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第四話「再会」

 私の心はまだ、恐怖と無力感でぐちゃぐちゃだった。

 気力を振り絞って1歩を踏み出そうとした瞬間、私の足首から力が抜け、大理石の床へと崩れ落ちそうになった。


「……っと、危ねえ」


 床に叩きつけられる寸前、屈強な腕が私の身体を支え上げた。アドだった。

 彼は私の脇に腕を差し入れ、無言のまま自分の肩を貸してくれた。彼の体温や圧力は私には一切受信されないが、視覚情報として彼が私を強引に引き起こし、体重を支えてくれていることだけは理解できた。


「……ごめんなさい。重心の計算が、少し狂ったみたい」

「無理すんな。お前の脳みそがどれだけ優秀でも、感覚の欠落した身体を完璧に動かすにはまだ時間がかかる。今は俺に寄りかかっとけ」


 アドの不器用な気遣いに甘え、私は彼の肩を借りながら、エントランスホールの脇に設置された革張りのソファへと向かった。

 ソファに身体を沈めると、アドは「少し休んでろ」と短く告げ、乱れたエントランスの周囲を警戒するために再び入り口の方へ歩いていった。

 私は深く息を吐き出し、虚空を見つめた。

 襲撃者たちに銃を向けられた時の、あの竦み上がるような恐怖。他者を壊すことへの忌避感が、私の強靭なはずの殺意に完全にブレーキをかけてしまった。私はもはや、純度100パーセントの暴力装置ではない。感情という名の重い足枷を引きずる、ただの不完全な欠陥品だ。


 そんな自嘲的な計算式を脳内でぐるぐると回していると、事務所の奥へ通じる通路から、キャスターが床を転がる微かな音が聞こえてきた。


「……ピュアちゃん」


 現れたのは、車椅子に乗ったアリスだった。

 その後ろで、クォーツが車椅子のグリップをしっかりと握りしめている。さらにその後方には、医療キットを詰め込んだトランクを抱えた専属医が付き従っていた。

 アリスの顔色は抜けるように白く、腕にはまだ代替薬を投与するための点滴の針が刺さったままだ。点滴のパックは、クォーツが車椅子の横に取り付けられた即席のポールに吊るして運んでいる。


「アリス……」

「クォーツちゃんから、聞いたよ。……大変なことになったんだってね」


 アリスは、無理に口角を上げて笑おうとしていたが、その表情には隠しきれない疲労と絶望が滲んでいた。

 彼女は、自分がただでさえ薬物の禁断症状に苦しんでいる最中に、組織の拠点が敵に襲撃され、拠点を放棄して逃亡しなければならないという状況を重く受け止めているようだった。


「……ごめんね、ピュアちゃん。こんな、みんなが死に物狂いで戦わなきゃいけない時に……私が、こんな身体になっちゃって。……ただの足手纏いで、本当に、ごめんね」


 アリスの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 彼女は、自分が組織の負担になっていることを誰よりも気に病んでいた。かつては最前線で誰よりも華麗に踊り、私たちを導いてくれた太陽が、今は車椅子の上で震え、謝罪の言葉を口にしている。

 その姿を見て、私の胸の奥がギリッと激しく軋んだ。


「……奇遇ね、アリス」


 私は、感覚のない両手を膝の上でギュッと握りしめ、自嘲気味に口の端を歪めた。


「私も、あなたと同じよ。……さっき、そこに敵が現れた時、私は1発も反撃できなかったわ。相手を壊すことが恐ろしくて、ただ震えることしかできなかった。……今の私は、ただの足手纏いの置物よ」

「ピュア、ちゃん……」

「私たちは、2人揃ってポンコツに成り下がってしまったみたいね。だから、あなたが私に謝る合理的な理由は1ミリも存在しないわ」


 私が冷たく、しかし彼女への最大限の共感を込めてそう告げると、アリスは驚いたように目を丸くし、それから、クスクスと力なく笑い出した。


「……ふふっ、そっか。ピュアちゃんも、足手纏いなんだね。……じゃあ、お揃いだね」

「ええ。不名誉なことだけれど、今は事実を受け入れるしかないわ」


 私たちが互いの無力さを慰め合っていると、奥のサーバー室に向かっていたロータスが、息を切らして駆け戻ってきた。

 彼の手には、物理的に破壊され、原形を留めていないハードディスクの残骸が握られている。


「アドさん! ピュアさん! サーバーの物理ドライブ、完全に破壊しました! データの痕跡は1切残っていません!」

「よくやった、ロータス」


 エントランスの警戒を解いたアドが、私たちの集まるソファへと歩み寄ってきた。

 彼は、泣き笑いのような表情を浮かべるアリスと、虚ろな目をした私を見下ろし、深く、本当に深いため息を吐き出した。


「……お前ら、さっきから聞いてりゃ、足手纏いだのポンコツだの、勝手に自分たちの価値を下げてんじゃねえぞ」


 アドの低く響く声が、私たちの自嘲を断ち切った。


「いいか。お前らがいるから、俺たちは戦えるんだ。お前らがこの組織の心臓であり、守るべき理由そのものだ。……足手纏いなんて言葉は、2度と口にするな。誰が何と言おうと、俺がお前らの存在価値を保証してやる」


 アドの不器用で、しかし絶対的な肯定の言葉に、アリスの瞳から再び涙が溢れ出した。

 クォーツも、アリスの肩を優しく撫でながら、アドの言葉に小さく頷いている。

 私も、彼のその揺るぎないリーダーとしての姿勢に、心が少しだけ救われるのを感じた。


「さて、感傷に浸ってる暇はねえぞ。敵の第二波がいつ来るかわからん」


 アドは視線をロータスへと向けた。


「ロータス。お前は今すぐ、ピュアが用意したあのモーターホームを前へ回せ。準備ができ次第、俺の端末に暗号通信を入れろ。俺たちはすぐに乗り込んで、この東京を脱出する」

「了解しました! すぐに手配します!」


 ロータスはキーをしっかりと握りしめ、来た道を引き返すようにして駆け出していった。

 彼の背中を見送りながら、アドは自身のジャケットの内ポケットから通信端末を取り出した。


「俺はこれから、外部で動いているシンやファイア、レイたちに状況を報告し、撤退指示を出す。それと……『天秤』の上層部にも、今回のイレギュラーな事態についてコンタクトを取らなきゃならねえ」


 『天秤』の上層部。

 私たちは司法の裏で暗躍する組織だが、その活動を黙認し、時には仕事を斡旋してくる国家権力の一部が存在する。同業の殺し屋組織が一斉に私たちを敵に回したという異常事態は、彼らにとっても無視できない問題のはずだ。


 アドは通信端末を耳に当て、低い声で暗号化された回線へと繋ぎ始めた。

 私はソファに深く背中を預け、彼が手際よく指示を飛ばしていくのを静かに聞いていた。

 シンやファイアには、それぞれの現在地からの安全な離脱ルートを指示し、追跡を撒くための具体的なプロトコルを伝達している。


 そして、アドが狙撃班のレイの回線へと繋いだ時のことだった。


『……アドか。こっちも今、妙な動きを察知したところだ』


 スピーカーモードに切り替えられていた端末から、レイの気だるげで、しかし極度に張り詰めた声が漏れ聞こえてきた。


「妙な動きだと? こっちは同業者の組織に事務所を襲撃された。拠点を放棄して、北のセーフハウスへ向かうところだ。お前もすぐに東京を離れろ」

『事務所が襲撃された? ……なるほどな。俺の「直感」が警報を鳴らしてやがるわけだ』


 レイは、舌打ちをするような音を通信の向こうで響かせた。


『アド、悪い知らせだ。……多分、俺たちの中に「内通者」がいる』

「……なんだと?」


 アドの顔色が一瞬にして険しくなった。

 私も、ソファに預けていた背筋を伸ばし、通信機へと意識を集中させた。


『神宮寺の罠にハマったあのコンテナターミナルでの作戦。そして、今回の事務所へのピンポイントな襲撃。敵の手回しが早すぎるし、俺たちの行動パターンを完全に読まれすぎている。……外部からのハッキングだけじゃ、あそこまで完璧な包囲網は敷けねえ』

「……誰だ。誰が情報を漏らしている」


 アドがドスを効かせた声で尋ねると、レイは数秒の重い沈黙の後、静かに告げた。


『多分、内通者はルミナスだ』


 ——ルミナス。

 その名前が出た瞬間、エントランスの空気が凍りついた。

 中性的な容姿と、暗闇でも1キロ先の標的を視認できる異常な視力を持った、私たちの狙撃班の優秀なスナイパー。


「……ルミナスだと? 何か明確な証拠があるのか?」

『いや、物理的な証拠は何1つねえ。ただの俺の第六感に基づく予測だ。だが……あいつの視線の動き、呼吸のペース、作戦前後の不自然な空白の時間。それらの断片的な情報が、俺の無意識領域で最悪のパターンとして組み上がっちまったんだよ』


 レイの『第六感』は、非科学的でありながら、これまで1度も外れたことがない。

 彼の脳が、視覚や聴覚で得た膨大な情報を超高速で統合処理し、パターン認識として出力した結果が「ルミナスが裏切り者である」という結論なのだ。


「……ルミナスが」


 私は、脳内でルミナスとの過去のミッションの記録を高速でスキャンし始めた。

 あのコンテナターミナルでの殲滅作戦。ルミナスは私やレイと共に、高所から戦場全体を俯瞰できる狙撃ポイントに配置されていた。もし彼(彼女)が内通者であれば、強襲班の正確な位置情報や、私たちの携行弾薬の消費状況を、リアルタイムで神宮寺側に暗号通信で漏らすことは極めて容易だったはずだ。

 さらに、彼の中性的な美貌の奥に隠された、どこか掴みどころのないミステリアスな態度は、二重スパイとしての役割をこなすには都合が良すぎる。


「……論理的に考えても、辻褄が合うわ」


 私が冷静に演算結果を口にすると、アドはギリッと奥歯を噛み締めた。


「もし本当にルミナスが内通者なら、俺たちのセーフハウスの座標すらもすでに敵に筒抜けになっている可能性がある。……北へ逃げる計画も、根本から見直す必要があるかもしれねえ」

『アド。俺はしばらく単独で動く。ルミナスの足取りを追い、尻尾を掴んでみる。お前らはとにかく、アリスとピュアの安全を最優先にしろ』

「……わかった。死ぬなよ、レイ」


 通信が切れ、重苦しい静寂が再びエントランスを包み込んだ。

 神宮寺誠一郎という巨大な悪意。同業組織による社会的な包囲網。そして、味方内部からの裏切り。

 盤面は、私たちが想像していた以上に絶望的な色に染まっていた。


「……アドさん。モーターホームの準備、完了しました」


 重苦しい空気を破るように、ロータスからの通信がアドのインカムに入った。


「了解した。すぐに向かう」


 アドは立ち上がり、私たちを振り返った。


「行くぞ。状況は最悪だが、俺たちが生きている限り、盤面をひっくり返すチャンスは必ずある。……ピュア、立てるか?」

「ええ。問題ないわ」


 私はアドの肩を借りず、自らの視覚情報だけで足元のバランスを補正し、ゆっくりと立ち上がった。


 私たちは、地下駐車場に停められていた全長12メートルの巨大なモーターホームに乗り込んだ。

 ロータスが運転席に座り、キーを回す。重厚なディーゼルエンジンが低い咆哮を上げ、車体が微かに振動した。車内は外見の無骨さからは想像もつかないほど豪奢で、完璧な居住空間が整えられている。

 車載のエレベーターシステムを使用して、アリスが乗った車椅子を車内へと引き上げ、奥に設置されたキングサイズのベッドへと彼女を横たえた。クォーツがすぐさま傍らに寄り添い、専属医が各種モニターと点滴のセッティングを迅速に行っていく。


「ロータス、出せ。まずは首都高に乗り、西へ向かえ」


 アドが助手席の横に立ち、鋭い声で指示を飛ばした。

 本来であれば、アドのツテがある北のセーフハウスへ向かう予定だった。だが、ルミナスが内通者であるというレイの予測が事実だとすれば、組織の既存のセーフハウスや、アドの個人的な人脈が構築した隠れ家は、すでに神宮寺側に完全に把握されていると考えるのが合理的だ。

 だからこそ、あえて行き先を決めず、一旦は追跡を撒くために西へと進路を取ることになったのだ。


「了解しました。……揺れます、掴まってください」


 ロータスがハンドルを切り、巨大なモーターホームはゆっくりと、しかし力強い推進力で地下駐車場を後にし、雨の降る東京の夜の街へと滑り出していった。


 車体が安定して幹線道路へ合流したのを確認すると、アドは自身の通信端末を取り出し、暗号化された緊急回線を立ち上げた。

 これは、現在事務所におらず、外部で行動している『天秤』のメンバーたちに一斉送信するためのブロードキャスト通信だ。


『……全員、よく聞け。アドだ』


 アドの低く張り詰めた声が、車内のスピーカーからも漏れ聞こえる。


『現在、我々の拠点は同業者の組織に襲撃され、完全に放棄した。敵は神宮寺誠一郎の息がかかった連中、あるいはその包囲網に加担した者たちだ。さらに、ルミナスが内通者であるという確度の高い予測がレイから上がっている。組織のネットワークと座標は、すでに敵に筒抜けだと考えろ』


 アドは大きく息を吸い込み、最終的な指示を下した。


『これより、組織の全体行動を一時凍結する。お前らは各々、自分の判断で避難し、身を隠せ。天秤の既存のセーフハウスは絶対に使用するな』


 そして、アドはさらに語気を強めて付け加えた。


『いいか、しばらくの間は、殺しも含めて法に触れる行動は一切控えるんだ。神宮寺の野郎が国家の中枢にいる以上、警察上層部との癒着ネットワークもどう書き換えられているかわからねえ。下手に派手な動きを見せれば、テロリストとして合法的に処理されるリスクがある。今はひたすら息を潜め、生き延びることだけを最優先しろ。……通信はこれっきりだ。健闘を祈る』


 ブツン、と通信が切れる。

 これで、私たちは完全に孤立した。巨大な権力と裏社会のネットワークを敵に回し、頼れるのはこのモーターホームという『動く要塞』に乗っている数人の人間だけ。


 私は、リビングスペースの革張りのソファに深く腰を下ろした。

 皮膚感覚が死滅しているため、ソファの柔らかさも革の冷たさもわからない。視覚情報だけで自分の姿勢を維持し、揺れる車内でバランスを保つのは、脳の演算能力を常に消費する作業だった。


「……お前さん、無理して座ってないで、少し横になったらどうだ」


 奥のベッドでアリスのバイタルチェックを終えた専属医が、私の方へと歩み寄り、呆れたような声をかけた。


「問題ないわ。私の計算式では、現在の姿勢が最もエネルギー消費効率が良いと出力されているから」

「強がるな。いくら痛みがないと言っても、お前さんの身体は満身創痍なんだ。包帯の下の傷が開いて出血しても、気づけんだろう」


 専属医は、私の腕の包帯の隙間から滲む微かな血の跡を視認し、医療キットから新しいガーゼと消毒液を取り出した。

 彼は手際よく私の包帯を解き、傷口の消毒と再縫合の確認を行っていく。メスで切り裂かれた傷口にアルコールが染みているはずだが、私には一切の刺激が伝わってこない。


「……不思議なものね。あなたが私の肉体を修復してくれているのに、私にはその感覚が全く受信されないわ」

「……不便な身体になっちまったな。だが、命があるだけ儲けもんだと思え」


 専属医は、私の言葉に少しだけ悲しそうな目を向けながら、丁寧に包帯を巻き直してくれた。


「そういえば」


 私は、黙々と作業を続ける彼に向かって、ふと疑問を口にした。


「あなたはいつも、アドや他のメンバーから『センセ』と呼ばれているけれど、組織での特別なコードネームは持っていないの?」

「コードネーム、か」


 専属医は少しだけ手を止め、自嘲気味に笑った。


「俺はただの裏社会のモグリの医者だ。人を殺すための名前なんて必要ねえし、持ちたくもねえ。……まあ、どうしても呼び名が必要なら、『ドクター』とでも呼んでくれ。それが一番しっくりくる」

「ドクター。単純で合理的ね。機能と名称が完全に一致しているわ」


 私が淡々と評価を下すと、ドクターは「お前さんのその理屈っぽさも、相変わらずで安心したよ」と苦笑し、医療キットを片付けてアリスのベッドの方へと戻っていった。


 車内には、高速道路を走る一定のタイヤの走行音と、雨が車体を叩く音だけが響いている。

 アリスは代替薬の投与によって深い眠りについており、クォーツがその手を両手でしっかりと握りしめながら、彼女の寝顔を見つめていた。


「……さて。とりあえず西へ向かってはいるが、いつまでも高速を走り続けるわけにはいかねえ」


 アドが助手席から立ち上がり、リビングスペースのテーブルの前に来て腕を組んだ。

 彼の眉間には深い皺が刻まれ、その表情は極めて険しい。


「このモーターホームは確かに安全だが、目立ちすぎる。どこかでこの巨体を隠せて、かつ俺たち全員が身を潜められる場所が必要だ。しかも、アリスの治療を継続するための電源と水が確保できる環境でな」

「既存のセーフハウスが使えない以上、完全にブラインドスポットとなる場所を新規に開拓する必要があるわね」

「ああ。だが、ただのホテルや貸別荘じゃ、身分証の提示や監視カメラのリスクがある。俺たちの事情を知った上で、神宮寺のネットワークに属しておらず、匿ってくれる人間……そんな都合のいいツテが、今の俺たちにあるか?」


 アドは頭を抱え、苛立たしげに舌打ちをした。

 ルミナスが内通者である以上、組織の情報の大部分はすでに敵に渡っている。誰も信じられない状況下で、完全に安全な避難先を見つけるのは、物理的に極めて困難な計算式だった。


 ——だが。

 私の脳の深層アーカイヴが、一つの特定のデータを検索結果として弾き出した。


 神宮寺誠一郎の計画の全貌を知りながら、それに加担させられていたことを深く後悔し、私に1000万円という大金を持たせてくれた人物。

 彼なら、神宮寺の監視下から外れており、かつ私たちの事情を理解して匿ってくれる可能性が極めて高い。


「……アド。一つ、候補があるわ」


 私が静かに口を開くと、アドはハッとして顔を上げた。


「候補? 誰だ、そんな人間がどこにいる」

「私が10年間隔離されていた、あの児童自立支援施設の『監視役』の男よ」

「監視役……?」


 アドは訝しげに眉をひそめた。


「あいつか。だが、あいつは神宮寺の息がかかった施設の人間だぞ。敵の手先かもしれない人間を頼るなんて、リスクが高すぎる」

「いいえ、彼は神宮寺の計画を内側から告発したわ」


 私は、あのスーツケースの中に入っていた手紙の内容を、アドに正確に伝達した。

 彼が死んだ娘の姿を私に重ね合わせ、非合理的なまでの罪悪感と愛情を抱いていたこと。神宮寺の『エデン計画』の存在を私に知らせ、私たち『天秤』がその計画を粉砕することを祈っていたこと。


「彼は、自らの意志で私を助けようとした。神宮寺の組織の人間でありながら、そのシステムに反逆するエラーコードを持っているのよ。彼が現在、神宮寺の直接的な監視から外れた場所にいるのであれば、私たちを匿う確率の計算式は、十分に高い数値を弾き出しているわ」


 私の論理的な説明を聞き、アドは顎に手を当てて深く思考を巡らせた。


「……確かに、あの施設が閉鎖されてから、あいつは左遷される形で地方の別の部署へ異動になったと聞いている。神宮寺からすれば、すでに用済みで重要度の低い駒だ。盲点になっている可能性は高い」

「ええ。それに、彼は私に強い贖罪の念を抱いている。私が彼に助けを求めれば、彼がそれを拒絶する物理的・心理的理由は存在しないわ」

「お前のその、他人の感情を計算式に組み込む冷徹さ……相変わらず恐ろしいな」


 アドは呆れたように鼻で笑ったが、その目には確かな希望の光が宿っていた。


「……だが、ピュア。お前、あいつの連絡先なんて知ってるのか? 施設を出る時、名前すら興味がないって言ってたじゃねえか」


 アドの指摘は正確だった。

 私は彼を常に『監視役』という役割タスクの名称でしか認識しておらず、彼の本名も、現在の連絡先も、私のデータベースには一切保存されていない。


「私は知らないわ。でも、あなたは知っているのではないかしら」


 私がアドを真っ直ぐに見据えて言うと、彼は「俺が?」と目を丸くした。


「私が施設を脱走し、新宿のホテルで警察に捕まって拘置所に入れられた後。私が釈放された日、あなたはあの監視役の男と一緒に車で私を迎えに来ていたわよね」


 私は、当時の記憶の映像データを完璧に再生しながら指摘した。


「あなたが彼とどうやって接触したのかは知らないけれど、あの場に同席していたということは、あなたが彼にコンタクトを取る手段を持っていた、あるいはその時に連絡先を交換した確率が極めて高いと計算できるわ。……違うかしら?」


 私の推論を聞いて、アドは「ハッ」と短く笑い声を漏らし、ポケットから自身のスマートフォンを取り出した。


「お前のその記憶力と演算能力、本当にバケモノだな。……ああ、その通りだ。あの時、お前の素性を洗う過程であいつと接触し、念のために連絡先は控えてある」


 アドはスマートフォンの画面を操作し、暗号化された連絡帳の奥底から、一つの電話番号を呼び出した。


「だが、あいつが今どこにいて、本当に俺たちを匿ってくれるかは賭けだ。もし神宮寺側に寝返っていれば、俺たちは自ら虎の口に飛び込むことになるぞ」

「そのリスクは承知の上よ。でも、今の私たちには、この細い蜘蛛の糸を手繰り寄せる以外に、アリスの命を繋ぐ合理的な選択肢が存在しないわ」

「……違いねえ」


 アドは深く息を吸い込み、スマートフォンの発信ボタンを押した。

 車内に、スピーカー越しに呼び出し音が鳴り響く。

 プルルルル、という無機質な電子音が、数回のループを繰り返す。

 誰もが息を呑んでその音を聞き守る中、やがて、ガチャリと通話が繋がる音がした。


『……はい。どちら様でしょうか』


 スピーカーから聞こえてきたのは、少し掠れた、しかし聞き覚えのある中年の男の声だった。

 10年間、私の生活を管理し、最後に私に涙を見せた、あの監視役の男だ。


「……夜分遅くにすまねえな。『天秤』の弁護士だと言えば、思い出すか?」


 アドが低い声で切り出すと、電話の向こうで、男がハッと息を呑む気配が伝わってきた。


『……弁護士、さん……? まさか、純玲さんに、何かが……!?』

「ああ。事態は最悪だ。あんたが手紙に書いた通り、神宮寺の野郎が本性を現しやがった」


 アドは、現在の私たちが置かれている絶望的な状況を、簡潔に、しかし深刻さを隠さずに伝えた。

 組織の拠点が襲撃されたこと。アリスが薬物漬けにされ、命の危機に瀕していること。

 そして、何よりも。


「……純玲が、神宮寺の拷問を受け、右目と全身の皮膚感覚を失うという、修復不可能な物理的ダメージを負った」


 その言葉を聞いた瞬間、電話の向こうから「あぁ……っ!」という、悲痛な嗚咽が漏れ聞こえた。


『神宮寺の、悪魔め……っ! 純玲さんが、あの小さな身体で、どれほどの苦痛を……っ!』

「泣いてる暇はねえ。俺たちは今、東京を脱出し、西へ向かっている。だが、安全な避難先がねえんだ。純玲が、お前なら匿ってくれる確率が高いと計算して、連絡させてもらった」


 アドは、単刀直入に要求をぶつけた。


「頼む。純玲と、俺の仲間たちを、匿ってくれないか」


 数秒の、重苦しい沈黙が流れた。

 彼が神宮寺の報復を恐れ、この要求を拒絶する可能性はゼロではない。

 だが、私の予測は、人間の『罪悪感』という感情の非合理的な強さを信じていた。


『……わかりました』


 やがて、監視役の男は、震えを抑え込んだ、確かな決意を持った声で答えた。


『私は現在、使い捨てられた駒です。静岡県の山奥にある、使われなくなった古い療養所の管理を任されています。神宮寺の監視の目も届かない、完全な僻地です。……そこに、いらしてください。施設の電源も水道も生きていますし、その巨大なキャンピングカーを隠すだけの車庫もあります』

「恩に着るぜ」


 アドが安堵の息を吐き出す。


『純玲さんを……あの地獄から救い出してくれたあなた方に、私ができることなら、何でもします。……お待ちしています』


 通話が切れ、アドはスマートフォンをテーブルに置いた。

 目的地が決まった。

 私たちが行くべき場所、そして再起を図るための新たな前線基地が確保されたのだ。


「聞いたな、ロータス。進路変更だ。東名高速に乗って、静岡の山奥を目指せ。座標は今、お前のナビに転送した」

『了解しました!』


 ロータスが力強く応え、モーターホームの巨大な車体が、夜のハイウェイを滑るように進んでいく。

 私は、ソファの背もたれに深く身体を預け、残された左目を静かに閉じた。




 私の意識は、不規則で暴力的な物理的エラーによって強制的に引き上げられた。

 視界が上下左右に激しく揺さぶられている。

 皮膚感覚が死滅している私には、ソファのクッションが弾む感触も、車体がバウンドする衝撃も肌で感じることはできない。だが、頭蓋骨の中で脳漿が揺さぶられ、内臓が慣性の法則に従って浮き上がるような『内部の物理的な揺れ』だけが、異常事態を脳に伝達し続けていた。


「……っ」


 残された左目をゆっくりと開ける。

 モーターホームの広大なリビングスペースの景色が、まるで乱気流に巻き込まれた航空機のように激しく明滅し、揺れ動いている。

 私は視覚情報だけで姿勢を制御し、ソファの肘掛けを感覚のない手で強く握りしめて身体を固定した。


「……目が覚めたか、ピュア」


 不意に、暗がりの向こうからアドの掠れた声が降ってきた。

 彼は壁の手すりに身体を預け、揺れる車内でも完璧なバランスを保ちながら立っていた。


「……一体、何事かしら。この激しい振動は、舗装されたアスファルトの摩擦係数とは明らかに計算が合わないわ。ロータスが運転を誤って路外に逸脱したの?」

「ロータスの運転は完璧だ。俺が指示して、あえてこんな道を選ばせている」


 アドは小さく舌打ちをし、窓の外の漆黒の闇を指差した。


「神宮寺の野郎が、国家のネットワークを使って俺たちを血眼で探しているはずだ。整備された道を走れば、監視カメラやNシステムから移動先が一瞬でバレる可能性があるからな。ちょっと前から監視網を外れた、林道の悪路に入ったんだ」

「林道……。全長12メートルのこの車体で、舗装されていない悪路を走っているというの?」

「ああ。ロータスの奴、泣きべそかきながら必死にステアリングを回してるぜ。乗り心地は最悪だろうが、今は生存確率を最大化するための必要なコストだと思って我慢しろ」


 アドの言葉は極めて合理的だった。

 私の皮膚感覚が死んでいるため、乗り心地の悪さによる直接的な不快感はない。ただ、視界が常に揺れているため、脳の空間認識の演算リソースを余分に消費するだけだ。


「……わかったわ。最適な判断よ」


 私が短く答えて姿勢を正した、その時だった。


「……ピュア、ちゃん」


 揺れる車内の奥、医療用ベッドの方から、微かな、しかし確かな声が私を呼んだ。

 私はハッとして視線を向けた。

 ベッドの傍らでは、クォーツが疲れ果てて丸まったまま静かな寝息を立てていた。そして、そのベッドの上で、アリスが上体を起こし、私の方を見つめていた。

 代替薬の投与によって禁断症状の嵐が過ぎ去り、彼女の理性と意識が正常な状態へと一時的に戻っているのだ。


「アリス……」


 私は、揺れる床のバランスを視覚だけで計算し、慎重に立ち上がった。

 感覚のない足元は非常に不確実だが、彼女の元へ行きたいという強い意志が、私のモーターコントロールを強制的に補正していく。

 アドが「気をつけろよ」と小さく呟くのを背中で聞きながら、私はアリスのベッドの傍らまで歩み寄り、備え付けの椅子に腰を下ろした。


「気分は……どう? 薬の副作用は出ていないかしら」


 私が静かに尋ねると、アリスは青白い顔のまま、少しだけ困ったように微笑んだ。


「うん……。今は、すごく落ち着いてる。クォーツちゃんがずっと手を握っててくれたから……」


 アリスは、眠っているクォーツの頭を優しく撫で、それから、再び私へとその大きな瞳を向けた。

 彼女の視線が、私の右目を覆う眼帯と、全身に巻かれた痛々しい包帯をなぞる。

 その瞳の奥に、再び深い自責の念と悲しみが広がるのを、私は痛いほどに読み取っていた。

 事務所の医務室で再会した時は、彼女が禁断症状に苦しむ姿や、襲撃の混乱もあって、私たちはゆっくりと言葉を交わすことができなかった。


「……ピュアちゃん」


 アリスは、震える手を伸ばし、私の感覚のない左手をそっと包み込んだ。

 私にはその温度も圧力もわからない。だが、視覚データとして彼女の手が私に触れているという事実だけで、私の胸の奥が温かくなるのを感じていた。


「私ね、ずっと……ピュアちゃんに聞きたかったの」


 アリスの声は、痛みを堪えるように細く、震えていた。


「私が攫われる前……ピュアちゃんは、精神が5歳の子供に戻っちゃってたでしょ。でも、今こうして私を助けようとしてくれてるピュアちゃんは、元の……ううん、前よりもずっと優しくて、温かいピュアちゃんだよね。……私のいない間に、ピュアちゃんに何があったの? どうして、そんなに傷だらけになっちゃったの……?」


 アリスは、私が精神を統合した直後に連れ去られてしまったため、私が「感情を受け入れた純玲」として覚醒した過程を全く知らない。

 彼女の記憶の中の私は、5歳の幼児として泣いていた姿か、あるいは感情を持たない冷徹な殺し屋の姿のままだ。

 私は、感覚のない左手を少しだけ動かし、彼女に握り返すような視覚的モーションを作った。


「……私が、どうやってこの姿になったのか。そして、私の内側で何が起きたのか。……データを共有するわ」


 私は、揺れる車内の中で、過去のアーカイヴを静かに言語化し始めた。


「私が5歳に退行してしまったのは、あなたたちから受け取った『愛情』というノイズを、私の論理回路が処理しきれなかったからよ」

「愛情が……ノイズ?」

「ええ。私は5歳の時、両親の虐待から身を守るために感情を殺した。痛みや恐怖をすべてシャットダウンし、純白の機械になることで生き延びてきた。……でも、外界に出た私に、アリス、あなたが無償の優しさをくれて、ロータスが温かいご飯を作ってくれて……私の心の奥底に封印されていた『愛されたい』という5歳の私が、それに耐えきれずにエラーを起こして暴走したの」


 私の淡々とした報告に、アリスは息を呑み、悲しそうに目を伏せた。


「私は、自分の生い立ちや、施設での記憶と向き合ったわ。親に愛されず、暗い納戸に閉じ込められ、ただ恐怖に震えていた自分自身と」

「ピュアちゃん……」

「でもね、アリス。私は、その5歳の自分を否定するのをやめたの」


 私は、残された左目に真っ直ぐな光を宿し、彼女を見つめ返した。


「私が機械に戻れば、痛みも悲しみも消える。でも、同時に……アリス、あなたが私に向けてくれた向日葵のような笑顔を『好きだ』と思う気持ちも消えてしまう。……私は、あなたたちの温もりを失うくらいなら、感情というエラーを抱えたまま生きていくことを選んだのよ」


 アリスの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「私は、自分の内側にある『冷徹な論理』と『あなたたちを愛する感情』を完全に統合したわ。……でも、私がその答えに辿り着き、目を覚ました直後。……あなたが、敵に攫われてしまったのよ」

「私が……攫われた時に……」

「ええ。私は、あなたを取り戻すために神宮寺の元へ乗り込んだわ。……でも、神宮寺はあなたたちの身体に爆弾を仕掛け、私を脅迫した。私が抵抗すれば、あなたが死ぬ。……私の計算式は、あなたを失うというエラーを絶対に許容できなかった」


 私は、自分が武器を捨て、神宮寺の実験体として投降した時の絶望を、静かに語った。


「神宮寺は、私を再び『感情のない機械』に戻すために、私の肉体を切り刻み、痛覚を増幅させ、右目を潰したわ。……この身体の傷と、感覚の喪失は、その拷問の結果よ」


 アリスは、両手で口を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。


「あぁぁっ……ピュアちゃん……っ! ごめん、ごめんね……っ! 私のせいで……私が攫われたせいで、ピュアちゃんに地獄を……っ!!」

「謝る必要はないわ、アリス」


 私は、彼女の涙で濡れた頬を、感覚のない指先でそっと拭う真似をした。


「私は、後悔していないわ」

「え……?」

「私が感情を取り戻し、あなたを助けるためにこの身体を差し出したことは、私の意志による極めて合理的な選択よ。……それにね、アリス」


 私は少しだけ口角を上げ、不器用な笑顔を作った。


「あなたが攫われている間……ロータスと一緒に、服を買いに行ったのよ」

「服……?」

「ええ。ネイビーのフレアスカートと、白いシフォンブラウス。機能性もステルス性も皆無の、ただ視覚的な美しさだけを追求した非合理的な服よ」


 私がその話をすると、アリスは涙を流しながらも、驚いたように目を丸くした。


「私がそんな服を買ったのはね……アリス、あなたが無事に帰ってきて、元気になったら……その服を着て、一緒に外を歩きたいと思ったからよ」

「ピュア、ちゃん……っ」

「あなたがいつも私に『可愛い服が似合うよ』と言ってくれていたから。……だから、あなたと再会できたら着ると決めて、準備していたの」


 アリスは、私の手を両手で強く握りしめ、私の膝に顔を埋めて声を上げて泣いた。

 彼女の涙が私の服を濡らしていく。その湿った重みだけが、私に彼女の存在の質量を教えてくれていた。


「うぅ……っ、ピュアちゃん……っ! 私、絶対に治す……っ! 薬なんかに負けないで……絶対に良くなって、ピュアちゃんのその服、一緒に見に行くから……っ!」


 アリスは、薬物の禁断症状の恐怖と戦いながらも、私との約束を胸に、必死に生きる意志を燃やしてくれていた。

 私は、彼女の頭を優しく撫でながら、静かに頷いた。


「ええ。待っているわ。……だから、それまで絶対に諦めないで」


 揺れるモーターホームの車内。外は真っ暗な林道の悪路だが、私たちの間には、どんな物理的な衝撃にも揺るがない、強固な繋がりが確立されていた。


「……おい、お前ら」


 不意に、少し離れた場所からアドの声が響いた。

 彼はずっと、私たちの会話を黙って聞いていたのだろう。その声はいつもより少しだけ低く、どこか照れくさそうな響きを含んでいた。


「あんまり泣かせ合うな。アリスの体力が消耗するし、ピュアの傷にも障る」


 アドが苦言を呈しながらも、その視線は極めて優しかった。


アドの言葉を最後に、モーターホームの車内には再び静寂が降りた。

 激しく揺れていた悪路の振動が、やがて一定の滑らかなリズムへと変わっていく。どうやら、地図にも載っていないような険しい林道を抜け、ある程度舗装された私道へと入ったようだった。


「……アドさん。座標の目的地に到着しました」


 運転席からロータスのくぐもった声が響く。長時間の極度の緊張と疲労が混じった声だったが、その響きには確かな安堵が含まれていた。


「よくやった。エンジンを切る前に、周囲の熱源センサーと暗視カメラでスキャンしろ。異常がなければ停車だ」


 アドの指示に従い、ロータスがコンソールのキーボードを叩く。数秒後、「クリアです」という報告と共に、重厚なディーゼルエンジンの咆哮が静かに停止した。

 車内に、深い山奥特有の絶対的な静けさが満ちていく。

 私は感覚のない身体を視覚情報だけで制御し、ゆっくりとソファから立ち上がった。ロータスがすぐに運転席から駆け寄り、私の身体を支えてくれる。


「外へ出るわ。アリスの移送準備を」

「はい、ピュアさん。……ドクター、クォーツさん、手伝います」


 ロータスと専属医、そしてクォーツが連携し、アリスをストレッチャーへと移し替える。彼女は再び薬効による深い眠りについており、規則正しい寝息を立てていた。

 アドが先陣を切ってモーターホームの分厚いドアを開け、外へと足を踏み出す。私もロータスに肩を借りながら、それに続いた。


 視界に飛び込んできたのは、鬱蒼と生い茂る杉林に囲まれた、古びたコンクリート造りの巨大な洋館のような建物だった。

 かつては結核患者や富裕層の療養所として使われていたのだろう。外壁はツタに覆われ、ところどころひび割れているが、建物の構造自体は極めて堅牢に見える。周囲には街灯一つなく、モーターホームのヘッドライトだけが、雨上がりの冷たい霧に包まれた建物を照らし出していた。


 ——ギィィィッ。


 エンジン音に気づいたのか、建物の重厚な木製の玄関扉がゆっくりと内側へ開かれた。

 中から漏れる微かなオレンジ色の白熱灯の光を背にして、一人の男が姿を現した。


 背筋の伸びた姿勢。白髪の混じった短い髪。年齢は30代後半といったところか。

 施設にいた頃は常にピシッとした黒のスーツを着こなしていたが、今はヨレた厚手のカーディガンにチノパンという、どこにでもいる初老の男のような姿だった。

 だが、その顔の造形や、少し神経質そうに周囲を警戒する視線の動かし方は、私の記憶のアーカイヴに保存されているデータと完全に一致していた。


 10年間、私を監視し続け、最後に私に1000万円という莫大な贖罪の金を渡してくれた男。

 あの監視役だ。


「……よく来てくださいました。道中、追手は?」


 監視役の男が、玄関の庇の下から小声で尋ねてきた。


「今のところは撒いたはずだ。だが、長居は無用だ。中に入れさせてくれ」

「ええ。こちらへ」


 アドが手短に挨拶を済ませると、監視役は大きく頷き、扉を開け放って私たちを中へと招き入れた。

 ロータスと専属医がアリスを乗せたストレッチャーを押し、クォーツが点滴のポールを支えながら中へと入っていく。私はアドとロータスのサポートを受けながら、ゆっくりと段差を乗り越えた。


 建物の内部は、外観の古さからは想像できないほど清潔に保たれていた。

 磨き上げられた板張りの床、埃一つない白い壁。彼が左遷されてからこの無人の療養所をどれほど几帳面に管理してきたかが、視覚データとして明確に伝わってくる。


「奥の部屋に、医療用のベッドと電源を確保してあります。そちらの彼女を」


 監視役はアリスの姿を見ると、すぐに専属医たちに指示を出し、奥の部屋へと案内した。

 彼らがアリスの処置に向かったのを見届け、エントランスホールに残されたのは、私とアド、そして監視役の男の3人になった。


 監視役の男は、ゆっくりと振り返り、私の方を見た。

 エントランスの明るい照明の下で、私の姿が彼の網膜に鮮明に映し出された瞬間。


「あ……」


 彼の口から、空気が漏れるような音がこぼれた。

 彼の視線が、私の右目を覆う痛々しい眼帯と、首筋や腕に巻かれた血のにじむ包帯、そして、一人で真っ直ぐに立つことすらできず、ロータスに支えられている私の身体を、信じられないものを見るように彷徨った。

 そして、彼の顔面から一瞬にして血の気が引き、大きく目を見開いたまま完全に絶句した。


「……純玲、さん……?」


 震える声で、彼が私の名前を呼んだ。

 施設にいた頃の私は、傷一つない純白の肌と、感情の欠落した完璧な人形のような姿だった。だが、今の私は、右目を物理的に抉り取られ、全身を切り刻まれた無惨な敗残兵だ。


「……ええ。久しぶりね、監視役」


 私は、彼の動揺を客観的なデータとして処理しながら、静かに言葉を返した。

 私の声を聞いた瞬間、男の膝がガクンと折れ、彼はその場に崩れ落ちるようにして両手で顔を覆った。


「なんという……神宮寺の悪魔め……っ! あの男は、あなたに……これほどの仕打ちを……っ!」


 男の肩が激しく震え、彼の手の隙間からポロポロと涙がこぼれ落ちて大理石の床を濡らしていく。

 彼がどれほど私に深い罪悪感と親愛の情を抱いていたのか、私には痛いほどに理解できた。だからこそ、自分の不甲斐なさのせいで私を止められず、結果として私が神宮寺の仕打ちを受けることになったという事実が、彼の心を物理的に引き裂いているのだ。


「泣く必要はないわ」


 私は、感覚のない足取りを視覚で補正しながら、ロータスから離れ、自らの意志で1歩、2歩と彼に近づいた。


「私のこの身体の欠損は、神宮寺の実験のせいだけではないわ。……これは、私が自ら選び取った結果よ」

「選び、取った……?」


 監視役の男が、涙で濡れた顔を上げ、すがるように私を見上げた。

 私は、彼に向けて、微かに口角を上げ、不器用な笑顔を作った。


「ええ。私は、感情を取り戻したの。あの施設で10年間閉じ込めていた、私の心を」


 私がはっきりと告げると、監視役の男は息を呑んだ。


「外界に出て、私には『大切な仲間』ができたわ。奥で眠っているアリスが、私に温もりを教えてくれた。……彼女が神宮寺に捕まり、命を奪われそうになった時、私は自分の生存を計算式から切り捨てて、彼女を助けるために投降したのよ」


 私は、右目の眼帯にそっと触れた。


「この傷も、感覚の喪失も、私が仲間を愛し、彼女を守ろうとしたからこそ負った名誉ある物理的欠損よ。……私は、機械のまま無傷で生きるより、人間としてこの傷を負うことを選んだの。だから、私は自分の行動に後悔は無いわ」


 私の言葉を聞き、監視役の男はポカンと口を開け、信じられないものを見るように私を見つめ続けていた。

 かつて、「自分以外はすべて環境の一部」と切り捨て、合理性のみで両親を殺し、一切の感情を見せなかったあの冷血な少女。

 それが今、自らの身体を犠牲にしてまで他者を守り、それを「人間らしい行動」だと誇らしげに語っている。

 彼の脳内で、過去の私のデータと現在の私の姿が、激しい処理の末に統合されていくのがわかった。


「……純玲さん。あなたは……本当に……」


 男の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。

 だが、今度の涙は、悲しみや絶望の色ではなかった。


「……初めてです。あなたが、私に助けを求めてくれたのは」

「え?」

「施設にいた10年間、あなたは私に一度も『助けて』とは言わなかった。すべてを自己完結させ、私をただのシステムの一部としてしか見ていなかった。……だから、アドさんから電話をもらった時、私は……あなたが私を頼ってくれたという事実が、何よりも嬉しかったんです」


 男は床に手をつき、子供のように声を上げて泣き崩れた。

 私が初めて他者に依存し、助けを求めた。それが、彼にとってどれほどの救いとなったのか。彼が私に抱いていた不器用な親心が、ようやく報われた瞬間だったのだ。


「……立派に、成長されましたね。……立派な、一人の人間に……」


 男の言葉に、私は胸の奥の冷たい部分がじんわりと温かくなるのを感じた。

 私は、ゆっくりと身をかがめ、感覚のない左手を彼の肩にそっと置いた。


「ええ。あなたのおかげでもあるわ。……あの時、あなたが持たせてくれたスーツケースと手紙がなければ、私は過去の呪縛に囚われたままだったかもしれない。……ありがとう」


 私が純粋な感謝の言葉を口にすると、男は私の手を両手で包み込み、さらに激しく泣きじゃくった。

 背後で見ていたアドが、静かに鼻を鳴らし、ロータスが目を赤くして袖で涙を拭っているのが視界の端に映った。


 しばらくして、監視役の男は乱れた呼吸を整え、立ち上がった。

 彼はハンカチで涙を拭い、今度は『天秤』の弁護士であるアドへと向き直った。その瞳には、先ほどの感傷を完全に拭い去った、大人の男としての冷徹な覚悟が宿っていた。


「……アドさん。正直に申し上げますと、最初あなたから連絡を受けた時、私は非常に迷っていました」

「だろうな。俺たちは法の外側で殺しを請け負う組織だ。一般人のあんたからすりゃ、神宮寺の私兵と大差ねえバケモノの集まりにしか見えねえだろう」

「ええ。神宮寺の組織から逃げるためとはいえ、『天秤』という裏社会の人間をこの場所に匿うことは、私自身の破滅だけでなく、この施設を管理している自治体にも多大な迷惑をかけるリスクがありました」


 男は隠すことなく、自身の抱えていた葛藤を口にした。それは極めて合理的なリスク計算だ。


「ですが……純玲さんの姿を見て、完全に腹が決まりました」


 男は私を見つめ、力強く頷いた。


「彼女がこれほどまでに人間らしく、仲間を大切にする立派な人間に成長している。そして、その彼女が命を懸けて守ろうとしているあなた方『天秤』の人間が、ただの冷血な殺人鬼の集まりであるはずがない。……あなた方を、この場所に匿います。神宮寺の目から、私が責任を持ってお守りします」

「……恩に着るぜ、あんた」


 アドが深く頭を下げると、男も深くお辞儀を返した。


「それと、もう1つ。……私がここで息を潜めながら、独自に集めていた情報があります」


 男の表情が、一気に険しいものへと変わった。

 彼は周囲を警戒するように声を潜め、私たちに近づいた。


「神宮寺誠一郎の、現在の国家内での動きについてです」

「……何だと?」


 アドの目が鋭く光る。私も意識を完全に情報処理モードへと切り替えた。


「神宮寺は、単なる裏社会の薬物売買で資金を得ようとしているわけではありません。彼の真の目的は、『エデン計画』を国家レベルのプロジェクトに押し上げることです」

「国家レベルのプロジェクト……?」

「はい。彼は現在、与党内の最大派閥を完全に掌握しつつあります。そして、彼が製造しているあの未知の合成薬物……あれを、極秘裏に『軍事目的』の特例法案として合法化しようと動いているのです」


 その言葉の意味を演算し、私の背筋に冷たい戦慄が走った。


「合法化……。つまり、痛覚を麻痺させ、恐怖を奪い、命令に絶対服従する兵士を、国の予算で堂々と量産しようというの?」

「その通りです」


 男は忌々しげに頷いた。


「彼は警察庁のトップや、防衛省の一部幹部にもすでに薬物をばら撒き、弱みを握ってコントロール下に置いています。だからこそ、あなたたち『天秤』の拠点が襲撃された時も、警察は一切動かなかった。神宮寺の包囲網は、すでにこの国の法執行機関そのものを飲み込みつつあるのです」


 アドがギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。


「……なるほどな。裏社会の同業者どもが一斉に俺たちを敵に回したのも、神宮寺が国家権力という『絶対的な盾』をバックに、俺たちをテロリストとして合法的に排除できる権限をチラつかせたからか」

「ええ。神宮寺は、あの地下製薬工場で薬物の量産体制を確立し、来月行われる国際的な秘密会議の場で、各国のバイヤーや軍事関係者に『完成品』のプレゼンテーションを行う予定です。その完成品とは……」


 男は言葉を切り、悲痛な視線を奥の部屋——アリスが眠る方向へと向けた。


「恐らく先ほど運ばれた女性や純玲さんのような、特異な身体能力を持った人間を人工的に作り出す、最強の生体兵器です」

「……っ!」


 私の脳内で、最悪の計算式が成立した。

 神宮寺がアリスを殺さず、薬物で生かし続けている理由。それは、彼女をただの奴隷にするためではない。彼女のリミッター解除という特異体質を薬物で完全にコントロールし、言うことを聞く無敵の『ショーケース用の兵器』として、世界中の権力者たちに見せつけるためだったのだ。


「ふざけるな……っ!」


 アドが、怒りで顔を真っ赤にして拳を震わせた。


「そんなこと、絶対にさせるかよ。 アリスは……ピュアは兵器なんかじゃねえ」


 アドが、冷酷な殺意を込めて低く唸った。


「警察も国家も関係ねえ。俺たち『天秤』は、法で裁けねえ悪を狩るために存在している。神宮寺の野郎が国家を盾にするなら、その盾ごとあいつの頭蓋骨を物理的に吹き飛ばすまでだ」

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