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第三話「共感が生む殺し屋の障害」

 それからの日々は、私のこれまでの15年間の人生において、最も非効率で屈辱的、かつ物理的なエラーに満ちた期間となった。


 痛覚と皮膚感覚の完全な喪失。

 それは、私の脳が外界の物理法則と相互作用するための、最も重要で大容量なデータリンクが切断されたことを意味していた。

 人間がどれほど無意識のうちに『触覚』に依存して肉体を制御しているか、失ってみて初めて、私はその絶望的なまでの影響度を理解した。


「……また、やってしまったわね」


 リビングのダイニングテーブル。

 私の手元には、粉々に砕け散ったクリスタルグラスの残骸と、こぼれた水が水たまりを作っていた。


「ああっ、ピュアさん! そのままで! 俺が片付けますから!」


 キッチンから慌てて飛んできた蓮が、布巾と箒を持って破片を回収し始める。

 私は、自分の右手を見下ろし、小さくため息を吐き出した。


 グラスの表面に指が触れる感覚がない。水の重さもわからない。

 だから私は、視覚情報だけで『グラスを持ち上げる』というタスクを実行しようとした。

 しかし、私の肉体は、感情を殺していた頃から『リミッターを意図的に外せる』という特異体質だ。通常、人間は触れた物の硬さや重さを皮膚で感知し、脳が無意識に筋力の出力を調整セーブしている。

 そのセンサーが死んでいる今、私が「グラスを握る」と命令した瞬間、私の手は加減を知らず、グラスを万力のように握り潰してしまったのだ。


「怪我はないですか、ピュアさん!? ガラスの破片が刺さってたり……」

「わからないわ。痛覚がないから、自分の身体を視認しない限り、出血しているかどうかも判断できないのよ」


 私が淡々と答えると、蓮は青ざめた顔で私の手のひらを裏返し、丁寧に破片が残っていないか確認してくれた。幸い、出血はなかった。

 だが、このような物理的エラーは、グラスの破壊だけにとどまらなかった。


 ある日の夕刻。

 蓮がキッチンで夕食の準備をしている時、私は「私もタスクを分担するわ」と申し出た。味覚が生きている以上、調理という化学変化のプロセスに参加することは、私の精神衛生上プラスに働くと計算したからだ。


「えっ!? ピュアさんが料理!? いや、でも……!」

「包丁で食材を断裁するだけなら、視覚情報だけでも可能よ。ニンジンのみじん切りね。貸しなさい」


 私は蓮から包丁を受け取り、まな板の上のニンジンに向き合った。

 手元に完全に視線を固定する。包丁の刃の角度、落とす位置。計算は完璧だ。

 私は右腕の筋肉を収縮させ、包丁を振り下ろした。


 ——ガァァンッ!!


「ひぃっ!?」


 凄まじい破壊音がキッチンに響き渡り、蓮が悲鳴を上げて腰を抜かした。

 私の手元のニンジンは、見事に真っ二つになっていた。

 しかし、それと同時に。

 その下にあった分厚い木製のまな板、さらにはその下の大理石のシステムキッチンの天板までもが、パックリとV字に叩き割られていたのだ。


「……出力の調整を誤ったようね。対象物の硬度に対する物理的なフィードバックがないから、無意識にリミッターを解除した筋力で振り下ろしてしまったわ」

「お、俺がやります! 俺が全部やりますから! ピュアさんは座っててください!!」


 蓮は半泣きになりながら、私から包丁を奪い取った。

 私は自分の機能不全に苛立ちを覚えながら、大人しくソファへと戻るしかなかった。


 だが、最も深刻だったのは、単なる物損ではなく、私自身の肉体へのダメージだった。

 歩行訓練の最中。

 足の裏の感覚がないため、私は常に自分の足元を視界に入れながら歩かなければならなかった。一歩踏み出すごとに、床との距離や傾斜を視覚で測り、筋肉を制御する。それは脳の演算能力を極端に消費する作業だった。

 リビングを歩いていた時、私は視線を一瞬だけ窓の外の景色に向けた。

 その数コンマの油断が、致命的なエラーを引き起こした。


 バランスを崩し、私の身体が前方に傾く。

 転倒を防ぐため、私は咄嗟に右腕を床に突き出して体重を支えようとした。

 だが、床に手が触れた瞬間、衝撃を吸収するための最適な筋肉の収縮率がわからなかった。結果として、私の右腕は全体重と落下エネルギーを、リミッターの外れた『100パーセントの筋力』で強引に受け止めてしまったのだ。


 バチィッ!!


 私には聞こえなかったが、私の腕の内部で、太いゴムロープが引きちぎれるような嫌な音が鳴ったらしい。


「ピュアさん!!」


 駆け寄ってきた蓮が、私の右腕を見て顔面を蒼白にさせた。


「なによ。転んだだけよ。痛みは全くないわ」

「腕がっ……腕が、紫色に腫れ上がってます!!」


 蓮の悲痛な声に、私は自分の右腕を視認した。

 上腕三頭筋から前腕にかけての筋肉が、異常な形に隆起し、皮膚の下で凄まじい内出血が広がっている。

 筋繊維の重度な断裂。

 私の肉体は、自らの制御不能な力によって、自らを物理的に破壊してしまったのだ。

 本来なら気絶するほどの激痛が走るはずの重傷。だが、私には蚊に刺されたほどの感覚すらない。ただ、腕を動かそうとしても、切断されたワイヤーのように力が一切伝達されないという事実だけが、冷酷に存在していた。


「……不便ね」


 私は、自分の壊れた右腕を見つめながら、静かに呟いた。


「このままでは、私は自分の力で歩くことすらできない、ただの欠陥品だわ。アリスを助け出すどころか、この部屋から一歩も出られない」

「そんなこと言わないでください! 俺がいます! ピュアさんが歩けるようになるまで、俺がずっとサポートしますから!」


 蓮は泣きそうな顔で私の右腕に応急処置を施し、専属医に連絡を入れてくれた。

 それからのリハビリは、蓮との二人三脚による、泥臭く、果てしないデータの再構築作業となった。


「いいですか、ピュアさん。コップを持つ時は、水面に波紋が立たない程度の力で止めるんです。目で見て、水の揺れをメーター代わりにするんです」

「……ええ。視覚情報を圧力センサーの代替として利用するのね。合理的なアプローチだわ」


 歩行に関しても、蓮が私の横にピタリと付き添い、私の歩幅と重心の移動を逐一チェックしてくれた。


「もっと踵から着地して。俺の足音のリズムに合わせてみてください。タン、タン、という感じです」

「聴覚によるリズムの同期ね。……これでどうかしら」


 私が彼の足音に合わせて歩くと、視線を足元に固定しなくても、ある程度の距離なら転倒せずに進めるようになった。

 何度も壁にぶつかり、何度も身体を痣だらけにしながら(痛みがないため、入浴時に蓮に指摘されて初めて気づくことが多かった)、私は少しずつ、自らの肉体を『視覚』と『聴覚』、そして『論理的予測』だけで制御する新たなOSオペレーティングシステムを構築していった。


 蓮の献身的なサポートは、私の計算を遥かに超えていた。

 彼は私の手足の代わりとなるだけでなく、私の失われた感覚を補うための『外部センサー』として機能してくれた。熱いものを持つ時は彼が先に温度を確かめ、私が転びそうになれば彼が自らの身体をクッションにして私を支えた。

 彼が私のために傷だらけになりながらも、「ピュアさん、すごいです! 今の歩き方、完璧でした!」と笑ってくれるその姿に、私の胸の奥の冷たい部分は、確実に温かい何かで満たされていくのを感じていた。


 そして、自宅でのリハビリ開始から約3週間後。

 私は、視覚と聴覚の連携により、日常の動作と歩行をほぼ問題なく行えるレベルにまで機能を回復させることに成功した。


「……素晴らしいわ、蓮。あなたのナビゲートのおかげで、私の肉体のキャリブレーションは完了したわ」

「よかったです……! ピュアさん、本当によく頑張りましたね!」


 蓮が自分のことのように喜び、満面の笑みを浮かべる。

 だが、私の目標は『日常生活を送ること』ではない。

 タイガーの仇である神宮寺誠一郎を物理的に粉砕し、アリスを助けるための薬を手にいれることだ。

 そのためには、日常の動作だけでなく、『殺し屋としての機能』——銃器の扱いを取り戻さなければならない。


「次は、事務所の地下訓練場へ向かうわ。実戦レベルでの射撃データの再構築が必要よ」

「えっ、もう銃を撃つんですか!? まだ腕の筋断裂が完治したばかりなのに……」

「時間は有限よ。これ以上もたもたしていれば、アリスの体内の薬物依存が不可逆的なラインを超えてしまうわ」


 私の絶対的な決意に、蓮は黙って頷き、アルファードのキーを手にした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 霞ヶ関の事務所、地下の専用訓練場。

 分厚い防音壁に囲まれた射撃レーンに立ち、私はターゲットボードを見据えた。

 私の手には、愛用のグロック19が握られている。


「……」


 私は銃のグリップを握る右手に視線を落とした。

 重さがわからない。金属の冷たさも、ポリマーフレームの質感も伝わってこない。

 まるで、空間に浮かんだ銃のホログラムに手を添えているような感覚だ。


「ピュアさん……無理しないでくださいね」


 防弾ガラスの向こう側から、蓮がマイク越しに心配そうに声をかけてくる。


「問題ないわ。銃の重量バランスと、トリガーの反発係数はデータとして脳内にインプットされている。視覚で照準を合わせ、規定の筋力を出力するだけよ」


 私は右腕を上げ、ターゲットの眉間に銃口を向けた。

 そして、トリガーに人差し指をかけ、引き金を引こうとした。


 ——ダァァンッ!!


「……っ!」


 銃声が鳴り響いたのは、私が「撃つ」と決断するよりも数コンマ早いタイミングだった。

 私が放った9ミリ弾は、ターゲットの遥か上、天井の吸音材を虚しく穿っていた。


「ピュアさん!?」

「……暴発ね」


 私は銃口を下げ、冷徹にエラーの原因を分析した。

 通常、射撃においてトリガーを引く際は、指の腹で『遊び』の部分を感じ取り、発射の直前(シアーが落ちる瞬間)の圧力を皮膚感覚で読み取ってコントロールする。

 だが、私にはその感覚がない。

 トリガーに指をかけた瞬間、どれくらいの力がかかっているのかわからないため、無意識にリミッターの緩んだ筋力が出力され、狙いを定める前に引き金を引き切ってしまったのだ。


「……もう一度よ」


 私は再び銃を構え、今度は視覚で自分の人差し指の動きを監視しながらトリガーを引こうとした。


 ダァンッ! ダァンッ!


 結果は同じだった。

 視線を指元に向ければターゲットから目が離れ、ターゲットを見れば指の力の制御が効かなくなる。

 暴発。あるいは、極端に遅い発砲。

 かつて私が誇っていた、コンマ数秒の世界での『精密な物理的暴力』は、完全に見る影もなくなっていた。


「……くっ」


 私は銃を下ろし、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 近距離での超高速戦闘において、このタイムラグと精度の低下は致命的だ。以前のように、敵の集団の真ん中に飛び込み、瞬時に全員の急所を撃ち抜くような芸当は、もはや不可能だと認めざるを得なかった。


「ピュアさん、休憩しましょう。少し焦りすぎです」


 訓練室に入ってきた蓮が、私の手からそっと銃を受け取った。

 彼の額には冷や汗が浮かんでいる。私が暴発を繰り返すたびに、跳弾が彼の方へ飛んでいくのではないかとヒヤヒヤしていたのだろう。

 私は彼に負担をかけている自分がひどくもどかしく、不快だった。


「……私の近接戦闘能力は、大幅に低下したわ。これじゃ、強襲班としての役割は果たせない」

「そんなことありません! ピュアさんは……」

「事実を言っているのよ、ロータス。感情で物理法則を曲げることはできないわ」


 私は冷たく言い放ち、射撃レーンの壁に寄りかかった。

 神宮寺の要塞に乗り込むためには、私の圧倒的な暴力が不可欠だ。近接戦闘ができないのなら、私はどうやってアリスを救い出せばいいのか。


 ふと、私の視界の端に、ガンラックに立てかけられた長銃身のライフルが映った。

 M24 SWSスナイパーライフル。

 コンテナターミナルでの殲滅作戦の際、私が使用した狙撃銃だ。


「……そうね」


 私の脳内で、新たな計算式が構築され始めた。

 近距離での乱戦においては、視界の移動と発砲のタイミングが複雑に絡み合い、触覚の欠如が致命的なエラーとなる。

 だが、遠距離からの『狙撃』であればどうだ。


 狙撃において重要なのは、風の計算、重力による弾道落下の予測、そしてスコープを通した完璧なターゲティングだ。

 そして、トリガーを引くタイミング。

 私はスナイパーライフルを手に取り、射撃レーンの台にバイポッド(二脚)を展開して据え付けた。


「ピュアさん? スナイパーライフルを撃つんですか?」

「ええ。私の欠損した機能を補うための、論理的なアプローチを試すわ」


 私はスコープを覗き込み、50メートル先のターゲットの眉間にレティクルを合わせた。

 そして、右手の指をトリガーガードの外側に伸ばしたまま、呼吸を整える。


 通常、狙撃手はトリガーに指をかけ、遊びを絞りながら呼吸の合間に発砲する。

 だが、私はその手順を物理的にスキップする。

 スコープの視界が完全に標的と一致した。風はない。弾道は絶対の弧を描く。


「……今」


 私は、トリガーガードの外側にあった人差し指を、一気にトリガーの空間へと『通した』。

 指をかけるのではない。指を振り抜く勢いで、トリガーを弾き切るのだ。


 ダァァァンッ!!


 轟音と共に放たれた7.62ミリ弾は、ターゲットの眉間のど真ん中を寸分の狂いもなく撃ち抜いた。


「……!」

「当たりました! ど真ん中です、ピュアさん!」


 蓮がモニターを見て歓声を上げる。

 私はボルトを引き、空薬莢を排出して次弾を装填した。


 再びスコープを覗く。

 ターゲティング。計算。

 そして、指をトリガーに通す。


 ダァンッ! ダァンッ! ダァンッ!


 三発の弾丸が、すべて同じ穴、あるいは数ミリの誤差の範囲内に吸い込まれていく。

 私は、自分の新しい射撃プロセスを確立した。

 触覚に依存する『遊びの確認』を完全に排除し、視覚的なターゲティングが完了した瞬間に、筋肉の反射的な収縮によってトリガーを一気に引き絞る。

 この方法なら、暴発のリスクをゼロにしつつ、私の持つ異常な物理演算能力を100パーセント出力できる。


「……近接戦闘での無双は無理でも、遠距離からの『死神』としてなら、私はまだ完璧に機能できるわ」


 私はスナイパーライフルから目を離し、残された左目に青白い決意の光を宿した。


「ピュアさん……すごいです。本当に、すごいです」

「当然よ。私は『天秤』の最高戦力なのだから」


 私はライフルをガンラックに戻し、蓮に向き直った。

 失ったものは多い。右目も、皮膚の感覚も、愛する者の温もりも。

 だが、私には幸いまだ、彼らを守るための『力』が残されていることを実感できた。


 これで、完全に無力化されたわけではないという証明ができた。私はまだ『天秤』の戦力として機能できる。その事実を報告するため、私はロータスを伴って、地下の訓練場からアドの執務室へと足を向けた。


 ノックもせずに重厚な扉を開けると、アドは相変わらずデスクで書類の山と睨み合い、灰皿には吸い殻の山を築いていた。


「……またノックもなしか。そんな状態でもおとなしく休めねえのか」


 アドが忌々しげに顔を上げる。彼の目の下にも、蓮と同じように濃い隈が刻まれていた。神宮寺のネットワークを洗い出す作業は、彼にとっても極限の疲労を強いているようだ。


「報告よ、アド。私の現在の物理的機能について、アップデートされたデータを持ってきたわ」


 私は彼に向かって真っ直ぐに歩み寄り、デスクの前に立った。


「結論から言うわ。近接戦闘における私のパフォーマンスは、触覚の欠如により著しく低下している。でも、遠距離からの狙撃——スナイパーライフルを使用した殺しの仕事であれば、私は以前と変わらない精度でタスクを遂行できるわ。トリガーを通す指の動線を視覚的ターゲティングと完全に同期させることで、暴発のリスクも排除した」

「……スナイパーライフル、だと?」


 アドは咥えていた葉巻を灰皿に押し付け、怪訝な顔で私を見上げた。


「ええ。だから、私を前線から外す必要はないわ。神宮寺との決戦はもちろん、それ以外の通常の任務でも、狙撃の要件を満たす仕事なら継続して殺し屋として機能できる。私に仕事を回しなさい」


 私の要求に対し、アドはしばらくの間、沈黙した。

 彼の鋭い視線が、私の右目を覆う眼帯と、包帯だらけの身体をスキャンしている。

 裏社会の元締めである彼からすれば、痛覚も皮膚感覚も失い、片目になった少女に仕事を任せるなど、通常であればあり得ない非合理的な判断だ。彼が私に休養を命じたのは、組織の戦力低下を防ぐためだけでなく、彼自身の『人間としての心』が、これ以上私を傷つけたくないというエラーを出力しているからだろう。


「……お前なぁ」


 やがて、アドは深いため息を吐き、頭をガシガシと掻いた。


「俺は、今のお前に仕事をさせようとは思っちゃいねえんだよ。お前のその身体は、まだ完治には程遠い。無理をしてこれ以上壊れたら、元も子もねえだろうが」

「私の機能が低下していないことは、ロータスが訓練場で証明できるわ。ねえ、ロータス」

「あ、はいっ! ピュアさんのライフル狙撃、本当にど真ん中に百発百中でした! 俺もびっくりするくらい……」


 ロータスが慌てて証言すると、アドは「チッ」と舌打ちをして、再びため息をついた。


「……わかったよ。お前のその無駄に頑固な論理回路には、何を言っても無駄らしいな」


 アドは引き出しから新しい葉巻を取り出し、火をつけずに口にくわえた。


「だが、約束しろ。お前の身体はまだメンテナンス中だ。できそうな、リスクの極めて低い狙撃の仕事があれば回してやる。だが、それまでは絶対に無理はするな。お前が自宅で療養し、完全に身体を再構築キャリブレーションすることが、今の組織にとって最大の利益だ。いいな?」


 アドの言葉には、私を戦力として扱う冷徹な響きの裏に、不器用な気遣いがたっぷりと含まれていた。

 彼が私の意志を尊重し、妥協案を提示してくれたことは、極めて合理的な配慮だ。


「……ええ、わかったわ。条件は呑む。適切な仕事が来るまで、私は私のテリトリーで物理的機能の回復に専念するわ」


 私が頷くと、アドは「さっさと帰って寝ろ」と手を振って私を追い払う素振りを見せた。


「行くわよ、ロータス」

「はい、ピュアさん」


 執務室を後にし、私たちは地下駐車場へと向かうための廊下を歩き出した。

 だが、エレベーターへ向かう途中、私の足は自然と、あの特別隔離室がある医務室の方向へと向いていた。


「ピュアさん……アリスさんのところへ、寄っていくんですか?」

「ええ。事務所に来たついでよ。彼女のバイタルの推移を、私の視覚データとして保存しておきたいの」


 私が理屈を並べると、ロータスは少しだけ悲しそうに目を伏せ、「はい」と短く答えた。

 私がアリスの現状を直視することが、私の精神にどのような負荷をかけるのか、彼は心配しているのだろう。だが、私はもう逃げない。彼女がどんな地獄に縛られていようと、私はそれを受け止め、彼女を救い出すための計算式を構築し続けなければならない。


 特別隔離室の重厚な扉の前に到着した。

 私がセキュリティパネルに手を伸ばそうとした、その時だった。


 ——ガシャンッ!!


 分厚い扉の向こう側から、何かが激しく壁に叩きつけられる鈍い音と、獣のような絶叫が漏れ聞こえてきた。


「ァァァァッ!! やめ、やめてェェッ!!」


 それは、間違いなくアリスの声だった。

 だが、その声は恐怖と苦痛に完全に支配され、人間の理性を失った狂乱の響きを持っていた。


「……っ!」


 私はロックを解除し、勢いよく扉をスライドさせた。

 室内に飛び込んだ私の左目が捉えたのは、凄惨な事後処理の光景だった。


 ベッドのシーツは血と汗で汚れ、医療機器や点滴のスタンドが床に無惨に倒れている。

 そして、部屋の中央。

 小柄なクォーツが、床で乱れた呼吸を繰り返すアリスの身体に馬乗りになり、泣きながら彼女の両腕を必死に押さえつけていたのだ。


「アリス、だめ……っ! もう、動かないで……っ!」

「あ、ぁぁ……っ、ごめ、ごめんなさい……っ、クォーツちゃん、ごめん……っ!」


 アリスは、拘束用のベルトを引きちぎらんばかりに暴れた後だったのだろう。彼女の手首や足首には、擦れて血が滲んだ痛々しい痕が残っている。首筋には、またしても自らの爪で掻きむしった真新しい傷跡が幾筋も走っていた。

 薬効が切れ、強烈な禁断症状に襲われて暴れ回った後、ようやく専属医の投与した代替薬が効き始め、理性が戻りつつある状態なのだと、私の脳が即座に状況を演算した。


「クォーツ……」


 私が声をかけると、アリスを押さえつけていたクォーツが、ハッと振り返った。

 彼女の白い頬には、アリスが暴れた際についたと思われる殴られたような赤い腫れがあり、目からは大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。


「ピュア……」


 クォーツは、私を見ると、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、アリスの胸に顔を伏せて声を上げて泣き崩れた。

 私が不在の間、彼女がどれほど一人でアリスのこの地獄のような発狂に立ち向かい、彼女を自傷から守るために必死に押さえつけ続けていたのか。その物理的な労力と精神的な負荷は、計り知れない。


「ロータス。倒れた機材を戻してちょうだい」

「は、はいっ!」


 私はロータスに指示を出し、ゆっくりとアリスとクォーツの元へと近づいた。

 感覚のない手でクォーツの背中をそっと撫で、私は床に倒れているアリスの顔を覗き込んだ。

 アリスの瞳孔はまだ少し拡張していたが、視線の焦点は合い始めていた。


「ピュア、ちゃん……?」


 アリスが、掠れた声で私の名前を呼んだ。

 その声には、薬物の渇望よりも、深い絶望と自己嫌悪が色濃く混じっていた。


「ごめん、なさい……っ。私、また……また、暴れちゃった……っ」


 アリスは、クォーツの涙で濡れた服を血まみれの手で力なく掴み、嗚咽を漏らした。


「クォーツちゃんを……叩いちゃった。ピュアちゃんにも、また……こんな、醜い姿……っ」

「謝る必要はないわ、アリス」


 私は、冷たい床に膝をつき、アリスの乱れた髪をそっと払いのけた。


「これはあなたの意志によるエラー行動じゃない。神宮寺の投与した薬物が、物理的にあなたの脳の神経伝達物質を破壊しているだけよ。あなたが謝罪する合理的な理由はどこにもないわ」

「でも……っ、私……っ」


 アリスは、耐えきれないように目を強く閉じ、涙を流し続けた。

 ロータスが機材を直し、クォーツが泣きながらアリスを支えて、二人で彼女をベッドへと戻した。

 アリスはベッドに横たわりながら、荒い呼吸を整えようと必死に努めていた。


「……ピュアちゃん、髪……結んでるね。新しい、シュシュ?」


 数分後。

 薬が完全に回ったのか、アリスは無理に口角を上げ、いつもの明るさを取り繕うようにして私に話しかけてきた。


「ええ。あなたがロータスと一緒に私のために見立ててくれたものよ。シルク素材で静電気が起きにくく、戦闘時の視界をクリアに保つのに非常に効率的だわ」

「ふふっ……そっか…よかった。ピュアちゃんに、すごく……似合ってるよ。可愛い……」


 アリスは弱々しく微笑み、クォーツの頭を優しく撫でた。

 クォーツはアリスの手にすり寄りながら、まだヒックヒックとしゃくり上げている。

 私たちは、ベッドを取り囲むようにして、他愛もない世間話を少しだけ交わした。

 アリスは「すごいね」「私も早く一緒に走りたいな」と、気丈に相槌を打ってくれていた。


 だが。

 会話が進むにつれて、アリスの表情から、作られた笑顔が少しずつ剥がれ落ちていくのがわかった。

 彼女の視線が虚空を彷徨い、繋がれた点滴の管を、恐怖に満ちた目で見つめる。


「……ねえ、ピュアちゃん」


 不意に、アリスの声が、今にも消え入りそうなほど細く、震えるトーンに変わった。


「私……怖いよ」

「怖い? 何が?」

「……自分が、自分じゃなくなっていくのが、怖い」


 アリスは、両手で自分の顔を覆い、ガタガタと震え出した。


「薬が切れるたびに……頭の中が真っ白になって、ただ『薬が欲しい』ってことしか考えられなくなるの。……クォーツちゃんが泣いて止めてくれてるのに、それを振り払ってでも、薬に飛びつきたくなる。……自分の喉を掻きむしって、血が出ても、痛みがわからないの」


 彼女の言葉は、私の胸の奥に、鋭いナイフのように突き刺さった。


「私……いつか、みんなを傷つけてしまうんじゃないかって。……薬が欲しくて、ピュアちゃんやクォーツちゃんを、殺そうとしちゃうんじゃないかって……っ」

「アリス、そんなことは……」

「それに……自傷行為で、いつ死んじゃうかわからない。……喉を掻き切って、窒息して死ぬかもしれない。……私、そんな醜い姿で、みんなの前で死ぬのは、絶対に嫌だよ……っ!」


 アリスの口から、彼女の奥底に溜まっていた、ドロドロとした絶望が堰を切ったように溢れ出した。


「もう……いっそ、死にたい。……こんな薬漬けのバケモノになって、みんなに迷惑をかけて生きるくらいなら、あの時、神宮寺のラボで……タイガーと一緒に、死んでいればよかった……っ!」

「……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、クォーツが「だめ……っ!」と叫んで、アリスの身体を強く抱きしめた。

 ロータスも両手で顔を覆い、息を呑んでうつむいている。


「でも……っ、死にたくない……っ!」


 アリスは、クォーツの背中にすがりつきながら、矛盾した言葉を泣き叫んだ。


「死にたいのに、死にたくないの……っ! ピュアちゃんや、クォーツちゃん……アドや蓮くんと……もっと、一緒にいたい……っ! もっと、美味しいもの食べて、一緒に笑っていたいよぉ……っ!」


 死にたい。生きたい。

 醜態を晒したくない。でも、みんなと一緒にいたい。

 その二つの強烈に矛盾する感情が、彼女の精神を内側からズタズタに引き裂き、彼女の心をぐちゃぐちゃの泥濘へと突き落としているのだ。


 私は、その光景を左目で直視しながら、感覚のない両手を強く握りしめた。

 痛い。苦しい。怖い。

 彼女の吐露するその絶望は、私が神宮寺の拷問を受け、無限の苦痛の中で感情を捨て去ろうとした時の精神状態と、完全に一致していた。


 あの時、私はアリスたちの温もりを手放したくなくて、狂気の中で必死に自我を保ち続けた。

 今のアリスも同じだ。薬物という絶対的な暴力に支配されながらも、私たちへの愛情が、彼女をギリギリのところで人間に繋ぎ止めている。

 彼女は、戦っているのだ。彼女自身の内なる地獄と。


「……アリス」


 私は、バランスを崩しそうになるのをロータスに支えられながら、彼女のベッドの傍らへと歩み寄った。

 そして、感覚のない右手を伸ばし、彼女の涙で濡れた頬に、そっと触れた。

 温度はわからない。だが、私の視覚データは、私の手が確かに彼女の顔に触れ、彼女がその手にすり寄ってくれたことを証明していた。


「あなたは、バケモノなんかじゃないわ」


 私は、一切の論理を排し、ただ私の感情のコアから出力される純粋な言葉だけを紡いだ。


「あなたは、私に人間の温もりを教えてくれた、私の大切な太陽よ。あなたがどんな姿になろうと、私の計算式においてあなたの価値が低下することは1ミリもあり得ないわ」

「ピュア、ちゃん……」

「死にたいなんて、二度と言わないで。私が、絶対にあなたを治すデータを、神宮寺の要塞から持ち帰ってくる。……だから、それまで、どんなに苦しくても……私のエゴかもしれないけど……生きていて」


 私の言葉に、アリスは目を見開き、そして、子どものように声を上げて泣きじゃくった。

 クォーツも、私の言葉に同意するように、アリスをさらに強く抱きしめた。


「……行くわよ、ロータス」


 どれくらいの時間がたっただろうか。私は、アリスの手をそっと離し、背後に立つ蓮に声をかけた。

 これ以上長居すれば、私の感情のアルゴリズムがさらなるエラーを引き起こし、彼女の休息の妨げになると計算したからだ。


「うん。……ピュアちゃん、蓮くん、またね」


 ベッドの上のアリスが、涙で濡れた顔に無理やり笑顔を貼り付けて手を振ってくれる。

 クォーツは、「私、部屋の掃除していくから。……またね、ピュア」と、床に散乱した機材や点滴の管を片付けながら、小さく手を振り返してくれた。


「ええ。また来るわ」


 私は短く応え、ロータスに支えられながらゆっくりと立ち上がった。

 重厚な金属の扉が閉まり、私たちは無機質な地下の廊下へと出た。


「ピュアさん、大丈夫ですか? 足元、気をつけてくださいね」

「問題ないわ。私の重心移動の計算は完璧よ。あなたの肩の高さから逆算して、最適な歩幅を出力しているわ」


 私が理屈っぽく返すと、ロータスは「はいはい、わかってますよ」と少しだけ安堵したように笑った。

 私たちは、エントランスホールの方へと向かった。

 アドには「自宅で待機しろ」と言われている。情報の解析も一段落し、次なる大規模作戦までの間、私たちは私のテリトリーで物理的な機能回復とシミュレーションに専念する予定だった。


 エレベーターホールを抜け、事務所の入り口となる分厚い防弾ガラスの自動ドアに差し掛かろうとした、その時だった。


 エントランスのホールに、複数の人影が立っているのが、私の残された左目に映った。

 黒いスーツに身を包んだ、体格の良い男たちが5人。

 彼らは周囲を警戒するように視線を配り、ジャケットの懐には明らかに銃器と思われる不自然な膨らみがあった。


「……シンさんの部下ですかね」


 ロータスが小声で呟いた。

 『天秤』の事務所には、シンの率いるクリーニング班の黒服たちが常駐している。彼らは死体の処理や現場の隠蔽を行うプロであり、こうして黒スーツで入り口を固めていること自体は、決して珍しい光景ではない。

 私も最初、彼らを組織の人間だと思い、特に警戒モードを起動させることなく、ロータスに支えられながらそのまま通り過ぎようとした。


 だが、私たちが彼らの横をすれ違おうとした、その瞬間だった。


「——すみません、天秤の方ですか?」


 男の一人が、極めて事務的な、しかしどこか探るような声で私たちに話しかけてきた。


「……っ!」


 そのたった一言が、私の脳内の危険予測システムに、けたたましいレッドアラートを鳴り響かせた。

 『天秤の方ですか?』。

 この霞ヶ関の地下にある極秘の事務所は、組織の人間しか出入りできない完全な閉鎖空間だ。ここにいる時点で、天秤の人間であることは自明の理。

 シンの部下であれば、私たちのような内部の人間に対して、わざわざそんな外部の来客のような確認の仕方をするはずがない。


 私の演算回路が、コンマ1秒で絶対的な解を弾き出した。

 ——敵だ。

 神宮寺誠一郎の差し向けた暗殺部隊か、あるいは『あの方』に連なる別のダミー組織の襲撃犯。彼らは何らかの手段でこの事務所のセキュリティを突破し、侵入してきたのだ。


「ロータス、下がって!!」


 私はロータスの肩から手を離し、彼を背後へと突き飛ばした。

 男たちの表情が、私の鋭い反応を見て一瞬にして殺意へと切り替わる。彼らの手が、ジャケットの懐の銃へと伸びる。


 遅い。

 私の動体視力は、彼らの筋肉の収縮を完全にスローモーションとして捉えていた。

 身体の痛覚と皮膚感覚は死滅している。だが、私の出力のリミッターを外す機能は、今も健在だ。

 私はふらつく足元を強引に視覚データで補正し、床を蹴り飛ばして先頭の男の懐へと潜り込んだ。

 銃を抜かれる前に、この男の顎を物理的に粉砕し、脳震盪を起こさせて制圧する。その後、倒れた男の身体を盾にして残りの4人の射線を塞ぎ、ロータスが逃げる時間を稼ぐ。


 完璧な計算式だ。

 私は右の拳を強く握り込み、男の顔面に向かって、全体重を乗せた一撃を振り抜こうとした。


 ——だが。


(……え?)


 私の拳が、男の顎を捉える数ミリ手前で、ピタリと止まってしまった。

 筋肉が、言うことを聞かない。

 私の脳が、私自身の攻撃行動に対して、強烈な『強制停止ストップ』の信号を発信したのだ。


 視界に、強烈なノイズが走った。

 私の拳がこの男の顎の骨を砕き、肉を裂く光景が、鮮明なシミュレーションとして脳内に再生される。

 通常であれば、それは単なる『物理的な破壊の結果』として処理されるはずだった。


 しかし、今の私は違った。

 神宮寺の無菌室のラボで、気が狂うほどの拷問を受けた記憶。

 皮膚を切り裂かれ、弾丸を打ち込まれ、骨を砕かれ、右目を潰された、あの無限の地獄。

 痛い。苦しい。怖い。


 私がこの男の顎を砕けば、この男も、あんな風に痛むのだろうか?

 骨が折れる激痛。肉が裂ける苦痛。

 それを、私が、この人に与える?

 私が、神宮寺と同じように、誰かにあの絶対的な『痛み』を強制する?


「あ……ぁっ……」


 私の喉から、震える悲鳴が漏れた。

 痛い。私が殴られるわけではないのに、相手の痛みが、まるで自分の身体にフィードバックされたかのように、私の脳髄を灼き焦がした。

 他者の痛みに対する『共感』。

 それは、感情を取り戻し、そして極限の痛みを知ってしまった私が抱え込んだ、殺し屋として最も致命的なバグだった。


「……ピュアさん!?」


 背後でロータスが驚愕の声を上げる。

 私の拳が寸前で止まったことに気づいた男が、ニヤリと残忍な笑みを浮かべた。


「なんだこの女、急に止まりやがったぞ! 殺せ!」


 男のジャケットの中から、黒光りする自動拳銃が抜き放たれた。

 銃口が、無防備な私の心臓へと真っ直ぐに向けられる。

 避けなければ。身体をずらして、反撃しなければ。

 頭ではわかっているのに、私の身体は金縛りに遭ったようにピクリとも動かなかった。


 人を壊すのが怖い。

 あの痛みを誰かに与えるのが、恐ろしい。

 私の手が、ブルブルと激しく震え、力なく下へと垂れ下がっていく。


「死ねェッ!」


 男の指が、トリガーを引き絞る。

 私の左目に、銃口の奥で撃鉄が落ちる光景が映った。

 死ぬ。

 そう思った、次の瞬間だった。


「ピュアさぁぁんッ!!」


 背後から、凄まじい勢いでロータスが飛び込んできた。

 彼は私に強烈なタックルをかまし、私の身体を抱え込むようにして、エントランスの横にある分厚い大理石の柱の陰へと転がり込んだ。


 ダァンッ!! ダァンッ!! ダァンッ!!


 連続する銃声。

 私たちが先ほどまで立っていた空間を、数発の9ミリ弾が虚しく通り過ぎ、エントランスのガラスを粉々に砕き散らした。


「ぐっ……!」


 大理石の床に激しく転がり、ロータスが苦悶の声を漏らす。

 彼は私の身体を庇うように下敷きになり、その背中を強打していた。

 痛覚のない私には、床に叩きつけられた衝撃も、彼が私を抱きしめている圧力もわからない。ただ、視覚情報として、私たちが柱の死角に逃げ込めたことだけが理解できた。


「ハァ……ハァ……っ! ピュアさん、無事ですか!?」


 ロータスが、顔を青ざめさせながら私の身体を素早く確認する。

 私は、柱の陰で膝を抱え込み、ガタガタと激しく震え続けていた。


「……痛い……こわい……っ、私が、壊したら……痛い……っ」


 私の口からこぼれるのは、完全に論理を失った、うわ言のような幼児のパニックだった。

 15歳の私が、相手の痛みへの共感と恐怖に完全に飲み込まれ、防衛本能によって精神がフリーズしてしまっていた。


「ピュアさん……! しっかりしてください!」


 ロータスが私の肩を揺さぶるが、私の目は焦点が合わず、ただ虚空を見つめて震えることしかできない。

 殺し屋としての機能は、完全に失われていた。

 私はもう、誰かを物理的に破壊することができない。感情のエンジンが、私に『他者を傷つけるな』という強烈なブレーキをかけているのだ。


「……チッ、逃げられたか。回り込め! あいつらが生きてるってことは、ここは天秤の拠点に間違いない!」


 柱の向こう側から、男たちの足音が複数、こちらへと迫ってくるのが聞こえた。

 彼らは油断なく銃を構え、私たちの隠れている柱を左右から挟み撃ちにしようと動いている。


「……くそっ」


 ロータスは、私の完全に塞ぎ込んでしまった姿を見て、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 彼は即座にジャケットのポケットから通信機を取り出し、緊急回線のボタンを押し込んだ。


「アドさん!! エントランスに敵の襲撃です! 5人、武装しています! ピュアさんが……ピュアさんが戦闘不能です!! 応援をお願いします!」


 ロータスの切羽詰まった報告に、通信機の向こうからアドの舌打ちが聞こえた。


『エントランスだと!? シンの部下はどうした! ……チッ、わかった、すぐに強襲班を向かわせる! それまで何とか持ち堪えろ、ロータス!』

「了解しました!」


 通信を切り、ロータスは深く、本当に深く息を吸い込んだ。

 そして、彼は自分の腰のホルスターから、私が彼に持たせていたグロック19を引き抜いた。


「……ピュアさん」


 ロータスは、震える私の前に片膝をつき、私の目を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、かつて私に怯えていた11歳の少年の面影はない。

 妹のため、そして私のために、地獄の訓練に耐え抜いてきた『天秤』のサポーターとしての覚悟が、青白い炎となって宿っていた。


「ここで、待っていてください」


 彼は、銃のチャージングハンドルをガシャリと引き、初弾を薬室に送り込んだ。


「俺が、ピュアさんを守ります」


 ロータスは立ち上がり、大理石の柱の陰から、迫り来る5人の武装した大人たちに向かって、躊躇うことなく銃口を向けた。


 私が彼を守るのではない。

 私の所有物であったはずの彼が、壊れてしまった私の盾となり、自らの手を血で染めようとしている。


「……れん……」


 私は、震える唇で彼の名前を呼んだ。

 だが、私の声は銃声にかき消され、彼に届くことはなかった。


 ダァァンッ!!


 ロータスの放った初弾が、エントランスの大理石の壁に激しく反響した。

 私の視界の端で、迫り来ていた男の一人が「ぐあッ!」と短い悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。ロータスの弾丸は、私が教え込んだ通りに、男の右太ももの大腿四頭筋を正確に撃ち抜いていた。殺すのではなく、物理的な機動力を奪うための完璧な制圧射撃だ。


「な、なんだこのガキ!?」

「撃て! 蜂の巣にしろ!!」


 残る4人の男たちがパニックから立ち直り、一斉にアサルトライフルと拳銃の銃口をロータスへと向ける。

 ロータスはすぐに柱の陰へと身体を引っ込め、銃弾の雨をやり過ごした。

 バラバラバラッ!! と、大理石の柱が削られ、粉塵が私たちの頭上に降り注ぐ。

 皮膚感覚が死滅している私には、破片が当たった痛みも、頬を掠める風圧もわからない。だが、ロータスは顔をしかめ、飛んできた破片から私を庇うようにして身を屈めていた。


「ハァ……ハァ……っ!」


 ロータスの呼吸は荒く、銃を握る両手は小刻みに震えている。

 11歳の彼にとって、実戦での銃撃戦はこれが初めてではないが、私が機能停止している以上、すべてのプレッシャーが彼の細い肩にのしかかっているのだ。


「……れん……逃げて……っ」


 私は、ガタガタと震える唇で、かすれた声を絞り出した。

 私がいるから、彼は逃げられない。私を見捨てて走れば、彼だけでも生存できる確率は上がる。

 だが、ロータスは私の方を振り返り、無理に笑みを作って見せた。


「逃げませんよ。俺は、ピュアさんの専属サポーターですから。……ピュアさんの手足として、俺が立ち塞がります」


 彼は再び銃を構え直し、柱の横から身を乗り出してトリガーを引いた。

 ダァンッ! ダァンッ!

 的確な牽制射撃。だが、相手はプロだ。多勢に無勢の状況で、一人の少年が長く持ち堪えられるはずがない。

 敵の銃弾がロータスの肩のすぐ横を掠め、彼が「くっ!」と呻き声を上げて後ずさった。

 距離が、詰められている。

 私の心が、恐怖と無力感で完全に押し潰されそうになった、その時だった。


「——そこを退け、ゴミ共!!」


 エントランスの奥、事務所の通路の方向から、地獄の底から響くような怒号が轟いた。

 アドだ。

 彼はスーツのジャケットを翻しながら歩み出て、両手に構えた大型の自動拳銃を一切の躊躇なく乱射した。


 ババンッ!! ババンッ!!


 圧倒的な火力の暴力。アドの放つ弾丸は、ロータスを追い詰めていた男たちの胴体を容赦なく穿った。

 そして、アドの背後から、小柄な人影が弾丸のように飛び出してきた。


「……ピュアに、触るなっ!」


 クォーツだ。

 彼女は無表情のまま、両手の二丁拳銃から正確無比な弾幕を張り巡らせた。

 タタタタンッ!!

 彼女の射撃は、私が教えたような『機動力を奪う』という手ぬるいものではない。眉間、心臓、頸動脈。即死を確定させる急所だけを、瞬きの間に撃ち抜いていく。

 男たちが悲鳴を上げる暇すらなく、次々と血飛沫を上げて大理石の床へと崩れ落ちていった。


 わずか10秒。

 アドとクォーツの合流により、状況は完全にひっくり返り、5人の襲撃者は1人残らず物理的な沈黙を与えられた。


「ピュア! ロータス! 無事か!」


 アドが硝煙の臭いを漂わせながら、私たちが隠れている柱の陰へと駆け寄ってきた。

 クォーツも血相を変えて私の傍らに膝をつき、私の身体をペタペタと触って怪我がないか確認している。


「あ、アドさん! クォーツさん! 助かりました……っ」


 ロータスが銃を下ろし、その場にヘナヘナと座り込んだ。

 私は、柱の陰で膝を抱えたまま、ただガタガタと震え続けていた。


「ピュア……」


 クォーツが心配そうに私を覗き込む。

 私は、彼女の目を見ることができなかった。私は『天秤』の最高戦力でありながら、ただの一発も銃を撃つことができず、ロータスに守られるだけの無力な置物に成り下がってしまったのだ。

 神宮寺の拷問が、私の精神の最も深い部分に『他者を壊すことへの恐怖』という致命的なエラーを植え付けてしまった。

 私はもう、完璧な殺し屋ではない。


「……怪我がねえならいい。立てるか、ピュア」


 アドは私の状態を深く追求することなく、短くそう言うと、倒れている襲撃者たちの死体へと歩み寄った。

 彼はしゃがみ込み、血まみれの死体の首元や腕の袖を乱暴に引きちぎって確認し始めた。


「……タトゥーは、どうですか?」


 ロータスが息を整えながら尋ねる。

 アドは無言のまま5人すべての死体を確認し、忌々しそうに舌打ちをして立ち上がった。


「ねえな。どこにも、あの塔のタトゥーは彫られていねえ。こいつらは、神宮寺の息がかかった薬物中毒の私兵じゃねえよ」

「えっ……? じゃあ、誰なんです?」


 ロータスの疑問に、アドは懐からタバコを取り出し、火をつけて深く吸い込んだ。


「こいつらの装備と動きのプロトコル……おそらく、俺たち『天秤』と同じ、裏社会で殺しと汚れ仕事を請け負う同業者の組織の連中だ」

「同業者……?」

「ああ。殺し屋の組織ってのは、どれか1つが一強となって暴走しないように、暗黙の了解で権力が分立されている。俺たち『天秤』も、他の組織と不可侵条約を結んで、それぞれのシノギの領域を棲み分けてきた」


 アドは紫煙を天井へと吐き出し、血まみれの死体を冷酷に見下ろした。


「だが、神宮寺誠一郎という男は、国家の中枢にいる権力者だ。莫大な資金と政治的な圧力を使い、他の殺し屋組織に『天秤の排除』を依頼したんだろう。神宮寺自身が手を下すまでもなく、裏社会のパワーバランスを利用して、俺たちを内側から孤立させようって腹だ」

「……なんて卑劣な」


 クォーツが忌々しげに呟き、二丁拳銃をホルスターに収めた。

 神宮寺の計算の高さに、私は再び絶望的なまでの実力差を見せつけられた気分だった。

 彼は私たちを物理的に破壊するだけでなく、私たちの居場所そのものを社会的なネットワークの力で完全に包囲し、潰しにかかっているのだ。


「……チッ。シンの部下たちがエントランスにいなかった理由も、これで合点がいく。おそらく、他の出入り口やダミー会社の方で陽動を仕掛けられ、そっちに人員を割かされたんだろう」


 アドはタバコを床に落とし、革靴で踏み躙った。


「この事務所は、もう使えねえ」


 その決定的な一言が、エントランスに重く響いた。


「え……事務所を、捨てるんですか?」

「ああ。神宮寺にここがバレているかは不確定だったが、他の組織の連中にここまで踏み込まれた以上、この場所の座標は完全に裏社会で共有されたと見るべきだ。ここに留まれば、次から次へと無限に刺客が送り込まれてくる。防衛戦で消耗するのは、神宮寺の思う壺だ」


 アドの判断は極めて合理的だった。

 拠点の防衛にリソースを割くことは、機動力を失うことを意味する。アリスを取り戻すための攻勢に出るためには、固定された本拠地を捨てるのが最適解だ。

 しかし待ってほしい。アリスは。


「現在、この事務所に残っているのは、俺、お前ら3人、そして奥の医務室にいるアリスと専属医だけだ。シンやニクスの部隊は外で動いている。……一旦、直ぐに東京を脱出するぞ」

「東京を脱出……!?」


 ロータスが驚きの声を上げる。


「ああ。神宮寺の包囲網が完成する前に、奴らの手の届かない地方まで退避し、そこで態勢を立て直す。……幸い、情報戦に必要なサーバーのデータは、俺とロータスでクラウドのセキュア領域にバックアップしてある。物理的な機材は最低限でいい」


 アドは素早く的確な指示を飛ばし始めた。


「クォーツ、お前は奥の医務室に戻り、専属医に緊急退避の準備をさせろ。アリスの生命維持に必要な代替薬と機材を最優先で確保しろ。ロータス、お前はサーバーの物理ドライブを完全に破壊し、データの痕跡を消去しろ。5分で終わらせろ」

「了解!」

「はいっ!」


 クォーツとロータスが、弾かれたように事務所の奥へと向かって駆け出していく。

 エントランスに残されたのは、アドと、まだ足の震えが止まらない私だけになった。


「……ピュア」


 アドが、私の前に歩み寄り、静かに声をかけた。

 私は彼と目を合わせることができなかった。私は戦えなかった。仲間を守るどころか、ロータスに守られ、ただ恐怖に震えていたのだ。


「……ごめんなさい、アド。私……」

「謝るな」


 アドは私の言葉を遮り、大きな手で私の頭をポンと軽く叩いた。

 感覚のない私には、その手の圧力も温もりもわからない。だが、彼が私を責めていないことだけは、視覚データと彼の声のトーンから正確に伝わってきた。


「痛みを恐れるのは、お前が人間になった証拠だ。今は無理をして銃を握る必要はねえ。お前の演算能力と知識は、戦わなくても十分に組織の役に立つ」

「……」

「それより、お前に1つ、頼みがある」


 アドが真剣な表情で私を見下ろした。


「脱出用の車両についてだ」


 アドの言葉に、私はハッとして顔を上げた。

 現在、アリスは絶対安静の状態で、しかも点滴による代替薬の投与が継続的に必要だ。普通の乗用車やバンで長距離を移動すれば、彼女のバイタルに致命的なエラーを引き起こしかねない。


「……アリスを運ぶためには、完全な居住空間と医療設備を稼働させるための電源が必要ね」

「ああ、その通りだ。俺たちの持っている偽装バンじゃ、設備が足りねえ」


 アドは少しだけ気まずそうに、頭を掻いた。


「だから……お前が買った、あのモーターホーム。あれを脱出用の母艦として使用させてくれねえか」


 モーターホーム。

 私が外界での完璧な移動拠点として購入した、全長12メートルの巨大な『動く要塞』だ。

 防弾ガラス、大容量のバッテリー、フルオーダーの居住空間。確かに、アリスを安全に運び、かつ専属医が治療を継続するための移動隔離室としては、これ以上ない物理的ソリューションだった。


「……私がアリスたちのために用意した機材よ。彼女の生存確率を最大化するために使用することに、私が反対する合理的な理由は1ミリも存在しないわ」

「助かるぜ、ピュア」


 アドが安堵の息を漏らす。


「あの馬鹿デカい車を運転できるのは、大型免許を持ってるロータスだけだ。あいつに運転を任せ、俺とクォーツ、専属医でアリスのケアと車内の防衛を行う」

「……わかったわ」


 アドの計算は完璧だった。

 私はゆっくりと立ち上がり、震えの収まらない足を視覚情報で補正しながら、必死に自立のバランスを取った。


「ロータスには私が指示を出す。……どこへ向かうの?」

「北だ。神宮寺の息がかかっていない、俺の昔のツテがある山奥のセーフハウスへ向かう。そこでアリスの容態を安定させ、神宮寺の研究所を強襲するための最終計画を練り直す」


 アドの目には、決して諦めないという強靭な意志が燃えていた。


 対する私の心はまだ、恐怖と無力感でぐちゃぐちゃだった。

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