第二話「世界との繋がりの剥奪」
深い暗闇の底から、泡が浮上するように意識が戻ってくる。 まぶたを重くこじ開ける。しかし、世界は半分しか光を取り込んでくれなかった。
右の視界は完全な漆黒。残された左の視界だけで捉えたのは、高く無機質な白い天井と、一定のリズムで点滅する生体モニターの微かな光だった。
ここは、霞ヶ関の事務所の地下にある医務室のようだ。 かすかに聞こえる空気清浄機の稼働音。消毒液の匂い。私の嗅覚はまだ機能しているらしい。
身体を動かそうとしたが、鉛のように重く、思うように力が入らない。
「……」
声を出そうとしたが、掠れた空気の音が漏れただけだった。
「……ピュア、さん……?」
すぐ傍から、ひどく掠れた、震える声が聞こえた。 左目だけでそちらへと視線を動かすと、パイプ椅子に座り込んだまま、ベッドの縁に突っ伏している蓮の姿があった。
彼は目の下に酷い隈を作り、頬はこけ、まるで何日も眠っていないような憔悴しきった顔で私を見つめていた。私のわずかな呼吸の変化を察知して、跳ね起きたのだろう。
「ピュアさん……! わかる、わかりますか……!?」
蓮がベッドに身を乗り出し、泣き出しそうな声で私に呼びかける。 彼の瞳には、期待と、それ以上の深い『恐怖』が渦巻いていた。
無理もない。彼が最後に見た私は、敵の地下駐車場にゴミのように捨てられ、精神が完全に崩壊し、排泄物に塗れた肉の塊だったのだから。
彼が恐れているのは、私が再び『5歳の純玲』に退行してしまっていること、あるいは、二度と意思疎通ができない廃人になってしまっていることだろう。
「……蓮」
私は、カラカラに乾いた喉を震わせ、掠れた声で彼の名前を呼んだ。
「……私が、どれだけの時間、システムをシャットダウンしていたのか……正確な数値を教えてちょうだい」 「あ……」
その論理的で、しかし確かな意思を持った私の言葉に、蓮は息を呑んだ。
「およそ、2ヶ月です。……あの日、俺とアドさんがピュアさんをあの地下駐車場で保護してから、ずっと……ピュアさんは、深い眠りについたままでした……」
「2ヶ月……。そう、随分と長いデフラグメンテーションに時間を費やしてしまったわね。私の細胞の修復には、それだけの物理的な時間が必要だったということかしら」
私が冷静に、かつての『ピュア』としての思考回路で言葉を紡ぐと、蓮の両目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「ピュアさん……っ! ピュアさぁぁんっ……!!」
蓮はベッドの柵に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。
「よ、よかった……! また、5歳のピュアさんに……戻っちゃったんじゃないかって……もう目を覚さないんじゃ無いかって……! 何も、わからなくなっちゃったんじゃないかって、俺……俺……っ!!」
「……泣かないで。視界がぼやけて、状況確認のタスクに支障が出るわよ。……それに、私はもう、あの過去のデータに逃げ込んだりはしないわ」
私は、ゆっくりと、ベッドの上に横たわったまま、自分の内側をスキャンした。 神宮寺の研究所で受けた、あの無限の地獄。
肉を切り裂かれ、骨を砕かれ、右目を物理的に潰された絶対的な苦痛。
感情を捨てて機械になれという、あの悪魔の囁き。
だが、私の中には、確かに『感情』が残っていた。 アリスの向日葵のような笑顔。 蓮の作ってくれたオムライスの味。
タイガーの漢気と、クォーツの差し出してくれたキャンディの甘さ。
それらを愛おしいと思う気持ち、彼らを失いたくないと願う心は、あの極限の拷問の中でも、決して焼き切れることなく私のコアに刻み込まれたままだった。
「……よかった」
私の左目から、温かい液体がツーッと頬を伝い落ちた。
「私、心を守れたのね……。機械になんて、戻らなかった。アリスたちのことを、大好きなまま……ここに、帰ってこられたわ……」
私が涙を流して安堵の声を漏らすと、蓮は何度も何度も力強く頷いた。
蓮は、泣き顔のまま私の右手を両手でそっと包み込み、自分の額に押し当てた。 彼が、私の無事を心の底から喜び、祈るように私の手を握りしめている。
その光景は、私の視覚データとして完璧に左目に映し出されていた。
——だが。 私の脳内アルゴリズムが、即座に一つの致命的な『エラー』を吐き出した。
「……え?」
私は、自分の右手を見つめた。 蓮の両手が、私の右手をしっかりと握りしめている。彼の指の食い込む様子から、かなりの圧力がかかっているはずだ。
そして、彼の手からは、生きている人間の温かい体温が伝わってくるはずだった。
かつて、私が散弾を浴びて処置台に横たわっていた時、アリスが私の手を握ってくれた時のように。
私の凍てついた心を溶かしてくれた、あの心地よい熱。
なのに。 私の脳には、その『圧力』も、『温度』も、一切の信号として受信されていなかった。
「……蓮。私の手を、握っているのよね?」
「えっ? は、はい。すみません、俺、つい嬉しくて……」
蓮が慌てて手を離そうとしたので、私は掠れた声でそれを制止した。
「離さないで。……もう少し、強く握ってみてちょうだい」
「え……?」
「いいから。もっと強く、骨が軋むくらいに」
私のただならぬ気配に、蓮は戸惑いながらも、言われた通りに両手で私の右手を強く握りしめた。 視覚的には、私の指先が圧迫され、微かに白くなっているのがわかる。
だが、やはり何も感じない。 ゼロだ。完全な無(Null)。
「……左手は、どうかしら」
私は、拘束されていない左手をシーツの上で動かそうとしたが、指先がピクリと反応しただけで、シーツの柔らかな感触すら脳に伝わってこないことに気がついた。
足の先から、頭のてっぺんまで。
まるで、私の意識だけが宙に浮いて、自分という肉体の外側からモニター越しに映像を見ているかのような、圧倒的な乖離感。
フラッシュバックする、神宮寺の冷酷な声。
『あまりの激痛と恐怖の連続入力によって、お前の末梢神経から中枢神経へと至る知覚回路そのものが、物理的に焼き切れてしまったようだな』
「……っ」
私の呼吸が、浅く、不規則に乱れ始めた。
「ピュアさん? どうしたんですか? 顔色が……っ」
「……皮膚感覚が」
私は、震える唇から、絶望的な演算結果を出力した。
「私の、痛覚と、皮膚感覚が……完全に、死んでいるわ……」
「え……?」
「あなたが私の手を握っていることは、視覚データとして認識できる。でも……あなたの手の温もりも、握られている圧力も、私の脳には1ミリも伝わってこないのよ」
蓮が、息を呑んで硬直した。
私は機械に戻らないために、必死に感情を守り抜いた。 心を殺さず、人間であり続けることを選択した。
だが、その代償として、私の肉体はあの極限の苦痛をシャットダウンするため、自己防衛機能の暴走によって、感覚を受信するインターフェースそのものを物理的に破壊してしまっていたのだ。
「うそだ……」
蓮が、震える手で私の腕や肩にそっと触れる。 だが、彼がどこに触れても、私には一切の触覚がフィードバックされない。 熱いも、冷たいも、痛いも、心地よいも。
世界と私を繋ぐ、最も原始的で、最も確かな物理的センサーが、永遠に失われてしまった。
「あ……ぁぁ……」
私の左目から、再び涙がとめどなく溢れ出した。 先ほどの安堵の涙ではない。それは、取り返しのつかない喪失感に対する、絶望の涙だった。
私は、誰かに愛されたかった。 人の温もりを感じたかった。 アリスが抱きしめてくれた時の、あの温かさ。 蓮が手を握ってくれた時の、あの安心感。
私が外界に出て、ようやく手に入れた『人間らしさ』の象徴。 それを感じるための器が、こなごなに壊れてしまったのだ。
「そんな……。いくら感情が残っていても……私はもう、あなたたちの温もりを、二度と感じることができないの……?」
私の悲痛な問いかけに、蓮は答えることができず、ただ私の感覚のない手を両手で包み込み、自分の額に押し当てて声を上げて泣き崩れた。
彼の涙が私の手の甲に落ちていることは、視界の映像でしか認識できない。
その温かい水滴の熱すら、今の私には永遠に届かない。
「アァァァァッ……!!」
私は、感覚のない身体をベッドに沈めたまま、残された左の瞳から血の滲むような涙を流し、絶望の底で声を枯らして泣き叫んだ。
心は守れた。だが、世界は私から、人間として生きるための最も大切な『温もり』を、残酷に奪い去ってしまったのだ。
私の絶叫が、無機質な白い天井に吸い込まれ、やがて掠れた嗚咽へと変わっていく。
蓮は、感覚の消え失せた私の手を両手で包み込み、ただひたすらに涙をこぼし続けていた。彼の温もりを感じられないという物理的事実が、私の脳に『絶対的な喪失』というエラーコードを何度も何度も叩きつけてくる。
外界に出て、私がようやく理解し、愛おしいと思った人間の温度。
それはもう、二度と私の脳で処理されることはない。私という有機体は、外界との最も重要なインターフェースを永遠に切断されてしまったのだ。
どれくらいの時間が経過しただろうか。 私が枯れ果てた涙の跡を残し、ただ虚ろな左目で虚空を見つめ続けていた時だった。
ガチャリ、と。 医務室の重厚な扉が開く音が、静寂を切り裂いた。
「……ピュア!!」
弾かれたように飛び込んできたのは、息を切らしたアドだった。
その背後には、小柄なクォーツがぴったりと寄り添うように立っている。彼女の大きな瞳は、ベッドの上で上体を起こしている私を見た瞬間、信じられないものを見るように見開かれた。
「アドさん……クォーツさん……」
蓮が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、掠れた声で二人を呼ぶ。 アドは足早にベッドの傍らまで歩み寄り、私の姿を上から下までスキャンするように見下ろした。
右目のソケットを覆う痛々しい眼帯。全身に巻かれた無数の包帯。そして、生気を失った私の左目。
普段はどんな絶望的な状況でも不敵な笑みを崩さない彼が、今ばかりはギリッと強く奥歯を噛み締め、深い皺を眉間に刻んでいた。
「……目が覚めたか、ピュア。よく、帰ってきたな」
アドの低く、しかし微かに震える声が鼓膜を打つ。 私は、焦点の定まらない左目を彼に向け、乾いた唇をゆっくりと動かした。
「……ええ。システムは完全に再起動したわ。過去のトラウマデータも完全にデフラグされて、私の『感情』は、もう二度とバグを起こすことはない。……ただ、代償としてハードウェアの幾つかの機能が、物理的に破損してしまったけれど」
私が一切の抑揚のない、冷徹なかつての『ピュア』のトーンで状況を報告すると、アドは痛ましそうに目を伏せた。
クォーツが、おずおずとベッドの足元へと近づいてくる。
彼女は、私の痛々しい姿を見て、小さな両手を胸の前でギュッと握りしめていた。
「ピュア……」
「クォーツ、アド。あの強襲作戦の終盤で、私の身に何が起きたのか。……データを共有しておくわ」
私は、自らの身に起きたあの無限の地獄を、まるで他人の記録映像を読み上げるかのように、淡々と、そして克明に言語化していった。
神宮寺誠一郎という男が、私の伯父であり、私の過去を実験動物として弄んでいた設計者であること。
アリスとタイガーの体内に自律型のマイクロ爆弾が仕掛けられており、抵抗を放棄せざるを得なかったこと。
そして、あの無菌室のラボで受けた、数ヶ月にも及ぶと感じられた極限の拷問のプロセス。
痛覚を数千倍に増幅させる未知の薬液。メスで肉を切り裂かれ、銃弾を撃ち込まれ、気絶と覚醒を強制的に繰り返された無限のループ。
感情を殺せという悪魔の囁きに抗い続けた結果、自己防衛機能が暴走し、末梢神経から中枢神経に至る知覚回路が完全に焼き切れてしまったこと。
そして最後に、脳の処理リソースを最適化するという非合理的な理由で、生きたまま右目を物理的に潰されたという事実。
「……私の皮膚感覚と痛覚は、完全に死滅したわ。あなたが今、私の足に触れたとしても、私にはその感覚を受信することができない。私は、世界の温度を失ったのよ」
私がすべての報告を終えると、医務室は凍りつくような静寂に包まれた。
「……ッ、ぁ……あぁ……っ!」
その静寂を破ったのは、クォーツの悲痛な嗚咽だった。 彼女はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って声を上げて泣き始めた。
あの時、私がアリスを逃がしたことで、私がどれほどの絶望と苦痛を一人で引き受けることになったのか。彼女は私の語った事実の質量に押し潰され、ただ子供のように泣きじゃくることしかできなかったのだ。
「ごめん……ごめんなさい……っ! 私が、弱かったから……ピュアを、一人にして……っ!」
「謝る必要はないわ、クォーツ。あの作戦では、組織の生存確率を最大化するための唯一の最適解だった。私の選択よ」
私が冷徹に事実を告げても、彼女の涙が止まることはなかった。
アドは、何も言わなかった。 ただ深く、本当に深くうなだれ、大きな両手で自分の顔を覆っていた。
自らの組織の最高戦力であり、人間らしさを取り戻したばかりの少女が、これほどまでに無惨に破壊され、感覚すら失ってしまったという事実。
裏社会の酸いも甘いも噛み分けてきたはずの彼でさえ、神宮寺誠一郎の底知れぬ狂気と悪意の前には、言葉を失うしかなかったのだ。
「……すまねえ、ピュア。俺が……俺の指揮が甘かったばかりに……お前に、こんな地獄を……」
アドの掠れた声は、懺悔のような重さを持っていた。
「あなたたちに謝罪を要求したつもりはないわ。これはただの現状報告よ」
私は、感覚のない自分の右手を視界の端に収めながら、冷たく言い放った。
「それよりも、アド。私がシステムをシャットダウンしている間、外界で何があったのか。情報をアップデートしてちょうだい」
「……あぁ」
アドは顔を上げ、無理やりいつもの冷徹な管理者の顔を作ったが、その瞳の奥には隠しきれない疲労と絶望の色が濃く沈んでいた。
「お前が神宮寺の連中に地下駐車場に捨てられてから、俺たちはすぐにお前を回収した。だが、それ以降……事態は最悪の方向へ転がり落ちた」
アドは、重い口を開き、私が不在の間に起きた出来事を語り始めた。
「まず、タイガーのことだ」
その名前が出た瞬間、私の胸の奥がギリッと軋んだ。
あの時、私の目の前で、心臓の爆薬を起爆させられて肉片に変わった、虎柄のスカジャンの男。私にバイクの風の心地よさを教えてくれた、豪快で優しい私の仲間。
「……あいつの遺体は、シンの部隊がどうにか回収した。バラバラになった身体を繋ぎ合わせて、俺たちだけで火葬して、静かに弔ったよ。あいつは最期まで、この組織の盾として立派に逝きやがった」
「……そう」
私は左目を伏せ、短く答えた。
私の身勝手な優先順位のせいで見殺しにしてしまった彼の最期を思い出し、再び処理しきれない感情のエラーが溢れそうになるのを、必死に論理回路で抑え込んだ。
「そして、神宮寺の組織の動きだが……あの夜を境に、連中の活動は嘘のように完全に沈黙した」
「沈黙?あれほど大規模に展開していた私兵や、未知の薬物の流通ルートが?」
「ああ。都内のダミー組織も、エデン計画に関連する施設も、もぬけの殻だ。ロータスが血眼になってネットワークを追跡したが、神宮寺誠一郎につながる一切のデータが、物理空間からも情報空間からも完全に消去されている。まるで最初から存在しなかったかのようにな」
私は眉をひそめた。 神宮寺がこれほどあっさりと姿を消すとは、計算外だった。
彼は私を『最高傑作』と呼び、私のデータに執着していたはずだ。それが、なぜ私を廃人(と彼には見えただろうが)として送り返し、自らの組織ごと姿を眩ませたのか。
目的を達成したから? いや、彼が求めていた『感情を殺した完璧な機械』の完成には至っていない。 ならば、これは次なるフェーズへの移行の準備期間か。
「手がかりがない以上、俺たちは動くことができなかった。神宮寺の影を追いながらも、お前を探すこともできず、組織の維持のために、以前のようなただの『殺し屋』としての汚れ仕事をこなす日々が続いている。……お前という最高戦力と、アリスを欠いた状態でな」
アドの言葉は、現状の完全な手詰まりを意味していた。
「……待って、アド」
私は、彼の言葉の中にある決定的な情報に反応し、上体をわずかに前に乗り出した。
「今、アリスを欠いた状態と言ったわね。アリスは……アリスは回収できなかったの? 彼女はあの男に連れ去られたままなの!?」
私が語気を強めて尋ねると、アドは再び深く目を伏せ、隣の蓮もビクッと肩を震わせて俯いた。
クォーツに至っては、両手で顔を覆ったまま、さらに激しく泣き崩れてしまった。
その異様な反応に、私の脳内の警報システムがけたたましく鳴り響いた。
「答えなさい、アド! アリスはどうなったの!?」
「……アリスは、回収できた」
アドが、絞り出すような声で答えた。
「回収は、できた。アリスとタイガーの奪還作戦の日、神宮寺の手下であろう男が、まるでゴミのように投げ捨てていきやがった」
「なら! 彼女はどこにいるの!?無事なの!?」
「……生きてはいる」
アドのその言葉には、一切の希望が含まれていなかった。
生きてはいる。だが、それ以上の言葉を、彼はひどく言い淀んでいた。
「……ピュア。聞け」
アドは、私を真っ直ぐに見据え、残酷な事実を宣告した。
「アリスの身に起きたことは……お前が受けた拷問すら生ぬるく感じるほどの、最悪の事態だ」
「……え?」
「神宮寺の野郎は、お前の精神を壊すためだけにアリスを連れ去ったわけじゃなかった。奴は、アリスという特異体質——感情の爆発でリミッターを外す極上のモルモットを、自らの『エデン計画』の新たな実験体として利用したんだ」
アドの拳が、骨の白さが浮き出るほど強く握りしめられていた。
「詳しいことは、ここでは言えねえ。……あまりにも、残酷すぎる。俺でさえ直視できなかった。今のあいつは、お前の知っている『アリス』じゃねえ。ただの……」
アドは言葉を切り、深く息を吐いた。
「あいつは今、この施設の最も奥にある、特別隔離室に入院している。専属医が24時間体制で生命維持を行っているが、以前のようなアリスに戻る見込みは……絶望的だ」
その報告は、私の脳髄を物理的なハンマーで粉砕するほどの衝撃を与えた。
アリスが。私の太陽が。
私を救うために自らの肉体を壊し、私の身代わりとなって連れ去られた彼女が、そんな最悪の状態で放置されているというのか。
「……会うわ」
私は、感覚のない両腕でベッドの柵を掴み、無理やり身体を動かそうとした。
「今すぐ、アリスに会わせて。私がこの目で彼女の状態をスキャンし、必要な物理的処置を計算するわ」 「やめとけ、ピュア」
アドが、冷たく、しかし強い力で私の肩を押さえつけた。
触覚がないため、彼がどれほどの力で私を押さえ込んでいるのかは視覚でしか判断できないが、私が起き上がることを全力で拒絶していることだけは理解できた。
「お前はまだ、目を覚ましたばかりだ。それに、今のあいつの姿を見れば……お前のようやく統合された精神が、今度こそ完全に崩壊するかもしれねえ。それほどまでに、あいつの状態は酷い」
「私の精神の心配など不要よ」
私はアドの手を振り払おうとしたが、筋力が低下しており、ピクリとも動かなかった。
「私は感情を取り戻したわ。でも、それは弱くなったという意味じゃない。アリスがどんな状態であろうと、彼女は私の大切な仲間よ。私が彼女から目を背ける合理的な理由がどこにあるの!」
「……後悔するぞ」
アドが、執拗に、そして悲痛な声で忠告する。
「お前が求めている『アリス』は、もうあの部屋にはいねえんだ。あの姿を見て、お前は本当に正気を保てるのか?今のお前には、皮膚の感覚も痛覚もねえ。あいつに触れてやることすらできねえんだぞ」
「……っ!」
その言葉は、私の失われた感覚という物理的欠損を、最も残酷な形で突き刺してきた。
アリスがどれほど傷ついていても、私はその傷の痛みに寄り添うことも、彼女の冷たくなった手を握って温めてあげることもできないのだ。
私は、ただ見ていることしかできない、冷たいレンズを持った機械と同じ。
だが。
「……それでも」
私は、残された左目に確かな意志の光を宿し、アドを真っ直ぐに睨み返した。
「それでも、私は彼女に会うわ。私が彼女を見捨てる確率は、ゼロよ」
私の譲らない意志を感じ取り、アドはしばらくの間、私と無言で視線を交え合わせていた。
やがて、彼は深くため息を吐き、私を押さえつけていた手を離した。
「……わかった。だが、絶対に無理はするな。ロータス、車椅子を用意しろ。隔離室へ案内する」
「は、はいっ」
ロータスが涙を拭いながら立ち上がり、部屋の隅にあった車椅子をベッドの横へと運んできた。
アドとロータスの手を借りて、私は感覚のない身体を無理やり車椅子へと移動させる。感覚の無い身体では、二本足で立つことすらままならないらしい。
クォーツは立ち上がれず、ただ床にうずくまって泣き続けていた。彼女には、再びあの残酷な現実を直視するだけの精神的余裕が残されていないのだろう。
私は車椅子に座り、ロータスに押されながら、冷たく無機質な地下の廊下を進んでいった。
車輪が回る微かな音だけが、耳鳴りのように響いている。
アリス。私の光。私に感情を教えてくれた人。 あなたがどんな姿になっていようと、私は絶対にあなたから目を逸らさない。
私は、コートのポケットに入っているはずの架空の銃のグリップを握りしめるように、感覚のない手をギュッと強く握りしめた。
重厚な金属の扉の前に、私たちは到着した。
特別隔離室。その名前が示す通り、ここは本来、重度の感染症患者や、精神に異常をきたし暴走の危険がある者を収容するための、物理的にも隔離された無菌空間だ。
「……開けるぞ」
アドが、壁の認証パネルにIDカードをかざし、暗証番号を打ち込んだ。
プシュゥゥゥ、という空気の抜ける音が密閉空間に響き、分厚い扉がゆっくりと左右にスライドしていく。
私の脳内で、超高速のシミュレーションが駆け巡っていた。
アドが「最悪の状態だ」と断言したアリスの姿。
四肢を物理的に切断されているのか。それとも、脳を直接破壊され、チューブに繋がれたまま自発呼吸すらできない植物状態になっているのか。
どんな無惨な姿であったとしても、私は絶対に目を逸らさない。私の論理回路は、あらゆる絶望的な視覚データを受容するための極限の準備を整えていた。
だが。
扉が完全に開ききり、私の残された左目が室内の光景を捉えた瞬間。
私の構築していた最悪の計算式は、見事に裏切られることとなった。
「……え?」
隔離室の中央に設置された、白いシーツのベッド。
そこに、上体を起こして座っている人影があった。
腕には何本もの点滴の管が繋がれ、顔色は抜けるように蒼白だったが、彼女は確かに自力で身体を起こし、手元の文庫本に視線を落としていた。
赤いメッシュの入った、見慣れた黒髪。
アリスだ。
彼女は、生きている。起き上がっている。四肢も欠損していない。
扉が開いた重低音に気づき、アリスがゆっくりと顔を上げた。
彼女の視線が、車椅子に乗った私の姿を捉える。
「……ピュア、ちゃん……?」
アリスの口から、掠れた、信じられないものを見るような声がこぼれた。
その直後、彼女の大きな瞳が、驚愕と絶望に極限まで見開かれた。
無理もない。今の私の姿は、彼女が知っている無傷で完璧な殺し屋の『ピュア』ではないのだ。
右目のソケットを覆う痛々しい眼帯。全身をぐるぐると巻かれた無数の包帯。そして、自力で歩くことすらできず、ロータスに車椅子を押されている無惨な敗残兵の姿。
「ピュアちゃん……っ、ピュアちゃん……!!」
アリスは、手元の本を床に放り出し、ベッドから転げ落ちるようにして立ち上がった。
点滴のスタンドがガシャリと音を立てて揺れる。彼女は管を引きずるのも構わず、フラフラとした覚束ない足取りで、私のもとへと駆け寄ってきた。
「アリス……っ、走ってはダメよ、点滴が……」
私がかすれた声で静止するよりも早く、アリスは私の車椅子の前に崩れ落ちるように膝をつき、私の身体を力強く抱きしめた。
「あぁぁっ……ピュアちゃん……っ! ごめん、ごめんね……っ! 私のせいで……私が弱かったから、ピュアちゃんをこんな目に……っ!!」
アリスは私の肩に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
彼女の目から溢れる大粒の涙が、私の包帯越しの肩を濡らしていく。
私は、彼女の泣き声を聞きながら、胸の奥底から込み上げてくる強烈な『安堵』の感情に包まれていた。
彼女は生きている。
話すことも、歩くこともできる。私を認識し、私のために涙を流してくれている。
アドの言っていた「絶望的だ」という評価は、明らかにデータの誇張だ。確かに顔色は悪く、肉体的なダメージは残っているようだが、彼女の『アリスとしての自我』は完全に保たれているではないか。
「……泣かないで、アリス。あなたが無事な姿を確認できただけで、私の精神衛生上のエラーは完全に修復されたわ。……生きていてくれて、ありがとう」
私は、車椅子の肘掛けから左手を離し、彼女の背中を抱きしめ返そうとした。
——だが。 私の腕が彼女の背中に回された瞬間、私の脳内に、再びあの冷たく残酷な『虚無』が絶対的なエラーとして突きつけられた。
「……っ」
視覚データは、間違いなく私がアリスを抱きしめていると証明している。
彼女の肩が震える様子も、彼女の涙が私の服に染み込んでいるのも、私の左目にはっきりと映っている。
なのに。
私の脳には、彼女の温もりが、1ミリも伝わってこない。
彼女が私をどれほどの力で抱きしめているのか、その圧力すら感知できない。 まるで、ホログラムの映像に触れているかのような、完全な無(Null)。
『私の痛覚と皮膚感覚は、完全に死滅したわ。私は、世界の温度を失ったのよ』
数十分前、私がアドたちに告げた冷徹な事実。
それが今、アリスという私の最も愛する存在との接触において、これほどまでに残酷な物理的欠損として私に襲いかかってきたのだ。
「あ……ぁ……」
私の左目から、せき止めていたはずの涙が再びボロボロとこぼれ落ちた。
温かい。彼女はきっと、とても温かいはずなのだ。
あの日、私の手を握って安心させてくれた、あの向日葵のような温度が、ここにあるはずなのに。
私の壊れたセンサーは、それを永遠に受信してはくれない。
「ピュアちゃん……? 痛い? ごめん、私、強く抱きしめすぎた……?」
私の涙に気づいたアリスが、慌てて身体を離し、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「違うの……違うのよ、アリス……っ」
私は、感覚のない両手で彼女の腕を掴み、しゃくり上げながら首を横に振った。
「私は……あなたに抱きしめられているのに……あなたの温もりが、わからないの……っ。私が壊れてしまったせいで……あなたの温度を、もう二度と、感じられないのよ……っ!」
「……え?」
アリスが、息を呑んで硬直した。 私の背後で車椅子を押していたロータスが、堪えきれずに嗚咽を漏らす。
私が神宮寺の拷問によって皮膚感覚を喪失したという事実を、アリスは今、初めて知ったのだ。
「そんな……嘘、でしょ……?」
アリスの震える手が、私の頬の包帯にそっと触れる。 私は、彼女の手がそこにあることを視覚で確認しながら、ただ涙を流し続けることしかできなかった。
「私のせいで……。ピュアちゃんから、そんな大切なものまで、奪っちゃったの……?」
「あなたを責めているわけじゃないわ。私が弱かったからよ。……でも、あなたがこうして無事に生きてくれているなら、私の感覚の1つや2つ、安い代償だわ」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、無理やり口角を上げて笑ってみせた。
「アドは、あなたが最悪の状態だと言ったわ。でも、私の計算式では、あなたの現在のバイタルは十分に復帰のラインを満たしている。……ねえ、アド」
私は、背後に立つアドに向かって、冷たい視線を向けた。
「どこが絶望的なの?
彼女は歩けるし、意識も正常よ。これなら、適切な栄養とリハビリを施せば、数ヶ月で元の『アリス』として前線に復帰できるはずでしょう。あなたの報告は、明らかに過大評価だったわ」
私が論理的にアドを追及すると、アドは深く目を伏せ、ポケットの中で拳を強く握りしめた。 彼が何かを言い淀んでいる。
その沈黙が、私の脳内の危険予測システムを不気味に刺激し始めた。
「アド、答えなさい。彼女のどこが……」
「……ピュアちゃん。アドを責めないで」
私の言葉を遮ったのは、他ならぬアリス自身だった。 彼女は、私の車椅子の前に膝をついたまま、ポロポロと涙を流し、力なく首を振った。
「アドの言ったことは……嘘じゃないの。私はもう、二度と……あの頃の私には戻れない」
「どういうこと? 肉体的な後遺症が残っているの?
なら、組織の力で最高の義肢技術でも……」
「違うの、ピュアちゃん。怪我の問題じゃないの」
アリスは、震える手で、自分の腕に繋がれた点滴の管を指差した。
透明なチューブの中を、微かに蛍光グリーンを帯びた、不気味な液体が流れている。
「……私、神宮寺の研究所で……あのバベルの連中と、同じにされちゃったんだ」
その言葉が意味する物理的データが、私の脳内で恐ろしい速度で演算されていく。
バベルの連中と同じ。 それはつまり。
「……未知の合成薬物による、生体ハッキング……」
私が戦慄と共に呟くと、アリスは悲痛な顔で頷いた。
「神宮寺は、私が感情の爆発でリミッターを外せる特異体質だと知って、私を『エデン計画』の新しい実験体にしたの。……私の脳の報酬系と痛覚レセプターを完全に書き換える、あの恐ろしい薬を……致死量ギリギリまで、何度も何度も投与された」
「……っ!」
「私はもう、この薬がないと……生きていけないの」
アリスの口から告げられた残酷な真実は、私の論理回路を根底から叩き割るほどの衝撃だった。
「定期的にこの薬を投与されないと……全身の骨が内側から砕かれるような激痛が走って、幻覚が見えて、発狂して……最後はショック死する身体に、作り変えられてしまったのよ」
彼女の目から、絶望の涙がとめどなくこぼれ落ちる。
「アドたちが私を回収してくれた時、私はもう禁断症状で発狂寸前だった。……専属医の先生が、敵のアジトから押収した薬を解析して、なんとか命を繋ぐための代替薬を合成してくれたおかげで……今、こうして理性を保っていられるだけなの」
「そんな……」
「でも、先生が作ってくれた薬も、あくまで一時凌ぎの対症療法でしかない。根本的な治療法はわからないし……この薬を打ち続ければ、私の内臓は確実にボロボロになっていく。……私はもう、薬物なしでは呼吸すらできない、壊れた人形になっちゃったのよ……っ!」
アリスは、自らの身体を抱きしめるようにして、床に突っ伏して泣き崩れた。
ロータスが「アリスさん……っ」と声を詰まらせる。
「ごめんねっ…ピュアちゃんだって辛いのにっ……私のせいでピュアちゃんが酷い目にあったのにっ……私が泣いていい理由なんて無いのにっ…」
私は、完全に言葉を失っていた。
アドが『絶望的だ』と言った理由。それは、アリスの命が、神宮寺の作り出した薬物という物理的な鎖によって、完全に支配されてしまったということだったのだ。
神宮寺誠一郎。
あの男は、私だけでなく、アリスの尊厳すらも完全に蹂躙し、彼女を薬物中毒の奴隷へと貶めた。
彼がアリスたちを『ゴミのように投げ捨てた』理由も、これで完全に辻褄が合う。
彼はアリスを殺さなかった。ただ、薬物なしでは生きられない身体に改造し、わざと『天秤』の元へ送り返したのだ。
私がアリスの苦しむ姿を見て絶望するのを、遠くから嘲笑うために。
私は、床で泣き崩れるアリスの頭に、感覚のない手をそっと乗せた。
しかしかけるべき言葉を見つけられず、ただアリスが泣き止むまで、その頭を撫でることしかできなかった。
私の手のひらには、彼女の髪の柔らかさも、伝わってくるはずの体温も、一切の物理的データとして受信されない。ただ、私の視覚だけが、彼女の赤いメッシュの入った黒髪が私の手の重みで微かに沈み込み、彼女の細い肩が震えている事実を認識していた。
私がどんなに言葉を尽くしても、どんなに論理的な慰めを構築しても、彼女の流す涙を根本から止めることはできない。
彼女の肉体は、未知の合成薬物という絶対的な化学物質の支配下に置かれているのだ。私の貧弱な語彙力よりも、彼女の脳内で暴走を待つ神経伝達物質の渇望の方が、はるかに強大で圧倒的だった。
だから私は、ただ黙って、彼女が泣き疲れるまでその頭を撫でるという、不器用で非合理的な動作を繰り返すことしかできなかった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
私の左目が、アリスの身体に起き始めた微細な『異変』をスキャンした。
「……ぁ……っ、う……」
私の足元で泣きじゃくっていたアリスの嗚咽が、不意に、奇妙な音へと変質した。
ヒューッ、ヒューッ、という、気道が極端に狭窄したような引き攣った呼吸音。
彼女の肩の震えが、悲しみによる小刻みなものから、筋肉の制御を失った大きな痙攣へと変わっていく。
「アリス……?」
私が呼びかけると、アリスはビクンと身体を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、私の脳内の危険予測システムがけたたましいアラートを鳴らし始めた。
彼女の顔色は、先ほどの蒼白な状態から、さらに血の気を失い、土気色に変色していた。
額や首筋からは、尋常ではない量の脂汗が滝のように噴き出している。
そして何より異様なのは、彼女の瞳だった。
大きな瞳の瞳孔が、照明の明るさに逆らって極限まで散大し、黒目の部分が異常に拡大している。焦点は全く合っておらず、私の顔を見ているようでいて、その実、虚空の彼方にある『何か』を必死に探しているような、完全に破綻した視線だった。
「ぁ……あぁッ……あ、あつい……っ、ちがう、さむい……っ、あァァッ……!」
アリスの口から、意味を成さない言葉の断片がこぼれ落ちる。
彼女の全身の筋肉が、まるで目に見えない高圧電流を流されたかのように、不規則にビクビクと跳ね回っていた。
「アリス! どうしたの!? バイタルが異常よ、脈拍と呼吸数が……!」
私が慌てて彼女の肩を支えようと手を伸ばした、その時だった。
「ガァァァァッ!!」
アリスは獣のような唸り声を上げ、私の手を強引に振り払った。
その腕力は、怪我をして衰弱しているはずの彼女からは想像もつかないほど強烈だった。私は車椅子の上でバランスを崩し、危うく床に転げ落ちそうになる。
ロータスが慌てて車椅子を支え、「アリスさん!?」と悲鳴のような声を上げた。
「かゆ、い……っ、あァァ、のどが、のどが焼けるゥゥッ!!」
アリスは床を転げ回りながら、両手を自分の首元へと強く押し当てた。
そして、信じられないことに、彼女自身の爪を立てて、力任せに自分の喉を掻きむしり始めたのだ。
ガリッ、ブチッ、という、皮膚が裂け、肉がえぐれる生々しい破裂音が、隔離室の無機質な空間に響き渡る。
彼女の白く細い首筋に、一瞬にして何本もの赤い線が走り、そこからどす黒い鮮血がボタボタと床へと滴り落ちていく。
「やめて!! アリス、何をしてるの!!」
私は感覚のない身体を無理やり動かし、車椅子から転げ落ちるようにして彼女に近づこうとした。 だが、アドが私の肩を強く掴み、力ずくで車椅子に押さえつけた。
「離して、アド!! 彼女が自分の気管を損傷してしまうわ!! 物理的に拘束して止血を……!」
「ダメだ、ピュア! 今のあいつに触るな!」
アドの鋭い怒号が、私の論理回路を強引に停止させた。
「あァァッ……ごめ、ごめんなさい……っ! ピュアちゃん、ごめんなさい……っ! こんな姿、見せたく、ないのに……ッ!!」
アリスは、自分の喉から血を流しながら、嗚咽と発狂が入り混じったような凄まじい声で叫び続けていた。
彼女の理性は、まだ完全に消滅してはいない。自分が今、どれほど無惨で醜い姿を私に晒しているか、彼女自身が一番よく理解しているのだ。
だが、それでも、彼女の肉体を支配する薬物の渇望は、彼女の強靭な精神力をいとも簡単にすり潰し、凌駕していた。
「くすり……っ、くすり、ちょうだい……っ! おねがい、アド、痛い、痛いよォォォッ!! 骨が、骨が割れるゥゥッ!!」
アリスは、涙と鼻水、そして自らの血でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、床を這いつくばりながら、狂ったように薬を求め始めた。
私に温もりを教えてくれた、誇り高く、誰よりも優しかった私の太陽。
彼女が今、ただの化学物質の奴隷へと成り下がり、理性を投げ打って薬を乞うている。
その視覚データは、私の残された左目を焼き尽くすほどの強烈な毒となって、私の脳髄を直撃した。
「アリス……っ」
私は、声を絞り出すことしかできなかった。
私が神宮寺の拷問で痛みに発狂していた時と、全く同じだ。
いや、それ以上かもしれない。彼女は今、自分の意志で自分を傷つけ、最も見られたくない相手(私)の前で、尊厳のすべてを剥ぎ取られているのだから。
「あァァッ……!! ない、ない、どこ……っ!?」
アリスは血まみれの手で床を這い、私から離れるようにしてベッドの方向へと向かっていった。
彼女はベッドの脇に設置された医療用のキャビネットにすがりつき、ガタガタと震える手でその引き出しを乱暴に引き開けた。
中から転がり落ちたのは、数本の使い捨て注射器と、微かに緑色を帯びた透明な薬液が入った小さなアンプルだった。専属医が合成したという、あの代替薬だ。
「あった……っ、あ、あァァ……っ」
アリスは、まるで砂漠でオアシスを見つけた遭難者のような、狂気に満ちた安堵の声を漏らした。
彼女は血に染まった指先で不器用にアンプルの首を折り、注射器の針を差し込んで薬液を吸い上げた。
その動作は、かつてナイフや銃器を華麗に扱い、コンマ1秒の狂いもなく敵を制圧していた彼女の動きとは程遠い、ただ薬物を求めるだけの依存者の震えだった。
「……っ」
アリスは、自分の左腕の静脈を探り当てると、アルコール綿での消毒すら行わず、剥き出しの皮膚に躊躇なく太い針を突き刺した。 ブスッ、という鈍い音が聞こえる。
針先が震え、静脈を外して筋肉に刺さってしまったのか、彼女は「痛ァッ……!」と呻き声を上げながら、一度針を引き抜き、血が滲む腕の別の場所へと再び針を突き立てた。
自分の腕に注射器を突き刺し、震える親指でゆっくりとプランジャーを押し込んでいく彼女の姿。
未知の薬液が、彼女の血液の中に混ざり込み、全身へと回っていく。
「…………ぁ、あぁ……」
薬液の注入が終わると、アリスは注射器を床に放り投げ、荒い息を吐きながらベッドのフレームにもたれかかってズルズルと崩れ落ちた。
散大していた瞳孔が徐々に元のサイズへと収縮し、全身を襲っていた異常な痙攣が、嘘のようにスッと引いていく。
彼女は天井を仰ぎ、まるで極上の快楽に浸るような、しかし同時にすべてを諦めきったような、虚ろで悲しい表情を浮かべていた。
私は……その光景を、最後まで直視することができなかった。 冷徹に物理事象をスキャンし続けるはずの私の左目が、無意識のうちにスッと視線を逸らしてしまったのだ。
感情を持たない機械だった頃の私なら、彼女の自傷行為も、注射器を刺す過程も、すべてを『薬物依存の末期症状における典型的な生体反応』として、詳細なデータとして記録し続けていただろう。
だが、今の私には、それができなかった。
私の大好きなアリスが、私の最も愛する人が、薬物の前では人間としての尊厳を完全に失い、ただの肉の塊として屈服してしまう姿を、これ以上脳のアーカイヴに刻み込むことに、私の心が耐えられなかったのだ。
私は、感覚のない両手で車椅子の肘掛けを強く握りしめ、ギリッと奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
悔しい。悲しい。そして、自分が目を逸らしてしまったという逃避の事実が、さらに私の絶望を深いものにしていく。
「……見れねえよな」
私の頭上から、アドの重く、苦渋に満ちた声が降ってきた。
私が視線を逸らしたことに気づいた彼は、ポケットからタバコを取り出そうとしたが、ここが無菌室の隔離病棟であることを思い出し、舌打ちをして手を下ろした。
「……どういうことなの、アド」
私は、視線を床に落としたまま、震える声で尋ねた。
「あの薬は、彼女の命を繋ぐための代替薬だったはずよ。それなのに、なぜ彼女はあんな発狂状態に陥ったの? 薬効の半減期と投与サイクルの計算が、完全に破綻しているわ」
「……お前の言う通りだ」
アドは深くため息を吐き、静かに状況の補足を始めた。
「うちの専属医も、バベルのアジトから押収したオリジナルの薬物の成分を解析し、なんとか彼女の命を長らえさせるための代替薬を合成した。だが……あの薬の依存性と、脳の神経伝達物質を書き換えるメカニズムが、あまりにも複雑で悪辣すぎるんだ」
「解析しきれていないということ?」
「ああ。神宮寺の野郎が作ったあの薬は、単なるドーパミンの過剰分泌を引き起こすだけじゃねえ。患者のストレス値や疲労度、さらには感情の起伏に連動して、薬の消費速度がランダムに変動するようなクソみたいな設計になっていやがる」
アドの言葉に、私の脳内で恐ろしい計算式が組み上がっていく。 感情の起伏に連動する薬物。
つまり、彼女が私を心配し、私の無惨な姿を見て悲しみ、泣きじゃくったこと。その強烈な感情の動きそのものが、彼女の体内の薬中濃度を急速に枯渇させ、あのような突発的な禁断症状を引き起こすトリガーとなってしまったのだ。
「……有効な投与量が、完全に割り出せていねえんだよ」
アドは忌々しそうに、言葉を絞り出した。
「これまでは数時間に1本のペースで安定していた。だが、今日のように急激に血中濃度が下がれば、あいつの脳は『薬が足りない』と錯覚し、全身の骨が割れるような幻痛と激しい渇望を引き起こす。……お前が来る前にも、何度かあんな状態に陥ることがあった」
ロータスが、堪えきれずに嗚咽を漏らした。 彼もまた、私が眠っている間に、アリスのあの地獄のような苦しみを目撃していたのだろう。
「代替薬を打ち続ければ、とりあえず命は繋げる。だが、打ちすぎれば内臓が薬の毒性に耐えきれずに機能不全を起こす。足りなければ、今のようにおかしくなって自傷に走る。……俺たちは今、目隠しをしたまま、あいつの命の綱渡りをしているような状態なんだよ」
アドの重い告白が、隔離室の冷たい空気に溶けていく。
ベッドの傍らで、アリスは薬効によって完全に意識を沈め、静かな寝息を立て始めていた。
彼女の首筋には、自らの爪で掻きむしった痛々しい赤い傷跡が残り、そこから流れた血が、彼女の白い服と床を汚している。
アリスの荒かった呼吸が、薬効によって次第に静かな寝息へと変わっていく。
私は車椅子の上で、ただ黙ってその寝顔を見つめ続けていた。首筋に残る痛々しい爪痕、床に飛び散った彼女自身の血。それらすべての物理的データが、私の脳髄を絶望という名のヤスリで削り取っていく。
私が彼女を守る。そう誓ったはずだったのに。
今の私には、床に倒れた彼女を抱き起こすことすらできない。私の両手は完全に皮膚感覚を喪失しており、彼女の身体に触れても、どれくらいの力で持ち上げればいいのか、どこを支えれば彼女が痛まないのか、その力加減を計算するためのフィードバックが一切脳に返ってこないからだ。
「……蓮」
私は、震える声を絞り出し、背後に立つ少年に呼びかけた。
「アリスを、ベッドに戻してあげてちょうだい」
「……はい」
ロータスは涙を拭い、アリスの元へと歩み寄った。彼は彼女の華奢な身体を慎重に抱き上げ、白いシーツの敷かれたベッドへと優しく横たえた。そして、血で汚れていない毛布を肩口までしっかりとかけてやる。
その一連の動作のすべてに、彼がアリスへ向ける不器用な優しさと気遣いが満ちていた。
私には、もうそれができない。
自分の無力さが、これほどまでに疎ましく、不快なエラーとして心を苛んだことはなかった。
「……行きましょう」
私は、眠るアリスの顔から無理やり視線を剥がし、冷たく言い放った。
ここで私がどれだけ後悔の演算を繰り返しても、彼女の体内の薬物が消え去るわけではない。今すべきことは、この絶望的な状況からいかにして最適解を導き出し、盤面をひっくり返すかだ。
ロータスが私の車椅子を押し、私たちはアドと共に特別隔離室を後にした。
プシュゥゥゥ、と重々しい音を立てて金属の扉が閉ざされ、アリスの姿が完全に視界から遮断される。
無機質な地下の廊下に出た途端、張り詰めていた空気がわずかに緩んだが、私たち3人の間に流れる沈黙は、鉛のように重かった。
「……アド」
私が口を開くと、隣を歩いていたアドが立ち止まり、私を見下ろした。
「これから、どうするか。今後のタスクについて話し合いたいわ」
「……あぁ」
アドは短く頷き、近くにあった談話用スペースのソファへと腰を下ろした。ロータスが私の車椅子をその対面に配置する。
「まずは、お前の身体の治療だ」
アドは懐からタバコを取り出したが、火はつけずに指先で弄びながら言った。
「全身の傷の縫合と化膿止めは済んでいるが、お前が受けたダメージは尋常じゃねえ。しばらくは専属医の監視下で、筋肉と骨格の修復を待つ必要がある。……そして、失われた右目には、義眼を作成して嵌め込む手はずになっている。視神経が完全に死んでいるから視力を取り戻すことはできねえが、外見上のカモフラージュと眼窩の保護には必須だ」
「ええ。合理的な判断だわ。片目での空間認識能力の低下は、私の脳の演算で補正する」
私は淡々と事実を受け入れた。 右目の喪失は、確かに痛手だ。だが、それよりもはるかに致命的なのは、全身の皮膚感覚と痛覚の完全な死滅である。
「問題は、感覚の喪失よ」
私は、自分の膝の上に置かれた両手を見下ろした。
「痛覚がないということは、肉体の限界を知らせるリミッターが物理的に存在しないということ。戦闘において、私は自分が致命傷を負っても気づかずに動き続け、結果として突然機能停止するリスクがあるわ」
「……ああ。おまけに、指先の触覚がなけりゃ、銃のトリガーの遊びをミリ単位で測ることも、ナイフの柄を握る圧力もわからなくなる。お前の最大の武器だった『精密な物理的暴力』が、これまでのようには出力できねえってことだ」
「否定はしないわ」
アドの冷酷な分析通りだ。
今の私がかつてのように、1分間で数十人の敵の急所を的確に撃ち抜けるかと言われれば、計算式には巨大な不確定要素が混入してしまう。
「……それでも」
私は残された左目に、決して消えることのない青白い殺意の炎を宿し、アドを真っ直ぐに睨みつけた。
「私が神宮寺誠一郎に一矢報いるという目的の優先順位は、何があっても変動しないわ。あの男の頭蓋骨を物理的に粉砕し、アリスを薬物の呪縛から解放する。そのための方法を、私の脳はすでに演算し始めているの」
「……ピュア」
「でも、今の私の身体がどれだけ使い物になるのか、あるいはどうすれば感覚の欠損を補えるのか、現状のデータだけでは計算が立たないわ。だから……」
私は言葉を区切り、小さく息を吐き出した。
「一旦、その時が来るまで、自宅のマンションで休んでもいいかしら」
「自宅で、か」
「ええ。あそこは私の完璧なテリトリーよ。あの環境で、自分の身体の機能をもう1度一から再構築する。それに、アリスのあの姿を毎日見ながらでは、私の精神のデフラグが正常に行えないと判断したわ」
私が申し出ると、アドは少しだけ眉をひそめた。
「お前の家はセキュリティ上は問題ねえ。だが、今のお前が1人で生活できるのか?
熱さも冷たさもわからねえんだ。火を使えば火傷に気づかず肉が焦げるし、刃物を使えば指を切り落としても気づかねえ。日常生活すら命がけだぞ」
「……わかっているわ」
私は、背後で車椅子のグリップを握っている少年へと視線を向けた。
「だから、しばらくの間……ロータス…蓮を私に貸してちょうだい」
その言葉に、ロータスがビクッと肩を震わせた。
アドも目を丸くする。
「情報戦のキーマンである彼を前線から外すのが、組織にとって非合理的なのは理解しているわ。でも、今の私には、私の目となり手足となってくれる『安全装置』が必要なの。私が1人で生活のペースを維持できるかどうかのデータが揃うまででいい。彼を私のサポーターとして、自宅に連れ帰る許可を要求するわ」
私が理屈を並べて頼み込むと、アドはポカンとした後、ふっ、と短く鼻で笑った。
「……何を言ってやがる。元々、蓮はお前のもんだろ」
「え?」
「お前が自分の所有物だと言い張って組織に入れたサポーターだ。むしろ、今回の情報戦のために俺が勝手に借りてたようなもんだ。お前が連れて帰ることに、俺がどうこう言える立場じゃねえよ」
アドはタバコをポケットにしまいながら、呆れたように肩をすくめた。
「連れて帰れ。お前の身体と精神のメンテナンスが最優先だ。情報戦の解析はあらかた終わってるし、残りの作業は俺一人でもどうにでもなる。……ロータス、お前の主人をしっかり守ってやれよ」
「は、はいっ! ありがとうございます、アドさん!」
蓮が深く頭を下げた。
アドの不器用な気遣いに、私の胸の奥の冷たい部分が、ほんの少しだけ解れるのを感じた。
彼はいつもそうだ。理屈を並べながらも、結局は私たちが人間として生きるための最適な環境を与えてくれる。
「蓮、こんな主人でごめんね。しばらく世話を頼めるかしら」
「とんでもないです…当たり前じゃないですか、ピュアさん」
私たちはアドに別れを告げ、地下駐車場へと向かった。
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深夜の東京を走るアルファードの後部座席で、私は窓の外の流れる光の帯をぼんやりと眺めていた。
タワーマンションの地下駐車場に到着し、エレベーターで最上階の自室へと上がる。 玄関の扉が開き、リビングの照明が自動で点灯した。
白と黒で統一された、広大で無機質な空間。
私が神宮寺の研究所に拉致される前と、何1つ変わっていない完璧なテリトリー。
だが、今の私には、この空間が恐ろしいほどに広く、そして危険な場所に感じられた。
「ピュアさん、車椅子押しますね」
「……ええ」
ロータスに押され、私はリビングのテーブルの前に配置された。
自分の足で歩こうと思えば歩ける。だが、足の裏から伝わるはずの床の感触が一切ないため、まるで無重力空間を歩いているかのように重心の計算が狂い、すぐにバランスを崩してしまうのだ。視覚情報だけで自分の四肢の位置を把握し、筋肉を制御するのは、私の脳の演算能力をもってしても莫大なリソースを消費する。
「ピュアさん、何か食べられますか? ずっと点滴だけで、固形物を口にしていないですよね」
ロータスが心配そうに私の顔を覗き込んできた。 確かに、胃の中は完全に空っぽだ。エネルギーを補給しなければ、細胞の修復は遅れる。
「……そうね。何か、温かいものを作ってちょうだい」
「わかりました。すぐに用意します」
ロータスはジャケットを脱ぎ、キッチンへと向かった。
私は車椅子の上で、自分の両手を見つめた。
動かすことはできる。指を曲げることも、伸ばすことも。しかし、それが空気を切っているのか、何かに触れているのか、視覚を通さない限り全く認識できない。
試しに、自分の左手で右手の甲を強くつねってみた。 視界には、皮膚が白く凹む物理的な変化が映っている。だが、脳には1ミリの信号も送られてこない。
まるで、精巧に作られたマネキンの腕を操作しているような、絶対的な乖離感。
これが、私のこれからの日常なのだ。
十数分後。 キッチンから、ほのかに甘く、優しい香りが漂ってきた。
「お待たせしました、ピュアさん。野菜のポタージュスープと、柔らかいオムレツです。胃に負担がかからないようにしました」
ロータスが、テーブルの上に湯気の立つ皿とスープボウルを並べてくれた。
私は右手を伸ばし、スプーンを握ろうとした。
だが、指先に金属の感触が伝わらない。スプーンの柄を握りしめているのか、それとも空を掴んでいるのかがわからない。
私は視線を自分の手元に完全に固定し、視覚情報だけで指の筋肉の収縮を調整して、なんとかスプーンを持ち上げた。
少しでも視線を外せば、スプーンを取り落としてしまうという強烈な不安がつきまとう。
「……食べるのにも、一苦労ね」
私が自嘲気味に呟くと、ロータスは悲しそうに眉を下げた。
「俺が、食べさせましょうか……?」
「不要よ。私は自分で食事を摂取する機能まで失ったわけじゃないわ」
私はスプーンでスープをすくい、慎重に口元へと運んだ。
唇にスプーンが触れる感覚はない。スープの液体の温度もわからない。
ただ、液体が舌の上に流れ込み、喉の奥へと落ちていく物理的な質量だけが、微かに認識できた。
——だが。
その瞬間、私の脳内に、一つの鮮烈なデータが入力された。
「……っ」
私は目を見開いた。
味が、する。
カボチャの自然な甘み。ブイヨンの深い旨味。微かな塩気。
痛覚と皮膚感覚の回路は完全に焼き切れていたが、味蕾を通じた味覚のレセプターと、鼻腔を抜ける嗅覚のセンサーは、奇跡的に破壊を免れていたのだ。
「ピュアさん……? どうかしましたか? もしかして、味が濃すぎましたか?」
ロータスが慌てて身を乗り出してくる。
私は、スプーンを持ったまま、小さく首を横に振った。
熱いか冷たいかは、わからない。
スープの滑らかな舌触りや、オムレツのふわふわとした食感も、私には永遠に理解できない。
けれど、この味は。
彼が私の疲労を計算し、食べやすいようにと一生懸命に工夫して作ってくれた、その『優しさ』の味は、私の舌に、確かに、強烈に伝わってきたのだ。
「……美味しい」
私の残された左目から、熱い水滴がポロリとこぼれ落ち、テーブルに小さな染みを作った。
「えっ……ピュアさん、泣いてるんですか!?」
「……ええ」
私は、涙を拭うこともせず、次の一口を口に運んだ。
「私はもう、あなたが私の手を握ってくれても、その温もりを感じることはできない。アリスが私を抱きしめてくれても、その優しさを肌で受け取ることはできないわ」
「ピュアさん……」
「でも……味は、わかるの。あなたが私のために作ってくれたこの食事が、美味しいってことだけは、私の脳がちゃんと処理してくれるのよ」
それは、すべてを奪われた私の世界に残された、外界と繋がる唯一の、そして最後の感覚だった。
肌で温もりを感じられないなら、私はこの味覚を通じて、彼らの愛情を摂取するしかない。
「……よかった。本当に……よかったわ」
私は、スプーンを握る手に視線を固定したまま、声を出して泣いた。
神宮寺の拷問で流した絶望の涙ではない。それは、私がまだ完全に孤独な機械になってしまったわけではないという、安堵と切なさが入り混じった涙だった。
「ピュアさん……っ」
ロータスが、私の隣に膝をつき、私の感覚のない左手を両手でギュッと強く握りしめた。
その手の圧力も温度も私にはわからない。だが、彼の瞳から流れる涙と、彼の作ってくれたスープの甘さが、今の私には何よりも確かな『温もり』として、私の心の奥底を優しく満たしてくれていた。




