たちはソファに並んで腰を下ろした。アリスを真ん中にして、右にクォーツ、左に私。私は皮膚感覚がないため、彼女の肩の温もりを感じることはできない。だが、彼女が私のすぐ隣にぴったりと寄り添ってくれているのを見るだけで、絶対的な安心感を得ていた。


 クォーツがプロジェクターの電源を入れ、映画の再生を始める。

 彼女が選んだのは、派手な爆発と軽快なジョークが飛び交うアクションコメディだった。アリスが好きそうな、何も考えずに笑えるジャンルだ。


「いただきます!」


 映画の音声が流れる中、私たちは食事を始めた。

 私は感覚のない手で慎重にスプーンを握り、オムライスを口に運んだ。

 熱さはわからない。だが、私の生き残った味蕾が、卵の甘みとケチャップの酸味を正確に脳へと伝達した。


「……美味しいわ」


 私が素直な感想を漏らすと、アリスが隣で嬉しそうに笑った。


「本当? 私、ハンバーグちょっと焦がしちゃったけど」

「少し焦げちゃっただけよ。でも、香ばしくてお肉の味を引き立ててる。初めてにしては、すごく上手にできたと思うわ」

「ふふっ、ピュアちゃんに褒められるなんて嬉しいな!」


 アリスが声を上げて笑い、クォーツもモグモグと口を動かしながら、無言でサムズアップをして見せた。


 スクリーンの中では、主人公が車ごとビルから飛び降りるというあり得ないアクションを繰り広げている。

 そのハチャメチャな展開に、アリスが「あはは! そんなバカな!」とお腹を抱えて笑い、クォーツも微かに口角を上げてクスクスと笑っている。

 私も、自然と口元が緩むのを止められなかった。


 スクリーンにエンドロールが流れ始め、アップテンポな主題歌が広間に響き渡った。

 アリスは映画が終わるまで、終始楽しそうに声を上げて笑っていた。クォーツも時折身を乗り出して画面に見入り、私が作った少し形の崩れたオムライスを綺麗に平らげてくれた。


「あー、面白かった! やっぱりあの俳優さんのアクション、最高だね!」


 部屋の明かりをつけると、アリスが満足げに両手を伸ばして背伸びをした。


「ええ。あり得ない動きの連続だったけど、面白かったわ。たまにはこういう、何も考えずに笑える映画も悪くないわね」

「もう、ピュアちゃんたら。映画くらい理屈を忘れて楽しめばいいのに」


 アリスが笑いながら私の肩を軽く叩いた。

 私が少しだけむっとした顔を作って見せると、アリスはさらに声を上げて笑う。彼女とこうして他愛のないやり取りをしていると、胸の奥がぽかぽかと温かくなっていくのを感じた。

 クォーツも「……うん、面白かった。また、見たい」と、小さな声で頷いている。


 私たちは、映画の感想や、それぞれが作った料理の出来栄えについて、しばらくおしゃべりを続けた。

 こんな風に、時間を忘れて誰かと笑い合うなんて、私のこれまでの十五年間の人生には存在しなかった。施設での孤独な時間も、外界に出てからの血に塗れた日々も、すべてがこの温かい瞬間を迎えるためのものだったのだと思えるほど、私は今、心が満たされていた。


 だが、楽しい時間はいつまでも続くわけではない。


 不意に、アリスの笑い声が途切れた。

 彼女の視線が微かに泳ぎ、額に薄っすらと冷や汗が浮かんでいる。シーツを握りしめる彼女の指先が、小刻みに震え始めていた。


「……ピュアちゃん、クォーツちゃん」


 アリスが、少しだけ掠れた声で私たちを呼んだ。

 その顔には、先ほどまでの明るい笑顔の裏側に、隠しきれない恐怖と苦痛の影が差し込んでいた。


「ごめんね。……私、そろそろ……やばいかも」


 その一言で、部屋の空気が一変した。

 薬が、切れかけているのだ。

 楽しい時間を過ごし、感情が大きく動いたことで、彼女の体内の代替薬が急速に消費されてしまったのだろう。神宮寺の作ったあの悪魔のような薬物は、彼女が人間らしく笑うことすら許してはくれない。


 私は無言で立ち上がり、クォーツと視線を交わした。クォーツも悲痛な顔で頷き、アリスの背中を支えてベッドにゆっくりと寝かせる。

 私はすぐに部屋の隅に設置された内線用の端末を手に取り、別の部屋で待機しているドクターを呼び出した。


「ドクター。アリスの具合が悪くなってきたわ。すぐに薬をお願い」

『了解した。今行く』


 ほんの数十秒後、医療キットを手にしたドクターが足早に部屋へと駆け込んできた。

 アリスの呼吸はすでに荒くなり始めており、彼女は自分の喉元を掻きむしらないように、必死に両手を胸の前で交差させて耐えていた。


「アリス、大丈夫だ。すぐに楽になるからな」


 ドクターがアリスの点滴のラインに、あらかじめ用意していた代替薬のアンプルをセットし、静脈へと直接投与を開始する。

 私はベッドの傍らに立ち、その様子をただ見守ることしかできなかった。


「……ごめん、ね……せっかく、楽しかったのに……っ」


 アリスが、苦痛に顔を歪めながら、私とクォーツに謝罪の言葉を絞り出す。


「謝らないで、アリス。私たちは十分すぎるほど楽しかったわ。今は何も考えずに、薬が効くのを待ちなさい」

「……うん。ピュアちゃん、クォーツちゃん……ありがとう……っ」


 冷たい薬液が体内に回り始めると、アリスの全身を襲っていた痙攣が少しずつ治まっていった。

 激しい禁断症状の波が過ぎ去り、彼女の瞳孔の開きが正常に戻る。薬の強い鎮静作用によって、彼女の意識は急速に深いまどろみへと引きずり込まれていくようだった。


「……おやすみ、アリス」


 クォーツが、アリスの額にかかった髪を優しく撫でる。

 アリスは微かに微笑み、そのまま静かな寝息を立てて眠りについた。


「……ひとまずは落ち着いたな。だが、やはり感情の起伏が激しいと薬の消耗が早すぎる。負担をかけすぎるのは禁物だ」


 ドクターがモニターの数値をチェックしながら、重いため息をついた。


「わかっているわ。でも、彼女をずっと暗い部屋で泣かせたままにしておくのは、もっと彼女の心を殺してしまう。……ドクター、ありがとう。後の処置は私たちがやっておくわ」

「ああ、頼んだ。何かあればすぐに呼んでくれ」


 ドクターは医療キットを片付け、静かに部屋を後にした。

 残された私とクォーツは、眠るアリスのベッドの傍らで、丸椅子に腰を下ろした。


 部屋には、プロジェクターの電源が落ちた後の微かな機械音と、アリスの寝息だけが響いている。

 私は左手を伸ばし、アリスのシーツをそっと掛け直した。


「……ピュア」


 隣に座るクォーツが、ぽつりと口を開いた。


「私……こんな楽しい時間が、あるなんて、知らなかった」


 彼女の大きな瞳は、眠るアリスの顔を優しく見つめている。


「施設にいた時も……組織に入ってからも、ずっと、殺すことしか考えてこなかった。……誰かとご飯を作って、映画を見て、一緒に笑うなんて……。こんなに心が温かくなるなんて、思わなかった」

「……ええ、私もよ」


 私は、クォーツの言葉に深く同意した。


「すべてを合理的に計算して、一人で生きるのが正しいと思っていた。でも、感情を取り戻して、あなたたちとこうして無駄な時間を過ごすことが、どれほど心を落ち着かせてくれるか……今日、はっきりとわかったわ」


 私は、自分の胸の奥に灯る、小さくて温かい火種のような感情を確かめるように、小さく息を吐いた。


「私たちは、バケモノじゃないわ。……ちゃんと、人間になれたのよ」

「……うん」


 クォーツが、私の言葉に嬉しそうに頷き、少しだけ私の肩に頭を預けてきた。

 私も、彼女のその不器用な甘えを受け入れるように、彼女の小さな背中に腕を回した。


 アリスが目を覚ますまで、私たちは静かに語り合った。

 過去のこと、これからのこと。そして、神宮寺を倒し、アリスを治した後に、みんなでどこに行きたいか。

 他愛のない、希望に満ちた未来の話。

 そんな温かい会話を交わしているうちに、私の頭も心地よい疲労感に包まれていった。

 これまでの極限の緊張状態から解放されたことと、感情を大きく動かしたことによる反動だろう。私の意識は、クォーツの寄りかかる重みを感じながら、ゆっくりと微睡みの底へと沈んでいった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ——微かな話し声で、私は意識の浮上を感じた。


「……だから、本当に俺はただの足手纏いだったんですよ。ピュアさんがいなきゃ、とっくに死んでたはずで……」

「謙遜ですよ、ロータス君。君がハッキングで情報戦を制圧したからこそ、私たちも動けたんです。……それに、ピュアさんがあれだけ君を信頼しているのが、何よりの証拠じゃないですか」


 声が聞こえる。

 隣の部屋の方向からだ。

 私はゆっくりと目を開けた。窓の外から差し込む光は、すでに夕暮れの茜色に染まっていた。

 どうやら、私はクォーツと一緒に丸椅子に座ったまま、一日近くも深い眠りに落ちてしまっていたようだ。

 隣を見ると、クォーツはまだ私の肩に頭を預けてスヤスヤと眠っている。アリスのバイタルモニターも安定した数値を刻んでいた。


 私はそっとクォーツの頭をずらし、音を立てずに立ち上がった。

 よく眠ったおかげか、頭の中はすっきりとクリアになっていた。


 声のする方へと歩みを進めると、部屋の扉が少しだけ開いていた。

 部屋の中では、ロータスとモニターが、コーヒーカップを片手に何やら熱心に語り合っている。部屋の隅の簡易ベッドでは、アドが大きないびきをかいて豪快に眠りこけていた。

 彼らは神宮寺の動向を探るために徹夜で情報収集に当たっていたはずだ。直近の敵の動きが全く読めず、行き詰まった中での束の間の休憩タイムなのだろう。


「……でも、不思議ですよね」


 ロータスの声が、少しだけ照れくさそうに響く。


「俺、最初はピュアさんのこと、本当に怖かったんです。感情がなくて、すぐに殺すぞって脅してきて……。でも、なんでだろう。俺、ピュアさんのために何かしたいって、心の底から思うようになったんです」

「……私も同じですよ、ロータス君」


 モニターが、穏やかな声で相槌を打つ。


「施設で彼女を監視していた十年間。私は彼女をただの実験体としてではなく、一人の人間として見守ってきました。……彼女がどれほどの孤独と苦痛を抱えながら、それでも静かに知識を吸収していく姿を見て、私は彼女に……亡くなった娘の姿を重ねていた。彼女の幸せを願うことは、私にとっての救いだったのです」

「俺は……妹を救ってもらった恩返しから始まりました。でも、それだけじゃないんです」


 ロータスが、真剣な声で続ける。


「ピュアさんは、冷たい言葉の裏で、いつも俺たちのことを気にかけてくれてる。俺が失敗しても見捨てずに、ちゃんと居場所をくれた。……だから、俺はピュアさんを守りたいんです。彼女がまた一人で全部背負い込んで、壊れてしまわないように」


 その言葉を聞いて、私は扉の陰で小さく息を呑んだ。

 彼らが私をどう思っているか、そんな風に真っ直ぐな言葉で聞いたのは初めてだった。

 私は彼らを便利な手足や監視者だと思って利用してきたつもりだった。でも、彼らはそんな私を、一人の人間として大切に想い、守ろうとしてくれている。


「ええ。私たちで、彼女を支えましょう。彼女が本来持っている、あの純粋で優しい心を守るために」

「はいっ!」


 モニターの言葉にロータスが力強く頷く。

 そのやり取りを聞いていると、私の胸の奥が熱くなり、目頭がツンと熱くなった。

 私はもう、孤独な機械じゃない。私を支えてくれる、こんなにも温かい家族のような存在がいるのだ。


 私はそっと目元を拭い、小さく咳払いをしてから、通信室の扉をゆっくりと開けた。


「……随分と、盛り上がっているようね」

「あっ、ピュアさん! 目が覚めたんですね」


 ロータスが慌てて立ち上がり、モニターも姿勢を正した。


「ええ。よく眠れたわ。……それで、神宮寺の動きについて、何か進展はあったのかしら」

「それが……」


 ロータスは少し悔しそうに顔をしかめ、手元のパソコンの画面に視線を落とした。


「神宮寺の関連施設やダミー会社のネットワークを片っ端から洗っているんですが、あの夜を境に、彼らの通信ログが完全に途絶えているんです。物理的な足取りも、監視カメラの映像から巧妙に消去されていて……」

「まるで、煙のように消えてしまったかのようです。彼らが次にどこで、何を企んでいるのか、まったく予測がつきません」


 モニターが言葉を継ぎ、深くため息をついた。


「そう……。やっぱり、一筋縄ではいかないわね」


 私は腕を組み、彼らの傍のPCの画面を睨みつけた。

 神宮寺誠一郎。国家の中枢に潜む巨大な悪意。彼がただ逃げ隠れしているだけとは到底思えない。必ず、裏で何か決定的な次の一手を用意しているはずだ。


「アドは寝ているのね」

「はい。寝ずにぶっ通しで指揮を執っていたので、さすがに限界が来たようです」

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